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悪役聖女の末路
束の間の安寧
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ラクロスへの躾から一ヶ月の月日が経ち、今までと立場が完全に逆転したこの関係は決して私の望んだものはないとしても都合が良かった。
オルカは私の言う通りすぐさま帝国に向かったようだし、暫く帰ってくる心配はないだろう。
あれから数週間、定期的に訪れるラクロスはこれまで通り吸血をさせる代わりに自分で肌をナイフで切って血をあげている。
そのお陰で随分と楽になったものだから最初からこうしていれば良かったのだ。
吸血鬼にとって牙を使わない吸血は中々満足のいくものではないと言うが、自分のために私が自傷していること自体に興奮する狂った男なのであまり問題はないだろう。
エディスの件も、移動用スクロールを連発した時点でオルカやラクロスにはバレてるだろうし、これ以上目立った動きはできない。
殺したいのは山々だが、ここで焦って墓穴を掘るぐらいなら静観して事態を見守ったほうが何倍もマシだ。
暫くは穏やかな日々が続くのだから、心を休める時間を作れる。なんて考えていた私が愚かだったのかもしれない。
バチッ…! バチッ、バチンッ゛!!!
「っハー…、はー……ッ。………………手がいたい」
月明かりが優雅に恋人達を照らす夜。私達はともに恋人らしからぬ行為に暮(く)れていた。
人肌を数度と波打った右手は真っ赤に腫れ、腕にも衝撃がビリビリと残っている。
大きく身体を振り動かす動作のせいで体力も削られるし、これでぶたれた張本人が一番楽しんでいるのだから割に合わないとつくづく思う。
「あれ? もう終わり? もっと躾けないと。俺悪い子だよ?」
「……うるさい。躾で快感を覚える駄犬と遊んでる暇はないの」
「えぇ~ー、俺のご主人様は意地悪だなぁ~…」
ちゅ~ーと口の形を作って私に向けるラクロスにもう一回右頬をぶつ。するとどうしたことだろう。興奮して際に発する耀かしい深紅の瞳が剥き出しとなっている。
両頬を赤く晴らしながら、その眼差しは本能に駆られこの状況を楽しんですらいる。これだから狂人の相手などしてはいられないのだ。遊んだら最期、此方が壊れるまで付き合わされるのだから…。
何故この男達はこの嗜虐行為に快楽を得られるのだろうか。何の生産性もない、極めて非生産的な行為。誰かを傷つけ、害する野蛮な行為。
意味が分からない。暴力は暴力でしか解決できないと言うが、自分を偽ってまでそれを行う必要があるだろうか。こうして、自身を加害者としてまで…。
「シルちゃん、どしたの?」
「……出てって。今日は気分じゃない」
「え~、折角俺仕事頑張って休み取ったのに!」
ごねるラクロスを、すっかり冷え切った目で見つめる。その瞳に映る感情は、愉悦。私のこの胸糞の悪さを知ってなお振り回すことへの、愉悦だ。
どうせこのままじゃ当分居座る気だろう。ならばと前もって用意しておいた果物ナイフを手に取り右腕を深く裂き切る。
血の香りが空気中に充満し、その匂いは人間の私でも強く感じ取れる。吸血鬼のラクロスからすれば、一瞬にして酩酊(めいてい)とした気分だろう。
深く刺した際に神経を傷つけたのか右腕がだらん…として動かないけどまたすぐしたら戻るので気にも止めない。そうして血に酔った獣は従順に私の腕にしがみつく。
ジュッ゛…、ジュゥゥうぅうぅ……n
「ァ゛~ー…ッ゛、ぅ゛ま」
「ぅ゛ァぁあぁぁあ゛…っ゛?!い゛ぃイぃ゛ぃぃ%$4(&」
相変わらず屑な性格をしている。こうして従順に犬の真似をしている今でも牙を根本まで埋め込む習慣のせいで激痛が脳に直接訴えかけてくる。
ただでさえ痛覚が鈍って痛いのにぐりぐりと捩じ込まれて発狂しても事足りない。
自分で刺したとはいえその瞬間からさらに奥まで牙を突き立てられれば中身は見るも無惨なまでに抉(えぐ)れているだろう。
いっそ腕ごと切り落としたいという思いに駆られながらも、ただただこの地獄の時間が過ぎることばかりを願う。そうしてようやく満腹になったラクロスは最期の一吸いを強めて牙を放した。
「h゛ー…、hぁーー……、゛…」
「疲れちゃった? シルちゃん」
痛みもそうだが血を抜かれすぎたのか平衡感覚が覚束(おぼつか)ない。フラッ…と足がもつれると私の頭を片手で支えるラクロス。
それはいつでも頭を握りつぶせるという捕食者のごとき素振りで、まるでおママゴトに付き合ってやってるかのように嘲笑って…。
ナイフで裂き切った箇所から心臓でも生えたみたいにドクンドクンと音が聞こえる。霞(かす)みゆく意識の中、耳障りな鼻歌だけが気の抜けた夜に映えていた。
######
朝というのは私にとって終わりの始まりを宣告する記号に他ならない。夜が永遠に終わらぬ地獄とすれば、朝はその地獄を告げる使者。
ループものの主人公達がどうやって精神異常に発展したのか、実際体験しているかのような心地だ。身体や周りの環境は年月が経つが、此処は未だ何一つ変わることのない。
だからいつも毎日を繰り替えているかのような妄想に囚(とら)われる。夜が明けて、朝日が昇って、過去が消えて、未来をなぞる。一日足りとも違う日がないのだ。
いや、あるにはあった。変化は大きく、緩やかだった。前の私では考えもできないような悍ましい変化だ。怪物に囲まれた人間が醜く同類となる変化だ。
人間であることを捨て、善良であることを捨て、誇りを持つことを捨て、私に残ったものは何だったのか。
もはや私にすら分からないものを、もう二度と私のもとには戻らぬものを傍に立つ誰が粉々に踏み潰しているだけだ。
チリンチリン……
鈴を鳴らせば神官が洗顔水を持ってくる。
何一つ素知らぬ顔をするその下には、一体どれほどの秘密を秘めているのだろうか。
当然ソファや家具に飛び散った血液の痕跡が一つ足らずとして消されているのだからそんなこと考える必要もない。
「ハイト…、だったかしら?」
何の気兼ねなしにソファに座って寛(くつろ)いでいるときに一人の神官の名前を呼んでみた。
こうして私が名前を言うのは特段珍しいわけでもないが、彼らからしたら内心溶岩に浸かるような気分なのだろうか。
なにせ私が過剰に接した神官に限って翌朝には姿を消しているのだから…。
「如何されましたでしょうか。聖女様」
恭(うやうや)しく頭を下げ返事をしたのは随分と長く私の世話付きでいる古参株だった。
いつも私の行動一つ一つに目を配り、その様は情報収集用に調教された鷹(たか)に等しい。
監視に向いているから配属されたんだろうけど、流石に度が過ぎたと思ったときは目を引いてくれるから完全に良心がないわけでもないんだよね。
「オルカ大神官に一度帰還するよう連絡お願いできるかしら」
「承知いたしました。迅速に連絡致します」
一切無駄のない動きに、彼の能力の高さが伺える。きっとこの後私が朝の祈祷を済ませている間に魔道具で報告するのだろう。
仕事に対してはどこまでも有能な人物だ。だけどその有能さが気に食わないときだっていつかはある。例えばそう、今なんか…。
ふと、意地悪な考えが私の中に浮かんだ。確か机の上から二番目の引き出しの中にあったはずの、刺繍してそれきりだったハンカチ。
好奇心半分で確認して、実際にあったそれを取り出してハイト神官に差し出す。
「それと、以前刺繍の練習をしたときにできたこのハンカチ。大して渡す人もいないから貴方にあげるわ。いい? 私は、貴方にあげたの」
やや強引に手渡したハンカチ。もちろん受け取ったハイト神官は表情こそ崩さなかったものの一度つばをゴクッと飲み込んだ。
これを手にしたことで様々な憶測が頭に浮かんでいるのだろう。これをオルカに報告するか否か。たとえお報告せずとも他の監視が伝える。
されど報告したところで私の命令を優先とするよう言われている彼ではオルカに差し出すこともできない。
そのために念入りに二度言ったのだ。明日の朝彼にハンカチを持っているのか聞くのが楽しみと思いつつ、こんな意地の悪いことを楽しめるなんて随分余裕ができたことだと自嘲する。
まぁ七年ぐらい付き添いになって一度も変わったことのない唯一の神官だから処されることはたぶんないだろう。あったとしてもそんな主人を選んだ自分の不幸だ。
私に対して哀れみの感情を持つくせにその手助けになることは何一つせず逆に助長させる人間なんて、私にとっても持ってていいものでもないし。
その日の深夜。沐浴(もくよく)を済ませ寝台に入る準備をしていたとき、まるでタイミングを見計らったかのように転移の魔法陣が浮かぶ。
「……部屋に入るときのマナーを習わなかったの? オルカ」
紡ぐ会話などないばかりに出した虚勢(きょせい)は返事を返されることなく静寂に消えた。次の瞬間、貪(むさぼ)るような口づけが交わされる。
「ん゛んっ?!! …っ、ん゛…っは…」
逃げ腰になっても更に引き寄せては舌を喉奥まで押し込む。流石に此処までくると快楽より苦しさが来る。
何分経っただろうか。何度も角度を変えては口づけを交わし、ようやく離れたときには息が酷くあがっていた。
落ち着いたと思ってオルカの様子を見ると、まだ興奮が冷めきらぬような瞳で私を見つめていた。
どんな状況でも冷静沈着を崩さなかった男のこんな無様な姿に、私は興が乗るでもなくただただ呆れ果てていた。
「それで、そんな状態になってる説明でもしてくれる?」
「………汚れたら綺麗にしないとすぐに腐る」
「オルカ。私は説明しろと言ったのよ。愚痴を漏らすぐらいならさっさと帰って」
「……ごめんね。シルティナ」
珍しく弱気なオルカの目元を見てみるとクマがくっきりと残っている。
元々ストレスを感じない人間だから症状が強いのか、あるいは相当まいっているのか、私は後者に賭ける。そっちの方がずっと楽しいから。
「…はぁ。じゃあさっさと要件を言って頂戴」
「第二皇女はたぶん完全に堕としたよ…。だからもう、戻っても良いよね?」
期待と寂しさの募った目が反射して私を映す。あぁ、私をこんな地獄にまで引き摺(ず)りこんでおいて貴方はまだそんな純粋なままでいられるのね。
それにそもそも私の目的は違うのだからちゃんと時期になるまでは帝国に残ってもらわないと…。
「まだよ。貴方が完全に堕としたかなんて誰にも分からないじゃない」
「じゃあ聞くけど、一体どこまでが終わりのラインなの? 僕はもうシルティナ以外の女に触れるのも見るのも喋るのも嫌だよ」
適当にはぐらかしたは良いものの、この茶番の終わりなんて端から考えていないのだからどう言い負かしたものか…。
まるで面倒な男に引っかかったみたいだ。だから、この男に合わせるために私も狂ったフリをしなきゃ。【愛】に溺れたフリをしなきゃ…。
「……ふぅん。でも駄目」
「シルティナ」
「いつか彼女が皇帝になって、その座を貴方に継がせるだけの【愛】がなきゃ。私はオルカにそれだけの【愛】があるのに、不公平でしょ? もっと、もっとっ、彼女を溺れさせるの。そしたら私は貴方の【愛】に応えるわ」
「……分かった。でも、半分のご褒美ぐらいは今頂戴? お願い、…シルティナ」
私の胸に顔をうずめて弱音を吐くオルカに、私は顔を上げさせて口づけをする。先程までとはまた違い、互いに相手を見た口づけだ。
「…っ、ふ…。っん」
熱く濃密な口づけ。まるで味わい尽くすかのように長ったらしい口づけに抱く感想など早く終わってしまえの一言に限る。
互いの唾液が口内で絡み合い、空いた隙間から溢れて気持ち悪い。きっとこの唇を離した瞬間にベタついた感触が私を襲うだろう。
今はただ、全ての感覚が麻痺したように分からないだけで…。
オルカは私の言う通りすぐさま帝国に向かったようだし、暫く帰ってくる心配はないだろう。
あれから数週間、定期的に訪れるラクロスはこれまで通り吸血をさせる代わりに自分で肌をナイフで切って血をあげている。
そのお陰で随分と楽になったものだから最初からこうしていれば良かったのだ。
吸血鬼にとって牙を使わない吸血は中々満足のいくものではないと言うが、自分のために私が自傷していること自体に興奮する狂った男なのであまり問題はないだろう。
エディスの件も、移動用スクロールを連発した時点でオルカやラクロスにはバレてるだろうし、これ以上目立った動きはできない。
殺したいのは山々だが、ここで焦って墓穴を掘るぐらいなら静観して事態を見守ったほうが何倍もマシだ。
暫くは穏やかな日々が続くのだから、心を休める時間を作れる。なんて考えていた私が愚かだったのかもしれない。
バチッ…! バチッ、バチンッ゛!!!
「っハー…、はー……ッ。………………手がいたい」
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人肌を数度と波打った右手は真っ赤に腫れ、腕にも衝撃がビリビリと残っている。
大きく身体を振り動かす動作のせいで体力も削られるし、これでぶたれた張本人が一番楽しんでいるのだから割に合わないとつくづく思う。
「あれ? もう終わり? もっと躾けないと。俺悪い子だよ?」
「……うるさい。躾で快感を覚える駄犬と遊んでる暇はないの」
「えぇ~ー、俺のご主人様は意地悪だなぁ~…」
ちゅ~ーと口の形を作って私に向けるラクロスにもう一回右頬をぶつ。するとどうしたことだろう。興奮して際に発する耀かしい深紅の瞳が剥き出しとなっている。
両頬を赤く晴らしながら、その眼差しは本能に駆られこの状況を楽しんですらいる。これだから狂人の相手などしてはいられないのだ。遊んだら最期、此方が壊れるまで付き合わされるのだから…。
何故この男達はこの嗜虐行為に快楽を得られるのだろうか。何の生産性もない、極めて非生産的な行為。誰かを傷つけ、害する野蛮な行為。
意味が分からない。暴力は暴力でしか解決できないと言うが、自分を偽ってまでそれを行う必要があるだろうか。こうして、自身を加害者としてまで…。
「シルちゃん、どしたの?」
「……出てって。今日は気分じゃない」
「え~、折角俺仕事頑張って休み取ったのに!」
ごねるラクロスを、すっかり冷え切った目で見つめる。その瞳に映る感情は、愉悦。私のこの胸糞の悪さを知ってなお振り回すことへの、愉悦だ。
どうせこのままじゃ当分居座る気だろう。ならばと前もって用意しておいた果物ナイフを手に取り右腕を深く裂き切る。
血の香りが空気中に充満し、その匂いは人間の私でも強く感じ取れる。吸血鬼のラクロスからすれば、一瞬にして酩酊(めいてい)とした気分だろう。
深く刺した際に神経を傷つけたのか右腕がだらん…として動かないけどまたすぐしたら戻るので気にも止めない。そうして血に酔った獣は従順に私の腕にしがみつく。
ジュッ゛…、ジュゥゥうぅうぅ……n
「ァ゛~ー…ッ゛、ぅ゛ま」
「ぅ゛ァぁあぁぁあ゛…っ゛?!い゛ぃイぃ゛ぃぃ%$4(&」
相変わらず屑な性格をしている。こうして従順に犬の真似をしている今でも牙を根本まで埋め込む習慣のせいで激痛が脳に直接訴えかけてくる。
ただでさえ痛覚が鈍って痛いのにぐりぐりと捩じ込まれて発狂しても事足りない。
自分で刺したとはいえその瞬間からさらに奥まで牙を突き立てられれば中身は見るも無惨なまでに抉(えぐ)れているだろう。
いっそ腕ごと切り落としたいという思いに駆られながらも、ただただこの地獄の時間が過ぎることばかりを願う。そうしてようやく満腹になったラクロスは最期の一吸いを強めて牙を放した。
「h゛ー…、hぁーー……、゛…」
「疲れちゃった? シルちゃん」
痛みもそうだが血を抜かれすぎたのか平衡感覚が覚束(おぼつか)ない。フラッ…と足がもつれると私の頭を片手で支えるラクロス。
それはいつでも頭を握りつぶせるという捕食者のごとき素振りで、まるでおママゴトに付き合ってやってるかのように嘲笑って…。
ナイフで裂き切った箇所から心臓でも生えたみたいにドクンドクンと音が聞こえる。霞(かす)みゆく意識の中、耳障りな鼻歌だけが気の抜けた夜に映えていた。
######
朝というのは私にとって終わりの始まりを宣告する記号に他ならない。夜が永遠に終わらぬ地獄とすれば、朝はその地獄を告げる使者。
ループものの主人公達がどうやって精神異常に発展したのか、実際体験しているかのような心地だ。身体や周りの環境は年月が経つが、此処は未だ何一つ変わることのない。
だからいつも毎日を繰り替えているかのような妄想に囚(とら)われる。夜が明けて、朝日が昇って、過去が消えて、未来をなぞる。一日足りとも違う日がないのだ。
いや、あるにはあった。変化は大きく、緩やかだった。前の私では考えもできないような悍ましい変化だ。怪物に囲まれた人間が醜く同類となる変化だ。
人間であることを捨て、善良であることを捨て、誇りを持つことを捨て、私に残ったものは何だったのか。
もはや私にすら分からないものを、もう二度と私のもとには戻らぬものを傍に立つ誰が粉々に踏み潰しているだけだ。
チリンチリン……
鈴を鳴らせば神官が洗顔水を持ってくる。
何一つ素知らぬ顔をするその下には、一体どれほどの秘密を秘めているのだろうか。
当然ソファや家具に飛び散った血液の痕跡が一つ足らずとして消されているのだからそんなこと考える必要もない。
「ハイト…、だったかしら?」
何の気兼ねなしにソファに座って寛(くつろ)いでいるときに一人の神官の名前を呼んでみた。
こうして私が名前を言うのは特段珍しいわけでもないが、彼らからしたら内心溶岩に浸かるような気分なのだろうか。
なにせ私が過剰に接した神官に限って翌朝には姿を消しているのだから…。
「如何されましたでしょうか。聖女様」
恭(うやうや)しく頭を下げ返事をしたのは随分と長く私の世話付きでいる古参株だった。
いつも私の行動一つ一つに目を配り、その様は情報収集用に調教された鷹(たか)に等しい。
監視に向いているから配属されたんだろうけど、流石に度が過ぎたと思ったときは目を引いてくれるから完全に良心がないわけでもないんだよね。
「オルカ大神官に一度帰還するよう連絡お願いできるかしら」
「承知いたしました。迅速に連絡致します」
一切無駄のない動きに、彼の能力の高さが伺える。きっとこの後私が朝の祈祷を済ませている間に魔道具で報告するのだろう。
仕事に対してはどこまでも有能な人物だ。だけどその有能さが気に食わないときだっていつかはある。例えばそう、今なんか…。
ふと、意地悪な考えが私の中に浮かんだ。確か机の上から二番目の引き出しの中にあったはずの、刺繍してそれきりだったハンカチ。
好奇心半分で確認して、実際にあったそれを取り出してハイト神官に差し出す。
「それと、以前刺繍の練習をしたときにできたこのハンカチ。大して渡す人もいないから貴方にあげるわ。いい? 私は、貴方にあげたの」
やや強引に手渡したハンカチ。もちろん受け取ったハイト神官は表情こそ崩さなかったものの一度つばをゴクッと飲み込んだ。
これを手にしたことで様々な憶測が頭に浮かんでいるのだろう。これをオルカに報告するか否か。たとえお報告せずとも他の監視が伝える。
されど報告したところで私の命令を優先とするよう言われている彼ではオルカに差し出すこともできない。
そのために念入りに二度言ったのだ。明日の朝彼にハンカチを持っているのか聞くのが楽しみと思いつつ、こんな意地の悪いことを楽しめるなんて随分余裕ができたことだと自嘲する。
まぁ七年ぐらい付き添いになって一度も変わったことのない唯一の神官だから処されることはたぶんないだろう。あったとしてもそんな主人を選んだ自分の不幸だ。
私に対して哀れみの感情を持つくせにその手助けになることは何一つせず逆に助長させる人間なんて、私にとっても持ってていいものでもないし。
その日の深夜。沐浴(もくよく)を済ませ寝台に入る準備をしていたとき、まるでタイミングを見計らったかのように転移の魔法陣が浮かぶ。
「……部屋に入るときのマナーを習わなかったの? オルカ」
紡ぐ会話などないばかりに出した虚勢(きょせい)は返事を返されることなく静寂に消えた。次の瞬間、貪(むさぼ)るような口づけが交わされる。
「ん゛んっ?!! …っ、ん゛…っは…」
逃げ腰になっても更に引き寄せては舌を喉奥まで押し込む。流石に此処までくると快楽より苦しさが来る。
何分経っただろうか。何度も角度を変えては口づけを交わし、ようやく離れたときには息が酷くあがっていた。
落ち着いたと思ってオルカの様子を見ると、まだ興奮が冷めきらぬような瞳で私を見つめていた。
どんな状況でも冷静沈着を崩さなかった男のこんな無様な姿に、私は興が乗るでもなくただただ呆れ果てていた。
「それで、そんな状態になってる説明でもしてくれる?」
「………汚れたら綺麗にしないとすぐに腐る」
「オルカ。私は説明しろと言ったのよ。愚痴を漏らすぐらいならさっさと帰って」
「……ごめんね。シルティナ」
珍しく弱気なオルカの目元を見てみるとクマがくっきりと残っている。
元々ストレスを感じない人間だから症状が強いのか、あるいは相当まいっているのか、私は後者に賭ける。そっちの方がずっと楽しいから。
「…はぁ。じゃあさっさと要件を言って頂戴」
「第二皇女はたぶん完全に堕としたよ…。だからもう、戻っても良いよね?」
期待と寂しさの募った目が反射して私を映す。あぁ、私をこんな地獄にまで引き摺(ず)りこんでおいて貴方はまだそんな純粋なままでいられるのね。
それにそもそも私の目的は違うのだからちゃんと時期になるまでは帝国に残ってもらわないと…。
「まだよ。貴方が完全に堕としたかなんて誰にも分からないじゃない」
「じゃあ聞くけど、一体どこまでが終わりのラインなの? 僕はもうシルティナ以外の女に触れるのも見るのも喋るのも嫌だよ」
適当にはぐらかしたは良いものの、この茶番の終わりなんて端から考えていないのだからどう言い負かしたものか…。
まるで面倒な男に引っかかったみたいだ。だから、この男に合わせるために私も狂ったフリをしなきゃ。【愛】に溺れたフリをしなきゃ…。
「……ふぅん。でも駄目」
「シルティナ」
「いつか彼女が皇帝になって、その座を貴方に継がせるだけの【愛】がなきゃ。私はオルカにそれだけの【愛】があるのに、不公平でしょ? もっと、もっとっ、彼女を溺れさせるの。そしたら私は貴方の【愛】に応えるわ」
「……分かった。でも、半分のご褒美ぐらいは今頂戴? お願い、…シルティナ」
私の胸に顔をうずめて弱音を吐くオルカに、私は顔を上げさせて口づけをする。先程までとはまた違い、互いに相手を見た口づけだ。
「…っ、ふ…。っん」
熱く濃密な口づけ。まるで味わい尽くすかのように長ったらしい口づけに抱く感想など早く終わってしまえの一言に限る。
互いの唾液が口内で絡み合い、空いた隙間から溢れて気持ち悪い。きっとこの唇を離した瞬間にベタついた感触が私を襲うだろう。
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