信長の弟

浮田葉子

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天文二二年(一五五三)閏一月。
信長のぶなが守役もりやくであった平手ひらて政秀まさひでが自刃した。
信長の目に余る挙動を諌めての死であった。
家督を継ぎ、戦を制しても、うつけぶりは止まる所を知らず、思い余って、というのが大方の見方だ。
家臣の不満はここに極まったかに見えた。
今こそ信勝のぶかつを擁立すべき時と、はやし通具みちともなどは声高に言い募り、信勝を掻き口説いた。
ついに信勝は首を縦に振る。
信長の関与なく、勝手に判物を発給することにしたのである。
官途名は弾正忠だんじょうのじょうを名乗った。
つまり信長では無く、信勝こそが弾正忠家の当主であるとの主張である。
戦では無くまつりごとで。
対立を明確に示し、けれど血を流さぬ方法を信勝は取った。
今はまだ戦の時では無い。
いずれ戦は逃れられぬであろうけれど、今はお互い力を削ぐべきではないと信勝は説いた。
弱腰と取る者も居た。
血気に逸る者も居た。
それらすべてを抑え、信勝は静かに一手を指した。
「穏やか過ぎは致しませぬか」
「地味だと言いたげだな」
「いえ、そのようなつもりは全く……」
「そなたは乱暴狼藉を好むか、蔵人くらんど
不満げな若衆、津々木つづき蔵人にわざと意地悪く問いかければ、
「滅相もございませぬ!」
と青くなる。
それがしは勘十郎様に一日も早く頂点に立って頂きたいだけでございます」
頂点。大きく出たなと信勝は思った。
天下でも取るつもりか。
「そうか。ならば共に往くか、地獄まで」
蔵人くらんどは目をぱちぱちと瞬いた。
きょとんとした表情は、まだ幼さすら感じられる。
「畏れながら、極楽ではございませぬので?」
信勝のぶかつは軽快に笑った。
「ふふふ、兄に弓引く者が、どうして極楽へ行けようか」
蔵人は畏れ入りましたと膝をつき、こうべを垂れた。
信勝はただ笑っていた。
そう。往く先は地獄だ。
あの時、父の葬儀の日。信勝は既に心を決めた。
己を慕う者、恨む者、全て。
己が連れて往こうと決めた。


同年四月、信長のぶなが斎藤さいとう道三どうさん聖徳寺しょうとくじで対面を果たした。
信長がうつけの皮を脱いだのはこの時である。
それ以来信長は、髪をげに結い、立派な袴と小太刀を身に付け、風格ある立ち居振る舞いで皆の度肝を抜いて見せた。
「さては普段のうつけぶりは芝居か」
道三は信長のことをいたく気に入ったという。
後ろ楯になってやろうとまで口にしたのだとか。
慌てふためく配下を尻目に、信勝は我がことの様に得意げに笑った。
やっと、兄の大器に皆が気付いたのだ。
「何を暢気のんきに笑っておいでです」
蔵人が柳眉を逆立て、まるで毛を逆立てた猫の様に怒っている。
「そういうそなたは何を怒っているのだ」
まるで猫だぞと言ってやろうかどうしようか、少し迷った。
勘十郎かんじゅうろう様のそのような暢気ぶりにそれがしは腹を立てて居るのです!敵は力強い味方を手に入れたのですよ」
青筋を立てて言い立てる蔵人くらんどに、信勝のぶかつはふふんと鼻で笑う。
今更何を言っているのか。
美濃みのまむしは信長の舅。
家督以前の話ではないか。
「その味方ごと取り込み、勝って見せねば、私の将来などあるまいよ」
穏やかに紡がれた言葉の奥の激しさに、蔵人は打たれたように跪いた。
「畏れ入りましてございまする」
本当に今更だ。誰も彼もが知り得た事実。
信長の舅は斎藤さいとう道三どうさん。信勝の舅は和田わだ備前守びぜんのかみ
そもそもの格が違い過ぎる。
「兄上はもっと大きくなる。私などすぐに取り込まれて、消えてしまうかもしれないな」
蔵人はぎょっと目を剥く。
「それは困りまする!」
「ははは、だろうな」
「だろうな、ではございませぬぞ!」
信勝は更に朗らかに笑って見せた。
「さて、私には誰がついてくるだろうかな」
美濃の蝮が公然と信長の背後についた。
ことが大きく動く予感がする。
弾正忠だんじょうのじょう家は誰がどう動くだろうか。庶兄らは、叔父らは、宿老おとならは……。
大和守やまとのかみ家は恐らく信長を恐れ、遠からずことを起こすだろう。
今は静観している上四郡の守護代、伊勢守いせのかみ家はどう出るか。そして隣国は……。
誰が味方か、誰が敵か。
信勝の頭の中で、駒がせわしなく動いている。
「兄上に比べれば、私はくみやすしと思われているだろうしな」
そして、そう思ってくれなくては困る。
呆気なく呑み込めると思って、うかうかと近付いてくるがいい。
その喉笛、噛み切ってくれる。
信長に及ばずとも、この信勝とて尾張の虎、信秀のぶひでの子である。
「何を仰いますか!」
「さっきから、そなた叫び通しだぞ」
くつくつと笑いながら信勝は歩き出した。
さて、誰に繋ぎを取ろうか。或いは誰から打診があるか。
ふっと信勝の睫毛が陰った。
誰が勝っても、誰が負けても。
母も妹も泣くのだろうな。
「私が死んだら、」

果たして高子は、泣いてくれるだろうか。


そんな悲壮なことを考えていたりしたのだが、信長のぶながは相変わらず足音軽く、末盛すえもりの城にやってくる。
変わったのは格好だけなのだろうか。
茶筅髷ちゃせんまげ湯帷子ゆかたびら、腰に虎皮、荒縄で刀を差して、堂々と。あれはあれで、中々似合ってもいたと思う。
今の折り目正しい身形は、それはそれは貴公子然として凛々しいのだけれど。
纏う風格は、更に鋭さを増した。
「ここの梅の実の方が、那古野なごやのよりもよい梅酢うめずになる。幾つか植え替えるか。貰っても良いか。良いな」
「ええ、はい。どうぞお好きなだけ」
梅は梅干しとして陣中食にそのまま使えるほか、食中毒や伝染病の防止に無くてはならないものであった。
梅干しを見ると唾液が分泌されるのを利用し、脱水症状の予防目的にも使用された。
傷口の消毒に使用する、梅酢にも使用した。
信長は薬草に詳しい。
那古野城にも幾らか薬草畑があるという。
「そういえば幼い頃に、擦り傷に効くとかいう草を揉んでくださいましたね」
確か相撲をとっていて、投げ飛ばされた信勝が傷を作ったのだが、その時なにやらという草を摘み、揉んで傷口に貼ってくれた。
「そうであったか」
「はい。血も止まり、腫れもすぐに引きましてございます」
ふん、と信長は鼻を鳴らした。
「もっと色々、手近にあると便利なのだがな」
「手近、でございますか?」
うん、と頷きしゃがみ込むと、足許の草をいじり始める。
「いつか山ひとつくらいでも、思う通りの草々を植えたいものだ」
「四季折々の花を愛でるためとか、そういうのではなく」
それも良いがな、と信長は頷く。濃姫が気に入りそうだ。
「四季折々、使いどころのある薬草は多々あるのでな」
何やら思案に暮れる兄の横顔を見ながら、信勝は未来のことを思う。
その時。
薬草が咲き誇る山を、満足げに見回る信長。
その時は来るのだろうか。
信勝は瞼を閉じる。
謀反を起こすのだ。

信長と信勝が共に薬草を見る日など、もう来ない。
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