黒の海、呼ぶ声に

もに

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「持って見て下さい」
私は本能的に触りたくないと感じた。不吉な……触れたら石の黒が、指先に付いて移ってきそうな気がしたからだ。
勿論そんなことは起こるわけがない。
私は石を手に取った。冷たそうな見た目に反し、石は机の中にあったのに、ほんのりと熱を感じた。
「ランプの灯りにかざしてみて。少しずつ……角度を変えて」
促されるままに私は石をランプの光に当てながらまわしてみる。
「あっ……」
すると真っ黒な石の表面に、模様か文字か分からないが、何かの羅列が浮かび上がる。金のような赤いような不思議な色の線が立ち現れ、しかしすぐに消えて、再び見える角度を探すと同じものが見えた。
「これは何なんだ?」
私は戸惑いながらも守人を見た。
「分かりません。でもとても綺麗でしょう。兄さんにどうしても見せようとずっと思っていたんです。ほら、もう一度よく見て」
言う通りにじっくり眺めたが、今度はいくらやっても何も見えなかった。
機嫌・・がいいともっとはっきり見えるんですけど」
私は石を机に置いた。
「でも何だか不気味な感じだな。人が作ったのか自然物なのか分からないが……」
「そうですか? 僕はとても美しいと思いますけど」
石を取り上げ、守人はランプの光のほうへ掲げた。
「だって、こんなに闇そのものみたいに真っ黒で滑らかでしょう。黒曜石オブシディアンでも黒瑪瑙オニキスでもない……どんなに高価な宝石も敵わないですよ。僕には分かるんです」
守人は愛しげに石の表面を撫でた。
「兄さんにもきっとこの美しさが分かるようになりますよ」
私は何とも言えなかった。美しく珍しいものだとは思ったが、私は何故か道端で動物の死骸に遭遇した時のような、振り払えない不快感を覚えた。

「それにしても祠にあったものなんて、取ってきてよかったのか?」
「僕が見た時には半分壊れてましたし、管理する人間がいなくてずっと放置されてみたいですからね。祠は元々は別の場所にあったものを、此処を建てた時に移して来たものらしいです」
屋敷神として祀って祭祀していたのだという。
「どうやら背戸家は血縁だけでの独自の信仰を持っていて、先祖から引き継いでいたものらしいんです。祖霊崇拝の一種……祖先の霊が、時には選ばれた生者が。姿を変えてこの地の海の中に留まり子孫を見守り続ける。山海の隔絶された他界に行くのでも祖霊が神になるのともちょっと違う。別の存在に成る。豊淤饌トヨケ……そう呼ばれるものに成ると、そういう考え方らしい。信仰そのものはかつてはこの地域一帯で盛んだったものの、長い年月のうちに衰退してしまった。その名残りを残しているのが祭司の立場にあったこの家だった、僕は考えています」
「祭司……古くからある家なんだな」
「祀りごとの中身は、今だと中々にグロテスクであったらしいですよ。何年かに一度は生きた贄を捧げていたとか……」
私は先程感じた石への印象と、守人の話す内容がひどくしっくりきてしまい、ぞっとした。
守人は私の顔を覗き込んで笑った。
「あはは、もしかして兄さん怖がってますか。昔の話ですよ。祖父の時には祀り方もだいぶ簡単なものになっていたみたいだし」
「別に怖いわけでは……」
「そういう事にして置きましょう」
顔を赤らめた私を見て楽しそうだった。
「ところで、お前はどうやってこういうことを知ったんだ?」
「ここに越してきて書斎の整理をしていたら、日記を見付けたんですよ」
「日記?」
「祖父が書いていたものです。そこに色々書いてありました。それでまあ、他にもこの家に関する記録はないかと探してみたりしてたんです。つまり日記を読んだのが先で、興味を持った僕は祠の場所を探してみたというわけです」
そう言いながら石を再び丁寧に包む。
「だからこの石は僕のものでもあるんですよ」
と守人は目を細めた。
「手に入れた時からいつか兄さんに見せたいと思っていました」
確かに彼の母方に伝わっているものなら、彼に所有権があるといえるかもしれない。祠の中身を取って来るのはさすがにどうかとは思うが……。
「そろそろお開きにしましょう。宿に戻るのが遅くなるといけませんし」
「あ、ああ」

廊下に出ると、締め切った部屋からの温度差で汗が引く。それを含めて私は人心地ついた。
私は玄関に向かって歩き出したが、守人が付いて来ていないのに気が付いた。不意に、後ろから声が掛かる。
「……兄さん僕が嫌いなんですね」
私はぎくりと心臓が跳ねた。
振り向かずに前を向いたまま、足を止めた。
「いきなり何だ」
「だって宏哉兄さんに言われなければ、手紙を受け取ってても来なかったでしょう」
「そんなことは……本当に心配しているから、こうやって会いに来たんじゃないか」
「じゃあ、何故僕を避けるんです」
私は答えられなかった。
村に宿を取ったのは、あまり二人きりになる時間を取りたくなかったからだ。
幼い頃からこの異母弟が私を慕ってくれているのは分かっていた。
私の母は妾の子を虐げるような人ではなかったが、守人は常に遠慮していた。父は家庭に気を配るような人ではなかったし、守人を連れて来てからほとんど放っておいた。
家の中で守人が一番心を開いていたのは、私だったのは確かだ。そしてそれはーー。
「あなたは狡い」
「……」
互いの間に沈黙が流れる。
「すみません……」
やがて守人が小さな声で言った。
私達はそれきり言葉を交わすことなく距離をとったまま歩き出した。
「あの、帰る前にはまた来てくれますよね?」
玄関の前で背の高い守人が不安で縋りつく子供のようだった。私はいくらかほっとして、
「もちろんだよ」
と答えた。守人の顔に安堵の表情が広がる。私は複雑な気持ちで別れを告げると、屋敷を出た。外はまだ明るかった。
林を抜けると、遠くの水平線の端が、空に開いた口のように赤かった。
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