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「守人」
私は廊下の硝子戸から外を眺めていた子供に声をかけた。
「寒くないのか」
秋の長雨の降る、底冷えのする日だった。
ある日お前達の弟だとこの家にやって来た私より六つ下の幼子は、とても大人しい子供だった。大人に対しては極めて柔順だったが口数が極端に少なく、自発的に何かするという事がなかった。いつも人の輪から離れて気が付くと一人でいた。
母はこの子供が気後れすることがないようにと何かと気を使っていたが、私は一年たっても異母弟の笑うところを見たことがなかった。
といって別に捻ねたところがあるわけではなく、ただどこか存在が希薄で、誰にも気付かれずに消えてしまいそうな、そんな雰囲気がある不思議な子供だった。
今も家の誰もいない場所で、ぼんやりと立っていた。
「……」
私の問いに黙って首を振ると、守人は再び外を眺め始めた。
「庭を見てるのか」
普段から私達兄弟は母に新しい弟の面倒を見ておやりと繰り返されていたものだから、私は無視してその場を離れるのも気が引けた。
守人は大抵話しかけてもうん、とかううんとか返事をするだけで終わってしまって、私は普段からどう接していいのか分からずにいた。自身も社交的な性格とはいえない子供だった私が、どうにか出した言葉がそれだった。
守人は硝子に手を付いて、外を見たまま言った。
「波の」
「え?」
「雨の日は波の音がここまで聞こえる」
しんとした暗い家の中で、私に聞こえるのは雨粒が屋根や地面を叩く音だけだった。
守人の青みがかって黒目の多い目は庭ではなく、どこか遠くを見ているようだった。
「呼んでいるんだよ」
その時私は守人の手を掴んだ。
何故だか咄嗟にそうしたのだ。
「あっちに行こう」
守人の手は子供らしくないひんやりと吸い付くような冷たい手だった。
「ここは寒いじゃないか。僕の部屋においで」
私が異母弟を自分の部屋に誘ったのはこれが初めてだった。
「叔父さんが前にくれた外国の絵葉書を見せてあげる。お前にも読める挿し絵付きの本もあるよ。宏哉はつまらないって全然読まないけど……」
守人は何故かひどく驚いた顔をして、私の顔をしばらくじっと見ていたが、私がずっと手を離さないでいると、やがてこくりとうなずいた。
それを境に守人は私の部屋に頻繁に来るようになって、私が学校から帰ると必ず出迎えてくれるようになった。
大人しいのは相変わらずだったが、以前よりは感情を見せるようになって、周囲ともだんだんと話をするようになった。
雨の日は波の音が聞こえる。
呼ばれている。
波の音はこの地の海の音だったのか。もしかしたら彼の母の叶絵が、守人を伴って帰郷したこともあったのだろうか。
時に私が彼に感じる危うさの、おそらくは一番最初の記憶……私に幼い守人の手を取らせた、不吉な予感めいたものが、ほとんど忘れ去っていた遠い過去から私自身を見つけ出したような気がした。
……いや、今の守人はきっと大丈夫だ。一年前とは違う。何も悪いことなんて起きやしない。
作家としてだって上手くいっているのだし、やつれた様子もまだ本調子でないからなんだろう。
私は明日帰る。
不眠症のことは守人が戻って来たら医者の受診を勧めよう。その前に一度家に顔を出すように言おう。母だって守人を自分の子同様に心配している。私が帰る時に一緒に帰ったっていい。
決めてしまうと気持ちが軽くなった。
守人が戻るまで応接室で待とうと、周りの書棚から適当に何冊か選んで書斎から出た。
書斎を出る直前、何故か一昨日見せてもらった机の中の黒い石のことが気にかかり、ちらりと振り向いてから部屋を出た。
私は廊下の硝子戸から外を眺めていた子供に声をかけた。
「寒くないのか」
秋の長雨の降る、底冷えのする日だった。
ある日お前達の弟だとこの家にやって来た私より六つ下の幼子は、とても大人しい子供だった。大人に対しては極めて柔順だったが口数が極端に少なく、自発的に何かするという事がなかった。いつも人の輪から離れて気が付くと一人でいた。
母はこの子供が気後れすることがないようにと何かと気を使っていたが、私は一年たっても異母弟の笑うところを見たことがなかった。
といって別に捻ねたところがあるわけではなく、ただどこか存在が希薄で、誰にも気付かれずに消えてしまいそうな、そんな雰囲気がある不思議な子供だった。
今も家の誰もいない場所で、ぼんやりと立っていた。
「……」
私の問いに黙って首を振ると、守人は再び外を眺め始めた。
「庭を見てるのか」
普段から私達兄弟は母に新しい弟の面倒を見ておやりと繰り返されていたものだから、私は無視してその場を離れるのも気が引けた。
守人は大抵話しかけてもうん、とかううんとか返事をするだけで終わってしまって、私は普段からどう接していいのか分からずにいた。自身も社交的な性格とはいえない子供だった私が、どうにか出した言葉がそれだった。
守人は硝子に手を付いて、外を見たまま言った。
「波の」
「え?」
「雨の日は波の音がここまで聞こえる」
しんとした暗い家の中で、私に聞こえるのは雨粒が屋根や地面を叩く音だけだった。
守人の青みがかって黒目の多い目は庭ではなく、どこか遠くを見ているようだった。
「呼んでいるんだよ」
その時私は守人の手を掴んだ。
何故だか咄嗟にそうしたのだ。
「あっちに行こう」
守人の手は子供らしくないひんやりと吸い付くような冷たい手だった。
「ここは寒いじゃないか。僕の部屋においで」
私が異母弟を自分の部屋に誘ったのはこれが初めてだった。
「叔父さんが前にくれた外国の絵葉書を見せてあげる。お前にも読める挿し絵付きの本もあるよ。宏哉はつまらないって全然読まないけど……」
守人は何故かひどく驚いた顔をして、私の顔をしばらくじっと見ていたが、私がずっと手を離さないでいると、やがてこくりとうなずいた。
それを境に守人は私の部屋に頻繁に来るようになって、私が学校から帰ると必ず出迎えてくれるようになった。
大人しいのは相変わらずだったが、以前よりは感情を見せるようになって、周囲ともだんだんと話をするようになった。
雨の日は波の音が聞こえる。
呼ばれている。
波の音はこの地の海の音だったのか。もしかしたら彼の母の叶絵が、守人を伴って帰郷したこともあったのだろうか。
時に私が彼に感じる危うさの、おそらくは一番最初の記憶……私に幼い守人の手を取らせた、不吉な予感めいたものが、ほとんど忘れ去っていた遠い過去から私自身を見つけ出したような気がした。
……いや、今の守人はきっと大丈夫だ。一年前とは違う。何も悪いことなんて起きやしない。
作家としてだって上手くいっているのだし、やつれた様子もまだ本調子でないからなんだろう。
私は明日帰る。
不眠症のことは守人が戻って来たら医者の受診を勧めよう。その前に一度家に顔を出すように言おう。母だって守人を自分の子同様に心配している。私が帰る時に一緒に帰ったっていい。
決めてしまうと気持ちが軽くなった。
守人が戻るまで応接室で待とうと、周りの書棚から適当に何冊か選んで書斎から出た。
書斎を出る直前、何故か一昨日見せてもらった机の中の黒い石のことが気にかかり、ちらりと振り向いてから部屋を出た。
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