秘密の花園 ~光の庭~

犬飼ハルノ

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真神俊一と峰岸覚

夏の夜明け-1- *

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「ん・・・」

 指先がかくん、と空を掴むのを感じて意識が戻る。
 手の平の中には、ひんやりとした空気。
 真新しすぎるシーツが肌に違和感を覚えさせ、目を見開く。
 ここは、覚の部屋。
 だけど、覚の気配がしない。
 力の入らない身体に焦れながらなんとか身を起こすと、つい先ほどまで指を絡めてくれていたはずの男を呼ぶ。

「さとる・・・。覚!!」

 どんなに叫んでも、いらえはない。
 這いずるようにベッドから下りて、震える手足に舌打ちしながらなんとか衣服を身につける。
 動けない代わりに、まだ薄暗い部屋に視線を走らせた。
 家財道具に変わりはない。
 でも、昨夜この部屋に入った時に見かけたバッグや上着、そして母親の位牌が消えている。


 覚が、出て行った。
 覚は、帰らない。

 頭に血が上り、くらくらと目眩がした。
 呼吸が、うまくできない。

 でも、追いかけないと。
 もう、二度と会えないかもしれない。
 とめないと。


 裸足に靴をひっかけて外に出る。
 膝に力が全く入らない。
 走りたいのに、走れない。
 まるで自分のものではないような足をなんとか前に進めようともがきながら、生け垣を抜けると、開けた芝生の真ん中に、車椅子に乗った祖父が秘書の一人を従えて白みかけた空を見上げていた。
 自分がこのようなさまで出てくることを予想して待ち構えていたのだと瞬時に悟り、かっと頬が染まる。

「あなたですか、覚を・・・、覚をどこにやったんです!!」

 みっともない自分の叫び声が、広い花園に虚しく響き渡った。
 振り返った祖父の哀れむような表情が全てを物語っている。
 覚は、手の届かないところへ行ってしまった。

「覚を・・・覚を帰して、覚を返してお願いだから・・・」

 もう、一歩も前へ進めない。
 じんわりと湿り気のある芝生に膝を着き、祖父の足下に倒れ込んだ。

「おねがい・・・。おねがいします、お祖父様」

 手の平と、額を芝生にすりつけ懇願する。

「・・・顔を上げなさい、俊一」

 祖父の声は静かで、まるで立ちこめる朝靄のようだった。
 肩で息をしながらゆるゆると視線を上げると、記憶の中よりもいくぶん小さくなった顔が見下ろしていた。

 祖父も、随分とやつれている。

 住み込み家政婦の一人だった覚の母が亡くなって、まだ十日あまり。

 小柄な身体でこまめに働き、いつでも弁えている彼女を、祖父はいつの頃からか愛した。
 それが単なる出来心でないことは、誰もが承知している。
 連れ子の覚の養育費も祖父が出しているという噂はこの土地の者なら一度は耳にするくらい、大切にしていたはずだ。


 なら、なぜ。


 ぺたんと正座すると、秘書の手を借りて祖父も芝生の上に腰を下ろした。

 正面から見据える祖父の瞳は、やや緑がかっている。
 欧米人の緑とはまた違う趣の、不思議な色だ。

 真神家は遡れば古代にまで繋がると言われる古い家で、その名残が瞳の色に時々出ていた。
 父の惣一郎と、今年生まれたばかりの弟の憲二はどちらかというと光の加減で黄金色に見える。
 生母の光子が関東古来の名家だった自分は、彼女の家系を継いだらしく、髪も瞳も闇のような色だった。妹の清乃も真神家の分家筋から来た継母の芳恵をそのまま写し取ったかのような容姿だが、瞳の色は自分と同じ漆黒で、そこが愛し差を増して可愛かった。

 真神、とは、古代は狼を意味していたとも言う。

 人と獣の間に子どもが出来ることはあり得ないが、それを信じさせたくなる非凡な力を、祖父と父、そして弟の瞳は宿していた。
 日本狼はとうに絶滅して。
 しかし、真神家は現代まで脈々と続いた。
 何事にも続けるにはそれなりの努力がいる。
 そのためになんらかの犠牲を払われ続けてきたことは、その血脈と同様に暗黙の了解だった。
 俊一も物心が付いた時から、それが当たり前だと思っていた。
 しかし。
 覚が現われてから、それがだんだんと変わっていった。
 いつでも優しく接してくれる芳恵と血が繋がっていないと知って以来、どこか虚ろになってしまった自分の心を、覚が満たしていく。
 最初は、家政婦の子だから、自分の召使い。
 そんな扱いをしていた。
 寝室に並ぶたくさんのぬいぐるみも、父に与えられた洋犬たちも、決して話し相手になってはくれない。
 でも、覚は言葉を理解するし、一緒に木に登り、時には喧嘩もしてくれる。
 どこか遠慮がちな地元の子供たちや親戚たちよりも近い距離に、同じ年の覚がいることがだんだんと嬉しくなった。
 毎日毎日、真神家の広い敷地内を覚と走り回っているうちに、身体も丈夫になっていく。
 父が東京に出かけていない夜は、こっそり覚の部屋に忍び込みじゃれ合いながら眠りに就くのを、芳恵を始めとした家の者たちは見逃してくれた。

 もはや召使いではなかった。
 無二の親友だと思った。

 そして、身体がいわゆる第二次成長期を迎えた頃。
 覚を思うと、頭がぼんやりするようになってきた。
 漁師だった父の骨格を受け継いだ彼は、十二になる頃にバスケットボールを始めたあたりからから急激に成長していった。
 出会った頃は自分より小さく頼りなかった手足も首筋も、いつのまにか男らしく成長していく。
 眩しくて、目がそらせなかった。
 そばにいると胸が高鳴り、一人になると脳裏に焼き付いた覚をなんども思いだし、自然と身体が熱くなる。
 しまいには、裸の覚に触れる夢を毎晩見るようになった。
 こんなのは異常だと、朝になると我に返り憂鬱になる。
 しかし、身体のどこかが覚に繋がっていて引きずられているような感覚は、中学に上がって東京で暮すようになっても変わらなかった。
 むしろ、ますます覚のこと以外考えられなくなり、浅くしか眠れないし、勉学も身に入らない。
 このままではどうにかなりそうだった。
 飢えて飢えて、気が狂いそうだ。
 なんでも良いから適当な言い訳を作って本邸へ戻り、覚の眠る部屋へ飛び込んだ。
 どこか夏蜜柑の花の香りのする、真夜中の部屋で。
 馬乗りになって息を乱し続けるだけの自分を、静かな瞳が見上げた。
 ゆっくりと起き上がった覚にしっかりと抱きしめてもらって、涙が流れる。
 唇と、唇を合わせて、それだけで胸がいっぱいになった。
 あまりの心地よさに、どうしていいかわからない。
 何度も何度も唇を合わせて、抱きしめあって、いつのまにか夜が明けた。
 覚の胸の上で鼓動を聞くうちに、久しぶりに深い眠りに就くことが出来た。


 その日から、覚は、身体の一部になった。
 彼に触れたくて、理由をつけては帰郷した。
 触れれば触れるほど、もっと欲しくなった。
 唇を合わせて、抱きしめて。
 熱くなった下肢を合わせているうちに、もっと、もっとと求めてしまう。
 最初は獣の子どもがやるようなまねごとで満足していたけれど、だんだんとそれではすまなくなり、もっと深いところで感じたくなった。

 女のように、抱かれたい。
 あの楔で、貫かれたい。

 誘ったのは、もちろん自分だ。
 必ずブレーキをかけようとする覚に迫って煽って、理性を打ち砕いた。
 乱暴に足を開かれて、胸が高鳴る。
 一気に貫かれた瞬間、このための生まれてきたと確信した。
 それからはもう、互いに歯止めが利かなくなった。
 覚なしでは、覚に抱かれていなくては、自分が、自分でないと思った。


 それなのに。
 覚は出て行った。

 一言の断りもなく、ふらりと、まるで死期を悟った猫のように。

 ぞくりと、背筋に寒気が走る。


「まさか、まさか・・・。覚は・・・」

 がくがくと芝生を握り込んだ指を振るわせると、骨張った手が額に触れた。

「落ち着きなさい、俊一」

 祖父の、深い声に呼び戻される。

「覚は、学びに出ただけだ」
「・・・学び?」

 ぼんやりと見上げる俊一の頬を、固い指がそっと通り過ぎた。

「覚は、必ず戻ってくる。だから、今は、行かせてやりなさい」

 祖父の言葉がうまく理解できない。
 目を見開いたままの俊一に、噛んで含めるように説明を始めた。

「夕子の通夜の時に、覚と一晩かけて話し合って決めたことだ。惣一郎が手を打つ前に、ここを出るべきだと」

 いきなり、父の名前が出てきたことに混乱する。

「芳恵も無事出産して、憲二の成長もだいたい目処が付いて、夕子の葬儀も終えた。さすがの惣一郎もそろそろこちらに戻ってくるだろう」

 現在真神家の当主である父の惣一郎は、与党で重要な位置についているために多忙で、継母の出産にも立ち会わなかった。
 当時、発症していなかった家政婦の峰岸夕子と芳恵の実家が出産の準備を整え、祖父の秘書達や覚もそれに加わっていた。

 父は、生後三ヶ月を過ぎようとしている憲二の顔を未だに見たことがない。
 いや、見ようともしなかった。

 都心とこの真神の家は多少離れているが、俊一のように努力をすれば戻って来られないことはない。
 それをあえてしないところに、父の、意図があった。
 憲二は、決して真神家において重要な子どもではないと。
 そもそも、父は母の妊娠がわかった頃からこちらに顔を出さなくなった。なので安産祈願だけではなく、出産のねぎらいすらない冷徹さに、芳恵の親族達は内心憤りを隠せないようだった。
 かろうじて名前だけは考えていたようだが、それすら秘書の一人に持たせただけで連絡すらしなかった。
 さすがに祖父母が叱責したようだったが、忙しいの一点張りで聞く耳を持たなかったと聞いている。
 落胆する母に、祖父母を含めた真神家側の親族も出来る限りのことをしたと思う。
 しかし、その頑なな態度は、端から見れば異常だった。
 憲二は、惣一郎の子どもではないのかという憶測が流れたくらいだ。
 それを覆したのが、憲二の瞳だった。
 顔立ちは芳恵のように赤ん坊にしては整っていて、瞳は黄金色がかっている。
 直系の血を引かねば現われない特徴だった。
 祖父の子ではないかという話も出たらしい。
 それを耳にした芳恵は倒れ、以来寝込見がちな日々を送っていた。
 そんな中、頼りにしていた家政婦の一人である夕子が突然亡くなり、この本邸は一気に暗くなった。
 憲二の百日祝いも目前だ。
 ここにきてようやく、惣一郎は帰郷する気になったらしい。
 ヨーロッパ外遊から戻り次第、本邸へ顔を出すという知らせが届いた。
 それが、夕子の通夜の最中のことだった。


 なぜ、父はここまで冷酷になれるのか。

 幼い頃に偶然居合わせてしまった父と母の情事を思い出す。

 あれはまだ小学校も半ばの頃。
 覚とふざけて父の書斎で遊んでいた。
 その日父は不在で、父の机の下を秘密基地がわりに籠もっているうちに二人で肩を寄せ合って眠ってしまった。
 異様な状況に気が付いたのはそれから随分経ってのこと。
 自分たちの頭上でせわしない音と声が聞こえ始めて目が覚めた。
 覚は自分より先に起きていたらしく、声を上げようとした自分の口をふさいだ。
 机の上で絡み合っている、父と、継母。
 褒美だ、受け取れ、と冷たい父の声が聞こえる。
 それに感謝の言葉を返す継母のすすり泣きが聞こえた。
 がたがたと打ち付ける音。
 服が裂ける音。
 何か、ぐちゃぐちゃとした音。
 それは、夫婦の営みではなく、どこかいびつな、主人が飼い犬に気まぐれに与える褒美のようなものだった。
 あくまでも冷徹な父の扱いに、清廉な母は泣いて縋って受け入れていた。
 父の言う褒美、とは、先日両親に伴われて出席したパーティで自分が立派に努めたことに対するものだと、二人の切れ切れの会話から知る。
 母は、この、適当に放り投げられた肉のような褒美のために、今まで尽くしてきたのだと、男女の交わりもまだよく知らなかった自分は理解した。
 貶められ、虐げられても、抱かれたい。
 そんな母の一途な恋心を、父はあざ笑い、いたぶった。


 そして、そんな不毛な関係は、今もまだ続いているのだ。


 なぜ、そこまで残酷になれるのか。
 なぜ、そこまでせねばならないのか。
 全ては、自分のためだった。


 父は、生母の光子を心から愛していた。

 光子だけしか、見えない。

 真神家をもり立てること、そして、光子の残した俊一を高みへ上げることだけに、父は心血を注いだ。
 俊一が後を継ぐ時に、盤石であること。
 それだけが父の望みであるのは、誰にでも容易に推測できた。
 歪んでいる。
 妄執だけがそこにある。
 その歪んだ王国の中に、自分は一人囚われなければならないのか。
 机の下ですべてのからくりを知ったあの日から、父が、心底恐ろしかった。


 あの日。
 事が終わって二人がそれぞれ立ち去ったあとも、衝撃に震える自分をただ黙って抱きしめ続けてくれたのは覚だった。

 覚の、熱い身体。
 じんわりと立ち上る汗。
 そしてそれに混じる芝生と土の香り。
 どこか、ひなたの匂いがした。

 ゆっくりとした呼吸が心地よく、じっとしがみついているうちに夜は更けていった。
 あの日の空も、ちょうどこんなに静かな朝靄に包まれていた事を思い出す。
 静まりかえった邸内の湿り気のある芝生を、二人で手を繋いで歩いた。
 寝室へ戻る気には到底なれなくて、書斎から一番離れている池を目指す。
 回遊式日本庭園になっている大きな池の中のほとりに、昇ると見晴らしの良い大きな岩があり、まだ小さかった自分たちが横になっても大丈夫な大きさだった。
 そこへ二人でよじ登り、そのまま両手両足を投げ出して仰向けに寝転がった。
 明けの明星が、消えようとしていた。
 二人で指先だけを絡ませて、じっと空を見上げ続けた。
 やがて朝陽に夜の気配がおしやられるその時まで。

 覚が、いてくれたから。

 また起き上がって、歩き出せた。
 何事もなかったかのように朝を過ごせた。


 思い出も記憶も心の痛みも、そして身体の全ても、覚に知られていないことは何一つない。
 身体を繋げて、ますますそう思うようになった。
 伴侶、比翼の翼、それを表わす言葉はいくらでもあるだろう。
 でも、そんなものでは足りない。
 出会って十年。

 覚のいない生活なんて、考えたことがなかった。

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