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番外編
忘れゆく面影
しおりを挟む作付けの予定表と進行表を見比べて遅れや反対に作業が早く終わり余裕ができたところを確認していく。今年は順調に進んでいる。
ほっとしていると扉を叩く音がして、領内を見回っていた青年が戻ってきた。
「何か俺の呼び名がいつの間にか若旦那になってたんですけど」
「この前姉さんの旦那様になったって教えたからね」
結婚式は簡素に挙げた。
事情を知っている叔父と司祭だけだったけれど十分だわ。
白いドレスと青年が用意してくれた小さな花束は結婚するのだと意識させてくれた。
「いつまで坊っちゃんの姿でいるんですか?
もう通いの使用人たちは帰りましたよ」
ブローチを外されて姿を取り戻す。
日中はあまり執務室から出ないようにしている。
そのため休憩はきちんと取ってくださいと注意されることもあった。
今日はもう終わりにしようと片付ける。
やることは山積されていても一日無理をしただけでは意味がない。
「あなた遠くない内に旦那様って呼ばれるかもしれないわね」
早ければ今年の終わりには叔父様から執務を全て引き継いでしまいたい。
この数年はあまり領地にいられなかったので聞き取りをすることも多くある。
叔父様の助けを得られる内にできるようにならないと。
夫婦の寝室で今後の予定を話しておく。
彼も黙って私の言葉に耳を傾ける。
「今年の冬から少しずつ体調を崩していくと思う」
弟の姿でいるのはあと少しのこと。
そう思うと胸が重くなる。
今さら何を考えているのかしらね。
自嘲する私を彼が抱きしめる。
優しい抱擁というにはしっかりと抱き込まれていて。
情熱的というには柔らかい手つきだった。
何も言わずにいる彼に勝手に言葉が零れていく。
「……弟がどんな話し方をしていたのか、もう思い出せないの」
記憶にある弟は笑顔でいるけれど、どんな声だったか話し方だったか、もう曖昧で。
「ごめんなさい、
あなたに言うことではなかったわね」
彼も家族に会えない身だわ、それも私の指示によるもの。
こんなことを言うべきではなかった。
軽はずみな甘えを口にしてしまった後悔に口調が苦いものになる。
身を離そうとするけれどしっかりと回された腕で動けない。
「俺以外の誰に言うんですか。
いいから話してください。
抱え込むとロクなことになりませんよ」
背や頭をゆっくりと撫でられ言葉を促される。
「いつも私の後をついてきて、一緒に過ごした時間なんてたくさんあったのに。
どうして忘れてしまうのかしら」
話したこと、笑い合ったこと、ケンカしたことも覚えてる。
それなのにどんな仕草をしていたか、どんな話し方をしていたのか思い出せない。
少しずつ気持ちを吐き出していく。
言葉を止めると、それから?というように頭を撫でられて支えていたもの全てを胸の外に出してしまった。
ずっと思っていたことも。
「あの子は2度死ぬことになるわ」
2度目は私の都合でしかない。
あの時父と母と一緒に鬼籍に入ったとすれば良かったと。
考えても仕方のないことを考えてしまう。
「……その件で俺に言えることはありませんが、ずっと気を張っていたんでしょう?
それが目処がつきそうになって安堵と不安が一気に襲って来てるんですよ」
大丈夫です、と優しく背を撫でる手の温かさに肩に入っていた力が抜けていく。
「それは、経験則?」
「そうですよ。
俺だってお嬢に助けられた時は半信半疑でした。
俺の身一つで良いなんて、そんなに上手い話があるわけがないって思いましたし。
家族が助かってほっとしたら今度は自分がどうなるんだろう、なんて不安に襲われたりね」
私の前ではそんな様子なんておくびにも出さなかったけれど、葛藤は色々あったらしい。
「でも何が起こるかなんてわかりません。
こんな絶世の美女の夫になれって言われるようになったり、その美女に心底惚れちまったり、人生は予想のつかないことだらけです」
だから、大丈夫ですよと言ってくれる彼にしがみつく。なんと言っていいかわからないほど胸が震えた。
「貴女がすればいいのは弟を悼んであげることだけです」
ずっと出来ずにいたんですよね、との囁きに涙が溢れた。
もういないあの子が側にいるかのように装ってきた。
亡くなったことを知られないように、ずっと。
肩の震えを包む腕に身を預ける。
この腕は私が離してと言うまではきっとこのまま。
全部終わった後もこうして抱きしめてくれるでしょう。
全てを受け入れ寄り添ってくれる彼に甘えてしまう。それで良いんですよと囁く声に何も考えられなくなっていく。
どこにこれだけ溜まっていたのかと思うほど涙が溢れる。
涙が頬を伝う度に悲しみが一緒に流れていく。
彼は私が全てを流し終わるまで抱きしめていてくれた。
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