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第三章
公爵領への帰還
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義母ミザラ・ソードルは実家に逃げ帰った。
それも当たり前に思えた。
義理の娘に殺されそうになった事もそうだが、何よりこの女を怖がらせたのは、夫を始めとする、あの場にいたほとんどが、自分を守ろうとしなかったことが大きかった。
唯一止めた騎士リョウ・モリタとて、エリージェ・ソードルに公爵家の為だと説得されたら、見逃すかもしれない。
いや、むしろ、率先して殺しに来るかもしれない。
自身が公爵家の害悪になっていると自覚があるゆえに、義母ミザラ・ソードルは恐怖した。
ゆえに、イーラ子爵家に帰ったのだった。
さらに言えば、父ルーベ・ソードルも屋敷に寄りつかなくなった。
この男、器も小さければ、肝も恐ろしく小さい。
自分の娘が剣を振り回す姿を見て、あれが自分に向けられたらと怯え、帰るに帰れなくなったのだった。
その事で、屋敷の使用人たちは驚愕することとなる。
なんて……なんて仕事が楽なのか、と。
仕事量もさることながら、普段、腹部にのしかかっていた重石が、すーっと抜けたような、そんな感じがした。
理屈の合わない指示に悩まされることもない。
突然の指示変更に惑わされることがない。
理不尽な叱責や暴力に苦しむことがない。
最初のうちは、義母ミザラ・ソードルに対するエリージェ・ソードルの行いを”怖い”とか”過激では”とか囁き合っていた使用人達も、しばらくすると『必要悪だったのだ』と頷き合うようになった。
口さがない者などは、このように言った。
『これが、”よけい”なものを省くというエリージェ式の真髄なのだ』と。
そんな訳で、ソードル家の使用人たちは手すきな事が増え始めた。
普通の屋敷で有れば、空いた時間はお茶などをして怠けるのが当たり前なのだが、ことソードル家は本来であれば、一番のんびりと過ごすべきお嬢様が先頭になって働いている。
なので、多くの者がやることを求めて、執事ラース・ベンダーに殺到することとなった。
その事を聞いたエリージェ・ソードルは、小首を捻った。
(なんでそんなことになったのかしら?)
エリージェ・ソードルの疑問はもっともだった。
なぜなら”前回”、似たような状況になったものの、そんなことにはならなかったからだ。
しかし、”今回”の状況は当然とも言えた。
”前回”の場合、老執事ジン・モリタの死もさることながら、意外かもしれないが当主ルーベ・ソードルの死が大きかった。
エリージェ・ソードルはよく働くし、頼りにはなった。
だがしかし、十歳の少女であることは間違いなかった。
それに引き替え、ろくに働かない父ルーベ・ソードルであったが、大人であり、曲がりなりにも長年公爵の地位に就いていた。
どうしても、現時点では安心感が違うのだ。
だから”前回”、使用人たちは将来の不安から他の仕事をしようとするほど、精神的に余裕がなかった。
だが”今回”は違う。
老執事ジン・モリタも、当主ルーベ・ソードルも生きている。
現在の支柱であるエリージェ・ソードルが仮に倒れそうになっても、支える柱があと二本あるのだ。
将来の不安も薄いので純粋に『お嬢様の手助けをしなくては!』という気持ちも高まるものだ。
エリージェ式から見て、邪魔者だと思われていた父ルーベ・ソードルだったが、それに一役買うこととなるとは皮肉な話であった。
公爵家の使用人の多くは、下級貴族や準貴族といった身分の者で、読み書きはもちろん、中には王立学院などの卒業生までいた。
なので、単なる雑務だけではなく、事務方の仕事を振ることが出来た。
「思ったより、優秀な者もいるわね」
エリージェ・ソードルは目を丸くした。
これは、”前回”見逃していた事だった。
そこで、エリージェ・ソードルは彼らの能力を測りながら、目録を作った。
そして、必要に応じてエリージェ式を教えていった。
それは”現在の”旧式ではない。
”前回”の最新式だ。
特に、重要な案件を任せる者を重点的に、この最新式を教えた。
最新式は効率化も上がっていることは勿論だが、機密についての取り扱い方にも触れる。
機密資料の扱い方。
機密の関わる指示書の作成方法。
そして、機密が漏洩した時の対処方法や責任の所在の明確化などである。
また、特定の物や作業に関して、隠語を使うように指示を出した。
隠語とは、公爵家の者のみが分かるように作った言葉の事である。
例えば、”カキンをあげる”というものがある。
”資金を王都に運ぶ”という意味である。
”カキン”は金貨を崩したもので、”あげる”は公爵領から、より尊き存在である国家に向かって運ぶ事を意味している。
逆に、”カキンをさげる”であれば、王都から公爵領へ資金を戻すことを意味する。
大量の資金の移動は、盗賊や敵対する何者かに狙われる恐れがある。
そのために、機密と言うほど厳格には管理をしないものの、仮に話を聞かれても、極力理解されないための配慮であった。
エリージェ・ソードルは仕事の量や内容も勿論、エリージェ式の理解度によっても報酬を上げた。
その事が、彼らのやる気をさらに高める要因となり、良い循環が生まれるようになっていた。
――
王都の公爵家には良い流れが出来始めていた。
しかし、元々この女がいた場所であり、問題もそもそも少なかった。
もっとも、”前回”はそれすら落ち着かせるのに半年ほどはかかった。
それが、”今回”は一月ほどで形になりつつあるのだ。
この女が「上々ね」と満足げに頷くのも無理からぬ事だった。
だが、エリージェ・ソードルという女、すぐに気を引き締める。
本当の試練はここからだと知っていたからだ。
「明日、一旦領に戻るわ」
エリージェ・ソードルの突然の発言に、公爵家の使用人の多くがぽかんとした。
だが、さらに驚かせたのは、すでに用意が済んでいることだ。
エリージェ・ソードルは公爵領に向かうことを秘密裏に進めていたのだ。
護衛騎士には流石に伝えていたが、執事の中ではラース・ベンダー、侍女の中では侍女長シンディ・モリタのみで、随伴予定に組み込まれている侍女ミーナ・ウォールにすら知らされていなかった。
用意も別の理由を付けて指示したもので、巧妙に分からないようにしていた。
そこまでするのには理由があった。
それは、父ルーベ・ソードルと義母ミザラ・ソードルのことだ。
エリージェ・ソードルは侍女長シンディ・モリタを執務室に呼び出すと念を押した。
「二人とも遠出をしているから問題ないと思うけど、来ても絶対に中は入れないでね」
さらに、公爵家指輪印入りの命令書まで渡す徹底ぶりだった。
それほど、良い流れになりつつある公爵家に二人を入れたくなかったのだ。
「シンディ、何かあったらわたくし、外道だろうがなんだろうが、進む覚悟はあるのよ。
その事をよく覚えておいて」
その強い言葉と視線に、流石の侍女長シンディ・モリタも苦笑し、「畏まりました」と言うほか無かった。
その代わり、別のことを話し始めた。
「こちらについては、お嬢様の仰るとおりにいたします。
ただ、公爵領の方について一つお願いしたいことがあります」
「何かしら?」
「弟君、マヌエル様についてです」
「ああ……」とエリージェ・ソードルはこの女にしては珍しく、苦笑した。
「あの子の事、すっかり忘れていたわ」
”前回”、あれだけ、躍起になっておきながら、である。
侍女長シンディ・モリタも困ったように笑う。
「仕方がありません。
お嬢様はとてもお忙しくされていましたので。
本来であれば、母君が気にすることなのですが……」
母君とは当然、義母ミザラ・ソードルの事である。
あの女は、気にかける所か、実の子の存在そのものを忘れているのではないかという疑惑すら囁かれている屑である。
侍女長シンディ・モリタは続ける。
「お嬢様、お忙しいとは思いますが、マヌエル様の事も気にかけて差し上げて下さい」
「分かったわ」と頷きつつ、エリージェ・ソードルは顎に手をやり、少し考える。
この女、エリージェ・ソードルは公爵代理である。
そして、前記にもあるが、”前回”のこの時期は多忙を極めた。
腐り、傾きかてている公爵領を必死に立て直そうとしていた。
それこそ、歯を食いしばってだ。
その事もあり、この女、この頃の弟マヌエル・ソードルについての記憶がほとんど無い。
思う存分遊び回りたい義母ミザラ・ソードルが、王都ではなく公爵領に押し込んでいたこともあり、会う機会など数えるほどしかなかったのだ。
それも、仕方がないことだった。
(そういえばあの子、クリスに執着していたわね)
”前回”の事だ。
クリスティーナ・ルルシエを害そうとするこの女に、もっとも攻撃的に反発したのが、弟マヌエル・ソードルであった。
時に、攻撃魔術すら使ってくるほどだった。
実の姉である自分にそこまでするとはよっぽどの事だろう、とエリージェ・ソードルは思った。
もっとも、その姉は並の攻撃魔術よりも悪質な、”黒い霧”を使っていたのだ、お互い様と言うべき話でもあった。
(……よく考えたら、クリスとあの子が恋仲になっても、別に良いわね)
とエリージェ・ソードルは思った。
当たり前である。
弟マヌエル・ソードルとクリスティーナ・ルルシエが恋人になろうが、結婚しようが、姉弟の仲は変わらない。
さらにいえば、仮に二人が結ばれても、弟マヌエル・ソードルが公爵家を継ぐのに変わりは無い。
なので、別段遠くに連れ去られる訳でもないのだ。
普通に考えたら、エリージェ・ソードルが絶望するほどの事でも無かった。
そんなことも気づかないほど、当時のこの女は精神的に異常をきたしていたともいえる。
(今度、そういった話になった場合は、普通に認めてあげても良いわね)
とエリージェ・ソードルは思った。
もちろん、身分差はあるがその辺りは正妻を別に作るとか、やりようはある。
最悪、それを良しとしなくても、そこはソードル家、貴族の中の貴族、王族を除けば最高位の家なのだ。
政略結婚をしなければ立ち回れない、木っ端貴族とは訳が違う。
クリスティーナを一旦、別の貴族の養女にするなど多少の調整は必要かもしれないが、そこまで障害のある婚姻という訳では無いように思えた。
それならそれで、エリージェ・ソードル自身に不都合があるようには思えなかった。
「シンディ、クリスも連れて行くわ」
侍女長シンディ・モリタは目を丸くした。
「お嬢様、ずいぶんあの子にご執心なのですね」
「そうね、将来、妹になるかもしれないし」
「え?
どういうことでしょう?
……まさか、あの子はご主人様の――」
「ああ、ごめんなさい。
違うわよ。
こっちの話」
顔の前で手を振るエリージェ・ソードルを訝しげに見つめていた侍女長シンディ・モリタだったが、話を続ける気がない事を悟ったのか、静かに頭を下げ、了解の意を伝えた。
その様子を眺めていたエリージェ・ソードルは、思い出したように訊ねる。
「ねえシンディ、殿下からの返事は来ているかしら?」
頭を上げた侍女長シンディ・モリタは申し訳なさそうに眉を寄せ、否定した。
「そう、分かったわ」
殿下とは、王子ルードリッヒ・ハイセルの事である。
この女は”今回”、許嫁に対して何通か手紙でのやりとりをしていたが、実際には会えていない。
幼なじみであるオーメスト・リーヴスリーと共に、北東の隣国モンドルへ表敬訪問をしているからだ。
会いたい。
ふと思った。
だがすぐに、その思いを払う。
今は公爵家の正念場である。
この女、ぐっと気を引き締めた。
――
玄関の前に止められた箱馬車を前に、エリージェ・ソードルは振り返ると、その後を着いてきていた厳つい騎士に声をかけた。
「じゃあ、ウルフ坊ちゃん、後のことは頼んだわよ」
そんな言葉に、厳つい騎士――ルマ家騎士団長ウルフ・クリンスマンが顔をひきつらせながら答えた。
「エリージェお嬢様、お嬢様のようなご令嬢に”坊ちゃん”呼びとか、かなりきついので勘弁して下さいよ。
そもそも、それはマテウス・ルマですら、すでに呼ばなくなったものですよ」
「あら、この前お爺様、『あいつはまだまだだ』って仰ってたわよ」
「いや、まだまだとはいえ、”坊ちゃん”からは卒業したというか……。
ホント、許して下さいよ!
”あのこと”は、何度も謝ったじゃないですか!」
”あのこと”とは、ルマ家騎士団長ウルフ・クリンスマンが女騎士ジェシー・レーマーに贈った送別の言葉の事である。
「あら、何の事かしら?
わたくし、”胸くそ悪い”から忘れてしまったわ」
「ほらぁ~」
ルマ家騎士団長ウルフ・クリンスマンとしては、一般的な話をしたつもりで『胸くそ悪い雇い主に、胸くそ悪い扱いを受けるかもしれない』などと言ったのだが、女騎士ジェシー・レーマーの次に仕える相手を知っている彼がそのように言ったことを、エリージェ・ソードルは根に持っていた。
だから、それ以来、顔を合わす度にその事を蒸し返しているのだ。
”前回”も”今回”もだ。
もっとも、この多くの相手に対して冷淡に接するこの女がこのように”意地の悪い”事をするのは、幼い頃に遊んでもらったことのあるウルフ・クリンスマンに対して親近感を持っていたからにほかならない。
「おい、ジェシー!
お前がよけいなことを言ったせいで、お嬢様がヘソを曲げられてしまったじゃないか!」
「いえあのう、良い話をしたつもりだったんですが……」
女騎士ジェシー・レーマーは困ったように眉をハの字にした。
むしろ、自分の尊敬する騎士団長の美談を伝えたつもりだったのだが、まさかこんな事になるとは思いも寄らなかったのである。
「まあ、その話はとりあえず良いわ」とエリージェ・ソードルは、ルマ家騎士団長ウルフ・クリンスマンの腕を手のひらでポンポンと叩いた。
「しばらくの間、ソードルのお屋敷のこと、よろしくね」
ルマ家騎士団長ウルフ・クリンスマンは真剣な顔になると、幼いエリージェ・ソードルに視線を合わせるよう片膝を付き、女の右手を取った。
「柱のぐらついた家ってのは、何が起こるか分かりません。
お嬢様もお気をつけて。
……本当は、付いていきたいぐらいなんですがね」
「ありがとう、ウルフ。
でも、あなたでなければ、ここを守ることは出来ないの。
他家のことに巻き込んでしまって、本当に申し訳ないと思っているけど、お願いね」
本来であれば、公爵領より騎士を呼び寄せそれに守られながら公爵領に向かい、今まで護衛としていた者達に王都の屋敷を守らせるべきだった。
だが今回、この女はそうしなかった。
ルマ家から騎士を借り受け、騎士団長ウルフ・クリンスマンを含む十名の騎士で王都の屋敷を守って貰い、公爵領に向かう護衛として騎士リョウ・モリタを含む公爵家護衛騎士および、ルマ家の騎士五十名を伴うこととした。
こういう布陣にしたのには、二つの理由があった。
一つは父ルーベ・ソードルと義母ミザラ・ソードルの件だ。
エリージェ・ソードルがいない屋敷に二人がやってきた場合、ソードル家の騎士であれば強く追い払うことはやはり難しかった。
その点、対象二人にとっての天敵ともいえる祖父マテウス・ルマの私兵であれば、問題なかった。
特に、武人気質の騎士団長ウルフ・クリンスマンに睨まれれば、所詮小物の二人など脱兎のごとく逃げていくことだろう。
だからこそ、エリージェ・ソードル自身も大いに苦手にしている祖父マテウス・ルマに頼み込んで、借り受けたのだった。
ルマ家騎士団長ウルフ・クリンスマンは厳ついその顔を優しく緩めた。
「何をおっしゃる、お嬢様!
お嬢様のためなら、このウルフ、たとえ火の中、水の中って奴ですよ。
王都のことは閣下とわたしにお任せください」
「ありがとう。
頼りにしているわ」
エリージェ・ソードルはそう頷くと、女騎士ジェシー・レーマーに手を取られながら梯子段から馬車に乗り込んだ。
中にはクリスティーナがにこにこした顔で待っていた。
エリージェ・ソードルはそれに微笑み返すと、席に座る。
そして、進むように指示を出してから、窓から見送るルマ家騎士団長ウルフ・クリンスマンや執事ラース・ベンダー、侍女長シンディ・モリタを含む、使用人に手を振った。
祖父とはいえ、他家から騎士を借りるという恥を忍んでまでしなくてはならないもう一つの理由は、”前回”起きた悲劇が起因する。
エリージェ・ソードルは少し、顔を引き締めた。
それも当たり前に思えた。
義理の娘に殺されそうになった事もそうだが、何よりこの女を怖がらせたのは、夫を始めとする、あの場にいたほとんどが、自分を守ろうとしなかったことが大きかった。
唯一止めた騎士リョウ・モリタとて、エリージェ・ソードルに公爵家の為だと説得されたら、見逃すかもしれない。
いや、むしろ、率先して殺しに来るかもしれない。
自身が公爵家の害悪になっていると自覚があるゆえに、義母ミザラ・ソードルは恐怖した。
ゆえに、イーラ子爵家に帰ったのだった。
さらに言えば、父ルーベ・ソードルも屋敷に寄りつかなくなった。
この男、器も小さければ、肝も恐ろしく小さい。
自分の娘が剣を振り回す姿を見て、あれが自分に向けられたらと怯え、帰るに帰れなくなったのだった。
その事で、屋敷の使用人たちは驚愕することとなる。
なんて……なんて仕事が楽なのか、と。
仕事量もさることながら、普段、腹部にのしかかっていた重石が、すーっと抜けたような、そんな感じがした。
理屈の合わない指示に悩まされることもない。
突然の指示変更に惑わされることがない。
理不尽な叱責や暴力に苦しむことがない。
最初のうちは、義母ミザラ・ソードルに対するエリージェ・ソードルの行いを”怖い”とか”過激では”とか囁き合っていた使用人達も、しばらくすると『必要悪だったのだ』と頷き合うようになった。
口さがない者などは、このように言った。
『これが、”よけい”なものを省くというエリージェ式の真髄なのだ』と。
そんな訳で、ソードル家の使用人たちは手すきな事が増え始めた。
普通の屋敷で有れば、空いた時間はお茶などをして怠けるのが当たり前なのだが、ことソードル家は本来であれば、一番のんびりと過ごすべきお嬢様が先頭になって働いている。
なので、多くの者がやることを求めて、執事ラース・ベンダーに殺到することとなった。
その事を聞いたエリージェ・ソードルは、小首を捻った。
(なんでそんなことになったのかしら?)
エリージェ・ソードルの疑問はもっともだった。
なぜなら”前回”、似たような状況になったものの、そんなことにはならなかったからだ。
しかし、”今回”の状況は当然とも言えた。
”前回”の場合、老執事ジン・モリタの死もさることながら、意外かもしれないが当主ルーベ・ソードルの死が大きかった。
エリージェ・ソードルはよく働くし、頼りにはなった。
だがしかし、十歳の少女であることは間違いなかった。
それに引き替え、ろくに働かない父ルーベ・ソードルであったが、大人であり、曲がりなりにも長年公爵の地位に就いていた。
どうしても、現時点では安心感が違うのだ。
だから”前回”、使用人たちは将来の不安から他の仕事をしようとするほど、精神的に余裕がなかった。
だが”今回”は違う。
老執事ジン・モリタも、当主ルーベ・ソードルも生きている。
現在の支柱であるエリージェ・ソードルが仮に倒れそうになっても、支える柱があと二本あるのだ。
将来の不安も薄いので純粋に『お嬢様の手助けをしなくては!』という気持ちも高まるものだ。
エリージェ式から見て、邪魔者だと思われていた父ルーベ・ソードルだったが、それに一役買うこととなるとは皮肉な話であった。
公爵家の使用人の多くは、下級貴族や準貴族といった身分の者で、読み書きはもちろん、中には王立学院などの卒業生までいた。
なので、単なる雑務だけではなく、事務方の仕事を振ることが出来た。
「思ったより、優秀な者もいるわね」
エリージェ・ソードルは目を丸くした。
これは、”前回”見逃していた事だった。
そこで、エリージェ・ソードルは彼らの能力を測りながら、目録を作った。
そして、必要に応じてエリージェ式を教えていった。
それは”現在の”旧式ではない。
”前回”の最新式だ。
特に、重要な案件を任せる者を重点的に、この最新式を教えた。
最新式は効率化も上がっていることは勿論だが、機密についての取り扱い方にも触れる。
機密資料の扱い方。
機密の関わる指示書の作成方法。
そして、機密が漏洩した時の対処方法や責任の所在の明確化などである。
また、特定の物や作業に関して、隠語を使うように指示を出した。
隠語とは、公爵家の者のみが分かるように作った言葉の事である。
例えば、”カキンをあげる”というものがある。
”資金を王都に運ぶ”という意味である。
”カキン”は金貨を崩したもので、”あげる”は公爵領から、より尊き存在である国家に向かって運ぶ事を意味している。
逆に、”カキンをさげる”であれば、王都から公爵領へ資金を戻すことを意味する。
大量の資金の移動は、盗賊や敵対する何者かに狙われる恐れがある。
そのために、機密と言うほど厳格には管理をしないものの、仮に話を聞かれても、極力理解されないための配慮であった。
エリージェ・ソードルは仕事の量や内容も勿論、エリージェ式の理解度によっても報酬を上げた。
その事が、彼らのやる気をさらに高める要因となり、良い循環が生まれるようになっていた。
――
王都の公爵家には良い流れが出来始めていた。
しかし、元々この女がいた場所であり、問題もそもそも少なかった。
もっとも、”前回”はそれすら落ち着かせるのに半年ほどはかかった。
それが、”今回”は一月ほどで形になりつつあるのだ。
この女が「上々ね」と満足げに頷くのも無理からぬ事だった。
だが、エリージェ・ソードルという女、すぐに気を引き締める。
本当の試練はここからだと知っていたからだ。
「明日、一旦領に戻るわ」
エリージェ・ソードルの突然の発言に、公爵家の使用人の多くがぽかんとした。
だが、さらに驚かせたのは、すでに用意が済んでいることだ。
エリージェ・ソードルは公爵領に向かうことを秘密裏に進めていたのだ。
護衛騎士には流石に伝えていたが、執事の中ではラース・ベンダー、侍女の中では侍女長シンディ・モリタのみで、随伴予定に組み込まれている侍女ミーナ・ウォールにすら知らされていなかった。
用意も別の理由を付けて指示したもので、巧妙に分からないようにしていた。
そこまでするのには理由があった。
それは、父ルーベ・ソードルと義母ミザラ・ソードルのことだ。
エリージェ・ソードルは侍女長シンディ・モリタを執務室に呼び出すと念を押した。
「二人とも遠出をしているから問題ないと思うけど、来ても絶対に中は入れないでね」
さらに、公爵家指輪印入りの命令書まで渡す徹底ぶりだった。
それほど、良い流れになりつつある公爵家に二人を入れたくなかったのだ。
「シンディ、何かあったらわたくし、外道だろうがなんだろうが、進む覚悟はあるのよ。
その事をよく覚えておいて」
その強い言葉と視線に、流石の侍女長シンディ・モリタも苦笑し、「畏まりました」と言うほか無かった。
その代わり、別のことを話し始めた。
「こちらについては、お嬢様の仰るとおりにいたします。
ただ、公爵領の方について一つお願いしたいことがあります」
「何かしら?」
「弟君、マヌエル様についてです」
「ああ……」とエリージェ・ソードルはこの女にしては珍しく、苦笑した。
「あの子の事、すっかり忘れていたわ」
”前回”、あれだけ、躍起になっておきながら、である。
侍女長シンディ・モリタも困ったように笑う。
「仕方がありません。
お嬢様はとてもお忙しくされていましたので。
本来であれば、母君が気にすることなのですが……」
母君とは当然、義母ミザラ・ソードルの事である。
あの女は、気にかける所か、実の子の存在そのものを忘れているのではないかという疑惑すら囁かれている屑である。
侍女長シンディ・モリタは続ける。
「お嬢様、お忙しいとは思いますが、マヌエル様の事も気にかけて差し上げて下さい」
「分かったわ」と頷きつつ、エリージェ・ソードルは顎に手をやり、少し考える。
この女、エリージェ・ソードルは公爵代理である。
そして、前記にもあるが、”前回”のこの時期は多忙を極めた。
腐り、傾きかてている公爵領を必死に立て直そうとしていた。
それこそ、歯を食いしばってだ。
その事もあり、この女、この頃の弟マヌエル・ソードルについての記憶がほとんど無い。
思う存分遊び回りたい義母ミザラ・ソードルが、王都ではなく公爵領に押し込んでいたこともあり、会う機会など数えるほどしかなかったのだ。
それも、仕方がないことだった。
(そういえばあの子、クリスに執着していたわね)
”前回”の事だ。
クリスティーナ・ルルシエを害そうとするこの女に、もっとも攻撃的に反発したのが、弟マヌエル・ソードルであった。
時に、攻撃魔術すら使ってくるほどだった。
実の姉である自分にそこまでするとはよっぽどの事だろう、とエリージェ・ソードルは思った。
もっとも、その姉は並の攻撃魔術よりも悪質な、”黒い霧”を使っていたのだ、お互い様と言うべき話でもあった。
(……よく考えたら、クリスとあの子が恋仲になっても、別に良いわね)
とエリージェ・ソードルは思った。
当たり前である。
弟マヌエル・ソードルとクリスティーナ・ルルシエが恋人になろうが、結婚しようが、姉弟の仲は変わらない。
さらにいえば、仮に二人が結ばれても、弟マヌエル・ソードルが公爵家を継ぐのに変わりは無い。
なので、別段遠くに連れ去られる訳でもないのだ。
普通に考えたら、エリージェ・ソードルが絶望するほどの事でも無かった。
そんなことも気づかないほど、当時のこの女は精神的に異常をきたしていたともいえる。
(今度、そういった話になった場合は、普通に認めてあげても良いわね)
とエリージェ・ソードルは思った。
もちろん、身分差はあるがその辺りは正妻を別に作るとか、やりようはある。
最悪、それを良しとしなくても、そこはソードル家、貴族の中の貴族、王族を除けば最高位の家なのだ。
政略結婚をしなければ立ち回れない、木っ端貴族とは訳が違う。
クリスティーナを一旦、別の貴族の養女にするなど多少の調整は必要かもしれないが、そこまで障害のある婚姻という訳では無いように思えた。
それならそれで、エリージェ・ソードル自身に不都合があるようには思えなかった。
「シンディ、クリスも連れて行くわ」
侍女長シンディ・モリタは目を丸くした。
「お嬢様、ずいぶんあの子にご執心なのですね」
「そうね、将来、妹になるかもしれないし」
「え?
どういうことでしょう?
……まさか、あの子はご主人様の――」
「ああ、ごめんなさい。
違うわよ。
こっちの話」
顔の前で手を振るエリージェ・ソードルを訝しげに見つめていた侍女長シンディ・モリタだったが、話を続ける気がない事を悟ったのか、静かに頭を下げ、了解の意を伝えた。
その様子を眺めていたエリージェ・ソードルは、思い出したように訊ねる。
「ねえシンディ、殿下からの返事は来ているかしら?」
頭を上げた侍女長シンディ・モリタは申し訳なさそうに眉を寄せ、否定した。
「そう、分かったわ」
殿下とは、王子ルードリッヒ・ハイセルの事である。
この女は”今回”、許嫁に対して何通か手紙でのやりとりをしていたが、実際には会えていない。
幼なじみであるオーメスト・リーヴスリーと共に、北東の隣国モンドルへ表敬訪問をしているからだ。
会いたい。
ふと思った。
だがすぐに、その思いを払う。
今は公爵家の正念場である。
この女、ぐっと気を引き締めた。
――
玄関の前に止められた箱馬車を前に、エリージェ・ソードルは振り返ると、その後を着いてきていた厳つい騎士に声をかけた。
「じゃあ、ウルフ坊ちゃん、後のことは頼んだわよ」
そんな言葉に、厳つい騎士――ルマ家騎士団長ウルフ・クリンスマンが顔をひきつらせながら答えた。
「エリージェお嬢様、お嬢様のようなご令嬢に”坊ちゃん”呼びとか、かなりきついので勘弁して下さいよ。
そもそも、それはマテウス・ルマですら、すでに呼ばなくなったものですよ」
「あら、この前お爺様、『あいつはまだまだだ』って仰ってたわよ」
「いや、まだまだとはいえ、”坊ちゃん”からは卒業したというか……。
ホント、許して下さいよ!
”あのこと”は、何度も謝ったじゃないですか!」
”あのこと”とは、ルマ家騎士団長ウルフ・クリンスマンが女騎士ジェシー・レーマーに贈った送別の言葉の事である。
「あら、何の事かしら?
わたくし、”胸くそ悪い”から忘れてしまったわ」
「ほらぁ~」
ルマ家騎士団長ウルフ・クリンスマンとしては、一般的な話をしたつもりで『胸くそ悪い雇い主に、胸くそ悪い扱いを受けるかもしれない』などと言ったのだが、女騎士ジェシー・レーマーの次に仕える相手を知っている彼がそのように言ったことを、エリージェ・ソードルは根に持っていた。
だから、それ以来、顔を合わす度にその事を蒸し返しているのだ。
”前回”も”今回”もだ。
もっとも、この多くの相手に対して冷淡に接するこの女がこのように”意地の悪い”事をするのは、幼い頃に遊んでもらったことのあるウルフ・クリンスマンに対して親近感を持っていたからにほかならない。
「おい、ジェシー!
お前がよけいなことを言ったせいで、お嬢様がヘソを曲げられてしまったじゃないか!」
「いえあのう、良い話をしたつもりだったんですが……」
女騎士ジェシー・レーマーは困ったように眉をハの字にした。
むしろ、自分の尊敬する騎士団長の美談を伝えたつもりだったのだが、まさかこんな事になるとは思いも寄らなかったのである。
「まあ、その話はとりあえず良いわ」とエリージェ・ソードルは、ルマ家騎士団長ウルフ・クリンスマンの腕を手のひらでポンポンと叩いた。
「しばらくの間、ソードルのお屋敷のこと、よろしくね」
ルマ家騎士団長ウルフ・クリンスマンは真剣な顔になると、幼いエリージェ・ソードルに視線を合わせるよう片膝を付き、女の右手を取った。
「柱のぐらついた家ってのは、何が起こるか分かりません。
お嬢様もお気をつけて。
……本当は、付いていきたいぐらいなんですがね」
「ありがとう、ウルフ。
でも、あなたでなければ、ここを守ることは出来ないの。
他家のことに巻き込んでしまって、本当に申し訳ないと思っているけど、お願いね」
本来であれば、公爵領より騎士を呼び寄せそれに守られながら公爵領に向かい、今まで護衛としていた者達に王都の屋敷を守らせるべきだった。
だが今回、この女はそうしなかった。
ルマ家から騎士を借り受け、騎士団長ウルフ・クリンスマンを含む十名の騎士で王都の屋敷を守って貰い、公爵領に向かう護衛として騎士リョウ・モリタを含む公爵家護衛騎士および、ルマ家の騎士五十名を伴うこととした。
こういう布陣にしたのには、二つの理由があった。
一つは父ルーベ・ソードルと義母ミザラ・ソードルの件だ。
エリージェ・ソードルがいない屋敷に二人がやってきた場合、ソードル家の騎士であれば強く追い払うことはやはり難しかった。
その点、対象二人にとっての天敵ともいえる祖父マテウス・ルマの私兵であれば、問題なかった。
特に、武人気質の騎士団長ウルフ・クリンスマンに睨まれれば、所詮小物の二人など脱兎のごとく逃げていくことだろう。
だからこそ、エリージェ・ソードル自身も大いに苦手にしている祖父マテウス・ルマに頼み込んで、借り受けたのだった。
ルマ家騎士団長ウルフ・クリンスマンは厳ついその顔を優しく緩めた。
「何をおっしゃる、お嬢様!
お嬢様のためなら、このウルフ、たとえ火の中、水の中って奴ですよ。
王都のことは閣下とわたしにお任せください」
「ありがとう。
頼りにしているわ」
エリージェ・ソードルはそう頷くと、女騎士ジェシー・レーマーに手を取られながら梯子段から馬車に乗り込んだ。
中にはクリスティーナがにこにこした顔で待っていた。
エリージェ・ソードルはそれに微笑み返すと、席に座る。
そして、進むように指示を出してから、窓から見送るルマ家騎士団長ウルフ・クリンスマンや執事ラース・ベンダー、侍女長シンディ・モリタを含む、使用人に手を振った。
祖父とはいえ、他家から騎士を借りるという恥を忍んでまでしなくてはならないもう一つの理由は、”前回”起きた悲劇が起因する。
エリージェ・ソードルは少し、顔を引き締めた。
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