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第九章
とある子爵のお話1
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ウリ・ダレ子爵は領地持ちの子爵の長男で、亡き祖父に面差しが似ていることから、特に祖母に可愛がられて育った。
その姿勢は徹底されていて、他の姉弟に比べて食事や衣服などで優遇されるのは勿論、遊ぶ時ですら祖母は目を光らせていて、少しでもウリ・ダレ子爵が雑に扱われたら激しい叱責を飛ばした。
特に、姉や妹たちへの当たりは激しく、ウリ・ダレ子爵は折檻を受け、号泣する彼女たちから必死に謝罪される、といった経験を何度も受けて育った。
それに対して、ウリ・ダレ子爵は特に思うことはなかった。
この男はそれが当然だと教えられていたし、むしろ、自分を粗略に扱った事に対する当たり前の報いだと思っていた。
そして、そんな姉妹を庇おうとする母親に対して、不満すら持っていた。
(母様は長男である僕だけを気遣えばよいのに)
そう思っていた。
ところがである。
そんな生活が一変する出来事が立て続けに起きた。
まずは、過保護なほどに甘やかしてくれていた祖母が病のために死んだ。
その数日後、父親が突然、爵位をウリ・ダレ子爵に譲ると言い残すと、妾と共に出奔した。
長年抑圧していた母親が死んだのだから、自由にさせて欲しいという何とも自分勝手な理由に、残された家族は全員絶句した。
そして、ウリ・ダレ子爵、自身の結婚である。
ウリ・ダレ子爵の母親は、跡継ぎである息子の教育する機会を義母に取り上げられていた。
夫である子爵に何度も進言したが、母親に怯えるだけの子爵は『問題ない』を繰り返すだけだった。
そんな中、ようやく自分の手に戻ってきた息子の駄目ぶりに、立ちくらみをすることとなった。
オールマ王国第二の都市フルトにある、名門フルト学院で領主として必要とする知識を学び、卒業したはずの息子は、領運営どころか、手紙一つまともに書けない有様だった。
そのくせ、小ずるいところだけは一人前で、進級や卒業に必要な試験は、貧乏貴族たちに金を握らせたり、イカサマ賭博に嵌めたりして、答案を交換させ突破していたのである。
(とても、領運営などは任せられない)
とウリ・ダレ子爵の母親は頭を抱えたのだった。
かといって、他の息子たちは義母が養子として他家に出してしまっていた。
彼らは総じて利発で、だからこそ、危惧した義母は外に出してしまい、さらにはだからこそ、返して欲しいと言っても断られる可能性の方が高かった。
そこで、ウリ・ダレ子爵の母親は苦肉の策を取った。
曰く、『息子が駄目なら、優秀な嫁に何とかして貰いましょう』である。
妻になる女性が子爵領にやってくる、その、”あまり”の様子に、今度はウリ・ダレ子爵が呆然とした。
彼女の名は、レギーナ・リーヴスリーと言う。
武勇に優れたリーヴスリー家、その分家筋の娘で、ウリ・ダレ子爵の六つ上の二十四歳であった。
貴族の中では年増といって良い年齢だったが、美しい女性であった。
文句なく、美しい女性であった。
ただ、問題は容姿ではなかった。
彼女はまるで武人のような出で立ちをしていた。
鎧や兜こそ付けていなかったが、騎士の軍服に腰には剣すら差していた。
燃えるように赤い長髪を後ろで無造作に縛り、巨大な黒馬にまたがっていた。
そして、ウリ・ダレ子爵の前までやってくると、貴婦人のものからはほど遠いニヤリとした顔で笑い、馬から軽い身のこなしで下りた。
長身で、ウリ・ダレ子爵とほとんど変わらなかった。
しかも、レギーナ・リーヴスリーという女性、”不躾”な事に跪かない。
嫁に貰って”もらう”のだから、膝を突いて頭を垂れるのが当たり前だと思っているウリ・ダレ子爵の、頭から足の先まで眺め、「ふ~ん」とつまらなそうに漏らした。
その態度に、ウリ・ダレ子爵は激怒した。
これからかしずくべき”主人”に対するあまりの無礼な態度に、思い知らせてやろうと、一歩前に踏み出した。
ところがである。
ウリ・ダレ子爵の隣で、一際華やいだ声が聞こえた。
ウリ・ダレ子爵が驚き視線を向けると、自分の母親と姉妹が嬉しげに甲高い声を上げていた。
特に、本来であれば姑として厳しく指摘しないといけない母親などは親しげな笑みをレギーナ・リーヴスリーに向けていた。
そして、長旅を労うと、屋敷の中へと誘った。
レギーナ・リーヴスリーも、ウリ・ダレ子爵に向けたものとは違う、柔らかな表情のままそれに従った。
そして、ぽかんとするウリ・ダレ子爵を放置して、姉妹と談笑しながら中に入っていった。
レギーナ・リーヴスリーはフルト学院をも上回る名門オールマ学院を主席で卒業し、多くの国の機関――特に魔術省、外務省から熱心に働かないかと誘われるほどの才女だった。
特に、外務大臣で国王オリバーの叔父に当たる、パウル・ハイセルからは直接訪問を受け、誘われもした。
これは、例えば名門コッホ家の令嬢で、同じく主席で卒業した、クラウディア・コッホ伯爵夫人でもなかった名誉ある事である。
だが、レギーナ・リーヴスリーという女性、その全てを断った。
名誉に思う気持ちは当然あった。
だが、それを上回る興味が領地運用に向けられていたのだ。
レギーナ・リーヴスリーは出来れば大領地の政務官などで働きたい、そう思っていた。
ただ、国王オリバーの意向もあって、国の施設では男女ともに優秀な人材を登用していた。
ところが、そこから離れた領地ではやはり保守的な考えが根深く、才気あふれる人物とはいえ、女性の採用は忌避されていた。
比較的、女性でも採用しているルマ侯爵領ならとも思ったが、当主マテウス・ルマのその人望の為に武官、文官問わず綺羅星の如く優秀な者が揃うそこに割ってはいるのは、レギーナ・リーヴスリーとて二の足を踏んでいた。
そこに、飛び込んできたのが、ダレ子爵家への嫁入りだった。
元々、レギーナ・リーヴスリーの母親とウリ・ダレ子爵の母親は親友で、双方の悩みが共有されていた。
才女であるが、それ故に嫁に行く様子を見せない娘と、義母の為にろくに勉強せずに過ごした故に領運営など出来そうにない息子について、双方で相談しあった結果、一つの結論に至ったのだ。
それは、『だったら、二人を結婚させてしまおう』というものだった。
レギーナ・リーヴスリーには領運営を、少なくとも子供が出来るまでは任せると確約して誘ったのだ。
これにより、レギーナ・リーヴスリーは小さい領地ながらも領運営を思うがままに出来、レギーナ・リーヴスリーの母親は娘を嫁に出せ、ウリ・ダレ子爵の母親はダレ子爵領を取りあえず守る事が出来、ウリ・ダレ子爵は――まあ、重圧から解放される。
誰もが幸せになる素晴らしい思いつきだと、母親達は手を取り合って喜んだものだった。
そんなこともあり、レギーナ・リーヴスリー改め、妻レギーナ・ダレは婚姻の議を終えた翌日から精力的に動き始めた。
一週間、執務室に籠もり資料を読みふけった後、初めて領に着いた時の騎士の格好で方々に精力的に動いた。
初め、子爵夫人が政務をすると聞かされた使用人や領官は面食らった顔になったが、先代、当代両子爵が”駄目男”だったので、妻レギーナ・ダレの有能さに驚愕し、諸手をあげて歓迎した。
また、女がてらに男勝りの美しい妻レギーナ・ダレは人を引きつける魅力に溢れていて、また、それを使うのが上手く、人々のやる気を引き出し、子爵領全体が活気を帯びた。
ウリ・ダレ子爵の家族との仲も良好で、庭園で母親や姉妹と仲良くお茶を楽しんでいた。
何もかも順風満帆であった。
だが、そんな希望に満ちあふれた子爵領で不満をくすぶらせる者がいた。
ウリ・ダレ子爵である。
この男は別に邪険にされたわけでも、粗略に扱われたわけでも無い。
子爵として、当主として、それなりには立てられた。
だが、それでもなお不満だった。
領官が当主ではなく妻レギーナ・ダレに報告する様子や、使用人達の妻レギーナ・ダレを見るキラキラした目や、姉妹達が妻レギーナ・ダレに甘える姿や、母親が妻レギーナ・ダレを労る姿――妻レギーナ・ダレの絡む全てがひどく気に障った。
(たかが女がぁぁぁ!
夫を立てることもしない女がぁぁぁ!)
自分が女であることを思い知らせてやると、寝台で思う存分腰をぶつけてやったりもした。
だが、不感症なのか、妻レギーナ・ダレは声一つ上げず、醒めた目で見上げてくるだけで、ウリ・ダレ子爵が情けない声を上げながら果てると、さっさと別室に行ってしまった。
男としての矜持を傷つけられたウリ・ダレ子爵は拳を寝台に叩きつけ「あの女ぁぁぁ!」と吠えるのだった。
二人の関係が決定的になったのは、ある日のことだ。
その日は前日の深酒が祟ってか、頭痛が酷く、昼になってようやく起きてきたウリ・ダレ子爵は不機嫌そうな顔を隠しもせず、それでも来客があるために起きだし館を歩いていた。
すると、ふと自分の名前を呼ばれた気がした。
視線を向けると、あの妻レギーナ・ダレが姉妹達とお茶をしている姿が見えた。
何がおかしいのか、皆が笑っていて、妹などは令嬢にあるまじき有様で、口を大きく開けて、涙を流しながら妻レギーナ・ダレの腕を叩いている。
そんな様子に妻レギーナ・ダレは口元をニヤリとさせていた。
(こいつらは……。
たかだか女のこいつらは、俺の事を笑っているのか?)
ウリ・ダレ子爵は頭が怒りのために白く煤けるのを感じた。
瞬間、ウリ・ダレ子爵は雄叫びをあげていた。
そして、驚き目を見開く姉妹と、目を丸くする妻レギーナ・ダレの元に駆け出すと、憎き女に掴みかかった――。
ところで、妻レギーナ・ダレは実の所、リーヴスリー家では余り評価をされていなかった。
リーヴスリー家は武勇を尊ぶ。
有り体に言えば、武勇”のみ”尊ぶ。
故に、学問に関しては、”たしなみ”程度で良いとしていた。
その、剣術を中心とした武術とそれを補助する攻撃系魔術が最優先という偏りすぎる考え方をしている故に、多くの偉人を輩出しているにも関わらず、中級貴族にとどまっている所以となっていた。
そんな中で、妻レギーナ・ダレの立ち位置は、『武術の才に恵まれず、それでも、学問で頑張る健気な女の子』というものだった。
そんな生温かい視線から逃れたいが為に、リーヴスリー伯爵領で働くことを早々に除外したのであった。
そんな、武の才無き女性、妻レギーナ・ダレが、どちらかというと魔術師より騎士の育成に力を入れている名門フルト学院を卒業した男、ウリ・ダレ子爵に掴みかかられたのである。
どのような結末を迎えるかは火を見るより明らか――”だった”はずだった。
飛びかかるように掴みかかったウリ・ダレ子爵の手は宙を掻き、「げほぉ!?」と妙な声を上げながら腹部から体を折った。
そこには、ウリ・ダレ子爵の突進をかわした妻レギーナ・ダレの拳が突き刺さっていた。
才が無かろうが何だろうが、妻レギーナ・ダレは武狂いのリーヴスリー一族で育てられた女性、学院で真面目に過ごしてこなかった男程度では全く話にはならなかった。
さらには、幼い頃から騎士道精神を刷り込まれて来た妻レギーナ・ダレは、ウリ・ダレ子爵の、力で妻をねじ伏せようとする態度には看過出来ない。
怒りに顔を染めた妻レギーナ・ダレは、崩れ落ちそうになるウリ・ダレ子爵の胸ぐらを掴みそれを止めると、右手を大きく振り上げた。
「女に暴力を振るうとは――何事だぁぁぁ」
振り下ろされた手のひらが頬に炸裂すると乾いた音とともに顔が反れ、ウリ・ダレ子爵は吹っ飛んだ。
体が地面に落ちても勢いは止まらず、二回ほどは転がることとなった……。
――この事は、流石のウリ・ダレ子爵の母親も見過ごすことは出来なかったようで、ウリ・ダレ子爵はもちろんの事、妻レギーナ・ダレも注意を受けた。
だが、母親以外の態度が急激に変わることとなる。
姉妹がウリ・ダレ子爵に対して馬鹿にするような視線を送るようになっていった。
姉妹だけでなく、特に侍女だが使用人達の視線が嘲りを含むようになっていった。
それを指摘し叱ると、そのことが妻レギーナ・ダレに知れ渡り、頭ごなしに怒鳴られた。
そして、何よりもウリ・ダレ子爵の自尊心を傷つけたのは、閨での事だ。
行為時の上下が入れ替わったのである。
もう覆い被さるのを許すほど信用ならないとか何とか言われ、寝台の上に無理矢理仰向けに寝かされると、上に乗られたのだ。
そして、下半身を好き勝手にされた。
その様子はまるで自分が犯されているようで、「止めろ! 止めろ!」と抵抗した。
だが、軽くいなされた。
寝間着をはがされると、両手は妻レギーナ・ダレの右手で拘束され、頭の上に押さえ込まれた。
そして、もう片方の手で顔を固定されると、妻レギーナ・ダレに腰を緩急をつけながら振られ下半身をこれでもかというように責められた。
ウリ・ダレ子爵は「ひゃぁ、ひゃぁ!」とかいう奇っ怪な声を上げながら首を振るも、それはますます強くなった。
そして、惨めったらしく事が終わった。
呆然とするウリ・ダレ子爵に妻レギーナ・ダレが囁く。
「今日はなかなか良かったわよ」
そして、妻レギーナ・ダレはいつものように別室に出て行く。
屈辱だった。
上に乗られたのもそうだが――何よりも屈辱的だったのは、いつもより早く”果てた”ことが悔しかった。
ウリ・ダレ子爵は寝台の上で小さく丸まると、ボロボロと涙をこぼした。
さらに、ウリ・ダレ子爵の立場が悪化する出来事が起きる。
妻レギーナ・ダレが身ごもったのである。
これには、ウリ・ダレ子爵の母は歓声を上げた。
さらに生まれた子供が男子だった事で、震えるほど狂喜した。
そして、妻レギーナ・ダレと孫を殊の外、大事にし始めた。
妻レギーナ・ダレを嫁に選び、ウリ・ダレ子爵の立場を悪化させた張本人であったが、それでも、唯一、ウリ・ダレ子爵を気遣い、『今からでも遅くはない』と奮起を促していた母親が――孫の誕生に舞い上がった。
ウリ・ダレ子爵の居場所がますます無くなった。
次期子爵の誕生に喜ぶ領民は、『子爵婦人様万歳!』『次期子爵万歳!』”のみ”声を上げた。
周辺の領持ち貴族からは子爵夫人、次期子爵宛に贈り物が届いた。
新生子爵領の若き重鎮達とやらに嫁いだ姉妹は、暇を見つけてはやってきて、妻レギーナ・ダレと息子の周りでキャッキャ! と声を上げている。
諫めるべき母親は、「おばあちゃまですよぉ~」などと、だらしがない顔で孫を抱き上げている。
そんな中、ウリ・ダレ子爵は部屋の真ん中でぽつんと座る自身が居たたまれなくなり、自室に逃げる事が多くなった。
そして、ついには荷物をまとめると王都の別館に駆け込むこととなった。
その姿勢は徹底されていて、他の姉弟に比べて食事や衣服などで優遇されるのは勿論、遊ぶ時ですら祖母は目を光らせていて、少しでもウリ・ダレ子爵が雑に扱われたら激しい叱責を飛ばした。
特に、姉や妹たちへの当たりは激しく、ウリ・ダレ子爵は折檻を受け、号泣する彼女たちから必死に謝罪される、といった経験を何度も受けて育った。
それに対して、ウリ・ダレ子爵は特に思うことはなかった。
この男はそれが当然だと教えられていたし、むしろ、自分を粗略に扱った事に対する当たり前の報いだと思っていた。
そして、そんな姉妹を庇おうとする母親に対して、不満すら持っていた。
(母様は長男である僕だけを気遣えばよいのに)
そう思っていた。
ところがである。
そんな生活が一変する出来事が立て続けに起きた。
まずは、過保護なほどに甘やかしてくれていた祖母が病のために死んだ。
その数日後、父親が突然、爵位をウリ・ダレ子爵に譲ると言い残すと、妾と共に出奔した。
長年抑圧していた母親が死んだのだから、自由にさせて欲しいという何とも自分勝手な理由に、残された家族は全員絶句した。
そして、ウリ・ダレ子爵、自身の結婚である。
ウリ・ダレ子爵の母親は、跡継ぎである息子の教育する機会を義母に取り上げられていた。
夫である子爵に何度も進言したが、母親に怯えるだけの子爵は『問題ない』を繰り返すだけだった。
そんな中、ようやく自分の手に戻ってきた息子の駄目ぶりに、立ちくらみをすることとなった。
オールマ王国第二の都市フルトにある、名門フルト学院で領主として必要とする知識を学び、卒業したはずの息子は、領運営どころか、手紙一つまともに書けない有様だった。
そのくせ、小ずるいところだけは一人前で、進級や卒業に必要な試験は、貧乏貴族たちに金を握らせたり、イカサマ賭博に嵌めたりして、答案を交換させ突破していたのである。
(とても、領運営などは任せられない)
とウリ・ダレ子爵の母親は頭を抱えたのだった。
かといって、他の息子たちは義母が養子として他家に出してしまっていた。
彼らは総じて利発で、だからこそ、危惧した義母は外に出してしまい、さらにはだからこそ、返して欲しいと言っても断られる可能性の方が高かった。
そこで、ウリ・ダレ子爵の母親は苦肉の策を取った。
曰く、『息子が駄目なら、優秀な嫁に何とかして貰いましょう』である。
妻になる女性が子爵領にやってくる、その、”あまり”の様子に、今度はウリ・ダレ子爵が呆然とした。
彼女の名は、レギーナ・リーヴスリーと言う。
武勇に優れたリーヴスリー家、その分家筋の娘で、ウリ・ダレ子爵の六つ上の二十四歳であった。
貴族の中では年増といって良い年齢だったが、美しい女性であった。
文句なく、美しい女性であった。
ただ、問題は容姿ではなかった。
彼女はまるで武人のような出で立ちをしていた。
鎧や兜こそ付けていなかったが、騎士の軍服に腰には剣すら差していた。
燃えるように赤い長髪を後ろで無造作に縛り、巨大な黒馬にまたがっていた。
そして、ウリ・ダレ子爵の前までやってくると、貴婦人のものからはほど遠いニヤリとした顔で笑い、馬から軽い身のこなしで下りた。
長身で、ウリ・ダレ子爵とほとんど変わらなかった。
しかも、レギーナ・リーヴスリーという女性、”不躾”な事に跪かない。
嫁に貰って”もらう”のだから、膝を突いて頭を垂れるのが当たり前だと思っているウリ・ダレ子爵の、頭から足の先まで眺め、「ふ~ん」とつまらなそうに漏らした。
その態度に、ウリ・ダレ子爵は激怒した。
これからかしずくべき”主人”に対するあまりの無礼な態度に、思い知らせてやろうと、一歩前に踏み出した。
ところがである。
ウリ・ダレ子爵の隣で、一際華やいだ声が聞こえた。
ウリ・ダレ子爵が驚き視線を向けると、自分の母親と姉妹が嬉しげに甲高い声を上げていた。
特に、本来であれば姑として厳しく指摘しないといけない母親などは親しげな笑みをレギーナ・リーヴスリーに向けていた。
そして、長旅を労うと、屋敷の中へと誘った。
レギーナ・リーヴスリーも、ウリ・ダレ子爵に向けたものとは違う、柔らかな表情のままそれに従った。
そして、ぽかんとするウリ・ダレ子爵を放置して、姉妹と談笑しながら中に入っていった。
レギーナ・リーヴスリーはフルト学院をも上回る名門オールマ学院を主席で卒業し、多くの国の機関――特に魔術省、外務省から熱心に働かないかと誘われるほどの才女だった。
特に、外務大臣で国王オリバーの叔父に当たる、パウル・ハイセルからは直接訪問を受け、誘われもした。
これは、例えば名門コッホ家の令嬢で、同じく主席で卒業した、クラウディア・コッホ伯爵夫人でもなかった名誉ある事である。
だが、レギーナ・リーヴスリーという女性、その全てを断った。
名誉に思う気持ちは当然あった。
だが、それを上回る興味が領地運用に向けられていたのだ。
レギーナ・リーヴスリーは出来れば大領地の政務官などで働きたい、そう思っていた。
ただ、国王オリバーの意向もあって、国の施設では男女ともに優秀な人材を登用していた。
ところが、そこから離れた領地ではやはり保守的な考えが根深く、才気あふれる人物とはいえ、女性の採用は忌避されていた。
比較的、女性でも採用しているルマ侯爵領ならとも思ったが、当主マテウス・ルマのその人望の為に武官、文官問わず綺羅星の如く優秀な者が揃うそこに割ってはいるのは、レギーナ・リーヴスリーとて二の足を踏んでいた。
そこに、飛び込んできたのが、ダレ子爵家への嫁入りだった。
元々、レギーナ・リーヴスリーの母親とウリ・ダレ子爵の母親は親友で、双方の悩みが共有されていた。
才女であるが、それ故に嫁に行く様子を見せない娘と、義母の為にろくに勉強せずに過ごした故に領運営など出来そうにない息子について、双方で相談しあった結果、一つの結論に至ったのだ。
それは、『だったら、二人を結婚させてしまおう』というものだった。
レギーナ・リーヴスリーには領運営を、少なくとも子供が出来るまでは任せると確約して誘ったのだ。
これにより、レギーナ・リーヴスリーは小さい領地ながらも領運営を思うがままに出来、レギーナ・リーヴスリーの母親は娘を嫁に出せ、ウリ・ダレ子爵の母親はダレ子爵領を取りあえず守る事が出来、ウリ・ダレ子爵は――まあ、重圧から解放される。
誰もが幸せになる素晴らしい思いつきだと、母親達は手を取り合って喜んだものだった。
そんなこともあり、レギーナ・リーヴスリー改め、妻レギーナ・ダレは婚姻の議を終えた翌日から精力的に動き始めた。
一週間、執務室に籠もり資料を読みふけった後、初めて領に着いた時の騎士の格好で方々に精力的に動いた。
初め、子爵夫人が政務をすると聞かされた使用人や領官は面食らった顔になったが、先代、当代両子爵が”駄目男”だったので、妻レギーナ・ダレの有能さに驚愕し、諸手をあげて歓迎した。
また、女がてらに男勝りの美しい妻レギーナ・ダレは人を引きつける魅力に溢れていて、また、それを使うのが上手く、人々のやる気を引き出し、子爵領全体が活気を帯びた。
ウリ・ダレ子爵の家族との仲も良好で、庭園で母親や姉妹と仲良くお茶を楽しんでいた。
何もかも順風満帆であった。
だが、そんな希望に満ちあふれた子爵領で不満をくすぶらせる者がいた。
ウリ・ダレ子爵である。
この男は別に邪険にされたわけでも、粗略に扱われたわけでも無い。
子爵として、当主として、それなりには立てられた。
だが、それでもなお不満だった。
領官が当主ではなく妻レギーナ・ダレに報告する様子や、使用人達の妻レギーナ・ダレを見るキラキラした目や、姉妹達が妻レギーナ・ダレに甘える姿や、母親が妻レギーナ・ダレを労る姿――妻レギーナ・ダレの絡む全てがひどく気に障った。
(たかが女がぁぁぁ!
夫を立てることもしない女がぁぁぁ!)
自分が女であることを思い知らせてやると、寝台で思う存分腰をぶつけてやったりもした。
だが、不感症なのか、妻レギーナ・ダレは声一つ上げず、醒めた目で見上げてくるだけで、ウリ・ダレ子爵が情けない声を上げながら果てると、さっさと別室に行ってしまった。
男としての矜持を傷つけられたウリ・ダレ子爵は拳を寝台に叩きつけ「あの女ぁぁぁ!」と吠えるのだった。
二人の関係が決定的になったのは、ある日のことだ。
その日は前日の深酒が祟ってか、頭痛が酷く、昼になってようやく起きてきたウリ・ダレ子爵は不機嫌そうな顔を隠しもせず、それでも来客があるために起きだし館を歩いていた。
すると、ふと自分の名前を呼ばれた気がした。
視線を向けると、あの妻レギーナ・ダレが姉妹達とお茶をしている姿が見えた。
何がおかしいのか、皆が笑っていて、妹などは令嬢にあるまじき有様で、口を大きく開けて、涙を流しながら妻レギーナ・ダレの腕を叩いている。
そんな様子に妻レギーナ・ダレは口元をニヤリとさせていた。
(こいつらは……。
たかだか女のこいつらは、俺の事を笑っているのか?)
ウリ・ダレ子爵は頭が怒りのために白く煤けるのを感じた。
瞬間、ウリ・ダレ子爵は雄叫びをあげていた。
そして、驚き目を見開く姉妹と、目を丸くする妻レギーナ・ダレの元に駆け出すと、憎き女に掴みかかった――。
ところで、妻レギーナ・ダレは実の所、リーヴスリー家では余り評価をされていなかった。
リーヴスリー家は武勇を尊ぶ。
有り体に言えば、武勇”のみ”尊ぶ。
故に、学問に関しては、”たしなみ”程度で良いとしていた。
その、剣術を中心とした武術とそれを補助する攻撃系魔術が最優先という偏りすぎる考え方をしている故に、多くの偉人を輩出しているにも関わらず、中級貴族にとどまっている所以となっていた。
そんな中で、妻レギーナ・ダレの立ち位置は、『武術の才に恵まれず、それでも、学問で頑張る健気な女の子』というものだった。
そんな生温かい視線から逃れたいが為に、リーヴスリー伯爵領で働くことを早々に除外したのであった。
そんな、武の才無き女性、妻レギーナ・ダレが、どちらかというと魔術師より騎士の育成に力を入れている名門フルト学院を卒業した男、ウリ・ダレ子爵に掴みかかられたのである。
どのような結末を迎えるかは火を見るより明らか――”だった”はずだった。
飛びかかるように掴みかかったウリ・ダレ子爵の手は宙を掻き、「げほぉ!?」と妙な声を上げながら腹部から体を折った。
そこには、ウリ・ダレ子爵の突進をかわした妻レギーナ・ダレの拳が突き刺さっていた。
才が無かろうが何だろうが、妻レギーナ・ダレは武狂いのリーヴスリー一族で育てられた女性、学院で真面目に過ごしてこなかった男程度では全く話にはならなかった。
さらには、幼い頃から騎士道精神を刷り込まれて来た妻レギーナ・ダレは、ウリ・ダレ子爵の、力で妻をねじ伏せようとする態度には看過出来ない。
怒りに顔を染めた妻レギーナ・ダレは、崩れ落ちそうになるウリ・ダレ子爵の胸ぐらを掴みそれを止めると、右手を大きく振り上げた。
「女に暴力を振るうとは――何事だぁぁぁ」
振り下ろされた手のひらが頬に炸裂すると乾いた音とともに顔が反れ、ウリ・ダレ子爵は吹っ飛んだ。
体が地面に落ちても勢いは止まらず、二回ほどは転がることとなった……。
――この事は、流石のウリ・ダレ子爵の母親も見過ごすことは出来なかったようで、ウリ・ダレ子爵はもちろんの事、妻レギーナ・ダレも注意を受けた。
だが、母親以外の態度が急激に変わることとなる。
姉妹がウリ・ダレ子爵に対して馬鹿にするような視線を送るようになっていった。
姉妹だけでなく、特に侍女だが使用人達の視線が嘲りを含むようになっていった。
それを指摘し叱ると、そのことが妻レギーナ・ダレに知れ渡り、頭ごなしに怒鳴られた。
そして、何よりもウリ・ダレ子爵の自尊心を傷つけたのは、閨での事だ。
行為時の上下が入れ替わったのである。
もう覆い被さるのを許すほど信用ならないとか何とか言われ、寝台の上に無理矢理仰向けに寝かされると、上に乗られたのだ。
そして、下半身を好き勝手にされた。
その様子はまるで自分が犯されているようで、「止めろ! 止めろ!」と抵抗した。
だが、軽くいなされた。
寝間着をはがされると、両手は妻レギーナ・ダレの右手で拘束され、頭の上に押さえ込まれた。
そして、もう片方の手で顔を固定されると、妻レギーナ・ダレに腰を緩急をつけながら振られ下半身をこれでもかというように責められた。
ウリ・ダレ子爵は「ひゃぁ、ひゃぁ!」とかいう奇っ怪な声を上げながら首を振るも、それはますます強くなった。
そして、惨めったらしく事が終わった。
呆然とするウリ・ダレ子爵に妻レギーナ・ダレが囁く。
「今日はなかなか良かったわよ」
そして、妻レギーナ・ダレはいつものように別室に出て行く。
屈辱だった。
上に乗られたのもそうだが――何よりも屈辱的だったのは、いつもより早く”果てた”ことが悔しかった。
ウリ・ダレ子爵は寝台の上で小さく丸まると、ボロボロと涙をこぼした。
さらに、ウリ・ダレ子爵の立場が悪化する出来事が起きる。
妻レギーナ・ダレが身ごもったのである。
これには、ウリ・ダレ子爵の母は歓声を上げた。
さらに生まれた子供が男子だった事で、震えるほど狂喜した。
そして、妻レギーナ・ダレと孫を殊の外、大事にし始めた。
妻レギーナ・ダレを嫁に選び、ウリ・ダレ子爵の立場を悪化させた張本人であったが、それでも、唯一、ウリ・ダレ子爵を気遣い、『今からでも遅くはない』と奮起を促していた母親が――孫の誕生に舞い上がった。
ウリ・ダレ子爵の居場所がますます無くなった。
次期子爵の誕生に喜ぶ領民は、『子爵婦人様万歳!』『次期子爵万歳!』”のみ”声を上げた。
周辺の領持ち貴族からは子爵夫人、次期子爵宛に贈り物が届いた。
新生子爵領の若き重鎮達とやらに嫁いだ姉妹は、暇を見つけてはやってきて、妻レギーナ・ダレと息子の周りでキャッキャ! と声を上げている。
諫めるべき母親は、「おばあちゃまですよぉ~」などと、だらしがない顔で孫を抱き上げている。
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