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第九章
自分の領地
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空気を切り裂く音、そして、皮膚を弾く音が響く。
一度、二度、三度、そのたびに「ひぃぎゃっ!」「うぎぃっ!」「ぐぁ~!」という悲痛な声が辺りに響く。
その凄惨さは、多くの者が視線を外すに足りるものだろう。
だが、それを傲然と見つめる女がいた。
エリージェ・ソードルである。
この女、クリスティーナが以前いた屋敷の主人、ラインハルト・マガド男爵と結んだ契約を履行するために男爵領に寄ったのだが……。
男爵邸に向かう最中、”自分”の領民をいたぶっているならず者を見つけた。
余りのことに頭に来たこの女、一味らしき輩を騎士に捕らえさせると、騎士ギド・ザクスに首謀者らしき”男”を、その男が持っていた鞭で打たせたのであった。
エリージェ・ソードルは、男が「いだいよぉ~いだいよぉ~」と子供みたいに泣き出した所で、騎士ギド・ザクスを止めた。
そして、その男を近くに連れてくるように指示を出した。
騎士ギド・ザクスは男の髪を掴むと、引きずることでその指示を履行した。
エリージェ・ソードルは、騎士達が用意した携帯用の椅子に座る。
女騎士ジェシー・レーマーは鞭で打たれていた女性の手当の為に離れていて、代わりにルマ家騎士レネ・フートが女のそばに立った。
従者ザンドラ・フクリュウが近づいてきてエリージェ・ソードルに耳打ちをする。
「お嬢様、馬車にはダレ子爵の家紋が描かれてました」
「そう」と答えた女は、男をギロリと睨んだ。
「あなた、ダレ子爵で間違いないのかしら?」
「ひぃ!
は、はい!」
膝を地に着き怯えきった男――ウリ・ダレ子爵はガクガクと頭を縦に振った。
「あらそう?」と言うエリージェ・ソードルの目がさらに険しくなっていく。
「で?
そのダレ子爵が、”わたくし”の領民をいたぶっていた理由を教えてくれるかしら?」
「ま、待ってください」と言いつつ、ウリ・ダレ子爵は騎士ギド・ザクスを見ながら答える。
「ルマ……いや、ソードル令嬢、でよろしいですか!?
とにかく、ご令嬢!
ここはわたしの領地です!」
因みにだが、双方の言共々間違っている。
エリージェ・ソードルがラインハルト・マガド男爵と契約した内容は、『ラインハルト・マガド男爵の引退とマガド領の次期当主の任命権をソードル家に譲渡する』というもので、ウリ・ダレ子爵が契約した内容は『三十年間の利益を譲渡する』というものに過ぎない。
だが、身勝手なこの二人は、すっかり自分の領だと思いこんでいた。
エリージェ・ソードルは片眉を跳ね上げると、騎士ギド・ザクスを見て端的に言った。
「ギド、殴って」
「へい!」
鈍い音が響き、顎を押さえたウリ・ダレ子爵が「いてぇ~いてぇ~」と転げ回る。
だが、周りで成り行きを見守っている村民からは当然、哀れにの視線は飛んでこない。
むしろ、『ざまあみろ』といった強い視線ばかりが泣き叫ぶウリ・ダレ子爵に突き刺さっていた。
村民のそんな表情と、そのやつれた様子を見て、ずいぶん長い間やりたい放題だったのだと、エリージェ・ソードルは察した。
そこに、男の声が聞こえてきた。
「ソードル令嬢様、発言の機会を頂けませんでしょうか?」
エリージェ・ソードルが視線を向けると、下級程度であるが貴族の装いをした男が膝を突き、頭を垂れていた。
「いいでしょう」
と女が答えると、ウリ・ダレ子爵よりは幾分知的そうな男が、柔らかな笑みを浮かべて「ありがとうございます」と立ち上がった。
「ソードル令嬢様、お互いどうやら行き違いが発生しているように思われます。
確認させて頂きますが、ソードル公爵家はこの地、マガド領を治める契約をされている――そういうことでしょうか?」
「その通りね」
その貴族の装いの男は困ったように笑みを浮かべ、首を横に振った。
「実は、ここにいるダレ子爵も領の三十年間の利益を得る契約を結んでおりまして……。
いやはや、マガド男爵は本当にいい加減なことを――」
「で?」
「!?」
エリージェ・ソードルの冷たい問いに、貴族の装いの男はビクリと震えた。
だが、それを必死で取り繕うように笑みを濃くして続ける。
「ソ、ソードル令嬢様もご存じの通り、契約が被ってしまった場合は、先に契約した方が有効であるというのが通例でして、そのぉ――」
「いつに契約したのかしら?」
「!?
ハハ、あのう、正確にはあれですが、二年ほど前になりますか……」
因みに、エリージェ・ソードルがした契約は、二ヶ月前ぐらいである。
「……」
エリージェ・ソードルは閉じた扇子の先を顎に当て、少し考える。
そして、言った。
「その契約書を見せてみなさい」
「は、はい!」
貴族の装いの男は近くにおいてある鞄を掴むと、その中から羊皮紙を取り出した。
そして、エリージェ・ソードルの元まで持って行こうとした。
それを、前に出た騎士ギド・ザクスが一睨みで止めると、それを受け取り、毒物が付いてないか検分する。
それを終えると、女の前に恭しく広げた。
それに視線を向けたエリージェ・ソードルは少し目を細めた。
「お嬢様」
肩越しから声が聞こえ、視線を向ければ、従者ザンドラ・フクリュウが無表情のまま囁いた。
「”本物”です」
「そう」
そして、視線を再度契約書に向ける。
本物……そう、本物だ。
平民ならいざ知らず、貴族の契約書は本来、貴族院の担当部署に預けられる。
それは、扱う規模や金額が桁違いであるので、力ずくで契約を破棄しようとする事を防ぐためでもある。
そして、持ち歩くのは大体の場合、貴族院から発行される契約書控えのはずなのだが……。
小狡いだけで、貴族としてまともにやってこなかったウリ・ダレ子爵らはそんな常識も知らずに、無防備にも契約書を持って歩いていたのだ。
エリージェ・ソードルは騎士ギド・ザクスに契約書を”ウリ・ダレ子爵”へと返すよう指示を出すと、頬に右手を置き、無表情ながら申し訳なさそうな”風”に言った。
「ダレ子爵、申し訳ないわね」
ウリ・ダレ子爵はホッとした顔で契約書を受け取ると、「いえいえ、分かっていただけたのなら」とか言いながら、契約書を貴族の装いの男に渡した。
エリージェ・ソードルは騎士ギド・ザクスに言う。
「あらギド、ダレ子爵が契約書を奪われているわ。
取り返して差し上げて」
「は?」
ウリ・ダレ子爵と貴族の装いの男はポカンとした顔になる。
騎士ギド・ザクスも困惑した顔になったが、従者ザンドラ・フクリュウに「騎士の仕事ですよ!」と言われて、慌てて動く。
そして、「ま、待って!」という貴族の装いの男の顔面に拳を叩き込んだ。
貴族の装いの男は鼻から赤い物を吹き出しながら、地面に体を叩きつけられる。
騎士ギド・ザクスはピクピクと痙攣する貴族の装いの男から、契約書を”取り返すと”、エリージェ・ソードルの様子を伺いつつ、呆然とするウリ・ダレ子爵にそれを突きだした。
そこに、エリージェ・ソードルはもう一度言葉をかける。
「ダレ子爵、申し訳ないわね」
膝を地に突いたままガタガタ震えるウリ・ダレ子爵は「あの? その?」と言うだけで”何も”しない。
そんな様子に、エリージェ・ソードルは少し眉をしかめ、視線を従者ザンドラ・フクリュウに向けて訊ねた。
「ところで、ぜんぜん関係ない質問なんだけど。
契約を破棄する場合は、どうしたら良いのかしら?」
それに対して、従者ザンドラ・フクリュウはにっこりと微笑みながら答える。
「契約内容にもよりますが、利権を得る者が『契約を破棄する』と言って契約書を燃やすのが一番簡単なやり方かと」
「成る程、所で少し寒いわね」
と言いながら、ちらりと村民に視線を向ける。
突然向けられた視線にビクっとした村民の男やその知人らしき者達が「それは気を使いませんで!」などと言いながら薪やら火種を準備し始めた。
因みに、焚き火が用意されたのは村民が空気を読んだのか――初夏なのに寒いと評したエリージェ・ソードルのそばでなく、ウリ・ダレ子爵のすぐ隣であった。
さすがにここまでされれば分かるだろう。
この女は、ウリ・ダレ子爵に契約を破棄するように言っているのだ。
「そ、そんな、ソードル令嬢!」
などと怯え、地面に両手を突きながらも、まだ”言い通そう”とするウリ・ダレ子爵に、女が先ほどより強く眉をしかめると、ルマ家騎士レネ・フートがふらりと前に出た。
そして、どことなく気の抜けた声で「あ、よろめいた」と言った。
ウリ・ダレ子爵の悲鳴が上がる。
当然だ。
地面に手を突いていた左手、その手の甲にルマ家騎士レネ・フートの――騎士用の強固な靴、その踵がめり込んでいるのだ。
「うぉぉぉ!」などと声を上げながら、右手で手首を掴み、地に頬をすり付けながら絶叫しても仕方がなかった。
「ああ、子爵。
申し訳ない。
昨日の深酒が祟ったようで、立ちくらみが起きた」
などと言いながらも、ルマ家騎士レネ・フートは一切退こうとしない。
ウリ・ダレ子爵が足をバタバタさせながら痛がっているのにも頓着せず、むしろ、踏みにじるように足を動かした。
そんな様子に、騎士ギド・ザクスが厳つい顔を心配そうにさせながら近寄っていく。
「大丈夫ですか?
子爵様?
立てますかな?」
そして、ウリ・ダレ子爵の踏みにじられている左手の――その親指の爪を摘むと、引っ張った。
「うぎゃぁぁぁ!」という声と共に、親指から赤い液体がボコボコと溢れ出る。
「おや、立てませんか?」「おや?」「おや?」
などと言いながら、人差し指、中指、薬指の爪が剥がれていく。
「やめでぇ!
ばかったぁ!
ばかりまじだぁ!
はぎぢまずぅぅぅ!」
耐えきれなくなったのか、ウリ・ダレ子爵は叫んだ。
ようやく立ちくらみが収まったのか、ルマ家騎士レネ・フートの足がウリ・ダレ子爵の左手から離れた。
服を土で汚し転がるウリ・ダレ子爵は左手首を掴みながらしばらく嗚咽を上げていた。
そして、涙と鼻水と泥にまみれた顔を上げると、エリージェ・ソードルを恨めしそうに見上げながら言った。
「ごんな……。
理不尽が、許されて、だばるがぁ……」
そんな男を取り囲む村民も、ソードル騎士も、ルマ家騎士も……。
しらけた目で見ていた。
エリージェ・ソードルだけは、少し不可解そうな顔でウリ・ダレ子爵を見た。
「あら、でもあなたは村民に理不尽なことをしていたんじゃないの?」
「ぞ、ぞれは……。
わだじは貴族で……」
エリージェ・ソードルは扇子で自身の肩を叩きながら小首を捻った。
「だったら、大貴族が小貴族をいたぶっても、問題ないじゃないの?」
「ぞ、ぞれは……」
言いよどむウリ・ダレ子爵に対して、エリージェ・ソードルは面倒くさそうに扇子を振った。
騎士ギド・ザクスが落ちていた契約書を拾い、改めてウリ・ダレ子爵の右手に掴ませた。
一度、二度、三度、そのたびに「ひぃぎゃっ!」「うぎぃっ!」「ぐぁ~!」という悲痛な声が辺りに響く。
その凄惨さは、多くの者が視線を外すに足りるものだろう。
だが、それを傲然と見つめる女がいた。
エリージェ・ソードルである。
この女、クリスティーナが以前いた屋敷の主人、ラインハルト・マガド男爵と結んだ契約を履行するために男爵領に寄ったのだが……。
男爵邸に向かう最中、”自分”の領民をいたぶっているならず者を見つけた。
余りのことに頭に来たこの女、一味らしき輩を騎士に捕らえさせると、騎士ギド・ザクスに首謀者らしき”男”を、その男が持っていた鞭で打たせたのであった。
エリージェ・ソードルは、男が「いだいよぉ~いだいよぉ~」と子供みたいに泣き出した所で、騎士ギド・ザクスを止めた。
そして、その男を近くに連れてくるように指示を出した。
騎士ギド・ザクスは男の髪を掴むと、引きずることでその指示を履行した。
エリージェ・ソードルは、騎士達が用意した携帯用の椅子に座る。
女騎士ジェシー・レーマーは鞭で打たれていた女性の手当の為に離れていて、代わりにルマ家騎士レネ・フートが女のそばに立った。
従者ザンドラ・フクリュウが近づいてきてエリージェ・ソードルに耳打ちをする。
「お嬢様、馬車にはダレ子爵の家紋が描かれてました」
「そう」と答えた女は、男をギロリと睨んだ。
「あなた、ダレ子爵で間違いないのかしら?」
「ひぃ!
は、はい!」
膝を地に着き怯えきった男――ウリ・ダレ子爵はガクガクと頭を縦に振った。
「あらそう?」と言うエリージェ・ソードルの目がさらに険しくなっていく。
「で?
そのダレ子爵が、”わたくし”の領民をいたぶっていた理由を教えてくれるかしら?」
「ま、待ってください」と言いつつ、ウリ・ダレ子爵は騎士ギド・ザクスを見ながら答える。
「ルマ……いや、ソードル令嬢、でよろしいですか!?
とにかく、ご令嬢!
ここはわたしの領地です!」
因みにだが、双方の言共々間違っている。
エリージェ・ソードルがラインハルト・マガド男爵と契約した内容は、『ラインハルト・マガド男爵の引退とマガド領の次期当主の任命権をソードル家に譲渡する』というもので、ウリ・ダレ子爵が契約した内容は『三十年間の利益を譲渡する』というものに過ぎない。
だが、身勝手なこの二人は、すっかり自分の領だと思いこんでいた。
エリージェ・ソードルは片眉を跳ね上げると、騎士ギド・ザクスを見て端的に言った。
「ギド、殴って」
「へい!」
鈍い音が響き、顎を押さえたウリ・ダレ子爵が「いてぇ~いてぇ~」と転げ回る。
だが、周りで成り行きを見守っている村民からは当然、哀れにの視線は飛んでこない。
むしろ、『ざまあみろ』といった強い視線ばかりが泣き叫ぶウリ・ダレ子爵に突き刺さっていた。
村民のそんな表情と、そのやつれた様子を見て、ずいぶん長い間やりたい放題だったのだと、エリージェ・ソードルは察した。
そこに、男の声が聞こえてきた。
「ソードル令嬢様、発言の機会を頂けませんでしょうか?」
エリージェ・ソードルが視線を向けると、下級程度であるが貴族の装いをした男が膝を突き、頭を垂れていた。
「いいでしょう」
と女が答えると、ウリ・ダレ子爵よりは幾分知的そうな男が、柔らかな笑みを浮かべて「ありがとうございます」と立ち上がった。
「ソードル令嬢様、お互いどうやら行き違いが発生しているように思われます。
確認させて頂きますが、ソードル公爵家はこの地、マガド領を治める契約をされている――そういうことでしょうか?」
「その通りね」
その貴族の装いの男は困ったように笑みを浮かべ、首を横に振った。
「実は、ここにいるダレ子爵も領の三十年間の利益を得る契約を結んでおりまして……。
いやはや、マガド男爵は本当にいい加減なことを――」
「で?」
「!?」
エリージェ・ソードルの冷たい問いに、貴族の装いの男はビクリと震えた。
だが、それを必死で取り繕うように笑みを濃くして続ける。
「ソ、ソードル令嬢様もご存じの通り、契約が被ってしまった場合は、先に契約した方が有効であるというのが通例でして、そのぉ――」
「いつに契約したのかしら?」
「!?
ハハ、あのう、正確にはあれですが、二年ほど前になりますか……」
因みに、エリージェ・ソードルがした契約は、二ヶ月前ぐらいである。
「……」
エリージェ・ソードルは閉じた扇子の先を顎に当て、少し考える。
そして、言った。
「その契約書を見せてみなさい」
「は、はい!」
貴族の装いの男は近くにおいてある鞄を掴むと、その中から羊皮紙を取り出した。
そして、エリージェ・ソードルの元まで持って行こうとした。
それを、前に出た騎士ギド・ザクスが一睨みで止めると、それを受け取り、毒物が付いてないか検分する。
それを終えると、女の前に恭しく広げた。
それに視線を向けたエリージェ・ソードルは少し目を細めた。
「お嬢様」
肩越しから声が聞こえ、視線を向ければ、従者ザンドラ・フクリュウが無表情のまま囁いた。
「”本物”です」
「そう」
そして、視線を再度契約書に向ける。
本物……そう、本物だ。
平民ならいざ知らず、貴族の契約書は本来、貴族院の担当部署に預けられる。
それは、扱う規模や金額が桁違いであるので、力ずくで契約を破棄しようとする事を防ぐためでもある。
そして、持ち歩くのは大体の場合、貴族院から発行される契約書控えのはずなのだが……。
小狡いだけで、貴族としてまともにやってこなかったウリ・ダレ子爵らはそんな常識も知らずに、無防備にも契約書を持って歩いていたのだ。
エリージェ・ソードルは騎士ギド・ザクスに契約書を”ウリ・ダレ子爵”へと返すよう指示を出すと、頬に右手を置き、無表情ながら申し訳なさそうな”風”に言った。
「ダレ子爵、申し訳ないわね」
ウリ・ダレ子爵はホッとした顔で契約書を受け取ると、「いえいえ、分かっていただけたのなら」とか言いながら、契約書を貴族の装いの男に渡した。
エリージェ・ソードルは騎士ギド・ザクスに言う。
「あらギド、ダレ子爵が契約書を奪われているわ。
取り返して差し上げて」
「は?」
ウリ・ダレ子爵と貴族の装いの男はポカンとした顔になる。
騎士ギド・ザクスも困惑した顔になったが、従者ザンドラ・フクリュウに「騎士の仕事ですよ!」と言われて、慌てて動く。
そして、「ま、待って!」という貴族の装いの男の顔面に拳を叩き込んだ。
貴族の装いの男は鼻から赤い物を吹き出しながら、地面に体を叩きつけられる。
騎士ギド・ザクスはピクピクと痙攣する貴族の装いの男から、契約書を”取り返すと”、エリージェ・ソードルの様子を伺いつつ、呆然とするウリ・ダレ子爵にそれを突きだした。
そこに、エリージェ・ソードルはもう一度言葉をかける。
「ダレ子爵、申し訳ないわね」
膝を地に突いたままガタガタ震えるウリ・ダレ子爵は「あの? その?」と言うだけで”何も”しない。
そんな様子に、エリージェ・ソードルは少し眉をしかめ、視線を従者ザンドラ・フクリュウに向けて訊ねた。
「ところで、ぜんぜん関係ない質問なんだけど。
契約を破棄する場合は、どうしたら良いのかしら?」
それに対して、従者ザンドラ・フクリュウはにっこりと微笑みながら答える。
「契約内容にもよりますが、利権を得る者が『契約を破棄する』と言って契約書を燃やすのが一番簡単なやり方かと」
「成る程、所で少し寒いわね」
と言いながら、ちらりと村民に視線を向ける。
突然向けられた視線にビクっとした村民の男やその知人らしき者達が「それは気を使いませんで!」などと言いながら薪やら火種を準備し始めた。
因みに、焚き火が用意されたのは村民が空気を読んだのか――初夏なのに寒いと評したエリージェ・ソードルのそばでなく、ウリ・ダレ子爵のすぐ隣であった。
さすがにここまでされれば分かるだろう。
この女は、ウリ・ダレ子爵に契約を破棄するように言っているのだ。
「そ、そんな、ソードル令嬢!」
などと怯え、地面に両手を突きながらも、まだ”言い通そう”とするウリ・ダレ子爵に、女が先ほどより強く眉をしかめると、ルマ家騎士レネ・フートがふらりと前に出た。
そして、どことなく気の抜けた声で「あ、よろめいた」と言った。
ウリ・ダレ子爵の悲鳴が上がる。
当然だ。
地面に手を突いていた左手、その手の甲にルマ家騎士レネ・フートの――騎士用の強固な靴、その踵がめり込んでいるのだ。
「うぉぉぉ!」などと声を上げながら、右手で手首を掴み、地に頬をすり付けながら絶叫しても仕方がなかった。
「ああ、子爵。
申し訳ない。
昨日の深酒が祟ったようで、立ちくらみが起きた」
などと言いながらも、ルマ家騎士レネ・フートは一切退こうとしない。
ウリ・ダレ子爵が足をバタバタさせながら痛がっているのにも頓着せず、むしろ、踏みにじるように足を動かした。
そんな様子に、騎士ギド・ザクスが厳つい顔を心配そうにさせながら近寄っていく。
「大丈夫ですか?
子爵様?
立てますかな?」
そして、ウリ・ダレ子爵の踏みにじられている左手の――その親指の爪を摘むと、引っ張った。
「うぎゃぁぁぁ!」という声と共に、親指から赤い液体がボコボコと溢れ出る。
「おや、立てませんか?」「おや?」「おや?」
などと言いながら、人差し指、中指、薬指の爪が剥がれていく。
「やめでぇ!
ばかったぁ!
ばかりまじだぁ!
はぎぢまずぅぅぅ!」
耐えきれなくなったのか、ウリ・ダレ子爵は叫んだ。
ようやく立ちくらみが収まったのか、ルマ家騎士レネ・フートの足がウリ・ダレ子爵の左手から離れた。
服を土で汚し転がるウリ・ダレ子爵は左手首を掴みながらしばらく嗚咽を上げていた。
そして、涙と鼻水と泥にまみれた顔を上げると、エリージェ・ソードルを恨めしそうに見上げながら言った。
「ごんな……。
理不尽が、許されて、だばるがぁ……」
そんな男を取り囲む村民も、ソードル騎士も、ルマ家騎士も……。
しらけた目で見ていた。
エリージェ・ソードルだけは、少し不可解そうな顔でウリ・ダレ子爵を見た。
「あら、でもあなたは村民に理不尽なことをしていたんじゃないの?」
「ぞ、ぞれは……。
わだじは貴族で……」
エリージェ・ソードルは扇子で自身の肩を叩きながら小首を捻った。
「だったら、大貴族が小貴族をいたぶっても、問題ないじゃないの?」
「ぞ、ぞれは……」
言いよどむウリ・ダレ子爵に対して、エリージェ・ソードルは面倒くさそうに扇子を振った。
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