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夕刻の陽が傾き、王城の西塔に金の光が斜めに差し込んでいた。
最上階の戦略会議室──扉が静かに開き、レオノーラ・イーグレットが姿を現す。きびきびとした足取りは普段通りだが、その瞳にはわずかに疲労の色が浮かんでいた。
「……お待たせしました」
そう言って一礼する彼女に、アレクシスは無言で頷き、空いていた席を示す。その眼差しは、他の誰よりも長く、レオノーラの表情を見つめていた。
彼女は任務を終えたばかりの軍人の顔をしている。だが、その下に、何か微かな翳りを感じるのは気のせいだろうか。
「どうだった? マティアスとの話は」
アレクシスが問いかけると、レオノーラはゆっくりと腰を下ろし、一拍の沈黙を置いてから答えた。
「……彼は、曖昧なまま“否定”はしませんでした」
会議室の空気が、わずかに引き締まる。
「否定しなかった……?」
ディラン中将が低く呟き、腕を組み直す。
「ええ。“王女殿下の安寧が第一”と繰り返していましたが、どの国の安寧を指すのかには、明確な答えを返しませんでした。まるで、“それを明言する必要がない”とでも言いたげに」
その言葉に、アレクシスの指先が机上の書類を無意識に掴む。
「……うまいな」
副官ダリオが苦笑気味に言う。
「正面からの問いは避けて、個人的な願望にすり替える。まるで忠臣のように見せかけて、本心は決して晒さない。黒寄りの灰色──まさにその通りでしょう」
アレクシスは口を閉ざし、組んだ手の上に顎を預ける。
レオノーラの表情は、冷静で整っている。だが、そこにある目の色だけが──なにより雄弁だった。
(彼女は、心の奥で確信している)
アレクシスはそう直感した。
王女の傍に忠実を装って仕える男。だがその実、王城内の地下回廊を熟知し、機密区域にも立ち入れる立場にある。宰相府の軍需課との繋がり──そして、物資の改竄。
“マティアス・シュトラール”。今、王国の脅威がもっとも濃縮された名だ。
「……“否定しなかった”というのは、自らの正義に揺るぎがない証でもある。己の行動に後ろ暗さがないと信じている者の目だった」
「それとも、“すでに動き出している”という自信の現れかもしれません」
レオノーラが低く言い添える。
アレクシスは立ち上がり、壁際の地図に向かう。指先で王都をなぞりながら、地下構造の図面へと視線を落とす。
「地下回廊の再調査は?」
「王宮工務課と近衛に命じて、再封鎖を進めています」
ディランが即答する。
「ですが、構造を熟知している者がいれば、封鎖しても別経路を使われかねません」
「となると、“内部に複数の協力者”がいる前提で動くべきですね」
ダリオが腕を組んだまま言う。
アレクシスの視線が、ふと背後を振り返る。そこにいるレオノーラを、もう一度見た。
静かな横顔。決して奢らず、だが怯まず──誰よりも現実を直視するその姿に、胸がざわめく。
今この場にいる者たちの中で、誰よりも敵に近づいたのは彼女だった。危うさすら感じるほどに、敵の心へと踏み込んでいる。
(これ以上、レオに近づかせるのは……)
だが同時に、彼女以外に任せられる者がいないのも事実だった。
「……問題は、リュシア王女が“どこまで知っているか”だ」
レオノーラの言葉に、場が静まり返る。
ディランは何も言わず、ダリオも唇を引き結んだまま。
アレクシスは、拳を静かに握る。
(リュシアが無関係であればいい。だが……もし)
言葉の続きを、誰もが口にできなかった。
やがて、アレクシスがゆっくりと椅子を離れた。歩み寄り、レオノーラの真正面に立つ。
「──レオノーラ。次の手を託したい」
レオノーラが瞬時に目を上げる。
「マティアスと、もう一度だけ接触してほしい。今度は、“彼の裏”を引き出すための一手として」
「……承知しました」
「だが、無理はするな。彼は剣の腕もある。迷いなく動ける男だ。もし何かあれば──」
「そのときは、討ちます」
凛とした声だった。一切の逡巡もなかった。
アレクシスは、その言葉に一瞬だけ目を細めた。胸の奥で、何かが軋む。
(どうして、こんなにも)
彼女はいつだって、誰よりも先に決意する。誰にも縋らず、誰の助けも求めない。
──だが、自分だけは。
「……わかった。信じている」
その言葉を、静かに告げた。
夕陽が傾き、戦略会議室の窓に、金の光が差し込んでいた。
その光の中で、レオノーラの髪がわずかに揺れた。
アレクシスの視線は、レオノーラの横顔に、しばし留まり続けていた。
最上階の戦略会議室──扉が静かに開き、レオノーラ・イーグレットが姿を現す。きびきびとした足取りは普段通りだが、その瞳にはわずかに疲労の色が浮かんでいた。
「……お待たせしました」
そう言って一礼する彼女に、アレクシスは無言で頷き、空いていた席を示す。その眼差しは、他の誰よりも長く、レオノーラの表情を見つめていた。
彼女は任務を終えたばかりの軍人の顔をしている。だが、その下に、何か微かな翳りを感じるのは気のせいだろうか。
「どうだった? マティアスとの話は」
アレクシスが問いかけると、レオノーラはゆっくりと腰を下ろし、一拍の沈黙を置いてから答えた。
「……彼は、曖昧なまま“否定”はしませんでした」
会議室の空気が、わずかに引き締まる。
「否定しなかった……?」
ディラン中将が低く呟き、腕を組み直す。
「ええ。“王女殿下の安寧が第一”と繰り返していましたが、どの国の安寧を指すのかには、明確な答えを返しませんでした。まるで、“それを明言する必要がない”とでも言いたげに」
その言葉に、アレクシスの指先が机上の書類を無意識に掴む。
「……うまいな」
副官ダリオが苦笑気味に言う。
「正面からの問いは避けて、個人的な願望にすり替える。まるで忠臣のように見せかけて、本心は決して晒さない。黒寄りの灰色──まさにその通りでしょう」
アレクシスは口を閉ざし、組んだ手の上に顎を預ける。
レオノーラの表情は、冷静で整っている。だが、そこにある目の色だけが──なにより雄弁だった。
(彼女は、心の奥で確信している)
アレクシスはそう直感した。
王女の傍に忠実を装って仕える男。だがその実、王城内の地下回廊を熟知し、機密区域にも立ち入れる立場にある。宰相府の軍需課との繋がり──そして、物資の改竄。
“マティアス・シュトラール”。今、王国の脅威がもっとも濃縮された名だ。
「……“否定しなかった”というのは、自らの正義に揺るぎがない証でもある。己の行動に後ろ暗さがないと信じている者の目だった」
「それとも、“すでに動き出している”という自信の現れかもしれません」
レオノーラが低く言い添える。
アレクシスは立ち上がり、壁際の地図に向かう。指先で王都をなぞりながら、地下構造の図面へと視線を落とす。
「地下回廊の再調査は?」
「王宮工務課と近衛に命じて、再封鎖を進めています」
ディランが即答する。
「ですが、構造を熟知している者がいれば、封鎖しても別経路を使われかねません」
「となると、“内部に複数の協力者”がいる前提で動くべきですね」
ダリオが腕を組んだまま言う。
アレクシスの視線が、ふと背後を振り返る。そこにいるレオノーラを、もう一度見た。
静かな横顔。決して奢らず、だが怯まず──誰よりも現実を直視するその姿に、胸がざわめく。
今この場にいる者たちの中で、誰よりも敵に近づいたのは彼女だった。危うさすら感じるほどに、敵の心へと踏み込んでいる。
(これ以上、レオに近づかせるのは……)
だが同時に、彼女以外に任せられる者がいないのも事実だった。
「……問題は、リュシア王女が“どこまで知っているか”だ」
レオノーラの言葉に、場が静まり返る。
ディランは何も言わず、ダリオも唇を引き結んだまま。
アレクシスは、拳を静かに握る。
(リュシアが無関係であればいい。だが……もし)
言葉の続きを、誰もが口にできなかった。
やがて、アレクシスがゆっくりと椅子を離れた。歩み寄り、レオノーラの真正面に立つ。
「──レオノーラ。次の手を託したい」
レオノーラが瞬時に目を上げる。
「マティアスと、もう一度だけ接触してほしい。今度は、“彼の裏”を引き出すための一手として」
「……承知しました」
「だが、無理はするな。彼は剣の腕もある。迷いなく動ける男だ。もし何かあれば──」
「そのときは、討ちます」
凛とした声だった。一切の逡巡もなかった。
アレクシスは、その言葉に一瞬だけ目を細めた。胸の奥で、何かが軋む。
(どうして、こんなにも)
彼女はいつだって、誰よりも先に決意する。誰にも縋らず、誰の助けも求めない。
──だが、自分だけは。
「……わかった。信じている」
その言葉を、静かに告げた。
夕陽が傾き、戦略会議室の窓に、金の光が差し込んでいた。
その光の中で、レオノーラの髪がわずかに揺れた。
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