78 / 111
79
しおりを挟む
――夜が訪れた。
吹雪はようやく収まり、戦火に焼かれた空気が、しんと凍りつく尾根に漂っていた。数時間に及ぶ激戦の末、両軍は夜明けまでの休戦を、暗黙の了解として受け入れていた。
ザルド地帯、仮設陣地の一角。
焚き火の炎が、かすかに赤く揺らいでいる。
レオノーラはその前で膝を抱き、疲れきった身体を休めていた。鎧は外し、分厚い外套を羽織ってはいるが、戦場の熱と冷気が、まだ肌の内側でせめぎ合っている。
向かい側に、アレクシスが静かに腰を下ろした。彼も鎧を脱いではいたが、軍服の襟元には血の痕がわずかに残っていた。だがその顔には、疲労よりも深い安堵の色が浮かんでいた。
「この火を見ていると……少しだけ、心が静かになるな」
アレクシスがぽつりと呟く。
レオノーラは焚き火を見つめたまま、小さく頷いた。
「燃える音が……怖いくらい静かに聞こえる。ついさっきまで、砲声しかなかったのに」
「レオが……無事でいてくれて、本当に良かった」
その言葉に、レオノーラの肩がわずかに揺れた。
「アレク……さっきは、すまなかった」
「さっき?」
「アレクが、私を庇ってくれたことだ」
「ああ……あれか」
焚き火の明かりが、彼女の睫毛を照らす。
その奥で、何かが小さく揺れていた。
「アレクは王族だ。どんな状況でも、命を守らねばならない。守る立場にあるのは、私のほうだったのに……私は、守られてしまった」
レオノーラは伏し目がちに言葉を落とす。その声音に、かすかな悔しさが滲んでいた。
それを聞いて、アレクシスは口元を緩め、少しだけ冗談めかした口調で返す。
「……俺は、レオを守れて嬉しかったよ」
「嬉しかった?」
「ああ。お前には剣で一度も勝てたことがないからな。少しくらい、かっこつけさせてくれ。庇えたなら……ちょっとは面目が立つだろう?」
その軽口に、レオノーラが思わず声を上げる。
「かっこつけるとか、そういう問題ではない! 命を粗末にするな。……失態した私が言うのも何だけど、次は庇うな。いや、そもそも庇われるような隙は作らない!」
「はは……レオらしいな。俺の見せ場は不要か。これじゃあ、惚れてもらう余地がない」
「──っ?! ほ、惚れる……? じょ、冗談はやめろ!」
「……でも、もし本気だったら?」
「……アレク……」
二人の間に、沈黙が落ちた。
焚き火の音だけが、風にまぎれて聞こえる。
その静けさを破ったのは、アレクシスだった。
「レオ……ごめん。困らせるつもりはなかった。忘れてくれていい」
彼は静かに微笑んだ。その笑みに、どこか自嘲の色が混じっていた。
「……ああ」
レオノーラもまた、焚き火に視線を戻しながら答えた。
(アレク……)
彼女の視線が逸らされても、アレクシスは彼女を見つめ続けていた。
(……何度でも誓う。君を守ると)
その想いを言葉にできたなら、どれほど楽か。
けれど彼は知っている。今それを口にすれば、彼女はまた心に壁を作る。忠義も誇りも、その全てを背負って戦う彼女を、ただ見守ることしかできなかった。
一方、レオノーラもまた、胸に渦巻く熱を必死に押し殺していた。
(私はこの戦に、命を懸けている。……けれど、もし心が揺らいだら──)
語られぬ想いが、焚き火の炎に照らされて揺れる。
互いに触れず、言葉にできず、それでも確かに通じ合うものがそこにあった。
そんな二人を、少し離れた場所でそっと見守っていた者たちがいた。
「なあ、ダリオ。あの二人……もう、“そういう関係”なんじゃないか?」
ディラン中将が火に当たりながら、声をひそめて言った。
「えっ? “そういう”って……まさか……?」
「まさか」も何も、と思いつつ、ディランは眉をひそめる。
「さっきの戦で、殿下がレオノーラを庇ったとき……顔が真っ青だったんだぞ。あの冷静沈着な人が」
「……確かに。少将殿も、いつになく……こう、揺れていた気がします」
ダリオは頬をかきながら、焚き火の向こうをちらりと覗いた。
二人は、まだ黙って焚き火を挟んで向き合っていた。けれど、その沈黙の温度は、見ている者にさえ伝わってくるほどにやさしかった。
「ま、口にしないだろうな。どっちも真面目すぎるくらい真面目だ」
「だからこそ……僕たちが、支えてあげなきゃですね」
「ああ。余計なことは言わずにな」
ディランは満足そうに笑い、そっと外套を火に近づけた。
──焚き火の炎が、赤く静かに瞬いている。
想いは語られずとも、確かにそこにある。
やがて夜明けが来れば、また戦場が動き出す。
だが、この夜、この束の間の灯火だけは──
二人の胸に、長く残るあたたかな記憶として燃え続けていた。
吹雪はようやく収まり、戦火に焼かれた空気が、しんと凍りつく尾根に漂っていた。数時間に及ぶ激戦の末、両軍は夜明けまでの休戦を、暗黙の了解として受け入れていた。
ザルド地帯、仮設陣地の一角。
焚き火の炎が、かすかに赤く揺らいでいる。
レオノーラはその前で膝を抱き、疲れきった身体を休めていた。鎧は外し、分厚い外套を羽織ってはいるが、戦場の熱と冷気が、まだ肌の内側でせめぎ合っている。
向かい側に、アレクシスが静かに腰を下ろした。彼も鎧を脱いではいたが、軍服の襟元には血の痕がわずかに残っていた。だがその顔には、疲労よりも深い安堵の色が浮かんでいた。
「この火を見ていると……少しだけ、心が静かになるな」
アレクシスがぽつりと呟く。
レオノーラは焚き火を見つめたまま、小さく頷いた。
「燃える音が……怖いくらい静かに聞こえる。ついさっきまで、砲声しかなかったのに」
「レオが……無事でいてくれて、本当に良かった」
その言葉に、レオノーラの肩がわずかに揺れた。
「アレク……さっきは、すまなかった」
「さっき?」
「アレクが、私を庇ってくれたことだ」
「ああ……あれか」
焚き火の明かりが、彼女の睫毛を照らす。
その奥で、何かが小さく揺れていた。
「アレクは王族だ。どんな状況でも、命を守らねばならない。守る立場にあるのは、私のほうだったのに……私は、守られてしまった」
レオノーラは伏し目がちに言葉を落とす。その声音に、かすかな悔しさが滲んでいた。
それを聞いて、アレクシスは口元を緩め、少しだけ冗談めかした口調で返す。
「……俺は、レオを守れて嬉しかったよ」
「嬉しかった?」
「ああ。お前には剣で一度も勝てたことがないからな。少しくらい、かっこつけさせてくれ。庇えたなら……ちょっとは面目が立つだろう?」
その軽口に、レオノーラが思わず声を上げる。
「かっこつけるとか、そういう問題ではない! 命を粗末にするな。……失態した私が言うのも何だけど、次は庇うな。いや、そもそも庇われるような隙は作らない!」
「はは……レオらしいな。俺の見せ場は不要か。これじゃあ、惚れてもらう余地がない」
「──っ?! ほ、惚れる……? じょ、冗談はやめろ!」
「……でも、もし本気だったら?」
「……アレク……」
二人の間に、沈黙が落ちた。
焚き火の音だけが、風にまぎれて聞こえる。
その静けさを破ったのは、アレクシスだった。
「レオ……ごめん。困らせるつもりはなかった。忘れてくれていい」
彼は静かに微笑んだ。その笑みに、どこか自嘲の色が混じっていた。
「……ああ」
レオノーラもまた、焚き火に視線を戻しながら答えた。
(アレク……)
彼女の視線が逸らされても、アレクシスは彼女を見つめ続けていた。
(……何度でも誓う。君を守ると)
その想いを言葉にできたなら、どれほど楽か。
けれど彼は知っている。今それを口にすれば、彼女はまた心に壁を作る。忠義も誇りも、その全てを背負って戦う彼女を、ただ見守ることしかできなかった。
一方、レオノーラもまた、胸に渦巻く熱を必死に押し殺していた。
(私はこの戦に、命を懸けている。……けれど、もし心が揺らいだら──)
語られぬ想いが、焚き火の炎に照らされて揺れる。
互いに触れず、言葉にできず、それでも確かに通じ合うものがそこにあった。
そんな二人を、少し離れた場所でそっと見守っていた者たちがいた。
「なあ、ダリオ。あの二人……もう、“そういう関係”なんじゃないか?」
ディラン中将が火に当たりながら、声をひそめて言った。
「えっ? “そういう”って……まさか……?」
「まさか」も何も、と思いつつ、ディランは眉をひそめる。
「さっきの戦で、殿下がレオノーラを庇ったとき……顔が真っ青だったんだぞ。あの冷静沈着な人が」
「……確かに。少将殿も、いつになく……こう、揺れていた気がします」
ダリオは頬をかきながら、焚き火の向こうをちらりと覗いた。
二人は、まだ黙って焚き火を挟んで向き合っていた。けれど、その沈黙の温度は、見ている者にさえ伝わってくるほどにやさしかった。
「ま、口にしないだろうな。どっちも真面目すぎるくらい真面目だ」
「だからこそ……僕たちが、支えてあげなきゃですね」
「ああ。余計なことは言わずにな」
ディランは満足そうに笑い、そっと外套を火に近づけた。
──焚き火の炎が、赤く静かに瞬いている。
想いは語られずとも、確かにそこにある。
やがて夜明けが来れば、また戦場が動き出す。
だが、この夜、この束の間の灯火だけは──
二人の胸に、長く残るあたたかな記憶として燃え続けていた。
79
あなたにおすすめの小説
【コミカライズ企画進行中】ヒロインのシスコンお兄様は、悪役令嬢を溺愛してはいけません!
あきのみどり
恋愛
【ヒロイン溺愛のシスコンお兄様(予定)×悪役令嬢(予定)】
小説の悪役令嬢に転生した令嬢グステルは、自分がいずれヒロインを陥れ、失敗し、獄死する運命であることを知っていた。
その運命から逃れるべく、九つの時に家出を決行。平穏に生きていたが…。
ある日彼女のもとへ、その運命に引き戻そうとする青年がやってきた。
その青年が、ヒロインを溺愛する彼女の兄、自分の天敵たる男だと知りグステルは怯えるが、彼はなぜかグステルにぜんぜん冷たくない。それどころか彼女のもとへ日参し、大事なはずの妹も蔑ろにしはじめて──。
優しいはずのヒロインにもひがまれ、さらに実家にはグステルの偽者も現れて物語は次第に思ってもみなかった方向へ。
運命を変えようとした悪役令嬢予定者グステルと、そんな彼女にうっかりシスコンの運命を変えられてしまった次期侯爵の想定外ラブコメ。
※コミカライズ企画進行中
なろうさんにも同作品を投稿中です。
気がつけば異世界
波間柏
恋愛
芹沢 ゆら(27)は、いつものように事務仕事を終え帰宅してみれば、母に小さい段ボールの箱を渡される。
それは、つい最近亡くなった骨董屋を営んでいた叔父からの品だった。
その段ボールから最後に取り出した小さなオルゴールの箱の中には指輪が1つ。やっと合う小指にはめてみたら、部屋にいたはずが円柱のてっぺんにいた。
これは現実なのだろうか?
私は、まだ事の重大さに気づいていなかった。
旦那様、もう一度好きになってもいいですか?
バナナマヨネーズ
恋愛
貧乏男爵家の十三番目の子供として生まれたエクレールは、傭兵として生計を立てて暮らしていたはずだった。
ある日、嫌な夢から目を覚ますと、見知らぬイケメンの腕の中にいた。
驚愕するエクレールに、イケメンは胸を張って言ったのだ。
「エクレール、君は昨日、俺と結婚したんだ。そして、エクレール・ポワレから、エクレール・アインソフ辺境伯夫人となったんだ」
「…………。へぇ……。そうなんですかぁ………………。ってえ?! はあぁぁあああああああ!! わたしが結婚? 誰とですか?!」
「ラクレイス・アインソフ。この俺だ」
エクレールは、初めて会ったはずの好みの顔面を持つ、ラクレイスとの婚姻関係を告げられ困惑するも、なぜかその男に愛おしさを感じてしまうのだ。
この物語は、愛する人との未来を掴むため奮闘するエクレールと、愛する人の苦しみを知り、それでも共にいたいと願うラクレイスの夫婦の物語。
【完結】花に祈る少女
まりぃべる
恋愛
花祈り。それは、ある特別な血筋の者が、(異国ではいわゆる花言葉と言われる)想いに適した花を持って祈ると、その花の力を増幅させる事が出来ると言われている。
そんな花祈りが出来る、ウプサラ国の、ある花祈りの幼い頃から、結婚するまでのお話。
☆現実世界にも似たような名前、地域、単語、言葉などがありますが関係がありません。
☆花言葉が書かれていますが、調べた資料によって若干違っていました。なので、少し表現を変えてあるものもあります。
また、花束が出てきますが、その花は現実世界で使わない・合わないものもあるかもしれません。
違うと思われた場合は、現実世界とは違うまりぃべるの世界と思ってお楽しみ下さい。
☆まりぃべるの世界観です。ちょっと変わった、一般的ではないまりぃべるの世界観を楽しんでいただけると幸いです。
その為、設定や世界観が緩い、変わっているとは思いますが、まったりと楽しんでいただける事を願っています。
☆話は完結出来ていますので、随時更新していきます。全41話です。
★エールを送って下さった方、ありがとうございます!!お礼が言えないのでこちらにて失礼します、とても嬉しいです。
【本編完結済み】二人は常に手を繋ぐ
もも野はち助
恋愛
【あらすじ】6歳になると受けさせられる魔力測定で、微弱の初級魔法しか使えないと判定された子爵令嬢のロナリアは、魔法学園に入学出来ない事で落胆していた。すると母レナリアが気分転換にと、自分の親友宅へとロナリアを連れ出す。そこで出会った同年齢の伯爵家三男リュカスも魔法が使えないという判定を受け、酷く落ち込んでいた。そんな似た境遇の二人はお互いを慰め合っていると、ひょんなことからロナリアと接している時だけ、リュカスが上級魔法限定で使える事が分かり、二人は翌年7歳になると一緒に王立魔法学園に通える事となる。この物語は、そんな二人が手を繋ぎながら成長していくお話。
※魔法設定有りですが、対人で使用する展開はございません。ですが魔獣にぶっ放してる時があります。
★本編は16話完結済み★
番外編は今後も更新を追加する可能性が高いですが、2024年2月現在は切りの良いところまで書きあげている為、作品を一度完結処理しております。
※尚『小説家になろう』でも投稿している作品になります。
【完結】小動物系の待女が魔術師を魅了したら王宮の危機でした
仙桜可律
恋愛
フードすっぽり魔術師団長×愛され待女
第二王女殿下付きの侍女、リーゼロッテは17才の男爵令嬢。小柄なためか幼く見られるのを気にしている。
王宮で働く先輩たちは恋愛結婚が多い。リーゼは魔術師団のリューバー団長に憧れていた。誰も素顔を見たことはないけれど、そのミステリアスな感じがたまらないと姿を見かけては喜んでいた。
周囲はそんなリーゼをお子様扱いで半ば呆れていたけれど、あることをきっかけに二人は急接近。
※エブリスタの過去作に加筆しました
この度、青帝陛下の運命の番に選ばれまして
四馬㋟
恋愛
蓬莱国(ほうらいこく)を治める青帝(せいてい)は人ならざるもの、人の形をした神獣――青龍である。ゆえに不老不死で、お世継ぎを作る必要もない。それなのに私は青帝の妻にされ、后となった。望まれない后だった私は、民の反乱に乗して後宮から逃げ出そうとしたものの、夫に捕まり、殺されてしまう。と思ったら時が遡り、夫に出会う前の、四年前の自分に戻っていた。今度は間違えない、と決意した矢先、再び番(つがい)として宮城に連れ戻されてしまう。けれど状況は以前と変わっていて……。
【完結】深く青く消えゆく
ここ
恋愛
ミッシェルは騎士を目指している。魔法が得意なため、魔法騎士が第一希望だ。日々父親に男らしくあれ、と鍛えられている。ミッシェルは真っ青な長い髪をしていて、顔立ちはかなり可愛らしい。背も高くない。そのことをからかわれることもある。そういうときは親友レオが助けてくれる。ミッシェルは親友の彼が大好きだ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる