9 / 38
8
しおりを挟む家に戻ってしばらくして、親子水入らずの夕食となった。
母はあらかじめ千賀子の家族4人の分まで作っていたので、テーブルの料理は3分の1も無くならない。大食漢の千賀子の夫がいないのは大きかった。
それでも継人は、ふたりとお互いの近況を語り合い、時折りテレビのバラエティーに目を遣りながら、千賀子の買ってきた500MLのビールを4缶空けた。
もっとアルコールが欲しい。とにかく正体が無くなるまで飲んで、いま頭の中にあるものをすべて洗い流してしまいたい、と思った。
藤森先生の狼狽ぶりに、自分の絵を所有していた会社社長の不可解な死。芳田の突然の変節。そして高原夏美と『髪を噛む少女』を結ぶ線上に浮かんできた自分と芳田の父親の存在。
「あんた、今日ちょっとおかしいで」千賀子は、座ったままウトウトと寝入っている母を横目で見ながら言った。「芙美さんとうまくいってないの?」
「そんなことない。ただもう10年も長野におるやろ。なんかこのままズルズル行くんかなと思うと、ちょっとな」
「そんなん、会社の人に、こっちに近い支店に移動させて貰えるように言えばええやないの」
「それじゃ、この町を出た意味ないやろ。それに芙美も1人っ子や。絶対一緒に付いて来んと思うわ」
「大体、そういうことは結婚するまえにちゃんと話しとくもんやないの?」千賀子はそこまで言ったが、今さらと思ったのか、首を振った。「でも、そういうご縁だったってことなんやね」
「姉貴はよく馴染んでるみたいやないか。言葉もあっちの方言になっとるし」
「わたしだって最初はイヤやったんやで。岐阜の中心部より名古屋のほうがずっと近いもんで、みんな見栄張って名古屋市民みたいなつもりでおるようなとこやし。山に囲まれてイノシシがしょっちゅう出るっていうのに」
「それもご縁ってことか」
「そういうことやな」
継人は今日はじめて笑った。アルコールの手助けもあったのかもしれないが、ほんの少し気分が楽になった。こういう時間も悪くない。2日間のモヤモヤもしばし小休止だ。
でも、相変わらずすっきりしないのは父のことだ。大学に入ってからずっと家を離れていたせいで、盆暮れ以外は顔を合わせることさえなかった。そもそも今までの生涯を通じて、ちゃんと話した記憶さえない。
「親父の子供の頃ってどんな感じやったんかな?」
「それや」千賀子が身を乗り出した。「さっきから不思議に思っとったんやけど、お父さんって昔から無口な人やったやろ。けど、お母さんには子供の頃のことまで話しとったんやな、と思って」
「誰にも言うたらあかんで」母が突然、話に割って入った。
「なんや、起きとったの?」
千賀子も継人もビックリして母を見やった。母は座りなおして、ゆっくりと話し始めた。
「お父さんが生きとるうちは絶対言わんとこと思っとったんやけど、そろそろええやろ。じつは、あの人とお見合いして結婚することに決まったとき、あの人“ぼくは人を殺したことがあります。それでも結婚しますか?”って言うたんや。わたしはてっきり都合のいい断り文句やと思って、“ぜんぜん、関係ないです”って笑い飛ばしたった」
「本当なん?それ」千賀子が信じかねて訊いた。
「よくよく聞いたら、小学校の頃の話やて。近くで恐れられとった大きな野良犬を3人で退治しよういう話になって、落とし穴を掘って待ち構えとったら、その野良犬と一緒に担任の先生まで落っこちたらしいわ」
「それで先生も亡くなったん?」千賀子は思わず顔を歪めた。
「竹槍を何十本も敷き詰めとったっていう話やから、一溜まりもなかったんちゃうか。もともと先生を巻き込もうと思うとったわけやないし、3人ともまだ小学生やったから、お咎めはなしっていうことになったらしいけど。でも、あの人は“人を殺したっていう罪は一生背負っていかなあかん”って言うとった」
継人は5缶目のビールには手を付けずに腕を組んだ。千賀子は手で涙を拭っている。
寡黙で真面目だった父がどんな思いで生きてきたのか、そう考えると胸が詰まりそうになった。誰にも愚痴を言わず、その代わり、時折り浴びるように酒を飲んで死期を縮めた裏にはいつも贖罪の気持ちとの葛藤があったのかもしれない。
それを受け止めて支えてきた母もまた、誰にも打ち明けることなく“その後”の人生を生きてきたのだ。きっと、どんなに誘っても母は父の元を離れることはないだろう、継人はそう思った。
「じゃあ、わたしは寝るで」母がテーブルを片付け始めると、千賀子が「わたしがやるから、ええわ」と言って、束の間の団欒はお開きになった。
2人に「おやすみ」と言ったあと、継人は客間に敷かれた布団の中に入ったが、すぐに寝付けなかった。
小さい頃、仰向けに寝たまま天井を見ると、板張りの木目模様が魔物や亡霊の姿に変わっていくように見えて、恐怖のあまり眠れないことがよくあった。なにやら今夜はそれに近いものを感じる。
それも、よく考えれば簡単な理屈だ。脳は目で見たものを画像処理するだけのものではない。目に映ったものに解釈を与えるものだ。だから、恐怖や不安の感情が像を歪めることがある。もちろん、子供の頃はそんなことは知りもしなかった。
では、今の感情は何なのだろう。白い無地の壁紙に覆われた新築の天井には、今まさに1つのチャートが浮かんでいる。
いままで何の関係もなかった高原夏美と継人の父とのあいだに『髪を噛む少女』の絵が横たわっている図だ。
しばらく見つめていると、やがて真ん中の絵が自分自身の姿に変わっていく。
継人は、その光景を夢の中で描いたのかどうかも分からないまま、いつの間にか眠りに落ちていた。
0
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
罪悪と愛情
暦海
恋愛
地元の家電メーカー・天の香具山に勤務する20代後半の男性・古城真織は幼い頃に両親を亡くし、それ以降は父方の祖父母に預けられ日々を過ごしてきた。
だけど、祖父母は両親の残した遺産を目当てに真織を引き取ったに過ぎず、真織のことは最低限の衣食を与えるだけでそれ以外は基本的に放置。祖父母が自身を疎ましく思っていることを知っていた真織は、高校卒業と共に就職し祖父母の元を離れる。業務上などの必要なやり取り以外では基本的に人と関わらないので友人のような存在もいない真織だったが、どうしてかそんな彼に積極的に接する後輩が一人。その後輩とは、頗る優秀かつ息を呑むほどの美少女である降宮蒔乃で――
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
天才天然天使様こと『三天美女』の汐崎真凜に勝手に婚姻届を出され、いつの間にか天使の旦那になったのだが...。【動画投稿】
田中又雄
恋愛
18の誕生日を迎えたその翌日のこと。
俺は分籍届を出すべく役所に来ていた...のだが。
「えっと...結論から申し上げますと...こちらの手続きは不要ですね」「...え?どういうことですか?」「昨日、婚姻届を出されているので親御様とは別の戸籍が作られていますので...」「...はい?」
そうやら俺は知らないうちに結婚していたようだった。
「あの...相手の人の名前は?」
「...汐崎真凛様...という方ですね」
その名前には心当たりがあった。
天才的な頭脳、マイペースで天然な性格、天使のような見た目から『三天美女』なんて呼ばれているうちの高校のアイドル的存在。
こうして俺は天使との-1日婚がスタートしたのだった。
中1でEカップって巨乳だから熱く甘く生きたいと思う真理(マリー)と小説家を目指す男子、光(みつ)のラブな日常物語
jun( ̄▽ ̄)ノ
大衆娯楽
中1でバスト92cmのブラはEカップというマリーと小説家を目指す男子、光の日常ラブ
★作品はマリーの語り、一人称で進行します。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる