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田野倉は、継人の話を一語一句聞き漏らすまいと、食い入るように聞いた。
継人は、その半世紀以上まえの出来事を、ほぼ芳田や母から聞いた通り正確に話した。唯一語らなかったのは、田野倉守がその現場から逃げ出したくだりだけだ。
話が終わると、田野倉は腰掛けている椅子に背もたれがあるのを忘れてしまったかのように、背中を震わせながらゆっくりと全体重を預けた。
継人は、すべての言葉が十分に腹落ちされるのを待って、続けた。
「実は今朝、柿垣の市立図書館に寄って、当時の新聞記事を撮影してきました」そう言ってショルダーバックからタブレット端末を引っ張り出してテーブルの上に置くと、田野倉のほうに向けた。つい先ほど作成した麻倉恵子の遺影と『髪を噛む少女』を並べてファイルに保存したデスクトップのアイコンをタップする。
「こんなことが・・・」田野倉は呆然となった。
「これが、お父様が私のことをご存知だったのではないかと考える根拠です。もちろん私がこの絵を描いた頃は麻倉先生の存在すら知りません。ただ今となっては、父の記憶が私の指先に不思議な力を与えていた気さえしています」
田野倉はグッと唾を呑み込んだ。「モデルはやはり夏美だったのでしょうか?」
「そうです」継人は本題に辿り着いた高揚感を必死にかみ殺した。「もっとも夏美さんは高嶺の花で、同じ美術部なのに3年間まともに話したことすらありませんでした。あの絵は、一瞬の表情を妄想で再構築したものです。結果的には“不適切な表現”だと評価され、ご本人とは似ても似つかない代物になってしまいましたが」
「いえ、むしろ写実よりもあの女の本質をよく捉えていると思います」田野倉は、吐き捨てるような口調で言った。
あの女・・・。その響きが継人の脳天を貫いた。
「絶対に口外しないことを約束してください」田野倉は絡めた両手の指に力を込めた。「父の死因はじつは自殺なのです。公には病死ということになっていますがね」
「お約束します」旧知の事実だったが、継人は始めて聞いたように装った。
「いま思うと、父はあの女に殺されたような気がします」
継人は、心の隅に微かに残っていた淡い気持ちが打ち砕かれていくのを感じた。
田野倉は立ち上がり、部屋の中を歩き回りながら続けた。
「夏美は元々この会社の社員でした。地元の短大を卒業したあと、社長自らが面接して秘書課に配属したようです。当時私は常務として世界を行き来する毎日で、30歳を越えても浮いた話ひとつない有様でした。それを心配した母がいろんな縁談を持ってきましたが、全くその気になれず、もうずっと独身のままでもいいと思っていました。そんなある年の納会で、夏美と出会ったのです」
田野倉はガラス窓に肘を当てて、バーベキューを囲んで談笑する社員たちを見た。たぶんその脳裏には数年前の景色が映っていたのかもしれない。
「彼女の美貌は社内でもすでに評判でしたが、誰とも浮いた話は無く、自分を飾る事もなく、私のステイタスに惹かれて積極的にアピールしてくるほかの女性たちとも全く別の存在でした。彼女は最初あまり乗り気ではありませんでしたが、何度も口説いてやっと交際が始まりました。やがて私は海外の視察をすべてキャンセルするほど彼女にのめり込んでいきました。そして私はついに結婚を決意します。式は彼女の希望でそれぞれの近親者と本人のみで行い、披露宴は社内の同僚だけで行ないました。夏美は主婦としても完璧でした。会社は順調に成長を続け、家政婦を何人か雇えるほどでしたが、彼女は家事の一切をひとりで行ない、最初は結婚に懐疑的だった母までも虜にしてしまったのです。しかし、その2年後、彼女はトロイの木馬が暗殺者を掃き出すように、突然その本性を現わしていくのです」
田野倉の表情は怒っていると言うより、何やら悲しげに見えた。後妻をとらなかったのも、愛憎の念がいまだに燻っているからなのだと、継人は思った。
「カナダに工場を新設することになった時、契約についての慣例や商習慣に順応するため、現地に長期滞在する必要が生じました。私は夏美に同行を求めましたが、“ここを離れて他所へ行くのはイヤです”と言って、強く拒否したのです。理由を聞いても“すぐに戻れないから”の一点張りでした。最初は外国で暮らすことに抵抗を感じているのだと思っていましたが、海外からの来賓の通訳まで務めた彼女に言葉の壁があるとも思えません。この頃から私は、彼女がこの町の誰かに会っているのかもしれないと、疑い始めるようになったのです」
継人は、あの手紙を思い出した。
わたしもどこか遠くに行きたいけど、行けない事情もあるし…。
「それからというもの、私は短期の出張に出るのも気が気でなくなり、ついには探偵を雇うことになったのです。しかし、調査報告は想像していたものとはかなり違っていました。私が出張で家を空けるときはもちろん、こちらにいるときも、彼女はほぼ週に3~4日、実家へ行き来していただけだったのです。たまに昔の女友だちとお茶を飲むことはあったようですが、それ以外はこの家と実家を結ぶ動線だけが彼女の日常でした。私は彼女を疑ったことを後悔しました。彼女は相変わらず完璧でした。ただ、遠くに行くのを極端に嫌がることを除いては」
だったら、何の問題もないじゃないか。継人はそう思ったが、田野倉はのろけているのではなさそうだった。その顔がさらに険しさを増しているのが分かる。
「調査結果を受け取った数日後、またしても同じことで夏美と口論になりました。ある取引先からの招待で7泊のオーストラリアの夫婦旅行をプレゼントされたのですが、彼女はこれさえも拒んだのです。探偵事務所から“調査した事を悟られてはいけない”と厳命されていましたが、もう限界でした。私はついに“きみはいつまで実家にしがみ付いてるつもりなんだ!”と叫ぶと、夏美はものすごい形相で“どうして四六時中、貞淑な妻を演じ続けなきゃいけないの!息苦しくて堪らないのよ!自分が素に戻れる時間を奪われるのなら、もうここには住めないわ!”とやり返してきたのです。これは正直堪えました。あなたも経験があるかもしれませんが、女の口喧嘩は、原因の半分が自分にあっても、最後は、すべて男の配慮が足らなかったという話にすり替わっていくものです。論理的に破綻していても関係ありません。私はこう言うしかありませんでした。“そんなに息苦しいのなら、明日からきみの好きにすればいい”と。そして次の日、彼女はついに叛乱を開始したのです」
あの高原夏美が・・・。継人は溜息をついた。身勝手だと分かっていても、幻想が崩れていくのはつらかった。
「朝起きると、夏美はパジャマ姿のままで、顔も洗わず、髪も整えず、胡坐をかいてテレビを観ていました。“朝ごはんは?”と聞くと、“ご自分で作ってください。食材なら冷蔵庫にあります”と言って、顔すら上げようとしません。脚の悪い母が、部屋から“夏美さん”と呼んでも、返事すらしませんでした。挙句は、ロックバンドのような荒くれた恰好をした連中を呼んできて、昼間からこの部屋でどんちゃん騒ぎをする始末です。私はてっきり探偵事務所に私生活を監視されたことに対する報復なのかと思いました。もはや私たち夫婦に話し合いをする空気など何処にもありませんでした。それから3日後の朝、すでに片方の署名と捺印が終わった婚姻届をテーブルに置いて、夏美はこの家を出て行ったのです」
継人はテーブルに目を落とした。別のテーブルだったかも知れないが、その痕跡がほんの一瞬浮かんで消えた。
「すべては突発的なことで、そのうち終息するだろう。私はそう考えていました。ところが実はそうではなかったのです。彼女はその日を境に、この町からも完全に姿を消しました。それからしばらく経って、父が東京のマンションで自ら命を絶ちました。ちょうど特許をめぐる裁判が始まったところで、精神的にも不安定だったこともあるのかもしれません。 “もう我慢の限界だ。これで終わりにする”という内容の遺書のような書置きがあったほかには、他殺を裏付ける物証もありませんでした。事件性が無ければ、警察の仕事は終わりです。しかし、私はどうしても納得できませんでした。美術品の収集以外なんの趣味も無かった父が、愛人を作り、ましてやそのマンションで自殺するなんて」
「まさか、その相手が」答えは想像がついていたが、継人はあえて訊いた。
「そうです」田野倉は寂しげに笑った。
「でも、夏美さんは不倫に関しては潔白だった筈ですよね」
「あくまで私の妻だった2年間だけです。さすがに息子の嫁である間は直接会うのを避けたのでしょう。しかし、初めてこの会社に面接に現われた日からすでに、父と夏美との関係は始まっていたようです。当時の担当課長がすべてを話しました。父が自ら秘書課に配属したのも、怪しまれずに接触するためだったのです」
「理由はお父様の財産だったのですか?」
「今まではそう思っていました。少なくともあなたと会う1時間前までは。しかし、そう考えると矛盾する点もいくつかあります。あのマンションも父の名義で、彼女に所有権はありません。わたしと離婚したことで、この家の相続権も失いました。お金だけが目的なら、今までどおり何食わぬ顔で妻の座に留まっているほうがよっぽど利口です。彼女の行動は謎だらけです。でも、あなたのおかげで1つハッキリしました。あなたが半世紀前の事件をご自分の作品と関連付けたように、父は夏美にその2つの姿を投影していたのですね」田野倉はいくぶん穏やかな表情になっていた。「あの絵を、本来あるべき場所に戻したのは正しい判断でした。だからこうしてあなたともお会いできた」
継人は立ち上がって頭を下げた。「とんでもありません。私はただ自分の好奇心を満足させるために押しかけて来たに過ぎません。そればかりか、デリケートな部分にまで踏み込んでしまって・・・」
「夏美がいま、どこでどうしているのかはお尋ねにならないのですか?」田野倉が話を遮るように言った。「それが1番お聞きになりたかったことでしょう?」
継人は顔を赤らめた。図星だった。「お差し支えがなければ」
「伊吹山に遊びに行った社員が、石積町のディスカウントストアで彼女を見かけたと話しています。まだ2週間前の話です。再婚したのかも、実家に戻ったのかも分かりません。私はもうあそこへは行けませんがね」そう言ってメモに実家の住所を書いた。「よかったら、結婚式の写真を持っていかれますか?たぶんその頃とはそれほど容姿も変わってないかもしれません。私も捨てるに捨てられず処分に困っていましたので。そのまま焼却して頂いて結構です」
「いえ、困ります。それはあなたの思い出ですから。それに、私もなかなか昔の物を捨てられない性分なので」
継人が慌てて拒むと、田野倉は笑った。
田野倉はガラスの向こうにいる社員の1人にサインを送ると、しばらくして女子社員がバーベキューの火で作った焼きバナナを2皿持ってきた。継人はそれを、田野倉が新たに淹れ直したアイスコーヒーと一緒に平らげた。
別れ際に、田野倉が「お互いに何かあったら連絡しましょう」と言って電話番号を交換したが、何を連絡すればいいのだろうか、と継人は思った
継人は、その半世紀以上まえの出来事を、ほぼ芳田や母から聞いた通り正確に話した。唯一語らなかったのは、田野倉守がその現場から逃げ出したくだりだけだ。
話が終わると、田野倉は腰掛けている椅子に背もたれがあるのを忘れてしまったかのように、背中を震わせながらゆっくりと全体重を預けた。
継人は、すべての言葉が十分に腹落ちされるのを待って、続けた。
「実は今朝、柿垣の市立図書館に寄って、当時の新聞記事を撮影してきました」そう言ってショルダーバックからタブレット端末を引っ張り出してテーブルの上に置くと、田野倉のほうに向けた。つい先ほど作成した麻倉恵子の遺影と『髪を噛む少女』を並べてファイルに保存したデスクトップのアイコンをタップする。
「こんなことが・・・」田野倉は呆然となった。
「これが、お父様が私のことをご存知だったのではないかと考える根拠です。もちろん私がこの絵を描いた頃は麻倉先生の存在すら知りません。ただ今となっては、父の記憶が私の指先に不思議な力を与えていた気さえしています」
田野倉はグッと唾を呑み込んだ。「モデルはやはり夏美だったのでしょうか?」
「そうです」継人は本題に辿り着いた高揚感を必死にかみ殺した。「もっとも夏美さんは高嶺の花で、同じ美術部なのに3年間まともに話したことすらありませんでした。あの絵は、一瞬の表情を妄想で再構築したものです。結果的には“不適切な表現”だと評価され、ご本人とは似ても似つかない代物になってしまいましたが」
「いえ、むしろ写実よりもあの女の本質をよく捉えていると思います」田野倉は、吐き捨てるような口調で言った。
あの女・・・。その響きが継人の脳天を貫いた。
「絶対に口外しないことを約束してください」田野倉は絡めた両手の指に力を込めた。「父の死因はじつは自殺なのです。公には病死ということになっていますがね」
「お約束します」旧知の事実だったが、継人は始めて聞いたように装った。
「いま思うと、父はあの女に殺されたような気がします」
継人は、心の隅に微かに残っていた淡い気持ちが打ち砕かれていくのを感じた。
田野倉は立ち上がり、部屋の中を歩き回りながら続けた。
「夏美は元々この会社の社員でした。地元の短大を卒業したあと、社長自らが面接して秘書課に配属したようです。当時私は常務として世界を行き来する毎日で、30歳を越えても浮いた話ひとつない有様でした。それを心配した母がいろんな縁談を持ってきましたが、全くその気になれず、もうずっと独身のままでもいいと思っていました。そんなある年の納会で、夏美と出会ったのです」
田野倉はガラス窓に肘を当てて、バーベキューを囲んで談笑する社員たちを見た。たぶんその脳裏には数年前の景色が映っていたのかもしれない。
「彼女の美貌は社内でもすでに評判でしたが、誰とも浮いた話は無く、自分を飾る事もなく、私のステイタスに惹かれて積極的にアピールしてくるほかの女性たちとも全く別の存在でした。彼女は最初あまり乗り気ではありませんでしたが、何度も口説いてやっと交際が始まりました。やがて私は海外の視察をすべてキャンセルするほど彼女にのめり込んでいきました。そして私はついに結婚を決意します。式は彼女の希望でそれぞれの近親者と本人のみで行い、披露宴は社内の同僚だけで行ないました。夏美は主婦としても完璧でした。会社は順調に成長を続け、家政婦を何人か雇えるほどでしたが、彼女は家事の一切をひとりで行ない、最初は結婚に懐疑的だった母までも虜にしてしまったのです。しかし、その2年後、彼女はトロイの木馬が暗殺者を掃き出すように、突然その本性を現わしていくのです」
田野倉の表情は怒っていると言うより、何やら悲しげに見えた。後妻をとらなかったのも、愛憎の念がいまだに燻っているからなのだと、継人は思った。
「カナダに工場を新設することになった時、契約についての慣例や商習慣に順応するため、現地に長期滞在する必要が生じました。私は夏美に同行を求めましたが、“ここを離れて他所へ行くのはイヤです”と言って、強く拒否したのです。理由を聞いても“すぐに戻れないから”の一点張りでした。最初は外国で暮らすことに抵抗を感じているのだと思っていましたが、海外からの来賓の通訳まで務めた彼女に言葉の壁があるとも思えません。この頃から私は、彼女がこの町の誰かに会っているのかもしれないと、疑い始めるようになったのです」
継人は、あの手紙を思い出した。
わたしもどこか遠くに行きたいけど、行けない事情もあるし…。
「それからというもの、私は短期の出張に出るのも気が気でなくなり、ついには探偵を雇うことになったのです。しかし、調査報告は想像していたものとはかなり違っていました。私が出張で家を空けるときはもちろん、こちらにいるときも、彼女はほぼ週に3~4日、実家へ行き来していただけだったのです。たまに昔の女友だちとお茶を飲むことはあったようですが、それ以外はこの家と実家を結ぶ動線だけが彼女の日常でした。私は彼女を疑ったことを後悔しました。彼女は相変わらず完璧でした。ただ、遠くに行くのを極端に嫌がることを除いては」
だったら、何の問題もないじゃないか。継人はそう思ったが、田野倉はのろけているのではなさそうだった。その顔がさらに険しさを増しているのが分かる。
「調査結果を受け取った数日後、またしても同じことで夏美と口論になりました。ある取引先からの招待で7泊のオーストラリアの夫婦旅行をプレゼントされたのですが、彼女はこれさえも拒んだのです。探偵事務所から“調査した事を悟られてはいけない”と厳命されていましたが、もう限界でした。私はついに“きみはいつまで実家にしがみ付いてるつもりなんだ!”と叫ぶと、夏美はものすごい形相で“どうして四六時中、貞淑な妻を演じ続けなきゃいけないの!息苦しくて堪らないのよ!自分が素に戻れる時間を奪われるのなら、もうここには住めないわ!”とやり返してきたのです。これは正直堪えました。あなたも経験があるかもしれませんが、女の口喧嘩は、原因の半分が自分にあっても、最後は、すべて男の配慮が足らなかったという話にすり替わっていくものです。論理的に破綻していても関係ありません。私はこう言うしかありませんでした。“そんなに息苦しいのなら、明日からきみの好きにすればいい”と。そして次の日、彼女はついに叛乱を開始したのです」
あの高原夏美が・・・。継人は溜息をついた。身勝手だと分かっていても、幻想が崩れていくのはつらかった。
「朝起きると、夏美はパジャマ姿のままで、顔も洗わず、髪も整えず、胡坐をかいてテレビを観ていました。“朝ごはんは?”と聞くと、“ご自分で作ってください。食材なら冷蔵庫にあります”と言って、顔すら上げようとしません。脚の悪い母が、部屋から“夏美さん”と呼んでも、返事すらしませんでした。挙句は、ロックバンドのような荒くれた恰好をした連中を呼んできて、昼間からこの部屋でどんちゃん騒ぎをする始末です。私はてっきり探偵事務所に私生活を監視されたことに対する報復なのかと思いました。もはや私たち夫婦に話し合いをする空気など何処にもありませんでした。それから3日後の朝、すでに片方の署名と捺印が終わった婚姻届をテーブルに置いて、夏美はこの家を出て行ったのです」
継人はテーブルに目を落とした。別のテーブルだったかも知れないが、その痕跡がほんの一瞬浮かんで消えた。
「すべては突発的なことで、そのうち終息するだろう。私はそう考えていました。ところが実はそうではなかったのです。彼女はその日を境に、この町からも完全に姿を消しました。それからしばらく経って、父が東京のマンションで自ら命を絶ちました。ちょうど特許をめぐる裁判が始まったところで、精神的にも不安定だったこともあるのかもしれません。 “もう我慢の限界だ。これで終わりにする”という内容の遺書のような書置きがあったほかには、他殺を裏付ける物証もありませんでした。事件性が無ければ、警察の仕事は終わりです。しかし、私はどうしても納得できませんでした。美術品の収集以外なんの趣味も無かった父が、愛人を作り、ましてやそのマンションで自殺するなんて」
「まさか、その相手が」答えは想像がついていたが、継人はあえて訊いた。
「そうです」田野倉は寂しげに笑った。
「でも、夏美さんは不倫に関しては潔白だった筈ですよね」
「あくまで私の妻だった2年間だけです。さすがに息子の嫁である間は直接会うのを避けたのでしょう。しかし、初めてこの会社に面接に現われた日からすでに、父と夏美との関係は始まっていたようです。当時の担当課長がすべてを話しました。父が自ら秘書課に配属したのも、怪しまれずに接触するためだったのです」
「理由はお父様の財産だったのですか?」
「今まではそう思っていました。少なくともあなたと会う1時間前までは。しかし、そう考えると矛盾する点もいくつかあります。あのマンションも父の名義で、彼女に所有権はありません。わたしと離婚したことで、この家の相続権も失いました。お金だけが目的なら、今までどおり何食わぬ顔で妻の座に留まっているほうがよっぽど利口です。彼女の行動は謎だらけです。でも、あなたのおかげで1つハッキリしました。あなたが半世紀前の事件をご自分の作品と関連付けたように、父は夏美にその2つの姿を投影していたのですね」田野倉はいくぶん穏やかな表情になっていた。「あの絵を、本来あるべき場所に戻したのは正しい判断でした。だからこうしてあなたともお会いできた」
継人は立ち上がって頭を下げた。「とんでもありません。私はただ自分の好奇心を満足させるために押しかけて来たに過ぎません。そればかりか、デリケートな部分にまで踏み込んでしまって・・・」
「夏美がいま、どこでどうしているのかはお尋ねにならないのですか?」田野倉が話を遮るように言った。「それが1番お聞きになりたかったことでしょう?」
継人は顔を赤らめた。図星だった。「お差し支えがなければ」
「伊吹山に遊びに行った社員が、石積町のディスカウントストアで彼女を見かけたと話しています。まだ2週間前の話です。再婚したのかも、実家に戻ったのかも分かりません。私はもうあそこへは行けませんがね」そう言ってメモに実家の住所を書いた。「よかったら、結婚式の写真を持っていかれますか?たぶんその頃とはそれほど容姿も変わってないかもしれません。私も捨てるに捨てられず処分に困っていましたので。そのまま焼却して頂いて結構です」
「いえ、困ります。それはあなたの思い出ですから。それに、私もなかなか昔の物を捨てられない性分なので」
継人が慌てて拒むと、田野倉は笑った。
田野倉はガラスの向こうにいる社員の1人にサインを送ると、しばらくして女子社員がバーベキューの火で作った焼きバナナを2皿持ってきた。継人はそれを、田野倉が新たに淹れ直したアイスコーヒーと一緒に平らげた。
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