どうしてこの街を出ていかない?

島内 航

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 18時の高原咲恵とのアポイントまでにはまだ数時間あったが、これ以上湖岸町にいる理由もなかった。芳田は根乃井の留守を狙って旧麻倉邸に潜り込む作戦をかなり本気で提案したが、継人は一蹴した。確かに何かの答えが見つかるかも知れないが、不法侵入は犯罪だ。万一発覚すれば、失うものが大きすぎる。
 とりあえず直井町に戻って、仕切りなおすことにした。
 1人になった継人がまず訪れたのは、直井駅前の洋菓子店『グラシアス』だった。生菓子なので、明日この町を発つ時に寄ろうと思っていたが、今夜の状況によっては時間が取れないかもしれない。いつも『なおい』という名前のチーズブッセ10個入りを買っていたが、今回はお隣さんにも約束通り10個買っていくことにした。
「遠いところから、大変やね」店の奥さんはにこやかな顔で袋詰めした。
「まあ、盆暮れだけですから」継人は頭を掻いた。栗村家が駅前の再開発で立ち退く前までは家から僅か4軒先だったが、新宅へ引っ越してからもよく利用している。母とは35年前にここに店を構えてからの友人だ。
「そういえば、一昨日お姉さんもお見えになったで」
「ええ、実家で行き会いました」
「あの千賀ちゃんの娘さんがピアノの発表会やなんて、時間の経つのはあっという間やね。継ちゃんとこは子供さん、まだなん?」
「ええ、まあ」継人はあいまいに答えた。覚悟がない、とは言えない。
 会計しているあいだ、旧直井駅舎の写真と30年前に廃駅になった新直井駅舎の写真が壁に掛けてあるのを見た。それはずっとそこにあったものだが、継人には初めて意味のあるものに思えた。
「たしか、ご主人はむかし国鉄にお勤めだったんでしたっけ?」
「お爺ちゃんのコネで入ったんやけど、どうしても菓子職人になりたいって言うて、30歳になってから突然独立したんやて。その時は私も息子が生まれたばっかで気が気じゃなかったけど」
「その頃ぼくはまだ影も形もなかったですけどね」継人は笑うと奥さんも笑った。その後ろには戦後の直井駅周辺の写真も掛かっている。「たしか、うちの親父が小学生の頃、この辺で馬鹿でかい野良犬が暴れて、大騒ぎになったみたいですね」
「ああっ、街1番の美人先生が野良犬に咬まれて亡くなった話やね。お爺ちゃんがよう言うとったわ」
 継人は息を呑んで身構えたが、すぐに力が抜けた。やはり新聞の記事の通りか・・・
 しかし、奥さんはもう1言付け加えた。
「でもお爺ちゃん、変なこと言うのよ。あれは咬まれたんやなくて、誰かが仕掛けた落とし穴に落ちたんやて。公安室の情報やから間違いない言うとった」
「それも、ひどい話ですね」そう言いつつ、継人は目蓋を瞬かせた。ここでもし“おまえの親父がやったんや”と言われたら心臓が止まるかもしれない。
「美人先生は、その大きな犬の上に重なるように落ちとったらしいわ。それで消防の人が駆けつけると、全身血だらけになりながら、“入っちゃ駄目”って言ったんやて。なんかちょっと怖い話やね」
 奥さんの話はそこまでだった。どうやらお爺ちゃんの話にも3人組は登場しなかったらしい。継人はホッとした反面、背中に悪寒が走った。
穴に落ちた時点では、まだ麻倉恵子は“生きて”いたのだ。
「お釣り」奥さんは、手のひらに小銭をのせているのを継人がまったく気付かないのを見て、キョトンとした。「どうしたん?」
「はい?」2回言われて、継人は目の前に奥さんの掌があるのを見た。「あっ、すいません」
 継人は店を出るとすぐに芳田に連絡を入れた。メールを打とうとも思ったが、早く気付いてもらわないと困る。なんとか夕方までにはハッキリしておきたかった。
〈どうした?〉芳田はリラックスした声で答えた。
「近くに誰かいるか?」
〈いない。オレはいま病院の駐車場でオンラインゲームと格闘中だ。親父が一般病棟に移ったんで見舞ってきたところだ〉
「それはよかった。でも、折角のところ悪いんだが、病室に引き返して親父さんに1つ確認して貰えないか?」継人は病人への礼を欠いているのを承知の上で訊いた。「昭和36年のあの日、麻倉先生が落とし穴に飛び込んだ後の様子を見たかどうか」
〈そんなこと訊いてどうする?〉
「麻倉恵子は即死じゃなかったかもしれないんだ」
〈本当か?〉
「しかも、病院に運ばれるまえに言葉を喋ったって言うんだ。もちろんただの噂話なのかもしれんが、もし本当だったら」
〈その後も生きてた可能性もあるってことか〉芳田の声が大きくなった。
「あくまで可能性だ。当時の新聞には、葬儀は実家で近親者のみで行なわれたと書いてあった。そこも引っ掛かる」
〈オレの推理を認める気になったか?〉
「べつに認めてないとは言ってないぞ。もしあの屋敷に潜り込めるなら、不法侵入じゃなくて堂々と踏み込めるだけの情報がほしいだけだ」
〈わかった。また連絡する〉
 芳田が興奮気味に電話を切ると、継人の顔も紅潮した。あの朽ち果てた麻倉家を覗いてみたいのは継人も同じだった。ただ、自分に残された時間は今夜と明日の午前中までしかない。もちろん会社を休む手もあったが、時間切れになったらそこまでで諦めることは最初から決めていた。迷宮に入り込んだまま、いつまでもこの町に留まるわけにもいかない。
しかし、不思議なことにそれだけの時間があればすべてのケリをつけられる気がした。今夜が大きなヤマになる。継人はそんな予感がした
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