どうしてこの街を出ていかない?

島内 航

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継人は買ったばかりのチーズブッセを冷蔵庫に保存するために、一旦実家に戻った。冬場なら常温で保存しても問題ないが、夏の陽光のせいでふわふわの生地に包まれた角切りチーズとバタークリームが痛むのは避けたい。出来るだけいいコンディションのまま持ち帰りたかった。
「ただいま」
 継人が玄関口で大声を出すと、母はそれには応えず、背中を向けたまま浴槽の掃除を続けていた。「また、来とるで」
「えっ?」驚いて周囲を見回すと、玄関の上り框に『栗村継人 殿』とだけ印字された、昨日と同じ真っ白な封筒が置いてある。
「誰が持ってきたか見とらんわな?」
「あたりまえや。また、おんなじように郵便受けの中に入っとったで」母は大声になった。「いったい何やの?」
 母がうんざりして手を止める素振りすら見せなかったので、継人はその場で封を開いた。3等分に折られた紙は、相変わらずキレイに目が揃えられている。

   もう一度警告する。彼女に近づくな!
   さもないと死の報いを受けることになるぞ!

“たぶん女だな”という芳田の言葉が脳裏を過ぎったが、継人の心はまたしてもざわついた。脅迫文を受け取って穏やかでいられる人間などいない。今回は文字数が増えているばかりか、おまけに『死』という文言まで入れてきている。差出人は間違いなくこちらの動きを知っている人間だ。
 しかし、ここでふと疑問が湧いてきた。『彼女』とは誰だ?
 昨日までは高原夏美のことを指しているように思っていたが、いまや麻倉恵子のことを指しているようにも思える。これはある人物に近づくのではなく、事の真相に近づくことを意味しているのではないのか?あるいはその両方を意味しているのか?
 この差出人が『彼女』という言葉に隠喩を込めているのだとすれば、2人の『彼女』はやはり無関係ではないということだ。
 ひょっとすると、これから会う高原咲恵はその答えを知っているのかもしれない。
とはいえ、油断は禁物だ。高原咲恵が差出人である可能性も無いとは言い切れない。
 時計を見ると、そろそろ芳田との待ち合わせの時間が近づいてきた。
「これから芳田と一緒に隣町まで行ってくるわ」継人は簡単に身支度を済ませると、洗濯物を畳んでいる母に声をかけた。「たぶん相当に遅くなると思うから、何も用意せんでいいから。帰る時にまた携帯に連絡するわ」
「気いつけてな。飲酒運転はあかんで」相手が芳田だから気を許したのかどうかは分からないが、母はそれ以上なにも言わなかった。
 再び直井町役場に向かった。相変わらず内にも外にも登庁者の姿はなく開店休業状態だった。それでもお役所はお盆休みに関係なく、暦通りに仕事を続けていた。窓の外から、職員が事務所のなかを歩いているのが見える。
継人は出来るだけ目立たないように、ガランとした駐車場のいちばん端にSUVを駐めると、カーナビを操作して石積町と湖岸町の距離を調べてみた。約21キロメートル。高原夏美が行き来していたという実家からはかなりの距離だ。
「よう、待ったか」芳田は不敵な笑みを浮かべながら、助手席に乗り込んできた。「親父がいろいろ喋ったぞ」
「無理強いしなかっただろうな」継人は、強引に頼んだことに責任を感じていた。なにしろ相手はまだ入院中の患者だ。
「気にするな。心療内科の先生はトラウマ(心的外傷)を克服する第一歩は、まず思い出すことだと言ってた。そして、記憶を別の側面から見ることで克服できるようなことも教えてくれた。これはオレにとっても親父にとっても、またとない機会なんだ」
「それならいいが」継人は苦笑した。闘う理由があるのはいいことだ。相棒としては実に頼もしく、同時に妬ましくもある。自分には傷を癒すべき父親はもういない。
「そっちはどうだ?」
「第2弾が来た」継人はさっき開けた封筒を渡した。「どうやらギアを何段か上げてきた感じだ」
芳田はキレイに揃った折り目を確認してから手紙を広げた。「ずいぶん焦っているみたいに思えるな。よっぽど知られちゃまずい秘密があるんだろう」
「差出人が高原咲恵っていう可能性はあると思うか?」
「はあっ? 冗談だろ」芳田は手を叩いて笑った。「これから会う相手に脅迫文書いてどうするんだ」
「多重人格障害かもしれないだろ」継人は2人の『彼女』についての自論を説明しようと思っていたが、それ以上続けるのを止めて憮然としたままハンドルを叩いた。「で、親父さんは何て?」
「まあ、そう口を尖らせるな」芳田はリクライニングを倒して、病院で聞き取った内容を語り始めた。
「麻倉先生が穴に落ちたあと、親父が助けを呼んだ声に最初に反応したのは、近所の爺さんらしい。穴を覗き込んで何か叫ぶと、すぐに消防署まで応援を呼びに走って、しばらくすると4人ぐらいの大人が穴の周りに集まったそうだ。そして親父は、高志さんを救急隊員に預けると、大人たちが救急車とパトカーを見て群がってきた野次馬の対応に追われている隙を縫って、穴を覗き込んだんだ」
 継人は息を呑み込んだ。芳田は父から聞いた言葉を出来るだけそのまま伝えようと顔をしかめた。
「まず、鉄の焼けたような臭いと獣っぽい腐臭が生温かい風に乗って鼻の中に飛び込んできたそうだ。近くには誰かが嘔吐した痕もあって、そこには1分も立っていられない程だったらしい。穴の中には誰かの話の通り、化け物のような大きな犬の上に先生が折り重なるように乗っかっていたそうだ。竹槍の威力は凄まじく、野犬のほぼ全身を貫通し、そのうちの何本かがさらに先生の身体を貫いていたらしい。とにかく、腰が震え、喉元に酸っぱいものがこみ上げて来るのを押さえきれないくらい凄惨な光景だったようだ。血の海の中で野犬はすでに事切れていたが、そんな状況にもかかわらず、先生の顔だけは相変わらず綺麗なままだったらしい。言葉を喋ったかどうかは分からないが、その時は間違いなく“生きて”いた、と親父は言っている」
「その後も生きていたと思うか?」
「それはオレも訊いた。しかし親父は、先生がもう半分あっちの世界に行ってしまったように見えたそうだ。親父の記憶はそこまでだ。そのあと、警察から事の顛末を聞かれたようだが、拘留されることもなく、夕方には家に帰っていたらしい」
「なんか、大人の事情がありそうだな」
「それが今も尾を引いてると思ってるんだろ?」
「そんなとこだ」そう言って、継人はハンドルを高原咲恵のいる石積町に向けた。
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