どうしてこの街を出ていかない?

島内 航

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 土蔵住宅のダイニングテーブルの上に置かれたノートパソコンには、いままさに手術室の中に倒れている2人の男が映っていた。1人はバストイレのユニットの手前で横向きに、もう1人はそのすぐ近くにうつ伏せになっている。
 茶髪の女は、その長い髪を神経質そうに人差し指で巻きながら画面に見入った。
 驚くべき効果だった。不活性ガス消火設備は、火災が発生すると酸素濃度を低下させることで、機器を汚損することなく消火する仕組みだ。特に常時稼働が要求される分野では、機器を早急に復旧できるため、大変具合がいい。
 しかしその設置に関しては、人間がその空間に取り残されることが無いように厳しいガイドラインが設けられている。万一逃げ遅れるようなことがあれば、ガスの濃度が25パーセントを越えるあたりで死に至る危険性があるからだ。
 モニターに映し出された手術室内は、まるで静止画のように動かない。
「どうだい? 姉さん」床下から地階につながる階段を、根乃井はゆっくりと登ってきた。
「たぶん成功ね。もうピクリとも動かなくなったから」
「悪いが、クローゼットの猟銃を取ってくれないか」
「そんな物、どうするの?」
「突然、息を吹き返したら困るだろ」
「はっはっはっ。バカね。ゾンビ映画じゃないんだから」
 根乃井の声が大きくなった。「どっちかが車のキーを持ってるはずだ。近くに駐めてある車をどこかに処分しないとまずい」
「はいはい」
「処分したあと、帰りの足が無くなるから、姉さんも外へ出る準備をしてくれ。それですべて終わる」
「すべて・・・ね。本当に終わればいいんだけど」
“姉さん”と呼ばれた女はため息を吐くと、ノートパソコンの電源を切って、ディスプレイを閉じた。
 猟銃を手にした根乃井は、不安な面持ちで階段を降りた。これからの事を考えると憂鬱だった。自動車の処分は急務だが、もっと厄介な問題が残っている。死体の処理だ。外に運び出すには、まず解体するしかない。それが面倒ならバスタブに放り込んで濃硫酸で溶かすという手もあるが、想像しただけでも吐き気を催しそうだ。
 地階の通路に出て、突き当りの機械室の鉄扉を見る。
 もしあそこから2人が踏み込んでくる場面に出くわしたら、躊躇することなく引き金が引けただろうか?
 たぶん、そんなことはムリだ。見えないところから処刑ボタンを押すことは出来ても、面と向かって人を撃ち抜くことなど出来る訳がない。
 根乃井は恐る恐る書棚を動かした。空調装置を作動させたことで、酸素濃度は上昇しているはずだ。
大きく深呼吸をして、ゆっくりと奥の戸を開ける。まだ仄かに臭気は感じられるものの、呼吸には殆ど支障はなかった。猟銃を構えたまま手術室を見回すと、お揃いの黒いトレーナーに身を包んだ男が2人、バストイレのユニットの前に倒れているのが見える。
おそらくガスの噴射に気付いて駆け込もうとしたが、間にあわなかったということだろう。顔を覗きこむと、午前中に来たあの2人組に間違いなかった。
「バカな奴らだ」根乃井はひとりごちた。
 自動車のキーはどちらかが持っている。まず横向きになっている男の上下のポケットを銃口でつついた。こちら側にはなにも無かった。反対側も確認しようと銃身を押し当ててひっくり返そうとするが、男の身体はビクとも動かない。
「チッ!」根乃井は悪態をついた。死体に手を触れるのはイヤだが、仕方がない。いったん猟銃を床に置いて、男の身体を両手で動かそうとした。
 その時だった。
「わぁぁぁぁっ!」突然、わき腹に激しい衝撃を受けて、根乃井の身体は吹っ飛んだ。
 何が起こったのか分からないまま苦痛のあまり身体をよじると、目の前には、隣でうつ伏せに倒れていたはずの男が猟銃を握ってこちらに銃口を向けている。
「この機器はまだ使えるのか?」
継人は鋭い形相で根乃井を見下ろした。
「どっ、どうするんですか?」
「こいつを助けるんだ。決まってるだろ!」
「わたしは医者じゃない。使い方も分かりません。それに端子がすべて外されて、どこにどう繋いでいいのかすら分かりません」
「ふざけるな!」
継人は激昂した。じゃあ、あの膨大な量の医学書の持ち主は誰だ。この男を使って医療処置をさせるために、わざわざ意識を失ったフリをして機会を窺っていたというのに。
「ここだって家の一部だろ。どんな処置ができるかぐらい知らないのか!」
「見当も付きません」
「くそっ!」
 こういう時は人工呼吸をするものなのか、それすらも判らない。ただいたずらに時間を浪費しただけだった。こうしている間も、芳田の命は細く弱くなっていく。とにかく今は電波の届くところまで行って救急車を呼ばなければならない。
「上に案内しろ。今すぐだ」
「それは困る。いや、困ります」
「あんたが困ろうが、そんなことは知ったこっちゃない」継人は銃口をさらに根乃井の鼻先に近づけた。「オレは殺されかけて頭に来てるんだ。頭を吹っ飛ばされたくなかったら、言うことを聞いたほうがいい。オレたちが“バカな奴ら”だってことを忘れるな」
「わっ、分かった。いえ、分かりました」根乃井は激しく狼狽した。
老獪な曲者が、ただの気弱な老人に変わったように見える。どっちが本当の姿なのかは分からない。ただ、今は一刻も早く芳田を死の淵から救い出さなければならなかった。
 継人はわき腹を押さえながらゆっくり歩く根乃井の背中を銃口で何度もつついた。来た方向とは逆の階段を上ると、急に視界が明るくなった。
 予想はしていたが、出てきた場所は土蔵住宅のほぼ真ん中だった。午前中に来た時にはカーペットの下になって見えなかった。カウチソファー用のガラステーブルが置いてあった位置だ。床下収納のようにフローリングが四角く切り取られている。
「姉さん!」根乃井が大声で叫んだので、継人は怒鳴った。「喋るな!」
 継人は銃口を向けたまま根乃井をその場にうつ伏せに寝そべらせた。
「少しでも動いたら、撃つ」そう言ってスマホを取り出した。
アンテナは地下では圏外だったが、ここでは5分の3の表示まで戻っている。スリングを肩に掛け、狙いを付けたまま片手で119番に電話した。根乃井にここの番地を聞こうとしたが、救急隊員は途中までの説明で理解したようだった。
あの唐木という警官にも電話したかったが、止めた。官憲の手に引き渡すまえに聞いておくべきことが山ほどあったからだ。
「姉さんっていうのは、水色のワンピースに茶色で長い髪の女のことか?」
根乃井は少し戸惑ったように言った。「そうです」
「いま、どこにいる?」
「さっきまで一緒にいました。でも、どうやら出て行ったようです」根乃井は意気消沈したように呟いた。そして、顎を上げながら周りを見回した。
玄関にあったパンプスが無くなっている。ダイニングテーブルに目をやると、さっき伏せられたばかりのノートパソコンのディスプレイがまた立ち上げられていた。たぶん、なかなか上がってこないのを不審に思って、もう一度電源を入れて手術室の様子を見ていたのだろう。形勢が不利と見るや、自分を置いて逃げ出したのだ。
「高原咲恵さんを、なぜ殺した?」
「知りません。撃つなら撃てばいい。わたしは何も喋りません」
 継人は臍を噛んだ。制圧されたとはいえ、まだ狡猾さは失っていないらしい。消防隊を呼んだことで、これ以上の暴力はないと踏んでいるのだ。
かといって、順番を変えるわけにはいかなかった。芳田の命の火はまさに消えかかっている。時計を見た。そろそろ5分を過ぎるところだ。
「あなた方には酷い事をしました。でも、これで私も困った事になった」根乃井は顎を上げた。
「自業自得だ。 何をいまさら」
「あなた方を殺せなかったことで、私は娘を失う事になるかもしれません」
「わけの判らないことを言うな!」継人は大声で怒鳴った。それと同時に、玄関ドアを激しく叩く音が聞こえた。
 返答しようとしたが、鍵が掛かってないことに気付いたのか、ドアを蹴破るような勢いで3人の救急隊員が勢いよく飛び込んできた。
「被害者は?」まず隊長らしき男が怪訝そうに継人を見た。無理もなかった。全身黒色のトレーナーを着て肩に猟銃をぶら下げている男を不審に思わないわけがない。「あんた、なにやってる?」
「理由はあとで説明します。私が通報しました。入り口はこの下です。大量にガスを吸い込んで危険な状態です。早く!」継人はうつ伏せにさせている根乃井に目を落とした。「実行犯はこの男です」
「状況はよう分からんが、じき警察が来るから。物騒なもんは下ろしたほうがいい。どうせ逃げられん」そう言って、隊長は先に地下へ下りて行った隊員を追った。
 夕方に見た若い隊員と比べるとずいぶん年嵩も雰囲気も違うが、当たり前な話だった。さっきは岐阜県、今回は滋賀県。所轄が違う。今回は1人多いが、たぶん救急救命士が同行しているのだろう。
 隊員たちが階下に姿を消すと、再び2人だけになった。
「たしか、話の途中だったはずだが」そう言うと、継人はもう一度、根乃井に銃口を向けた。
「忠告は聞かないんですか?」
「あいにく、そういう気分じゃないんでね」この男の飄々とした態度がどうにも鼻につく。誰も来る予定がなければ銃床で引っ叩いてやりたかった。「それに、嘘をつかれるのはもっと気に入らない」
「娘の命が危ないというのは本当です。あなた方を始末することと引き換えに、解放される筈でした」
「それを信じろと?」
「もし失敗したら、姉は娘を殺すと言っています」
「だったら、捕まえて止めさせればいい」
「姉は簡単には捕まりません」根乃井はキッパリと言った。「彼女は普通じゃない。冷徹で、周到で、そして誰よりも賢い」
「そりゃあ残念だ。お気の毒と言うより他はないな。こっちも、見ず知らずの娘さんのために命を差し出す義理はない」
「1つだけお願いがあります」
「お願いできる立場だとは思えんが」
「もし知らなければ、ずいぶん後味の悪い思いをされるかもしれません」根乃井は神妙な面持ちで訴えた。
 継人は一瞬、唾を呑み込んだ。まったく食えない男だ。忌々しいほどに心理の柔らかいところを揺さぶってくる。意識の表層では術中に引き込むための“はったり”だと疑いつつも、深層部分はその続きを聞かずにはいられない気分になってくる。
「わかった。続きを聞こう」
 継人がそう言うと、根乃井はホッとしたような顔になった。
「じつは、あなた方が乗ってきた自動車にはGPS追跡装置が取り付けられています。姉はスマートフォンを連動させて、つねにあなた方の位置を把握していました。自動車がこの家の一段上の林道の中に駐めてあることも、もちろん知っています。すべてが終わったあと、自動車を何処かに捨てる手筈だったのです」
「なんだって?」継人は青ざめた。SUVを駐めた位置はこの男の言う通りだ。でも、いつそんなことを・・・。
 さらに話を続けようとして、根乃井は咳き込んだ。長話をするには、固いフローリングの上にうつ伏せはキツい体勢らしい。継人は座ることを許可した。
「それで?」
「できるだけ山深いところに、そのまま自動車で移動して下さい。そこで装置だけを外して谷に投げ込んで欲しいのです。そうすれば姉は、計画が予定通り行なわれたと錯覚するかもしれません」
「でも、あんたが逮捕されたのがバレれば万事休すだ」
「少なくとも時間は稼げます。そのあいだに拉致されている場所を探せばいい」
「でも、あんたは囚われの身だ」継人は苛立った。こいつ、その役目をオレがやると思っているのか。
「場所の目星は?」
「あなたなら判るかもしれません」
「なんだって?」継人は猟銃を逆手に持った。
 さらに罵声を浴びせようとした瞬間、階下からドタドタと激しい足音とともに救急隊員たちが上ってきた。
「くれぐれも内密に。警察が動けば娘は殺される」根乃井は早口に小声で付け加えると、座ったまま目を閉じた。
 2人の目の前を、担架に乗せられた芳田が通り過ぎる。状況はかなり厳しそうだ。隊員の表情にはみな色濃い疲労が滲んでいる。
「どうです?」継人は脚を止めさせないように同じ歩調で付いて行った。
「覚悟してもらったほうがいい。すでに自立呼吸ができん状態です」隊長はそう言うと、足早に消えて行った。
 全開にされた長屋門の大扉からは、病院へと向かう救急車と入れ替わるように、白黒パトカーと覆面パトカーが1台ずつ続いて入って来た。土蔵の鼻先に頭から突っ込むようにして停まると、中からは背広姿の刑事3人と、背の低い制服警官が1人出てきた。3人は初見だが、制服警官のほうはすぐに判った。
「あんたとはまた会うような気がしとったわ」唐木は、継人の身なりにはあえて触れず、禿げ上がった髪の毛を掻いた。「容疑者は中におるんか?」
「ここです」継人が指差すと、根乃井はお客を迎える旅館の旦那のようにキョトンとした表情で正座している。唐木はその姿をつまらなさそうにチラッと見ただけで、奇異な構造の土蔵住宅を繁々と見回した。
「公僕風情には理解できんセンスやな」
継人はこの小柄な制服警官の視線の先を同じように追った。相変わらずの老獪な物腰だが、根乃井のそれより好感が持てる。
「こちらの地域は管轄外じゃないんですか?」
「じつは高原咲恵の一件は、殺人事件として洗い直すことになった。つまり、2県合同捜査になったってことやな」
「新しい証拠が出たとか?」
「まあ、そう言えるかもしれん。ホトケさんの身体から出てきた薬物は、じつは何種類にも分かれとった。誰かが故意に薬を入れ替えて誤飲させた疑いが浮上してきたっちゅうわけや」
そう言って合図すると、隣にいたIT企業の社員のような佇まいの若い刑事がタブレット端末を開いた。唐木はそれを横目で見ながら続けた。「あのお姉ちゃん、営業のためなんかどうか知らんが、ずいぶん自分の私生活のことをさらけ出しとったらしい。あのインスタントなんとか・・・」
「インスタグラムです」刑事が訂正した。
「その、なんとかグラムにこんな写真が載っとった」
 刑事が拡大した画面には、いくつかの飲み薬を接写した画像が表示されている。薄いグリーンの用紙の上に、白とピンクとオレンジ色の3つの錠剤と、白と青のツートンのカプセル剤が2つ。まるでお菓子を盛り付けたような華やかさだ。写真の下にはこんなコメントがあった。
《最近なんだかカラダがダルくって、そんでもって始めたのがコレ。ジャンキーじゃないかって? コレぜんぶ漢方だから(笑)。 カラダには優しいし、心なしか肌のハリも戻ってきたみたい(変わり映えしないって言うな!!!!)。とにかく仕事前にイッキ飲みして、今夜もガンバるぞぉ!!!!》
 継人は息を呑み込んだ。茶目っ気たっぷりに“バンパイアはまだ就寝中なの。話は活動時間になってからね”と言っていたのを思い出す。スナックのママの“仕事前”は一般的に夕暮れ時、ちょうどあの水色のワンピースの女が店から出てきた時間帯だ。
 IT社員風の刑事は、画像をもう1度上にスクロールさせて、画像の解説をした。
「鑑識がこの画像を解析したところ、錠剤の成分は体内から抽出されたものと完全に一致しました。すり替えられていたのは2つのカプセル剤です。タブレット形式の錠剤は型にはめ込んで固めなければいけないので、こちらの方が偽装しやすかったのでしょう。下に敷いてある薄いグリーンの紙は市販の勘定書きの用紙を切り取って裏返しにしたものです。これらを包装するために使われていました。被害者のカバンの中にも、もう1組ストックしていたようです」
「まったく無防備っちゅうか、わざわざヒントを公表しとるようなもんやろ」唐木は根乃井の顔を覗きこんだ。表情ひとつ変えず、他人事のように聞き入っている。「ネットっていうのは、ロクなもんやない。まあ、あんたともう1人の誰かにとっちゃ好都合かも知れんがな」
「・・・・」根乃井はゆっくり目を閉じた。
「黙秘か。まあええわ。でも、どういう処遇になるかはあんた次第やで」
「共犯者が誰なのか、おおよそ見当は付いてます」滋賀県警の2人のうちベテランでプロレスラーのような体躯の刑事が、根乃井の前に立ちはだかるように手を組んだ。「殺された高原咲恵の姉の文恵と、妹の夏美です」
「夏美は違う!」根乃井が急に目を開けて、大声で叫んだ。
 壊れたままの掛け時計がとつぜん鐘を鳴らしたように、そこにいた全員が一瞬凍りついた。
「おいっ、 そこまで強く否定する理由は何だ!」プロレスラー風刑事は唾を飛ばしながら根乃井の襟をつかんだ。だが、根乃井は答えない。
 おそらくそこにいる者のなかで、継人だけがその答えに気がついた。
 根乃井が言っていた『娘』とは、高原夏美のことだ。
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