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谷底に投げ込んだGPS機器は、一度だけガサッと音を立てるとすぐに周囲の音に掻き消された。すでに眠りに就いた人間社会の静寂を嘲笑うかのように、あらゆる生命たちの果てることのない饗宴が波のように森を包んでいる。そこは人間の入り込む余地の無い、先住者だけの世界だ。
底が見えない漆黒の谷を見下ろすと、継人は人間の悪意の塊を無垢なままの異世界に遺棄してしまったような居心地の悪さを感じた。
車に乗り込むと、フロントガラスとワイパーの隙間に、名前も知らない黒い昆虫が入り込んでいる。ワイパーを動かして払い落とそうかとも思ったが、その身体が巻き込まれてガラスにシミができるのを見るのは忍びない。
それに、今夜はこんなちっぽけな命でさえすごく重いものに感じられた。あえて何もせず自然に任せよう、継人はそう思った。
1台の車すら走っていない寂れた山道を下りて行くと、湖岸町は遥か後方になっていた。やがて石積町も通り過ぎ、直井町に入る。ここまでは何の迷いもない。根乃井が言っていた“あなたなら判るかもしれません”という場所は、直井町以外の2つの町には思い当たらないからだ。
でも、根乃井は何故あんな持って回った言い方をしたのだろうか?
本当に娘の身を案じているのなら、謎解きを吹っかけている場合じゃないはずだ。『姉』に裏切られたのなら尚更だろう。
ひょっとすると何も聞かされていなかったのではないか? だとすれば、何故このオレがその場所を知っていると思ったのだろうか?
気がつくと、まるで本能に導かれるようにここまで来てしまった。
自分と高原夏美を繋ぐ唯一の接点、直井高校だ。
さらに言えば、その3階の美術室が最終目的地だ。どう考えを巡らせてもここ以外ありえない。
学校の敷地周りは、当然ながら真っ暗だった。辺りには行き交う自動車の姿すらない。通りから見えないように、校舎を少し登ったところにある弓道場の脇にSUVを停めた。
エンジンを止めて、大きく息をする。
すると、それとほぼ同時にフロントガラスの下で息を潜めていた黒い昆虫が夜の闇に消えていった。
その姿を目で追ううちに、不意に涙がこぼれ落ちた。
なぜ、こんな時に・・・。
千賀子の言葉を思い出した。“あんた、今日ちょっとおかしいで”
確かにおかしいのかも知れない、と継人は思った。オレはいったい何処に向かおうとしているのだろう? 高原夏美に会えばそれが分かると思っていた。でも、今はその答えに辿り着くのが怖い。
校舎全体を月の光が照らしている。美しい、素直にそう思った。
しかしドンキホーテのように、その威容が巨人の姿に見えるほど狂ってはいなかった。あの場所で経験した日常のひとつひとつを今でもハッキリ覚えている。
ただ、狂えるドンキホーテが田舎娘のドゥルシネーアを一国の姫に例えたように、高原夏美に何か都合のいいきっかけを与えたのも事実だ。実体を持ちながらも存在しない女性。それが旅の目的であり出発点であることも。
ところが、この旅は虚構ではない。ハッキリとした輪郭と実体を伴ったものだ。そして、そこには何者かの明確な悪意と怨念が渦巻いている。しかも、その先にはかつて淡い思いを抱いた同級生の彼女が囚われているのだ。
これが目の前の現実である以上、看過する訳にはいかない。継人はもう一度黒装束にしっかりと身を包み、車外に出た。
ふと、芙美のことが頭をよぎる。今度こそ妻を失うことになるかもしれない。
学校という公共の場は、麻倉家のような一般宅とは違う。現代の学校には日直という制度はすでに無く、全てのセキュリティは警備会社が管理している。その徹底ぶりは持ち回りの片手間仕事とは比べものにならない。相手はプロだ。防犯カメラや赤外線、窓やドアに取り付けられたセンサーをくぐり抜けて彼女を救い出すのは不可能と言っていい。侵入者を感知した警備会社が警察に通報して、この敷地全体を取り囲む。万事休す。今度こそ間違いなく御用だ。
そして、次の日の新聞には侵入者の名前と年齢と出身地、事件の発生時刻が書かれる。騒ぎを起こし、前科を背負った男を会社は置いておかないだろうし、芙美は犯罪者の妻である重圧に耐え切れず、離婚を切り出すかもしれない。
虫のいい話だが、芙美を失うのはやはり辛い。
だが、もう心は決まっていた。
誰かが、親父の子供時代から始まった半世紀以上に及ぶ長い旅を、最悪な形で終わらせようとしている。
絶対に思い通りにはさせない。この闘いがどんな結末を迎えようとも。いつかお袋と姉貴も分かってくれるはずだ。そして芙美も。
校門付近は避けて、グランド側から侵入を試みる。おそらくどの窓やドアを破ろうとしても、たちまちセンサーが作動して警報が鳴るに違いない。問題は感知してから何分後に警備員が現われるかだ。
以前、長野の取引先で夜中に警報が鳴る騒ぎがあった。原因は昼間のうちに倉庫に入り込んだ1匹の猫が、セキュリティがセットされた後に辺りを動き回り、センサーに触れたことによるものだった。まだ会社を離れたばかりで駐車場で一服付いていた支店長が慌てて事務所へ取って返すと、すでに委託した警備員が玄関先にいて、ドアを解錠するやいなや真っ直ぐ倉庫に向かったという。初動の早さもさる事ながら、ピンポイントで発生箇所に向かう精度の高さに舌を巻いたそうだ。
もし此処のシステムがそれと同レベルなら、こちらが右往左往している数分後には、警備員が真っ直ぐ美術室に飛び込んでくるだろう。運よく高原夏美に会えても、言葉を交わす時間すら無いかもしれない。
継人は、少しでも時間が稼げるように3階への最短距離を探した。先日訪れたときのように正門から普通教室を抜けていくルートでは距離が長すぎる。普通教室と特別教室を結ぶ中階段を一気に駆け上がるのがベストだ。まず1階の理科室の前で靴下を脱ぐ。近くに転がっている石を拾ってそこに詰めると、大きく深呼吸した。小声で「よし!」と気合を入れて掃き出し窓に振り下ろす。
ガラスの割れるガシャンという大きな音がするのを覚悟していたが、幸いにも短く乾いた音と共に拳3つ分ほどのガラス片が散らばっただけで済んだ。
手を伸ばして、カタツムリのような形状のクレセント錠を外すと、いつ警報が鳴ったのかも分からないくらい夢中で校内へと駆け込んだ。
底が見えない漆黒の谷を見下ろすと、継人は人間の悪意の塊を無垢なままの異世界に遺棄してしまったような居心地の悪さを感じた。
車に乗り込むと、フロントガラスとワイパーの隙間に、名前も知らない黒い昆虫が入り込んでいる。ワイパーを動かして払い落とそうかとも思ったが、その身体が巻き込まれてガラスにシミができるのを見るのは忍びない。
それに、今夜はこんなちっぽけな命でさえすごく重いものに感じられた。あえて何もせず自然に任せよう、継人はそう思った。
1台の車すら走っていない寂れた山道を下りて行くと、湖岸町は遥か後方になっていた。やがて石積町も通り過ぎ、直井町に入る。ここまでは何の迷いもない。根乃井が言っていた“あなたなら判るかもしれません”という場所は、直井町以外の2つの町には思い当たらないからだ。
でも、根乃井は何故あんな持って回った言い方をしたのだろうか?
本当に娘の身を案じているのなら、謎解きを吹っかけている場合じゃないはずだ。『姉』に裏切られたのなら尚更だろう。
ひょっとすると何も聞かされていなかったのではないか? だとすれば、何故このオレがその場所を知っていると思ったのだろうか?
気がつくと、まるで本能に導かれるようにここまで来てしまった。
自分と高原夏美を繋ぐ唯一の接点、直井高校だ。
さらに言えば、その3階の美術室が最終目的地だ。どう考えを巡らせてもここ以外ありえない。
学校の敷地周りは、当然ながら真っ暗だった。辺りには行き交う自動車の姿すらない。通りから見えないように、校舎を少し登ったところにある弓道場の脇にSUVを停めた。
エンジンを止めて、大きく息をする。
すると、それとほぼ同時にフロントガラスの下で息を潜めていた黒い昆虫が夜の闇に消えていった。
その姿を目で追ううちに、不意に涙がこぼれ落ちた。
なぜ、こんな時に・・・。
千賀子の言葉を思い出した。“あんた、今日ちょっとおかしいで”
確かにおかしいのかも知れない、と継人は思った。オレはいったい何処に向かおうとしているのだろう? 高原夏美に会えばそれが分かると思っていた。でも、今はその答えに辿り着くのが怖い。
校舎全体を月の光が照らしている。美しい、素直にそう思った。
しかしドンキホーテのように、その威容が巨人の姿に見えるほど狂ってはいなかった。あの場所で経験した日常のひとつひとつを今でもハッキリ覚えている。
ただ、狂えるドンキホーテが田舎娘のドゥルシネーアを一国の姫に例えたように、高原夏美に何か都合のいいきっかけを与えたのも事実だ。実体を持ちながらも存在しない女性。それが旅の目的であり出発点であることも。
ところが、この旅は虚構ではない。ハッキリとした輪郭と実体を伴ったものだ。そして、そこには何者かの明確な悪意と怨念が渦巻いている。しかも、その先にはかつて淡い思いを抱いた同級生の彼女が囚われているのだ。
これが目の前の現実である以上、看過する訳にはいかない。継人はもう一度黒装束にしっかりと身を包み、車外に出た。
ふと、芙美のことが頭をよぎる。今度こそ妻を失うことになるかもしれない。
学校という公共の場は、麻倉家のような一般宅とは違う。現代の学校には日直という制度はすでに無く、全てのセキュリティは警備会社が管理している。その徹底ぶりは持ち回りの片手間仕事とは比べものにならない。相手はプロだ。防犯カメラや赤外線、窓やドアに取り付けられたセンサーをくぐり抜けて彼女を救い出すのは不可能と言っていい。侵入者を感知した警備会社が警察に通報して、この敷地全体を取り囲む。万事休す。今度こそ間違いなく御用だ。
そして、次の日の新聞には侵入者の名前と年齢と出身地、事件の発生時刻が書かれる。騒ぎを起こし、前科を背負った男を会社は置いておかないだろうし、芙美は犯罪者の妻である重圧に耐え切れず、離婚を切り出すかもしれない。
虫のいい話だが、芙美を失うのはやはり辛い。
だが、もう心は決まっていた。
誰かが、親父の子供時代から始まった半世紀以上に及ぶ長い旅を、最悪な形で終わらせようとしている。
絶対に思い通りにはさせない。この闘いがどんな結末を迎えようとも。いつかお袋と姉貴も分かってくれるはずだ。そして芙美も。
校門付近は避けて、グランド側から侵入を試みる。おそらくどの窓やドアを破ろうとしても、たちまちセンサーが作動して警報が鳴るに違いない。問題は感知してから何分後に警備員が現われるかだ。
以前、長野の取引先で夜中に警報が鳴る騒ぎがあった。原因は昼間のうちに倉庫に入り込んだ1匹の猫が、セキュリティがセットされた後に辺りを動き回り、センサーに触れたことによるものだった。まだ会社を離れたばかりで駐車場で一服付いていた支店長が慌てて事務所へ取って返すと、すでに委託した警備員が玄関先にいて、ドアを解錠するやいなや真っ直ぐ倉庫に向かったという。初動の早さもさる事ながら、ピンポイントで発生箇所に向かう精度の高さに舌を巻いたそうだ。
もし此処のシステムがそれと同レベルなら、こちらが右往左往している数分後には、警備員が真っ直ぐ美術室に飛び込んでくるだろう。運よく高原夏美に会えても、言葉を交わす時間すら無いかもしれない。
継人は、少しでも時間が稼げるように3階への最短距離を探した。先日訪れたときのように正門から普通教室を抜けていくルートでは距離が長すぎる。普通教室と特別教室を結ぶ中階段を一気に駆け上がるのがベストだ。まず1階の理科室の前で靴下を脱ぐ。近くに転がっている石を拾ってそこに詰めると、大きく深呼吸した。小声で「よし!」と気合を入れて掃き出し窓に振り下ろす。
ガラスの割れるガシャンという大きな音がするのを覚悟していたが、幸いにも短く乾いた音と共に拳3つ分ほどのガラス片が散らばっただけで済んだ。
手を伸ばして、カタツムリのような形状のクレセント錠を外すと、いつ警報が鳴ったのかも分からないくらい夢中で校内へと駆け込んだ。
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