どうしてこの街を出ていかない?

島内 航

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 呼吸器を付けたままベッドに横たわっていてもなお高原夏美は美しかった。
 絵のなかに閉じ込められた少女が永遠に歳を重ねることが無いように、15年の歳月は彼女からその美しさを奪い取ることはできなかったようだ。長い睫毛に、柔らかく流れるうなじ、慈愛と意思を秘めた眉。それは彼女のほんの一部に過ぎないが、自分がかつて表現したいと思っていたものの一部でもあった。
 いつまでも見つめていたいという気持ちとは裏腹に、継人は思わず視線を逸らした。彼女が突然目を開けて向き合うのが怖かったのだ。遠い昔に投げられたボールを今さら拾って投げ返したところで、彼女が立っている位置に届くような気がしない。そして、それをちゃんと伝える自信があるのかどうかも分からなかった。
 継人と唐木は機器のチェックに来た看護師に場所を譲って廊下に出ると、岸本よりひと回りも年上に見える刑事が挨拶した。
「お休みなのにご苦労さんです」刑事がごま塩頭の汗をハンカチで拭った。「やっぱり唐木さんは私服のほうがよう似合っとるようですわ」
 刑事時代の部下か同僚だったのだろう。その口調には敬慕の情が見てとれる。
「オレのことはどうでもええ。彼女はどんな様子や」
「担当医の話だと、彼女にはそちらの方より多くの麻酔薬が打たれとったようです。その影響で覚醒遅延とかいう合併症を引き起こしとるようですが、命がどうのっていうことではないらしいですわ」
「よかった」継人が答えた。
 高原夏美にひと目会いたい。その想いがどんな形であれ現実のものになった。もちろん完全とはいえない。それでも達成感はあった。このうえ言葉を交わすことなど贅沢かもしれないと思えるほどに。
唐木は「タバコを吸って来る」とだけ言い残して、継人とともに病院の外に出た。
「ところで、あんたはいつ帰るんや?」
「きょう帰ります。後ろ髪を引かれる想いはありますけどね。サラリーマンですからそうもいきません」
「そうか。これで少なくともあんたの冒険に振り回されずに済むわけやな」
「そうなりますね」この人らしい惜別の言葉だな、と継人は思った。
 取りとめの無い話の途中で携帯が鳴り、唐木はいったんそばを離れた。
 継人はしばらく入院患者のリハビリのために設えられた庭を散歩しながら、病室が並ぶたくさんの窓を見上げた。ここには盆暮れも関係なく生と死の鬩ぎ合いが続いている。外からはその傍らに寄り添うべく行き来する人の姿も見える。
 そこで、ふと考えた。高原夏美が目を覚ましたとき、傍らにいるべき人は誰か? このままの状況なら看護師か、あのごま塩頭の刑事というところだろう。少なくとも自分ではない気がする。
 ただ、このタイミングに最もふさわしい人物なら知っている。
 継人はスマホを取り出した。
「もしもし、先日は大変お世話になりました。社長」
〈社長はやめてください〉田野倉克登は明快に笑った。〈お休みは今日までですか?〉
「そうです」こうも明るく切り返されると、これからしようとする話を切り出すのはちょっと辛い。
 その空気を読んだのか、田野倉は助け舟を出した。
〈高原の次女が亡くなった記事は新聞で読みました。“発見した男性”と書いてあったのは、あなたではないかと推測していたところです〉
「お察しの通りです。あんなおぞましいことになったのは残念です」と言いつつ、朝刊にはまだ目を通していなかったことに気が付いた。
しかし、直井高校の一件は完全に原稿の締め切り後の事件だ。彼はまだその事実を知らない。麻倉邸の事件が載っている可能性はあるが、あれは隣の県の事件だ。それに、彼が根乃井本人を知っているとも思えなかった。
〈時間ならありますよ。明日からの出張の準備で今日はずっと直井の自宅に居るつもりです。ご面倒でなければまた寄っていただければ助かります〉
「ありがとうございます。じつは今、病院にいるんです。夏美さんも一緒です。もっとも、彼女のほうはまだ意識が戻らず昏睡中ですが」
〈何があったんです?〉田野倉の口調が急に重くなった。
「すこし長くなりますが」
〈構いません〉
 よかった。田野倉は彼女にまだ心を残している。そう思っていたのは間違いなかった。
 継人は高原邸から直井高校へ至る流れをざっと説明したあと、高原夏美にまつわる幾つかの疑問について話した。
「まず、彼女がなぜ遠くに外出するのを頑なに拒んだのか? これは麻倉家の家政婦であり一朗の内縁の妻であった高原市子が亡くなったあと、3人の娘が恵子の介護を引き継ぐ事になったのが原因だと思います」
〈しかし、私が雇った探偵は、夏美は石積町の実家を往復するだけだったと報告していましたが〉
「おそらく探偵の報告は間違ってはいません。そこまでが彼女の役目だったんです。田野倉守さんから預かった延べ数億円にも及ぶ現金を都度、石積町に住む次女の咲恵さんに渡すまでが」
〈それだけの金をどうやって・・・。 父は美術品の収集以外に大金を投じることなど無かったはずなのに〉
「いえ、原資になったのがまさにその美術品なんです。たぶんお父様は芸術の本当の価値を知っておられたんだと思います。それ本来の価値に見合う価格で購入した贋物を、さながら本物の価格で買ったように見せかけて、差額と呼ぶには余りにも大きな金を夏美さんに託した。そう考えるとしっくりきます。県の美術展に協賛するほど美術に関心の高い方が、ビッグネームの作品ばかりを盲目的に買い集めるのはどう考えても道理に合いませんからね」
〈なるほど。でも父はどうしてそんな面倒な手続きをする必要があったのでしょうか?〉
「それは、もちろんあなたとお母様のためです。自分の少年時代の贖罪に心を砕いている姿を見せたくなかったのに違いありません。夏美さんを家族として迎えることになれば尚更です。そこでお父様はあなたに疑念を抱かれない方法を考え出したというわけです」
 田野倉は絶句した。継人は言葉が咀嚼されるのを待って、続けた。
「もうひとつ付け加えるなら、東京のマンションの女性は夏美さんではない。そう断言していいと思います」
〈じゃあ一体誰が?〉田野倉の声が上ずりはじめた。
「長女の文恵です。まだ確証はありませんが、今回の出来事はすべて彼女を中心に動いているのではないかと警察も疑い始めています。私が相棒の芳田と見た座敷牢には5年前に刊行された書籍類と、ほぼ同時期に入れ替えられた設備がありましたが、そこには麻倉恵子の姿はありませんでした。当時すでに70歳代になっていた筈ですが、おそらくこの間に彼女は本当の死を迎えたのでしょう。そしてそれが今回の一連の行動のスタートラインになったのです」
〈たしかに・・・それなら夏美が突然家を出て行った時期とも符合します〉
「これは私の勝手な想像ですが、麻倉恵子が亡くなったことで夏美さんの役目は終わって、そこで彼女は、長い間あなたを欺き続けてきたことにも区切りをつけなければならないと考えたんじゃないでしょうか」
 うまく伝わっただろうか。あなた達はまだお互いを必要としている。いや、是非そうあってほしい。継人は田野倉の反応を待った。
〈そう考えることができるなら・・・。ですが、私たちはもう〉
 継人は肩をすくめた。こうなったらカンフル剤を注入するしかない。
「夏美さんはじつは麻倉恵子と根乃井修一の娘だったのです」
〈まさか〉
「信じがたいことですが、新聞に掲載された写真の面影がよく似ているのもそのせいです。彼女はずっとその呪縛を背負って生きてきたんです」
そう言いつつ、継人は舌に妙なざらつきを覚えた。彼女が猟奇的で倒錯した環境のなかで生まれ落ちたことを伝えるのはやはり辛い。
田野倉は嗚咽を漏らし始めた。
〈私は・・・今まで何をしていたんでしょうね。父や妻の苦悩と向き合うこともせず、3人組の1人なのに、仲間が危険を犯しているのをただ対岸から眺めているだけ。何もしようとせず、何の犠牲も払わなかった〉
「やるべきことならまだありますよ。1番重要な仕事です。しかも、あなた以外にはできません。もうお分かりだと思います。この夏休みの絵日記の最後の1ページをあなたに描いて欲しいんです。場所は直井川病院の5階の503号室です」
 短い沈黙のあと、田野倉はどんな言葉も紡ぐことができず、すべての意味をこめて一言だけ言った。
〈・・・ありがとうございます〉
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