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継人は身支度を済ませてもう1度503号室の前まで来たが、ごま塩頭の刑事は軽く首を振った。
「まだ・・・ですか」継人はため息をついた。残念さと安堵が入り混じった、複雑な気持ちだった。「ところで、唐木さんは?」
「先に駐車場に行って待っとるっちゅう伝言がありましたわ。たしか直井高校の近くにあなたの車が乗り捨てられとる筈やと」
「そういえば、そうでした」継人は恥ずかしそうに頭を掻いた。車を放置していたことなどすっかり忘れていた。今日この町を離れるというのに。
病室の外から目をやると、カーテンから白いシーツが覗いているのが見える。
最後にもう1度、高原夏美の姿をこの目に焼き付けておきたい。そう思ったが、できなかった。ボールは田野倉氏に預けた。しかもそれは元々そこにあったものだ。
溢れる想いを振り切って、継人は病院の建物を出た。走ったわけでもないのに、喉がやたらと痛かった。
「すいません。送っていただいて」
「勘違いしてもらっちゃ困る。オレはタクシーの運転手やない。たまたま行き先が一緒だっただけや」軽トラックのやかましいエンジンの回転音に負けないぐらいの大声で、唐木は言った。
「直井高校の事務長は大丈夫だったんですか?」
「手足に炎症が残った程度で、ピンピンしとったらしい。あんたと同じように麻酔を打たれたまま転がされて、ついさっき目を覚ましたとこや。聞いたところやと、随分とつまらん男やっちゅう話やで」
「つまらん男?」
継人は数日前に直井高校に訪問したときのことを思い出した。『髪を噛む少女』の寄贈先を尋ねたとき、ヒステリックに反応した、あの事務職員のことなのだろうか?
「きのうの夜、直井町でお盆恒例の花火大会があったんやが、直井高校の校舎は町一番の高台で、しかもその屋上は絶好の鑑賞ポイントやったらしい。じつはこの屋上は数年前に生徒の飛び降り自殺があってずっと使用禁止になっとったが、この男はそれをいいことに毎年この特等席を独り占めにしとったわけや。そんな曰くつきの場所に暗いとこで独りでおられる神経も理解できんがな。ところが、今回は独りやなかった」
「高原文恵ですね」
「たぶんな。この男に相手の様子を聞いたら、あんたが言っとった服装の特徴とも一致した。それにしても署の連中が呆れたんは、現場にはビールの空き缶とおつまみ、男もんのスラックスとパンツ、そして使用済みのコンドームまで転がっとったってことや。しかも、やっこさんはイチモツを晒したまま手足を縛られとったらしい。そのどさくさで、まんまとカードと鍵を盗まれたって訳や」
「はあ・・・」それ以上言葉が出なかった。
軽トラックは松宮神社の脇の急勾配の坂を息も絶え絶えに登りきった。校内の正門の前には、2人の警察官が学校関係者以外の立ち入りを規制している。
「あんた、車はどこに駐めたんや?」
唐木は、警察官が手招きしているのを見て、入り口の手前でいったん止まった。
「弓道場のほうです。いえ、ここで構いません。歩いて直ぐのところですから」
「いや、そっちに行こう。検証が終わって報道の車が入って来とる。いま行けば揉みくちゃにされるで」
そう言うと、唐木は校舎をやり過して再び軽トラックに鞭を打った。
以前インターハイ出場で名を馳せた弓道部も、今日はお休みらしい。建物の直ぐ脇に駐めたので通報されないかと心配だったが、SUVは昨晩と何の変わりもなくそこにあった。
「いろいろありがとうございました」
「まあ気をつけてな。高原文恵は必ず捕まる。いまはネット社会や。あっちに行ってもすぐ分かるやろ」
「あっ、ちょっと待ってください」継人はSUVのドアを開けて、ダッシュボードの中から2通の手紙を取り出した。「この5日間で、私の実家に直接投函されていたものです。この事件に関係している誰かから送られてきたものかもしれません」
唐木は首を振りながら中身を読んだ。「隠してるのはこれだけかね、探偵さん」
「そのハンチング帽に誓って」
「ふん」と鼻を鳴らすと、唐木は挨拶代わりに2度ほどハザードランプを点滅させて、ゆっくりと坂を下りて行った。
継人はその様子を見送ると、SUVに乗り込んで母に電話を入れようとした、が止めた。ここから実家までは車でわずか数分の距離だ。どういうわけか、母に連絡をするときはいつもギリギリになってしまう。
家に着くと、案の定、母は開口一番に言った。
「ぜんぜん連絡もせんで、どこ行っとったの?」
一語一句違わず予想通りだったので、継人はあらかじめ用意した言葉で返した。「ちょっと無茶し過ぎて、さっきまで寝とったんやわ」
「アホやな」母はその意味をあえて詮索しなかった。「そんなんで、長い距離運転して帰って大丈夫なんか?」
「大丈夫やて」継人はホッとした。無茶をしたのは事実だが、どんな無茶かと聞かれても答えようがない。
「もう1回、墓参りしてから帰ろうと思う」
「めずらしいこと言うんやね。あんなの1回行けばええって、いつも言っとったのに」
「今回は、ちょっとそんな気分なんや」
「ふぅ~ん。まあええわ。冷蔵庫にチーズブッセが入っとるから、忘れたらあかんで」
「分かっとるわ」
少しずつ日常が戻っていく。もうこの数日の出来事を話すような雰囲気は完全に無くなっていた。
「おはぎを作った残りがあるから、食べていきや」母は小皿をテーブルに置いた。
「ありがと」継人は2個を冷たい麦茶と一緒に胃に流し込むと、大きく息を吐いた。
「なあ、ところで親父って幸せだったんやろうか?」
「私みたいな奥さんがおるのに不幸なわけないやろ」
「いや、そうやなくて」
「さあ、それは私もよう分からん。あんまり顔に出さん人やったから。でも、嬉しそうな顔しとる時は、大抵あんたの話をしとる時やったわ」
母は何かを思い出したように笑顔になった。継人はその横顔を見て胸が一杯になった。“父と向き合えなかった”という田野倉氏の言葉が頭を過ぎる。何のことはない。訳知り顔で聞いていた自分自身も、親父のことなど何も分かっていなかったのだ。そして母のことも。
「じゃあ、正月にまた来るわ」そう言って、継人は実家を後にした。
墓参りに向かう途中、例の脅迫文のことを思い出した。母は何も言わなかったが、あの後はもう届いてなかったのだろうか?
「まだ・・・ですか」継人はため息をついた。残念さと安堵が入り混じった、複雑な気持ちだった。「ところで、唐木さんは?」
「先に駐車場に行って待っとるっちゅう伝言がありましたわ。たしか直井高校の近くにあなたの車が乗り捨てられとる筈やと」
「そういえば、そうでした」継人は恥ずかしそうに頭を掻いた。車を放置していたことなどすっかり忘れていた。今日この町を離れるというのに。
病室の外から目をやると、カーテンから白いシーツが覗いているのが見える。
最後にもう1度、高原夏美の姿をこの目に焼き付けておきたい。そう思ったが、できなかった。ボールは田野倉氏に預けた。しかもそれは元々そこにあったものだ。
溢れる想いを振り切って、継人は病院の建物を出た。走ったわけでもないのに、喉がやたらと痛かった。
「すいません。送っていただいて」
「勘違いしてもらっちゃ困る。オレはタクシーの運転手やない。たまたま行き先が一緒だっただけや」軽トラックのやかましいエンジンの回転音に負けないぐらいの大声で、唐木は言った。
「直井高校の事務長は大丈夫だったんですか?」
「手足に炎症が残った程度で、ピンピンしとったらしい。あんたと同じように麻酔を打たれたまま転がされて、ついさっき目を覚ましたとこや。聞いたところやと、随分とつまらん男やっちゅう話やで」
「つまらん男?」
継人は数日前に直井高校に訪問したときのことを思い出した。『髪を噛む少女』の寄贈先を尋ねたとき、ヒステリックに反応した、あの事務職員のことなのだろうか?
「きのうの夜、直井町でお盆恒例の花火大会があったんやが、直井高校の校舎は町一番の高台で、しかもその屋上は絶好の鑑賞ポイントやったらしい。じつはこの屋上は数年前に生徒の飛び降り自殺があってずっと使用禁止になっとったが、この男はそれをいいことに毎年この特等席を独り占めにしとったわけや。そんな曰くつきの場所に暗いとこで独りでおられる神経も理解できんがな。ところが、今回は独りやなかった」
「高原文恵ですね」
「たぶんな。この男に相手の様子を聞いたら、あんたが言っとった服装の特徴とも一致した。それにしても署の連中が呆れたんは、現場にはビールの空き缶とおつまみ、男もんのスラックスとパンツ、そして使用済みのコンドームまで転がっとったってことや。しかも、やっこさんはイチモツを晒したまま手足を縛られとったらしい。そのどさくさで、まんまとカードと鍵を盗まれたって訳や」
「はあ・・・」それ以上言葉が出なかった。
軽トラックは松宮神社の脇の急勾配の坂を息も絶え絶えに登りきった。校内の正門の前には、2人の警察官が学校関係者以外の立ち入りを規制している。
「あんた、車はどこに駐めたんや?」
唐木は、警察官が手招きしているのを見て、入り口の手前でいったん止まった。
「弓道場のほうです。いえ、ここで構いません。歩いて直ぐのところですから」
「いや、そっちに行こう。検証が終わって報道の車が入って来とる。いま行けば揉みくちゃにされるで」
そう言うと、唐木は校舎をやり過して再び軽トラックに鞭を打った。
以前インターハイ出場で名を馳せた弓道部も、今日はお休みらしい。建物の直ぐ脇に駐めたので通報されないかと心配だったが、SUVは昨晩と何の変わりもなくそこにあった。
「いろいろありがとうございました」
「まあ気をつけてな。高原文恵は必ず捕まる。いまはネット社会や。あっちに行ってもすぐ分かるやろ」
「あっ、ちょっと待ってください」継人はSUVのドアを開けて、ダッシュボードの中から2通の手紙を取り出した。「この5日間で、私の実家に直接投函されていたものです。この事件に関係している誰かから送られてきたものかもしれません」
唐木は首を振りながら中身を読んだ。「隠してるのはこれだけかね、探偵さん」
「そのハンチング帽に誓って」
「ふん」と鼻を鳴らすと、唐木は挨拶代わりに2度ほどハザードランプを点滅させて、ゆっくりと坂を下りて行った。
継人はその様子を見送ると、SUVに乗り込んで母に電話を入れようとした、が止めた。ここから実家までは車でわずか数分の距離だ。どういうわけか、母に連絡をするときはいつもギリギリになってしまう。
家に着くと、案の定、母は開口一番に言った。
「ぜんぜん連絡もせんで、どこ行っとったの?」
一語一句違わず予想通りだったので、継人はあらかじめ用意した言葉で返した。「ちょっと無茶し過ぎて、さっきまで寝とったんやわ」
「アホやな」母はその意味をあえて詮索しなかった。「そんなんで、長い距離運転して帰って大丈夫なんか?」
「大丈夫やて」継人はホッとした。無茶をしたのは事実だが、どんな無茶かと聞かれても答えようがない。
「もう1回、墓参りしてから帰ろうと思う」
「めずらしいこと言うんやね。あんなの1回行けばええって、いつも言っとったのに」
「今回は、ちょっとそんな気分なんや」
「ふぅ~ん。まあええわ。冷蔵庫にチーズブッセが入っとるから、忘れたらあかんで」
「分かっとるわ」
少しずつ日常が戻っていく。もうこの数日の出来事を話すような雰囲気は完全に無くなっていた。
「おはぎを作った残りがあるから、食べていきや」母は小皿をテーブルに置いた。
「ありがと」継人は2個を冷たい麦茶と一緒に胃に流し込むと、大きく息を吐いた。
「なあ、ところで親父って幸せだったんやろうか?」
「私みたいな奥さんがおるのに不幸なわけないやろ」
「いや、そうやなくて」
「さあ、それは私もよう分からん。あんまり顔に出さん人やったから。でも、嬉しそうな顔しとる時は、大抵あんたの話をしとる時やったわ」
母は何かを思い出したように笑顔になった。継人はその横顔を見て胸が一杯になった。“父と向き合えなかった”という田野倉氏の言葉が頭を過ぎる。何のことはない。訳知り顔で聞いていた自分自身も、親父のことなど何も分かっていなかったのだ。そして母のことも。
「じゃあ、正月にまた来るわ」そう言って、継人は実家を後にした。
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