どうしてこの街を出ていかない?

島内 航

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 アパートまであと1時間で到着できる距離になったので、継人はパーキングエリアに入って再び芙美に電話を入れた。
 しかし、いまだに繋がる様子は無い。チャットも相変わらず未読のままだ。お義母さんの具合はそんなに悪いのか? それならそれで連絡ぐらい入れてもいいはずだが。
 ここでふと、1つの疑念が生まれた。
 ひょっとすると、芙美もまた『あの女』に眠らされているのではないか?
 いや、それはありえない。継人は助手席に置いたGPS機器の残骸に目を遣った。ここにあるのは『眼』だ。これ無しに芙美に近づくことはできない。
 きっと芙美は、自分を置いたまま意気揚々と出かけて行った夫を許せなかったのかもしれない。それとも、あまり想像したくはないが、そんな夫に見切りをつけて新しい人生を模索する決心したのかもしれない。
 いずれにしても、今は芙美が無事でいること以外は些細な問題でしかない。たとえ三行半を突きつけられようが、元気でいてくれたほうがずっといい、と思った。
 それにしても、実際のところ『彼女』に命を狙われる可能性はどれくらいあるのだろうか?
『彼女』の一連の行動のなかで、殺害にまで及んだのは高原咲恵だけだ。根乃井姉弟はその行動に翻弄されながらも、命を狙われるようなことは無かった。
 つまり、田野倉氏が言ったように、『彼女』の冷徹な知性は、それぞれが犯した罪の重さを評価し、それに相応しい罰を与えているということになる。もし『彼女』が狂気のみに突き動かされているのだとすれば、麻倉家に関係する人物を1人残らず葬り去ろうとするに違いない。
 そう考えれば、何の罪も犯していない『アバター』を裁く理由もないはずだ。
 要するに、“アバターを殺しに行く”という言葉は単なる暗喩であって、実際の行動レベルでの話ではないということだ。
 それも、今までの状況を踏まえれば、十分に納得できる。高原文恵はこの状況を楽しんでいるのだろう。
継人は軽くハンドルを叩いた。
唐木巡査部長に取り越し苦労だと連絡しようか? ふとそう思ったが、やめた。
 もうひとつのGPS機器が見つかったと言えば、それ見たことかと言わんばかりにこの考察自体を一笑に付すに決まっている。
 とにかく今は、ギクシャクしつつある芙美との結婚生活をどう修復するかだけを考えることにしよう。
継人はおそらく今日初めて、硬直した背中をシートに預けた。ひんやりとした感覚が全身に伝わり、思ったより汗をかいていたことに気が付く。あれこれ思いを巡らせているうちに、出口の料金所まで来ていた。ここを過ぎればあと20分程でアパートに到着するはずだ。
一般道に入った最初の信号待ちで、チャットの着信音が鳴った。
田野倉氏からだった。
継人は信号が変わると、交差点の先にあるコンビ二の駐車場に入り、1度大きな深呼吸をしてからチャットを開封した。
《結婚式の集合写真を送ります。前列の中央、新婦の夏美の隣にいるのが長女の文恵さんです。彼女が写っているのはこの1枚だけでした。画像は少し荒くなりますが、拡大写真も添付しておきます。追伸。確証が無いので随分と迷ったのですが、彼女が此処に現われる可能性があるということなので、現場にいる刑事さん達にもこの写真を見せようと思います》
 田野倉氏らしい丁寧な文章の下をスクロールしていくと、半円形に大きく張り出した総ガラス張りの部屋の中央に前後6人ずつ、新郎新婦を含む計12人の出席者の姿が見える。窓の外には満開の花を散りばめたハナミズキの木々。時期は4月後半くらいだろうか。
 しかし、なんといっても1番目を引くのは、その沢山の白い花を圧倒するほど華やかな新婦夏美の純白のウェディングドレス姿だ。
 そこには、後に起こるいろんな出来事を予感させるものは何もないように見える。写し出されているのは、永遠の愛を誓い合う2人と、それを見守る人達の絵に描いたような光景だけだ。
 ただ、継人は不思議なことに、それを見ても幾ばくの羨望も感じなかった。
 それは、田野倉克登の地位と名誉に屈服したからではなく、自分が彼女と人生を歩んでいく未来を想像出来なかったせいだ。
いまにして思えば、あの絵を描いた高校時代から彼女はずっと実体を伴わない思春期の幻影だったのかもしれない。
目を写真に戻すと、その眩い姿のすぐ隣に、あの高原文恵がいる。
上品なネイビーのドレスに真珠のネックレス。挑発するような眼差しでカメラを見つめる小悪魔のような佇まいは、新婦とは違った魅力を放っている。田野倉が言った、少女のような無邪気さという表現は実に的を得ている。もうひとつ隣の咲恵の落ち着いた薄いピンクのドレスが、本人の仏頂面のせいでくすんだ印象を与えているのとは対照的だった。同じ麻倉恵子を母に持つことを考えると、次女だけが母方の遺伝子の恩恵にあずかれなかったのは不憫にさえ思えた。
この3人以外はすべて田野倉家の親族だ。中央の新郎克登は白いタキシードで満面の笑みを浮かべている。
その隣が町一番の名士で、亡き父の幼馴染みでもある故田野倉守氏だ。
もし半世紀以上前にこの人物が件の『野犬捕獲作戦』を計画しなければ、この図は存在しなかっただろう。ただ新郎新婦の2人だけは、どんな紆余曲折を経てもいずれ自然な形で出逢い、惹かれていったように思える。
継人はため息をついた。
やはり、これは自分の運命ではなかったのだ。
画面をさらにスクロールさせると、高原文恵のアップの写真が現われた。
複数の顔と一緒に並ぶとキツい印象しかなかった眼差しも、個として切り取ってみると、涼しげななかにも憂いを含んだ眼差しに変わった。それは初めて見るはずなのに、言いようのない懐かしさを感じさせるものだった。
そのとき、背中を冷たいものが走った。
なぜ、そう思う?
もう一度、画像を覗き込む。写真の顔を、脳内の記憶を頼りに髪型を変え、化粧を落としてみる。
そんな・・・・。
ありえない。これは悪い冗談だ。こんなことがあるはずがない。
継人は思わず笑い出した。目が霞んで、像がぼやけていく。
オレはいったい何をやっていたんだ? この5日間はいったい何だったんだ。
笑い終わると、怒涛のような寂寞感が襲ってきた。
茫然としつつ、さらに画面をスクロールする。
そして、田野倉氏に返信を書き込んだ。
《ご連絡ありがとうございました。たぶんそちらは大丈夫かと思います。信じがたいことですが、どうやら彼女はこちらにいるのかもしれません》
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