どうしてこの街を出ていかない?

島内 航

文字の大きさ
34 / 38

33

しおりを挟む
 時計は21時を少し回ったところだったが、中心市街地に向かう車の数は一向に減る様子はなかった。街は相変わらず規則正しく動いているはずなのに、信号待ちがいつもより長く感じられる。継人はイラついてハンドルを何度も叩いた。
 頭のなかは、芙美のことで一杯だった。
 当たり前だと思っていた日常が揺らいでいく。芙美はたぶん病院になど行っていない。そして、おそらく部屋にいるのかどうかも分からない。
 いったい、何故こんなことに・・・。
 目の前を通り過ぎていく車のように、芙美と共に過ごした日々が次々とフラッシュバックしてくる。
 最初に脳裏をよぎったのは、4年前、芙美が新人の事務員として同じ職場にやって来た日の全体朝礼だ。
当時の継人は、付き合い始めてまだ5回しか会っていない彼女がいたが、自分にとっては世間への体裁を取り繕うだけの単なる記号にしか過ぎなかった。深入りする前にいつ別れを切り出そうかと、いつもそればかり考えていた。仕事のほうも、毎日ほぼ同じルートの得意先を回る営業に嫌気が差し始め、環境を変えたいと日々夢想していた。自分の周りを包み込んでいる美しい自然も空気も、向こう側の世界との結界でしかない。そのすべてから逃げ出したい、そう思っていた。
その日の朝も、どんよりとした気持ちのまま、大声を張り上げる支店長のほうをボンヤリと見ていた。
「新人を紹介する」という合図と共に、事務所の入り口の方から匂い立つような黄色い残像が目の前をサッと通り過ぎ、支店長の隣で一礼した。
 そのとき、全身を包み込んでいた濃い霧が一瞬にして消し飛んだような気がした。
「有坂芙美です」と名乗った彼女は、鮮やかな黄色のタートルネックのセーターに身を包み、穏やかな笑みを浮かべている。
 継人はその姿を見て、身体中に何かが走るのを感じた。
 当時はそれが何なのか分からなかったが、いま考えてみると、高原夏美の目の前を通り過ぎた黄色いイチョウの葉っぱが絵を描くことへの渇望を呼び起こしたように、自分の前を通り過ぎた黄色い服の芙美の姿が、未来へと繋がる1本の線を浮かび上がらせたように思える。
 しかし、その気持ちがハッキリしたのはもう少し後のことだった。
 その年はいろんな事が起こった。プライベートでは、付き合っていた彼女とすったもんだの末に別れ、仕事のほうでは、本社の人員削減政策で支店の半分の同僚と別れた。そして、何といってもいちばん堪えたのは、実家の父が糖尿病の合併症で倒れ、永遠に別れることになってしまったことだ。
もう別れはたくさんだ。もう何も失いたくない。
その強い想いは、すべて真っ直ぐ芙美へと向かっていった。いずれはすべてを失う、そんなことは分かっていた。でも、芙美だけは自分の人生が続く限りいつも隣にいて欲しい、切実にそう思った。
芙美にその想いをどう伝えたのかは覚えていない。とにかく熱に浮かされたように必死に口説いたのを覚えている。その衝動は、『髪を噛む少女』に取り組んだときとよく似ていた。それは、流されるままに生きてきた人生のなかで、たった2回だけ訪れた自発的な衝動だったような気がする。
けっきょく、芙美は吹き出しそうになりながらも、満面の笑みでたった一言「いいよ」と応えて、それから交際が始まった。
奇妙なのはその2つとも『黄色』が関係していることだ。もし今回のことが無ければ一生省みることはなかったに違いない。
これは、本当に偶然のことなのだろうか?
そして、『髪を噛む少女』が手元を離れて行ったように、芙美もまた自分のもとを離れて行ってしまうのだろうか?
気がつくと、アパートの前まで来ていた。恐る恐る3階の左の角部屋の窓を見上げる。
照明が点いている!
ということは、中に芙美がいるということだ。駐車場には芙美の軽乗用車も駐まっている。継人はとりあえずホッと息をついた。
しかし、違和感は消えない。では芙美はどうして連絡の1つもしてこなかったのだ?
SUVを駐車場に入れて、荷物を担ぎ、階段を上る。コソコソする必要など何もないのに、なぜか慎重になった。
鍵を開けて玄関に入る。電気を点けると芙美の靴が3足、自分の靴が2足並んでいる。
継人は小さく舌打ちした。よく使う靴をいつも出しっぱなしにするのは悪い習慣だ。これでは在室かどうかも判断できない。
とりあえず声を掛けてみる。「ただいま」
返答がない。廊下とダイニングは暗いままだ。あとは寝室と居間だが、建物の外から明かりが見えたのは居間だ。
深呼吸をして、一気に戸を開ける。
「なっ!」
 継人はその光景に凍りついた。
 部屋の真ん中に置かれたダイニングチェアに、芙美が縛り付けられている。
 しかもその口元は、自分の髪を猿轡代わりに噛まされて「うううっ」と苦しげに唸りながら、何かを訴えようとしている。
 その姿は、さながら『髪を噛む少女』を再現しているかのようだ。
「それ以上、入ってこないほうがいいわよ」芙美のとなりに立っている込山今日子が、にこりと笑って言った。
いや、正確には高原文恵と言うべきか。
「どういうことなんだ!」継人は怒鳴り声を上げた。
「へぇ~っ、驚かないんだ」
「そんなことはどうでもいい。何故こんなことをする!」
 高原文恵は、結婚式の写真そのままの小悪魔のような微笑を浮かべている。
 やられた。あらためて継人は思った。
『1番上の姉』という固定観念に囚われて、ずっと間違った人物像を描いていた。高原文恵は、その童顔と引き締まった容姿にメイクと衣装を駆使して、込山今日子という、20歳代前半にしか見えない女性像を造り上げていたのだ。
 いま彼女は、右手を腰に当て、左手は点滴スタンドにぶら下がっているボトルの流量を調節するクレンメを握っている。そしてその先のチューブは、チェアの肘掛けに固定された芙美の右腕の静脈へと続いていた。
「あなた達とささやかな祝杯を挙げたいの。継人さんの今回の活躍と、芙美の日々の献身に敬意を表して」
「ふざけるな! だったら芙美を解放してからにしろ」
「それはムリね。だって祝杯の大事な余興だもの。私がこれを全開にしたら、薬液が身体中に回って芙美は5分で死ぬ。でも、あなたは何も出来ない。この生と死の緊張感にこそエクスタシーがあるの。そう思わない?」
「狂ってる」
「そう。みんな狂ってる。だから私が裁くことにしたの」
「だからって人を殺していいわけはないだろ。咲恵さんはキミの妹じゃないか」
「あんなブス、私の妹なんかじゃない。私はただ罪に見合う罰を与えてやっただけ。あの女は私の父を殺したんだから」
「殺したって・・・誰を?」
継人は口ごもった。根乃井はまだ生きている。
 高原文恵は悪戯っぽく微笑んだ。「田野倉守よ」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

罪悪と愛情

暦海
恋愛
 地元の家電メーカー・天の香具山に勤務する20代後半の男性・古城真織は幼い頃に両親を亡くし、それ以降は父方の祖父母に預けられ日々を過ごしてきた。  だけど、祖父母は両親の残した遺産を目当てに真織を引き取ったに過ぎず、真織のことは最低限の衣食を与えるだけでそれ以外は基本的に放置。祖父母が自身を疎ましく思っていることを知っていた真織は、高校卒業と共に就職し祖父母の元を離れる。業務上などの必要なやり取り以外では基本的に人と関わらないので友人のような存在もいない真織だったが、どうしてかそんな彼に積極的に接する後輩が一人。その後輩とは、頗る優秀かつ息を呑むほどの美少女である降宮蒔乃で――

天才天然天使様こと『三天美女』の汐崎真凜に勝手に婚姻届を出され、いつの間にか天使の旦那になったのだが...。【動画投稿】

田中又雄
恋愛
18の誕生日を迎えたその翌日のこと。 俺は分籍届を出すべく役所に来ていた...のだが。 「えっと...結論から申し上げますと...こちらの手続きは不要ですね」「...え?どういうことですか?」「昨日、婚姻届を出されているので親御様とは別の戸籍が作られていますので...」「...はい?」 そうやら俺は知らないうちに結婚していたようだった。 「あの...相手の人の名前は?」 「...汐崎真凛様...という方ですね」 その名前には心当たりがあった。 天才的な頭脳、マイペースで天然な性格、天使のような見た目から『三天美女』なんて呼ばれているうちの高校のアイドル的存在。 こうして俺は天使との-1日婚がスタートしたのだった。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

旧校舎の地下室

守 秀斗
恋愛
高校のクラスでハブられている俺。この高校に友人はいない。そして、俺はクラスの美人女子高生の京野弘美に興味を持っていた。と言うか好きなんだけどな。でも、京野は美人なのに人気が無く、俺と同様ハブられていた。そして、ある日の放課後、京野に俺の恥ずかしい行為を見られてしまった。すると、京野はその事をバラさないかわりに、俺を旧校舎の地下室へ連れて行く。そこで、おかしなことを始めるのだったのだが……。

処理中です...