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遠くから警察のサイレンの音が聞こえて、やがて遠ざかっていった。
一瞬、部屋のなかに緊張が走ったが、すぐに元通りになった。芙美は落胆したのか、うな垂れて目を閉じている。
「じゃあ、オレを選んだ理由は?」
「『髪を噛む少女』よ。いま芙美が実演中だけど」
継人は忌々しげに拳を握ったが、文恵は構わず続けた。「私があの絵を観たのは直井高校に寄贈された年の文化祭だった。目にした瞬間、面白い、まずそう思った。モデルは夏美だったのかもしれないけど、あれは紛れもなく母ね。四肢を失っても2人の男を惹きつけた母の魔性がよく出てる。なんにも知らずに描き上げたのは奇跡と言ってもいいんじゃないかな。それにその周りを舞うイチョウの葉っぱが、描き込み過ぎてゲシュタルト崩壊してるのも面白い。そこで私は思ったの。ああ、この人だって」
「そりゃあ光栄だね」すこしも光栄でない表情で、継人は言った。
「そこで私は、どうやったらあなたを動かせるかを考えた。それには協力者が必要だった。妹の夏美と・・・」そして、芙美の肩に手を置いた。「あなたの奥さんのね」
「芙美が?」
継人が信じられないといった表情で目を向けると、芙美は苦しげに顔を背けた。文恵は愉しそうにグラスを飲み干して、その透明のガラス越しに継人の表情を見る。
「お近づきの第一歩はまず相手を知ること。私はこの街に来てすぐにマンスリー賃貸を借りて、毎日あなた達の周辺を調べた。職場、家族や知り合い、趣味や行きつけの店なんかをね。次はさらに距離を縮めるために、隣人に出て行ってもらうこと。これは案外簡単だった。マイホームを新築するためにせっせとお金を貯めてる若い夫婦だったから、100万円あげるって言ったらふたつ返事で出て行ったわ。あとはどういう隣人を演じるかだけ。芙美は仕事を辞めて昼間も部屋にいるから、時間が噛み合うように夜の女・込山今日子を演じることにしたの。頻繁に顔を合わせるようにして徐々に距離を詰めていく計画だったけど、芙美は受身の性格だから打ち解けるにはそれほど時間は掛らなかった。そして、いつしかお互いの悩みを打ち明けるようになると、面白いことが分かった」
文恵は空のグラスにシャンパンを注いだ。
「あなたが、この街を出たがっていること」
「オレはそんなことを・・・」そこまで言って、継人は喉を詰まらせた。いや、そんなことを言ったことはない。
しかし、言葉には出さずとも芙美は知っていたのだ。ふと表情を覗き込むと、芙美は冷たい汗を拭おうとするように上を向いている。
「でも、それだけじゃ、あなたを動かすにはまだまだ弱い。故郷に飛んで帰りたくなるような強い動機がないとね。真っ先に頭に浮かんだのはやっぱり『髪を噛む少女』だった。夏美がモデルだったのなら、2人のなかに何かがあったと思うでしょ。それで私は田野倉の家を出て石積町の事務の職に就いている夏美を訪ねて、長野であなたに会ったことを話したわけ。夏美がものすごく動揺してたから、てっきりこっぴどい別れ方をしたんじゃないかと思った。ところが、何のことはない。2人は何も始まってなかったのね。じゃあいったい何に動揺したのかと尋ねると、じつはあなたの絵の具の蓋の裏に手紙を入れたんだけど、結局なんの反応もなく捨てられたのかもしれない、ということだった」
「・・・」
継人は何ともいえない複雑な表情になった。文恵はその反応に満足したように続ける。
「じつに淡くも切ない話ね。同時に、ずいぶん馬鹿げた話でもある。絵を捨ててサラリーマンを選んだあなたが、いつまでも古い絵の具を後生大事に持ってるわけないじゃない。でも私は思った。いつか他所に飛び出したいと夢想してるような男が、心の拠りどころを捨てるはずがないってね」
「オレはずいぶん分かりやすいタイプなんだな」
「ハッハッハッ。すごくナイーブな人だと言い直してもいいけど」文恵は声を出して笑った。「正直な話、芙美に電話して本当に手紙が見つかったのを聞いたときは小躍りしたわ。最高じゃない。お父さんの手紙が咲恵に殺害のキッカケを与えたように、今度は夏美の手紙がキッカケになるんだから」
「狂ってる」
「心地いい響きね。かくして計画は動き始めたのよ。芙美の名演技とともにね」
芙美が涙ぐみながら身体を揺らして唸っている。
「芙美はどうして?」
「代弁してあげてもいいけど、それって夫婦の話だから」
「卑怯な」首筋の注射痕がチクリと痛む。「けっきょくオレはずっとキミの掌のなかで踊ってただけなのか」
「そう卑下したものでもないわよ。こっちの予想を超えた行動のおかげで、何度もシナリオを書き直さなきゃならなかったんだから。芳田の息子が絡んでくるのから始まって、旧家には忍び込むわ、地下室で大人しく寝てればいいものを脱出してその後の段取りをひっくり返すわ、あげくは夏美まで眠らせる羽目になるわ」
「まるでオレが悪いみたいに聞こえる。いいか、夏美さんは、いやキミの妹はいま、キミに打たれた麻酔による合併症で昏睡状態なんだぞ」
「それはおかしいわね」すこしも慌てることなく、文恵は言った。「ひょっとしてお兄さんからチャットが入ってない?」
「全部お見通しってわけか」
継人は憮然とした表情で、ズボンのポケットからスマホを取り出した。ホーム画面が表示されると、1件の通知がポップアップウインドウに浮かび上がっている。
田野倉さん : 夏美が意識を取り戻しました。本当に有り難うございます。
とある。着信は1時間前だ。
「どう?」
継人は忌々しげにスマホを閉じた。「なぜ分かる」
「ホームドクターだもの。家族の体質くらいは分かる。ちなみに夏美の盲腸の手術も私がやったのよ」
「でも、どうしてあんな事を?」
「あの子が裏切ったから」文恵は初めて哀しげな表情になった。
「私と夏美はあの閉ざされた地下室の中で産まれ、母屋の1階で産まれた咲恵とは別々に育てられたの。そして私たちが母の面倒を看れるようになると、市子さんはそのすべてを私たちに押し付けるようになった。私が介助のかたわら元教師だった母から勉強を教わっているうちに、いつの間にか義務教育のうちの4年間が過ぎていたの。それに気付かされたのは、夏美が小学校に入学するときだった。新しい背広に身を包んで小さな夏美の手を取って歩く根乃井の後ろ姿は今でも覚えてる。そのとき私は、夏美と自分との絶望的な違いを思い知らされたわけよ。私は単に母の介助するためだけに生まれてきたんじゃないのかってね。だけど私は根乃井に懇願するようなことはしなかった。あの地下室で勉強を教えてもらうことが、母の生きるモチベーションにもなるって信じていたから。その日はこれからも母と一緒に生きることを決意した日になった。そして同時に、外の世界で生きることになる夏美との決別の日にもなったってわけ。というのも、私たちは戸籍上は高原家の養女っていう扱いだから、外の学校に通うには石積町の市子さんの家に移る必要があったのよ」
なるほど、石積町の家に文恵のいた気配が無かったのはそういうことだったのか・・・。
継人は田野倉の言葉を思い出した。この何とも奇妙な女性が “現実と虚構のあいだに身を置いている ”ように見えたのも、実際の環境がそうだったからなのかもしれないし、同じDNAを共有している者だけにある何かが、そう思わせたのかもしれない。
「12歳の春、私はついにお父さんとの邂逅を果たした。そして魔法のポケットを元に、あの地下室を離れることなく通信制ですべての学業を修めたの。夏美は地元の短大の家政科を出たあと自分が母を看ると言ったけど、いまさらあの子に頼むつもりなんて気は毛頭なかった。その代わりにお父さんの近くにいるようにお願いしたけどね。でも、私たち2人はあまりにも離れすぎてた。今回の計画を持ちかけたとき、夏美は “誰も傷つけたくない”と言って断ったのよ。環境が人を変えるってことなのかしら。あの子は私たちが抱いてきた屈辱や怒りを『試練』だと言い切った。もう私たちが同じ認識に立つのはムリだと思ったわ。自然や神の試練なら分かるけど、他人から受ける屈辱は試練なんかじゃない。あの子はけっきょく自分のいる世界を守ろうとするだけの凡庸な人間に成り下がった。だったら今度は私が『試練』を与えてやろうと考えたの」
「ずいぶん屈折した考え方だな」
「そうかしら? 与える側と受ける側が同じ立場に立つことが真の平等だと思うけどね。でも、そうはいっても夏美はたった1人の妹だから、それなりに手加減はするつもりだった。それで、あの子にちょっとした罠を仕掛けたの。 “私は日本を離れるから、花火大会の夜に直井高校の美術室で『髪を噛む少女』に見守られながら最後の別れをしましょう”っていう罠をね。たぶん夏美は気付いていたのかもしれない。誰もいない校舎に自由に出入り出来るのも不自然なら、指定された場所もずいぶん芝居めいてるから。それでも姿を見せたのは、私を説得できると思ったからなのね。あの絵の中の少女みたいに私をまっすぐ見据えて何かを言おうとした。でも私は聞く耳なんてない。すかさずあの子の首筋を軽く叩いて気絶させると、今の芙美みたいに縛り上げた。そして、呼び出した本当の理由が根乃井をおびき寄せるための『虜』だということを教えてやった。そのあたりは根乃井から聞いてるわよね。ところが実際に現れたのは根乃井じゃなくてあなただったわけよ」
「オレだったらどうして眠らせる必要があったんだ?」
「分からない?」文恵は意外そうに首を傾げた。
「分かるもんか」
「残念ね。だってあなたが夏美を救い出したら、これまで見せてきた私たちの物語が、あなたの物語になって終わっちゃう。それだけは絶対に認めるわけにはいかないもの」
「そんな身勝手な理由なのか?」
「理由はもう1つある」文恵は伏せ目がちに呟いた。「嫉妬したのよ。あなたが夏美を助けようとするのをね」
「・・・・」継人は絶句した。芙美がどんな表情をしているのか気になったが、言い訳の言葉すら浮かばなかった。
そのときだった。玄関のチャイムが続けて何度も鳴るのが聞こえた。
「出たら?」文恵はすこしも慌てる様子もなく言った。「たぶん訪問販売じゃないと思うわよ」
「あっ、ああ」継人は声を上ずらせた。自分のほうが緊張しているのが不思議だった。状況が動くチャンスかもしれない、そんな予感が背中を振るわせる。芙美が祈るようにこちらを見ているのを一瞥すると、ドアホンをやり過ごして玄関に向かった。階段室が吹き抜けで音が反響しているせいで、人の気配が複数あるのが感じられる。
「警察です」
ドアを開けるなり、ガタイのしっかりした背広姿の2人組が警察手帳を見せた。「いま、ここに高原文恵が来ていますね?」
単刀直入に切り込んできた。ノーという返答は受け付けない、そういう凄みすら感じられる。
「あのぉ」
継人が次の言葉を言うより先に、2人組は土足のまま一気に踏み込んできた。
「失礼します」
「待て!」継人は2人目の肩を掴もうとしたが、間一髪ですり抜けられた。「いま行ったらマズいことに」
2人の刑事は、制止する声など意に介せず居間に向かって行った。
「待てったら!」
しかし、継人が部屋に駆け込んだ時には、すべて終わっていた。
おそらく一瞬の出来事だったのだろう。先に入って来た刑事が拳銃を構え、その銃口の先に、クレンメから手を離して両手を挙げている文恵の姿が見える。
「22時34分。高原文恵を、殺害ならびに3件の傷害、および根乃井修一への殺人教唆の疑いで逮捕する」
先輩格か上司と思しき刑事が拳銃を構えたまま時刻と罪状を読み上げると、もう1人の刑事が時刻を書き取った。文恵はなんら抵抗する素振りも見せず、両手を挙げたままじっとしている。
「そんなことより、芙美の手首のそれを早く取らないと!」
継人がたまらず叫ぶと、先輩格はチューブの軌跡を目で追いながら文恵に怒鳴りつけた。
「これは何だ?」
「ちょっと待って、私がやる」文恵はいったん手を下ろし、慣れた手つきで芙美の右腕に刺さったままの注射針を引き抜いた。「大丈夫。中には入ってない」
そして継人はもう1人の刑事と一緒に縄を解いた。
「はぁはぁはぁはぁはぁ」
猿轡になっていた髪の毛を解くと、芙美は苦しそうに息を吐き出してダイニングチェアから立ち上がろうとしたが、よろめいて継人の腕の中に倒れ込んだ。
「ごめん、私」
「いいんだ」
芙美の言葉を遮るように、継人はその身体を抱きしめた。
カチャ、カチャ
鍵をかけた時のような音が2回響き、刑事は文恵を先に歩かせた。
「権利を読み上げるか?」
「結構よ。優秀な弁護士を雇うだけのお金は持ってるから」
「ふん」刑事は鼻を鳴らした。
「それより餞別を持って帰りたい」
「なんだそれは?」
「クーラーボックスの中に入ってる」継人が代わりに答えた。「2つある内の1つがキミの分だ」
「武士の情けね」
文恵は手錠をはめた状態のまま、器用に箱の中のチーズブッセを1個取り出し、愉しそうに頬張った。「懐かしい。そして、美味しい。過去の記憶は消せても、DNAに刷り込まれた記憶は消せないわね」
継人はそれには答えなかった。
刑事はうんざりした様子で追い立てるように背中を突くと、高原文恵は手錠をはめられた手をヒラヒラさせながら、踊るように玄関を出て行った。
「今までの私にさよなら~。こんにちは~新しい私」
一瞬、部屋のなかに緊張が走ったが、すぐに元通りになった。芙美は落胆したのか、うな垂れて目を閉じている。
「じゃあ、オレを選んだ理由は?」
「『髪を噛む少女』よ。いま芙美が実演中だけど」
継人は忌々しげに拳を握ったが、文恵は構わず続けた。「私があの絵を観たのは直井高校に寄贈された年の文化祭だった。目にした瞬間、面白い、まずそう思った。モデルは夏美だったのかもしれないけど、あれは紛れもなく母ね。四肢を失っても2人の男を惹きつけた母の魔性がよく出てる。なんにも知らずに描き上げたのは奇跡と言ってもいいんじゃないかな。それにその周りを舞うイチョウの葉っぱが、描き込み過ぎてゲシュタルト崩壊してるのも面白い。そこで私は思ったの。ああ、この人だって」
「そりゃあ光栄だね」すこしも光栄でない表情で、継人は言った。
「そこで私は、どうやったらあなたを動かせるかを考えた。それには協力者が必要だった。妹の夏美と・・・」そして、芙美の肩に手を置いた。「あなたの奥さんのね」
「芙美が?」
継人が信じられないといった表情で目を向けると、芙美は苦しげに顔を背けた。文恵は愉しそうにグラスを飲み干して、その透明のガラス越しに継人の表情を見る。
「お近づきの第一歩はまず相手を知ること。私はこの街に来てすぐにマンスリー賃貸を借りて、毎日あなた達の周辺を調べた。職場、家族や知り合い、趣味や行きつけの店なんかをね。次はさらに距離を縮めるために、隣人に出て行ってもらうこと。これは案外簡単だった。マイホームを新築するためにせっせとお金を貯めてる若い夫婦だったから、100万円あげるって言ったらふたつ返事で出て行ったわ。あとはどういう隣人を演じるかだけ。芙美は仕事を辞めて昼間も部屋にいるから、時間が噛み合うように夜の女・込山今日子を演じることにしたの。頻繁に顔を合わせるようにして徐々に距離を詰めていく計画だったけど、芙美は受身の性格だから打ち解けるにはそれほど時間は掛らなかった。そして、いつしかお互いの悩みを打ち明けるようになると、面白いことが分かった」
文恵は空のグラスにシャンパンを注いだ。
「あなたが、この街を出たがっていること」
「オレはそんなことを・・・」そこまで言って、継人は喉を詰まらせた。いや、そんなことを言ったことはない。
しかし、言葉には出さずとも芙美は知っていたのだ。ふと表情を覗き込むと、芙美は冷たい汗を拭おうとするように上を向いている。
「でも、それだけじゃ、あなたを動かすにはまだまだ弱い。故郷に飛んで帰りたくなるような強い動機がないとね。真っ先に頭に浮かんだのはやっぱり『髪を噛む少女』だった。夏美がモデルだったのなら、2人のなかに何かがあったと思うでしょ。それで私は田野倉の家を出て石積町の事務の職に就いている夏美を訪ねて、長野であなたに会ったことを話したわけ。夏美がものすごく動揺してたから、てっきりこっぴどい別れ方をしたんじゃないかと思った。ところが、何のことはない。2人は何も始まってなかったのね。じゃあいったい何に動揺したのかと尋ねると、じつはあなたの絵の具の蓋の裏に手紙を入れたんだけど、結局なんの反応もなく捨てられたのかもしれない、ということだった」
「・・・」
継人は何ともいえない複雑な表情になった。文恵はその反応に満足したように続ける。
「じつに淡くも切ない話ね。同時に、ずいぶん馬鹿げた話でもある。絵を捨ててサラリーマンを選んだあなたが、いつまでも古い絵の具を後生大事に持ってるわけないじゃない。でも私は思った。いつか他所に飛び出したいと夢想してるような男が、心の拠りどころを捨てるはずがないってね」
「オレはずいぶん分かりやすいタイプなんだな」
「ハッハッハッ。すごくナイーブな人だと言い直してもいいけど」文恵は声を出して笑った。「正直な話、芙美に電話して本当に手紙が見つかったのを聞いたときは小躍りしたわ。最高じゃない。お父さんの手紙が咲恵に殺害のキッカケを与えたように、今度は夏美の手紙がキッカケになるんだから」
「狂ってる」
「心地いい響きね。かくして計画は動き始めたのよ。芙美の名演技とともにね」
芙美が涙ぐみながら身体を揺らして唸っている。
「芙美はどうして?」
「代弁してあげてもいいけど、それって夫婦の話だから」
「卑怯な」首筋の注射痕がチクリと痛む。「けっきょくオレはずっとキミの掌のなかで踊ってただけなのか」
「そう卑下したものでもないわよ。こっちの予想を超えた行動のおかげで、何度もシナリオを書き直さなきゃならなかったんだから。芳田の息子が絡んでくるのから始まって、旧家には忍び込むわ、地下室で大人しく寝てればいいものを脱出してその後の段取りをひっくり返すわ、あげくは夏美まで眠らせる羽目になるわ」
「まるでオレが悪いみたいに聞こえる。いいか、夏美さんは、いやキミの妹はいま、キミに打たれた麻酔による合併症で昏睡状態なんだぞ」
「それはおかしいわね」すこしも慌てることなく、文恵は言った。「ひょっとしてお兄さんからチャットが入ってない?」
「全部お見通しってわけか」
継人は憮然とした表情で、ズボンのポケットからスマホを取り出した。ホーム画面が表示されると、1件の通知がポップアップウインドウに浮かび上がっている。
田野倉さん : 夏美が意識を取り戻しました。本当に有り難うございます。
とある。着信は1時間前だ。
「どう?」
継人は忌々しげにスマホを閉じた。「なぜ分かる」
「ホームドクターだもの。家族の体質くらいは分かる。ちなみに夏美の盲腸の手術も私がやったのよ」
「でも、どうしてあんな事を?」
「あの子が裏切ったから」文恵は初めて哀しげな表情になった。
「私と夏美はあの閉ざされた地下室の中で産まれ、母屋の1階で産まれた咲恵とは別々に育てられたの。そして私たちが母の面倒を看れるようになると、市子さんはそのすべてを私たちに押し付けるようになった。私が介助のかたわら元教師だった母から勉強を教わっているうちに、いつの間にか義務教育のうちの4年間が過ぎていたの。それに気付かされたのは、夏美が小学校に入学するときだった。新しい背広に身を包んで小さな夏美の手を取って歩く根乃井の後ろ姿は今でも覚えてる。そのとき私は、夏美と自分との絶望的な違いを思い知らされたわけよ。私は単に母の介助するためだけに生まれてきたんじゃないのかってね。だけど私は根乃井に懇願するようなことはしなかった。あの地下室で勉強を教えてもらうことが、母の生きるモチベーションにもなるって信じていたから。その日はこれからも母と一緒に生きることを決意した日になった。そして同時に、外の世界で生きることになる夏美との決別の日にもなったってわけ。というのも、私たちは戸籍上は高原家の養女っていう扱いだから、外の学校に通うには石積町の市子さんの家に移る必要があったのよ」
なるほど、石積町の家に文恵のいた気配が無かったのはそういうことだったのか・・・。
継人は田野倉の言葉を思い出した。この何とも奇妙な女性が “現実と虚構のあいだに身を置いている ”ように見えたのも、実際の環境がそうだったからなのかもしれないし、同じDNAを共有している者だけにある何かが、そう思わせたのかもしれない。
「12歳の春、私はついにお父さんとの邂逅を果たした。そして魔法のポケットを元に、あの地下室を離れることなく通信制ですべての学業を修めたの。夏美は地元の短大の家政科を出たあと自分が母を看ると言ったけど、いまさらあの子に頼むつもりなんて気は毛頭なかった。その代わりにお父さんの近くにいるようにお願いしたけどね。でも、私たち2人はあまりにも離れすぎてた。今回の計画を持ちかけたとき、夏美は “誰も傷つけたくない”と言って断ったのよ。環境が人を変えるってことなのかしら。あの子は私たちが抱いてきた屈辱や怒りを『試練』だと言い切った。もう私たちが同じ認識に立つのはムリだと思ったわ。自然や神の試練なら分かるけど、他人から受ける屈辱は試練なんかじゃない。あの子はけっきょく自分のいる世界を守ろうとするだけの凡庸な人間に成り下がった。だったら今度は私が『試練』を与えてやろうと考えたの」
「ずいぶん屈折した考え方だな」
「そうかしら? 与える側と受ける側が同じ立場に立つことが真の平等だと思うけどね。でも、そうはいっても夏美はたった1人の妹だから、それなりに手加減はするつもりだった。それで、あの子にちょっとした罠を仕掛けたの。 “私は日本を離れるから、花火大会の夜に直井高校の美術室で『髪を噛む少女』に見守られながら最後の別れをしましょう”っていう罠をね。たぶん夏美は気付いていたのかもしれない。誰もいない校舎に自由に出入り出来るのも不自然なら、指定された場所もずいぶん芝居めいてるから。それでも姿を見せたのは、私を説得できると思ったからなのね。あの絵の中の少女みたいに私をまっすぐ見据えて何かを言おうとした。でも私は聞く耳なんてない。すかさずあの子の首筋を軽く叩いて気絶させると、今の芙美みたいに縛り上げた。そして、呼び出した本当の理由が根乃井をおびき寄せるための『虜』だということを教えてやった。そのあたりは根乃井から聞いてるわよね。ところが実際に現れたのは根乃井じゃなくてあなただったわけよ」
「オレだったらどうして眠らせる必要があったんだ?」
「分からない?」文恵は意外そうに首を傾げた。
「分かるもんか」
「残念ね。だってあなたが夏美を救い出したら、これまで見せてきた私たちの物語が、あなたの物語になって終わっちゃう。それだけは絶対に認めるわけにはいかないもの」
「そんな身勝手な理由なのか?」
「理由はもう1つある」文恵は伏せ目がちに呟いた。「嫉妬したのよ。あなたが夏美を助けようとするのをね」
「・・・・」継人は絶句した。芙美がどんな表情をしているのか気になったが、言い訳の言葉すら浮かばなかった。
そのときだった。玄関のチャイムが続けて何度も鳴るのが聞こえた。
「出たら?」文恵はすこしも慌てる様子もなく言った。「たぶん訪問販売じゃないと思うわよ」
「あっ、ああ」継人は声を上ずらせた。自分のほうが緊張しているのが不思議だった。状況が動くチャンスかもしれない、そんな予感が背中を振るわせる。芙美が祈るようにこちらを見ているのを一瞥すると、ドアホンをやり過ごして玄関に向かった。階段室が吹き抜けで音が反響しているせいで、人の気配が複数あるのが感じられる。
「警察です」
ドアを開けるなり、ガタイのしっかりした背広姿の2人組が警察手帳を見せた。「いま、ここに高原文恵が来ていますね?」
単刀直入に切り込んできた。ノーという返答は受け付けない、そういう凄みすら感じられる。
「あのぉ」
継人が次の言葉を言うより先に、2人組は土足のまま一気に踏み込んできた。
「失礼します」
「待て!」継人は2人目の肩を掴もうとしたが、間一髪ですり抜けられた。「いま行ったらマズいことに」
2人の刑事は、制止する声など意に介せず居間に向かって行った。
「待てったら!」
しかし、継人が部屋に駆け込んだ時には、すべて終わっていた。
おそらく一瞬の出来事だったのだろう。先に入って来た刑事が拳銃を構え、その銃口の先に、クレンメから手を離して両手を挙げている文恵の姿が見える。
「22時34分。高原文恵を、殺害ならびに3件の傷害、および根乃井修一への殺人教唆の疑いで逮捕する」
先輩格か上司と思しき刑事が拳銃を構えたまま時刻と罪状を読み上げると、もう1人の刑事が時刻を書き取った。文恵はなんら抵抗する素振りも見せず、両手を挙げたままじっとしている。
「そんなことより、芙美の手首のそれを早く取らないと!」
継人がたまらず叫ぶと、先輩格はチューブの軌跡を目で追いながら文恵に怒鳴りつけた。
「これは何だ?」
「ちょっと待って、私がやる」文恵はいったん手を下ろし、慣れた手つきで芙美の右腕に刺さったままの注射針を引き抜いた。「大丈夫。中には入ってない」
そして継人はもう1人の刑事と一緒に縄を解いた。
「はぁはぁはぁはぁはぁ」
猿轡になっていた髪の毛を解くと、芙美は苦しそうに息を吐き出してダイニングチェアから立ち上がろうとしたが、よろめいて継人の腕の中に倒れ込んだ。
「ごめん、私」
「いいんだ」
芙美の言葉を遮るように、継人はその身体を抱きしめた。
カチャ、カチャ
鍵をかけた時のような音が2回響き、刑事は文恵を先に歩かせた。
「権利を読み上げるか?」
「結構よ。優秀な弁護士を雇うだけのお金は持ってるから」
「ふん」刑事は鼻を鳴らした。
「それより餞別を持って帰りたい」
「なんだそれは?」
「クーラーボックスの中に入ってる」継人が代わりに答えた。「2つある内の1つがキミの分だ」
「武士の情けね」
文恵は手錠をはめた状態のまま、器用に箱の中のチーズブッセを1個取り出し、愉しそうに頬張った。「懐かしい。そして、美味しい。過去の記憶は消せても、DNAに刷り込まれた記憶は消せないわね」
継人はそれには答えなかった。
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