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私がいなくなった世界を想像して
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誰にも伝えず、内緒で書き続けた、小説があった。
部屋にある机の、上から2番目の引き出しには、原稿や、それに纏わるノートが入っている。
妻がもしそれを見つけたなら・・・
定年退職し、ずっと家にいるのも良くないと、私はよく図書館に通った。
歩いて15分程で、運動にもなるし、図書館に行けば、忘れてしまっていた情熱が蘇る感覚があった。
昔に読んだことのある名作から、最近流行っている小説、時には漫画まで、ジャンルを問わずに読む。
自己啓発本の類も多く読み、妻を怒らせないコツが書かれた本を読んでみたり、老後の生活で重要なことがまとめられた本も沢山読んだ。
そして、読むことと並行して行ったのが、物語を書くことだった。
幼い頃には、よく小説を書いていたもので、その時の気分の高まりを思い出すようだった。
一人っ子だった私は、外に出て遊ぶのがどうも性に合わず、もし兄弟がいたなら、何かしらの影響を受けていたかも知れないが、そんな可能性もなく、ひたすら部屋で一人、想像を膨らませ、現実では起こり得ないような物語を書き続けた。
そうして書いた小説は、高校を卒業し、実家を出る時に全て処分してしまった。
今思えば勿体無いことをした気もするが、当時読み返した時には、あまりにも幼く恥ずかしい作品に思え、それを持って行こうとも思えなかったし、実家に残して誰かに見られてしまうことの方が恐ろしく思えた。
あれからもう、50年近くの時が経つ。
そんな今の私が書けるのは、あの頃のような空想に溢れた物語ではなかった。
「あなたの努力が認められました。さあ、あなたは、誰の見る世界が見たいですか?」
案内人だという男にそう問われる。
私は、自分で書いた小説を残したまま、死んでしまったらしい。
努力とは一体、どういうことだろうか。
長年続けた仕事に対しての努力だろうか。
しかし、私は他の人と比べて、特別な何かをした訳ではないように思う。
毎朝早く起きて、新聞を読み、混雑する電車に揺られ、見慣れた建物、見慣れた同僚、そういう繰り返しに馴染んでいただけだ。
これといった夢も、幼い頃に描いたような浪漫的なものもなかったはずで、命はあっという間に失われたということだ。
「特に、見たい世界はありません」
私がそう言うと、
「あなたのいなくなった世界には、興味がありませんか?」
と、男は少し困惑するように質問で返してきた。
もしかすると、私のように希望がないのは珍しいことなのかも知れない。
「興味がないと言うより、私がもう死んでしまっているのなら、どうしようもできないという感じですかね。それに、家族に会うにしても・・・妻の姿を見るのはとても辛いでしょうし」
「悲しむ顔を見るのがということでしょうか?」
「ええ、そうですね。それに、私の周りにいた、夫に先立たれた女性は皆、案外立ち直りが早かったように思えて・・・」
話しながら、私がただの惨めな男に思えてきてしまっていた。
恐らく、妻に尽くせていなかった、妻に日常的に感謝を伝えられていなかった、そういう申し訳なさがあるからだろう。
案内人は、
「もちろん実際、すぐに立ち直る方もいるでしょうけど・・・でも、何気ない会話の中での表情や、他人が知ることのできない一人の時間なんかには、悲しみが滲んだり、抱えきれないのではないかと思うほどの悲しみに涙することもあるでしょう」
と、これまで出会った数多くの人々を思い出すような目で伝えてきた。
「そうですね・・・」
私は、その通りだと思いながら、私の妻がどっちに該当するのかを考えてしまう。
「本当に見たい世界がありませんか?」
案内人は、もう一度質問してきた。
それでも私の答えは変わらなかった。
「はい、ありません」
見たい世界は、何もない。
後悔があっても、死んだ私は、それ以上を望まない。
そう思った。
「こんな私に添い遂げてくれた妻には感謝でいっぱいですし、息子も立派に育ってくれました。孫の顔まで見せてくれて。私はもう、十分です。ただ・・・」
「ただ?」
「完成させた小説があるんです」
「あなたが書いた小説ですか?」
「はい」
「それが気がかりなのですね?」
「まあ、そうですね。その物語の主人公は、私なんです。そして、私以外の主な登場人物は・・・」
私以外に、名前を与えられた登場人物は、妻だけだった。
それは、私の伝記とまではいかないのだが、私のこれまでを多く織り込んだ物語。
最近図書館で書き始めた小説というのは、幼い頃に書いたような現実味のないような、空想上の物語ではなく、いわゆる恋愛小説だった。
最初は、そういうジャンルを書くつもりなどなかったのだが、書いているうちに、スラスラと書けるのはこのテーマしかないと気づいた。
今の私に書けるのは、そして、書きたいのはこのテーマだけだと。
「私は、誰かに小説を書いていることも、昔、書いていたことについても話したことがありません。完成させた小説だって、今のところは誰にも見せないつもりでした。それはもちろん、そう遠くないであろう、自分が死んでしまう時にどうするか、ということもよく考えてはいましたが。でもまさか、答えを出す前に死んでしまうなんて・・・」
「この最後のチャンスは、もしタイミングが良ければ、その小説が誰かに読まれているかを確認できる機会かも知れませんよ?」
案内人は、どうしても私に、誰の見る世界が見たいのかを決めてほしいようだった。
「私は、誰の見る世界も見るつもりはありません。もちろん、見たい気持ちも少しはありますが・・・でも、私は私の見た世界だけで十分です。だから、私が残した私が書いた小説がどうなるか・・・例えば、誰も読まないまま処分されるとか、妻が見つけてこっそり読むとか。息子が見つけて、息子は騒々しいところがあるので、家族全員を呼んで読むことになるとか・・・想像以上の名作で、出版してみようと試みるとか・・・あまりにも恥ずかしい駄作で、家族の間でお蔵入りになるとか・・・そういう、私がいなくなってからの世界を、私は想像しながら死にたいのです」
「そうですか」
もしかすると私は、私が書いた小説を、誰かに見つけられるのを待っていたのかも知れない。
例えそのタイミングが、私の死だとしても。
案内人は言った。
「物語を書けるあなたが羨ましいです。そして、残せるものがあることも、素晴らしいと思います。誰かの見る世界を見ずに、自分が見た世界だけ・・・その考え方も、尊重します」
「そんな大したものじゃないんです。私は、臆病なだけかも知れません。私がいなくなった今の妻を知るのも怖いし、物語を書いていたのだって、現実では叶えられないことが多いから。ただそれだけの理由かも知れません」
「それでも、私はあなたを尊重します。そして、尊敬します」
案内人の男は、真っ直ぐに私を見つめ、そう言った。
出会ったばかりだとしても、最後に私を認めてくれる人がいて良かった。
どこまでも臆病な私は・・・
「あ、すみません・・・泣くつもりはなかったのですが」
どこまでも臆病な私は最後に、人前で涙する機会を与えられたのかも知れない。
「本当にすみません。どうして涙が・・・」
涙が堪えようとする間もなく、流れ落ちる。
「謝らないで下さい。悲しい時はただ、泣いて下さい」
妻は私の死を、泣きながら悲しんでくれているだろうか。
もし叶うのなら、やはり、私が書いた物語を最初に見つけるのは妻で、最初に読むのも妻であってほしい。
私が生まれた意味を、その物語から汲み取ってほしい。
そう願った。
部屋にある机の、上から2番目の引き出しには、原稿や、それに纏わるノートが入っている。
妻がもしそれを見つけたなら・・・
定年退職し、ずっと家にいるのも良くないと、私はよく図書館に通った。
歩いて15分程で、運動にもなるし、図書館に行けば、忘れてしまっていた情熱が蘇る感覚があった。
昔に読んだことのある名作から、最近流行っている小説、時には漫画まで、ジャンルを問わずに読む。
自己啓発本の類も多く読み、妻を怒らせないコツが書かれた本を読んでみたり、老後の生活で重要なことがまとめられた本も沢山読んだ。
そして、読むことと並行して行ったのが、物語を書くことだった。
幼い頃には、よく小説を書いていたもので、その時の気分の高まりを思い出すようだった。
一人っ子だった私は、外に出て遊ぶのがどうも性に合わず、もし兄弟がいたなら、何かしらの影響を受けていたかも知れないが、そんな可能性もなく、ひたすら部屋で一人、想像を膨らませ、現実では起こり得ないような物語を書き続けた。
そうして書いた小説は、高校を卒業し、実家を出る時に全て処分してしまった。
今思えば勿体無いことをした気もするが、当時読み返した時には、あまりにも幼く恥ずかしい作品に思え、それを持って行こうとも思えなかったし、実家に残して誰かに見られてしまうことの方が恐ろしく思えた。
あれからもう、50年近くの時が経つ。
そんな今の私が書けるのは、あの頃のような空想に溢れた物語ではなかった。
「あなたの努力が認められました。さあ、あなたは、誰の見る世界が見たいですか?」
案内人だという男にそう問われる。
私は、自分で書いた小説を残したまま、死んでしまったらしい。
努力とは一体、どういうことだろうか。
長年続けた仕事に対しての努力だろうか。
しかし、私は他の人と比べて、特別な何かをした訳ではないように思う。
毎朝早く起きて、新聞を読み、混雑する電車に揺られ、見慣れた建物、見慣れた同僚、そういう繰り返しに馴染んでいただけだ。
これといった夢も、幼い頃に描いたような浪漫的なものもなかったはずで、命はあっという間に失われたということだ。
「特に、見たい世界はありません」
私がそう言うと、
「あなたのいなくなった世界には、興味がありませんか?」
と、男は少し困惑するように質問で返してきた。
もしかすると、私のように希望がないのは珍しいことなのかも知れない。
「興味がないと言うより、私がもう死んでしまっているのなら、どうしようもできないという感じですかね。それに、家族に会うにしても・・・妻の姿を見るのはとても辛いでしょうし」
「悲しむ顔を見るのがということでしょうか?」
「ええ、そうですね。それに、私の周りにいた、夫に先立たれた女性は皆、案外立ち直りが早かったように思えて・・・」
話しながら、私がただの惨めな男に思えてきてしまっていた。
恐らく、妻に尽くせていなかった、妻に日常的に感謝を伝えられていなかった、そういう申し訳なさがあるからだろう。
案内人は、
「もちろん実際、すぐに立ち直る方もいるでしょうけど・・・でも、何気ない会話の中での表情や、他人が知ることのできない一人の時間なんかには、悲しみが滲んだり、抱えきれないのではないかと思うほどの悲しみに涙することもあるでしょう」
と、これまで出会った数多くの人々を思い出すような目で伝えてきた。
「そうですね・・・」
私は、その通りだと思いながら、私の妻がどっちに該当するのかを考えてしまう。
「本当に見たい世界がありませんか?」
案内人は、もう一度質問してきた。
それでも私の答えは変わらなかった。
「はい、ありません」
見たい世界は、何もない。
後悔があっても、死んだ私は、それ以上を望まない。
そう思った。
「こんな私に添い遂げてくれた妻には感謝でいっぱいですし、息子も立派に育ってくれました。孫の顔まで見せてくれて。私はもう、十分です。ただ・・・」
「ただ?」
「完成させた小説があるんです」
「あなたが書いた小説ですか?」
「はい」
「それが気がかりなのですね?」
「まあ、そうですね。その物語の主人公は、私なんです。そして、私以外の主な登場人物は・・・」
私以外に、名前を与えられた登場人物は、妻だけだった。
それは、私の伝記とまではいかないのだが、私のこれまでを多く織り込んだ物語。
最近図書館で書き始めた小説というのは、幼い頃に書いたような現実味のないような、空想上の物語ではなく、いわゆる恋愛小説だった。
最初は、そういうジャンルを書くつもりなどなかったのだが、書いているうちに、スラスラと書けるのはこのテーマしかないと気づいた。
今の私に書けるのは、そして、書きたいのはこのテーマだけだと。
「私は、誰かに小説を書いていることも、昔、書いていたことについても話したことがありません。完成させた小説だって、今のところは誰にも見せないつもりでした。それはもちろん、そう遠くないであろう、自分が死んでしまう時にどうするか、ということもよく考えてはいましたが。でもまさか、答えを出す前に死んでしまうなんて・・・」
「この最後のチャンスは、もしタイミングが良ければ、その小説が誰かに読まれているかを確認できる機会かも知れませんよ?」
案内人は、どうしても私に、誰の見る世界が見たいのかを決めてほしいようだった。
「私は、誰の見る世界も見るつもりはありません。もちろん、見たい気持ちも少しはありますが・・・でも、私は私の見た世界だけで十分です。だから、私が残した私が書いた小説がどうなるか・・・例えば、誰も読まないまま処分されるとか、妻が見つけてこっそり読むとか。息子が見つけて、息子は騒々しいところがあるので、家族全員を呼んで読むことになるとか・・・想像以上の名作で、出版してみようと試みるとか・・・あまりにも恥ずかしい駄作で、家族の間でお蔵入りになるとか・・・そういう、私がいなくなってからの世界を、私は想像しながら死にたいのです」
「そうですか」
もしかすると私は、私が書いた小説を、誰かに見つけられるのを待っていたのかも知れない。
例えそのタイミングが、私の死だとしても。
案内人は言った。
「物語を書けるあなたが羨ましいです。そして、残せるものがあることも、素晴らしいと思います。誰かの見る世界を見ずに、自分が見た世界だけ・・・その考え方も、尊重します」
「そんな大したものじゃないんです。私は、臆病なだけかも知れません。私がいなくなった今の妻を知るのも怖いし、物語を書いていたのだって、現実では叶えられないことが多いから。ただそれだけの理由かも知れません」
「それでも、私はあなたを尊重します。そして、尊敬します」
案内人の男は、真っ直ぐに私を見つめ、そう言った。
出会ったばかりだとしても、最後に私を認めてくれる人がいて良かった。
どこまでも臆病な私は・・・
「あ、すみません・・・泣くつもりはなかったのですが」
どこまでも臆病な私は最後に、人前で涙する機会を与えられたのかも知れない。
「本当にすみません。どうして涙が・・・」
涙が堪えようとする間もなく、流れ落ちる。
「謝らないで下さい。悲しい時はただ、泣いて下さい」
妻は私の死を、泣きながら悲しんでくれているだろうか。
もし叶うのなら、やはり、私が書いた物語を最初に見つけるのは妻で、最初に読むのも妻であってほしい。
私が生まれた意味を、その物語から汲み取ってほしい。
そう願った。
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