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第四幕
追憶
しおりを挟む――時は、三十年ばかり遡ることとなる。
鯨一郎、と澄んだ声に名を呼ばれ、幼き鯨一郎は縁側を振り返った。白爪邸の裏庭へと繋がる唐松の板に、柔らかい西日が滲む。
「兄上」
濃紺の風呂敷を腕に抱いた兄に、そちらは? と尋ねれば、兄は微かに笑って「阿茶様の沓だ」と風呂敷を鯨一郎へ差し出した。
「なっ……盗んだのですか? 何故……」
「……いいか、鯨一郎」
驚いて、咄嗟に受け取った沓を再び兄に押し返そうとするも、兄は数段低い声色でそれを拒む。ぐっと声を潜め、兄は鯨一郎に聞かせた。
「もうじき阿茶様が白爪家の嫡男であられる吉祥丸様や付き人達と、この裏庭へ蹴鞠においでになる。お前が沓を履かせて差し上げろ」
「兄上、なにゆえ私が下男のような真似をせねばならぬのですか」
不満を顕にする鯨一郎に苦笑しながら、兄はお前の為だ、と溜息を吐く。
「良いか、お前は次男なのだ。父上は私が精進すればするほどお前に素っ気ないだろう。ここは主、白爪家より位の高い幻驢芭家の若君、阿茶様と親しくなり、父上を驚かせてやれ」
兄の言葉に、鯨一郎は目を丸くした。ほら急げ、と背中を押され、不承不承、本殿玄関の傍へ寄る。石畳の脇に控え、腕の中の小さな風呂敷を一瞥する。
――このような小細工は好かないが……兄上があそこまで仰るなら仕方ない。
抑も、鯨一郎は阿茶の姿も知らない。青桐家は白爪家の重臣といえど末席も良いところ。まして次男である鯨一郎には、皇家の血を濃く引く阿茶など文字通り天上人である。やがて数人の話し声、足音が近くなり、すらりと襖が開け放たれた。
付き人達に傅かれ、吉祥丸と共に現れたその人に鯨一郎の目は囚われた。鴉色の長い髪に、姫君かと見紛うほど端正な顔立ち。それに似合わぬ、確かな力強い佇まい。
それは後に影の御門と呼ばれ、信仰に似た羨望の目差しを集めることとなる宵君の幼少の姿だった。
阿茶の沓の紛失という失態を隠すべくか、代わりの沓を差し出そうとする付き人を見て、鯨一郎は我に返る。石畳に跪き、黄金の細工と紺の革の沓を鯨一郎が風呂敷から取り出すと、傍に居た者が声を荒らげた。
「なっ、阿茶様の沓ではないか! なにゆえお前などが持っておる!」
「疾く此方へ返さぬか!」
あぁ、やはりな。僅かに懸念していた事態に、鯨一郎は瞼を閉じる。しかし当の阿茶は、鯨一郎に掴みかかろうとする者達を片手で諌め、不思議そうに首を傾げた。
「其方は青桐の次男か。なにゆえ其方が私の沓を持っておるのかは知らぬが、そこな者が失くしたと思うておったぞ」
閉じた扇子を口元へ当て、阿茶は笑う。沓の紛失はお見通しだったようだ。悔しげに鯨一郎を睨む付き人は、ふんと鼻を鳴らして言い放った。
「青桐など弱小の者が、阿茶様に取り入ろうと策を講じたに違いありませぬ」
「野蛮な武家の考えることは全く卑しい」
「阿茶様、あのような者が手を触れた沓など縁起が悪うございます。ささ、此方を召されませ」
しっし、と袖を振る者さえ居り、鯨一郎よりも先に吉祥丸が眉を顰める。鯨一郎の性分を知る吉祥丸からすれば、気分が良くないのは当然のこと。しかし吉祥丸が口を開くことはなかった。鯨一郎のことよりも、家のことを案じなければならない立場ゆえだ。
――公家というのは、どうにも鼻につく。しかし、此度は失策でありましたな、兄上。
この場に居るのが兄でなく自身で幸いだったと、鯨一郎は息を吐く。自分が勝手に阿茶の沓を盗んだと言えば、家や兄の名誉は守れる。そう考えた鯨一郎が謝罪を述べる前に、阿茶の声がそれを遮った。
「青桐など弱小の武家に細工を許す節穴が触れた沓など、縁起が悪い。青桐の次男は、名を何と申す」
「……は、鯨一郎と、申します」
「ふむ。年の頃は頼鹿と変わらぬか? 随分と上背があるのう。骨も太く、まだ育つな。どれ、鯨とでも呼ぶか」
阿茶は鯨一郎に微笑み、鯨、その沓を履かせよ、と扇子で鯨一郎の懐を示す。呆気にとられる一同を他所に、胡床に腰を下ろした阿茶は黒い足袋の爪先を鯨一郎に差し出した。
「自身の失態を誤魔化し他者を貶めることしか出来ぬ者などに触れられとうない。其方が履かせよ」
しばし呆気にとられた鯨一郎だが、阿茶に「早う」と急かされ、気まずい心地のまま素直に従った。
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