花浮舟 ―祷―

那須ココ

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最終幕

拒絶

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 自分の肺の方が壊れてしまうのではないか。涼やかな音を立てる小川が見えて来た頃、美瞳はこの行いを後悔した。こんなにも重いものを運んだのは、生まれて初めてである。
 まるで鉛の塊のようだ、身体が弱っていたから倒れたのではないのか。弱っていてこれなのか、通りで化け物なわけだ。これなら二、三日あそこに放置していても死ななかったかもしれない。夜盗の類は、あの様子だと月香がすべて追い払いそうなものであるし……。

「――――?」

 後ろで支える月香が、不思議そうに見上げてくる。そうだった、この健気な馬を放っておけなかったのだった。

 美瞳はどうしても、宵君に触れているところが不快でならなかった。女を悩殺する芳香を漂わせるこの美しい男よりも、不潔で醜い山賊の方がまだましだ。
 今すぐこの身体を放り投げてやりたい。そんなことをしたら、月香に蹴り殺されてしまうかもしれないが。

「はぁ……武装もしていないのに、重すぎる」

 極めて雑にならぬよう、川辺の短い草の上に宵君の身体を降ろす。いつまで気絶してるんだ、こいつは。頬を思いきり張れば目を覚ますのではないか。傍に寝そべり、宵君の首元に鼻を寄せる月香に、邪気を削がれてしまう。

「わかった。ちゃんと目覚めるまで看病してあげるから……」

 鞍に掛かっていた手拭いを水で濡らし、固く絞る。陶器の仮面を取り外し、絹の衣の袷を寛げながら、美瞳はその身体に夥しい傷が刻まれていることに気づいた。そこから感じ取れるのは、幾重にも纏わりつく怨念と祝福、呪縛と羨望。宵君に向けられる無数の感情と眼差し。

 ――相手が傷痕なんてひとつもない、人の痛みの分からない極悪非道のどうしようもない男だったなら、もっと単純に、楽に恨めたのに。

 宵君は痛みも愛も、喪失も知っている。その嘆きを経験しているはずなのに、容易く他者の安らぎを奪うのは何故か。美瞳はどんなに恨んでも底が見えないこの男が、心底嫌いだった。程度が推し量れない。心の底から嫌悪しているのに、慈愛深いかいなから逃げる答えがない。宵君は美瞳に何も求めていないからだ。夜盗如きとの間にすら成立する交換条件というものが、宵君には通じなかった。

「……ん」

 ほんの僅か、碧い海の眼が開く。月香が顔を上げた。草葉に手をつき、黒曜の長い髪がするりと持ち上がる。体温が下がり、楽になったのだろう。宵君は呑気にも、緩慢かんまんな動作で解けた髪を指で梳いた。背を向けられているのをいいことに、美瞳はそっと立ち去ろうとしたが、宵君がそれを許すはずもない。

「青鳥」

 呼び止められ、素直に振り返ってしまう己の甘さに嫌気がさした。安堵した様子の月香の鼻を撫でながら、宵君は静かに言葉を紡ぐ。

「今討てば、誰も知らぬ」

 西洋の宝石で飾られた、護身用の短剣。目の前に差し出されたそれを、美瞳は無感情に眺めた。水の膜にさえぎられたように、宵君の言葉は遠くで響く。それを明瞭に理解した頃合いで、甘露のような声が続きを語った。

「選ぶが良い。せめて僅かでも安らかな道を。私を討ち月香と共にこの地を去るか、庵に戻るか」

「……ふざけないで」

 その手を力の限り振り払う。上等な剣が弾かれ、美瞳とほぼ等しく白い肌が、じわりと薄紅に染まった。この美瞳の振る舞いを衛兵に告げようものなら、たちまち槍で突き殺されるのだろう。それをしないから、美瞳は宵君を嫌悪していた。

「あの人の居ない世に安寧などあるものか。奪っておいて慈悲をかけるような真似をしないで、貴方の施しなんて虫唾が走る」

 最早仇討ちも恵まれた余生も、美瞳は望んでいなかった。力があれば、そうしていたかもしれない。生まれた家、受けた教育が違えば、喪失すら覇気に変えて、報復の為に輝くことができたのだろう。

 けれど美瞳には、そんな激しさはなかった。奪われたなら、残るものは空ろな入れ物だけ。できることといえば、宵君から与えられるものを拒み続け、愛しいものだけで満たしていた器に異物が入らぬよう、守ることだけである。

「あぁ。私が奪った。すべて私のとがだ」

 それすらも、柔らかく受諾じゅだくされてしまう。何度自ら泥濘でいねいに飛び込もうと、宵君は身を削ってまで美瞳を掬い上げる。理解し難いほど巨大な庇護に、いつだって仮初めの羽を捥がれてしまうのだ。

「……まぁ、冗談だ。この命をくれてやることはできぬ。神饌しんせんを勝手に人の子へ与えてはならぬゆえ」

 笑う宵君に、美瞳は脱力した。何だ、それは。初めから選択肢などないではないか。月香の背に跨った宵君が差し伸べる手を、受け取るしかないのだ。ただ、ここで葉の笑顔が過ったのは救いだった。美瞳を慕う葉の為に連れ戻されてやるのだと、自分に言い聞かせることができる。

「陛下!」

 そう遠くない場所から暁光の声が聴こえた。ほどなくして、暁光に罰せられたらしく、痣だらけの顔をした衛兵達の騎馬隊が近づく。宵君の姿を認めると一同は下馬し、跪いた。先頭の赤鱗せきりんから降りた暁光が、月香の傍で片膝をつく。

「夜が更けても戻られぬので……四方に騎馬隊を走らせ、お捜ししました」

「すまぬ。青鳥は小柄ゆえ、見つけるのに難儀した」

「御身がご無事ならもう良いのです。私どもと御所へお戻り下さい」

 騎馬兵達は苦々しい顔で美瞳を睨んだが、暁光がそれを片手で諫める。しかしその炎のような眼は、美瞳を庇っている様子でもなかった。

「青鳥。一先ず陛下のご無事に礼を言おう。だが、もしも今後同じようなことが起こるならば、其方と葉の居場所は庵でなく地下牢と思え」

 顔を見合わせ笑う兵達を振り返り、暁光は舌打ちを漏らす。身を縮み上がらせる兵達の前へ歩み出て、美瞳に対するより激しく彼らを恫喝した。

「お前達もだ。お一人で出られる陛下を指を咥えて見送ったお前達に、青鳥を笑う資格があろうか。御身が危機に晒される恐れが僅かでもあるのなら、命に代えてでもお止めせぬか、愚か者どもが」

 先頭の兵が蹴られている。それを見て、宵君は微笑ましげに笑っていた。誰のせいでこうなっていると思っているのだろう。美瞳は呆れたが、冷めた視線を向ける気力もなかった。
 帰り路の馬上で、宵君は鞍に載せていたらしい簪を美瞳の髪に飾り始めた。拒絶の意は示してみたが、「斯様に地味な者を月香に乗せて歩けるか」とのことだった。



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