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第三章 愛と欲望の狭間
第百三十話 意外な訪問者Ⅱ
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「サマンサの事はもういいのか?」
リシャールがそう問うと、シリウスは顔をしかめた。
「……いいもなにも、十二年前に別れている」
苦々しげな口調である。リシャールが身を乗り出した。
「い、いや、しかし……サマンサと別れてから、たった十二年だ。そう、たった十二年だぞ? そんなに簡単に忘れられるものじゃないだろ?」
シリウスはため息をつくほかない。
「リシャール、人間の寿命は百年だ。十二年は長い……いや、どちらにせよ、サマンサに泣かれてしまっては、どうしようもなかった」
「泣いた?」
「追ってくるなと、自由にして欲しいと、彼女に泣いてそう懇願された。どうしろと? どうしようもない。彼女の望みは、千年という年月を共に生きられる伴侶だ。人の身でその条件はどうしたって満たせそうにない」
リシャールの目が上掛けの中に隠されているセレスティナに向く。
「そ、それで、その娘をサマンサの身代わりに……」
「リシャール」
シリウスがぴしゃりとリシャールの言葉を遮った。
「ティナはサマンサの身代わりなどではない。二度と口にするな」
黒竜のリシャールが気圧されるほどの怒気だ。リシャールはごくりと唾を飲み込んだ。
「……本気でその娘を愛したと?」
「そうだ、私の最愛だ」
リシャールは押し黙る。
セレスティナを見るシリウスの眼差しは糖蜜のように甘い。上掛けで包んだセレスティナの額に、シリウスはそっとキスを落とした。愛情溢れるその仕草を見れば、本当の事を言っているのだと否が応でも分かる。分かってしまう。
「けど、その、も、もし、サマンサが……」
ふっと顔を上げたシリウスの青い瞳と視線が交差する。一瞬、ぴんと空気が張り詰めたが、リシャールは肩の力を抜き、首を振った。
「ああ、いや、なんでもない。お前は人間だ。この方がいいんだろう。よっし、可愛らしいお嬢ちゃん、俺と一緒に朝まで飲も……」
リシャールは再び重力変化で、べしんとその場に突っ伏す羽目となる。シリウスの仕業であることは言うまでもない。
「いきにゃりにゃにをひゅるううううう!」
「褒めるな、見るな、ティナが減る」
シリウスは冷たい声でそう告げ、セレスティナに言う。
「……ティナ、ドラゴンは二十代で一旦老化が止まるから、こんな風に若く見えるが、リシャールは三百二十四才だ。二児の子持ちでもある。忘れるな?」
「え、ええ、分かったわ?」
セレスティナは頷くしかない。リシャールが怒声を張り上げた。
「焼き餅かぁ! まったくお前という奴はぁ、サマンサと一緒だった時と、ぜんっぜん変わらねぇえええええ! 分かったから背中から足をどけろおおおおお!」
言葉通り、シリウスの靴がきっちりリシャールの背を踏んでいる。体を起こしたリシャールが、ぶつぶつと言った。
「まったく……サマンサの時は、俺は兄だったから除外されていたが……」
「ティナを妙な目で見なければいい」
シリウスがきっぱり言い切った。
「あー、あー、分かったよ。俺には妻がいるっつうのに、まったく……」
「妻は息災か?」
「ああ、おかげさまで」
リシャールがふっと笑い、出された酒を口にする。
その後、散々酒を酌み交わしたリシャールは、しらしらと夜が明ける頃、黒竜の姿になって翼を広げた。黒曜石のように輝く巨体は、やはり恐ろしくも美しい。
赤く色づく空の彼方に消えていく黒竜の姿を眺めながら、シリウスがぽつりと言う。
「……結局あいつは何をしにきたんだ?」
シャルとイザークの様子を聞いていながら、酒盛りだけして二人に会わずに帰った、そうシリウスが呟く。
◇◇◇
――サマンサの事はもういいのか?
そんなリシャールの台詞を思い出し、もしかしたら自分に会いに来たのでは? セレスティナはそんな風に思う。事の真相を確かめに来た、そんな気がしてならない。
だとしたら、もしかして、サマンサさんはシリウスに未練がある?
――もし、サマンサが……
その後、リシャールさんは、何て言おうとしたんだろう? 復縁したいと望んだら? そんな台詞だったとしたら……
セレスティナはすうっと血の気が引いた。
そんな、今更……そう思うも、心など思うようになるようでならない。離れて初めて、自分の気持ちに気が付くこともある。
これ以上シリウスを好きになるのが怖かった……
当時のサマンサさんは、そう言っていたと聞く。シャルお姉様から聞いたこの話が本当なら、いまだにシリウスを思っていてもなんら不思議ではない。なら、シリウス、シリウスは? サマンサさんに言い寄られても、私を選んでくれる? 私を花嫁にと望んでくれるかしら? 分からない、分からないわ……
「ティナ、どうした?」
シリウスの声ではっとなる。
「あ、その……何でもない、きゃ?」
ふわりとシリウスに抱え上げられ、思わず小さな悲鳴が漏れた。
「ハル、ホットミルクを」
「かしこまりました」
シリウスの指令を受け、ハロルドが動く。
「体が冷えている」
そう言われて、セレスティナは気が付いた。自分が震えていたことに……
ずっと外のテラスにいたからね。
初夏だったが、こんな風に冷え込む夜もある。暖炉に火がくべられ、その前でホットミルクを口にした。毛布にくるまれて、シリウスに背後から抱きしめられているからさらに温かい。心も同時にふわりと温かくなる。
「シリウス」
「ん?」
甘えるように、おずおずと身をすり寄せてみた。遠慮などする必要はないと思うけれど……甘えるのはやっぱり苦手だった。どうしても遠慮が入ってしまう。
「あなたのために真っ白いウェディングドレスを身につけたいわ」
「ああ、私も待ち遠しい」
首筋にちゅっと口づけられてどきどきする。
「式の日取りは……」
卒業後だとは聞いているけれど、詳しいことはまだ何も……
「君の十八才の誕生日に、今一度、私と結婚したいかどうかを聞く。その時に……」
決めよう、そう言われたけれど、セレスティナは眉をひそめてしまう。何故そんな事をするのか分からない。結婚の意思ならずっと前から固まっている。
私はシリウスと結婚したい。気持ちは変わらないわ。いいえ、恋しく思う気持ちは、以前よりもずっと強くなっている。あなたなしの毎日なんて考えられないくらいよ。あなたの声、あなたの眼差し、一つ一つが愛しくてたまらない。
「愛しているわ、シリウス。私はあなたと結婚したい。今では駄目なの?」
「君が大人になってから……」
「私はもう、あと四ヶ月で成人よ?」
必死だった。振り返って彼の服を掴む。
「ね、シリウス、ちゃんと私を見て? あなたはいつだって既成の概念に囚われないじゃない。あなたの目から見て、どう? 私はまだ子供に見えるの? もう、自分が生きる道くらい、自分で決められるわ?」
シリウスの青い瞳をひたと見つめた。
「我が儘を言ってごめんなさい。まだまだ未熟だと自分でも分かっている。けれど、子供じゃないわ? 私は自分の意志であなたを選び取ったの。お願い、信じてちょうだい」
シリウスの髪を撫でる手は優しくて、口づけは甘く切ない……
ティナ、ティナ、私のティナ……
囁く声が包み込むよう。君の十八才の誕生日に結婚しよう、彼は最後にそう言ってくれた。
リシャールがそう問うと、シリウスは顔をしかめた。
「……いいもなにも、十二年前に別れている」
苦々しげな口調である。リシャールが身を乗り出した。
「い、いや、しかし……サマンサと別れてから、たった十二年だ。そう、たった十二年だぞ? そんなに簡単に忘れられるものじゃないだろ?」
シリウスはため息をつくほかない。
「リシャール、人間の寿命は百年だ。十二年は長い……いや、どちらにせよ、サマンサに泣かれてしまっては、どうしようもなかった」
「泣いた?」
「追ってくるなと、自由にして欲しいと、彼女に泣いてそう懇願された。どうしろと? どうしようもない。彼女の望みは、千年という年月を共に生きられる伴侶だ。人の身でその条件はどうしたって満たせそうにない」
リシャールの目が上掛けの中に隠されているセレスティナに向く。
「そ、それで、その娘をサマンサの身代わりに……」
「リシャール」
シリウスがぴしゃりとリシャールの言葉を遮った。
「ティナはサマンサの身代わりなどではない。二度と口にするな」
黒竜のリシャールが気圧されるほどの怒気だ。リシャールはごくりと唾を飲み込んだ。
「……本気でその娘を愛したと?」
「そうだ、私の最愛だ」
リシャールは押し黙る。
セレスティナを見るシリウスの眼差しは糖蜜のように甘い。上掛けで包んだセレスティナの額に、シリウスはそっとキスを落とした。愛情溢れるその仕草を見れば、本当の事を言っているのだと否が応でも分かる。分かってしまう。
「けど、その、も、もし、サマンサが……」
ふっと顔を上げたシリウスの青い瞳と視線が交差する。一瞬、ぴんと空気が張り詰めたが、リシャールは肩の力を抜き、首を振った。
「ああ、いや、なんでもない。お前は人間だ。この方がいいんだろう。よっし、可愛らしいお嬢ちゃん、俺と一緒に朝まで飲も……」
リシャールは再び重力変化で、べしんとその場に突っ伏す羽目となる。シリウスの仕業であることは言うまでもない。
「いきにゃりにゃにをひゅるううううう!」
「褒めるな、見るな、ティナが減る」
シリウスは冷たい声でそう告げ、セレスティナに言う。
「……ティナ、ドラゴンは二十代で一旦老化が止まるから、こんな風に若く見えるが、リシャールは三百二十四才だ。二児の子持ちでもある。忘れるな?」
「え、ええ、分かったわ?」
セレスティナは頷くしかない。リシャールが怒声を張り上げた。
「焼き餅かぁ! まったくお前という奴はぁ、サマンサと一緒だった時と、ぜんっぜん変わらねぇえええええ! 分かったから背中から足をどけろおおおおお!」
言葉通り、シリウスの靴がきっちりリシャールの背を踏んでいる。体を起こしたリシャールが、ぶつぶつと言った。
「まったく……サマンサの時は、俺は兄だったから除外されていたが……」
「ティナを妙な目で見なければいい」
シリウスがきっぱり言い切った。
「あー、あー、分かったよ。俺には妻がいるっつうのに、まったく……」
「妻は息災か?」
「ああ、おかげさまで」
リシャールがふっと笑い、出された酒を口にする。
その後、散々酒を酌み交わしたリシャールは、しらしらと夜が明ける頃、黒竜の姿になって翼を広げた。黒曜石のように輝く巨体は、やはり恐ろしくも美しい。
赤く色づく空の彼方に消えていく黒竜の姿を眺めながら、シリウスがぽつりと言う。
「……結局あいつは何をしにきたんだ?」
シャルとイザークの様子を聞いていながら、酒盛りだけして二人に会わずに帰った、そうシリウスが呟く。
◇◇◇
――サマンサの事はもういいのか?
そんなリシャールの台詞を思い出し、もしかしたら自分に会いに来たのでは? セレスティナはそんな風に思う。事の真相を確かめに来た、そんな気がしてならない。
だとしたら、もしかして、サマンサさんはシリウスに未練がある?
――もし、サマンサが……
その後、リシャールさんは、何て言おうとしたんだろう? 復縁したいと望んだら? そんな台詞だったとしたら……
セレスティナはすうっと血の気が引いた。
そんな、今更……そう思うも、心など思うようになるようでならない。離れて初めて、自分の気持ちに気が付くこともある。
これ以上シリウスを好きになるのが怖かった……
当時のサマンサさんは、そう言っていたと聞く。シャルお姉様から聞いたこの話が本当なら、いまだにシリウスを思っていてもなんら不思議ではない。なら、シリウス、シリウスは? サマンサさんに言い寄られても、私を選んでくれる? 私を花嫁にと望んでくれるかしら? 分からない、分からないわ……
「ティナ、どうした?」
シリウスの声ではっとなる。
「あ、その……何でもない、きゃ?」
ふわりとシリウスに抱え上げられ、思わず小さな悲鳴が漏れた。
「ハル、ホットミルクを」
「かしこまりました」
シリウスの指令を受け、ハロルドが動く。
「体が冷えている」
そう言われて、セレスティナは気が付いた。自分が震えていたことに……
ずっと外のテラスにいたからね。
初夏だったが、こんな風に冷え込む夜もある。暖炉に火がくべられ、その前でホットミルクを口にした。毛布にくるまれて、シリウスに背後から抱きしめられているからさらに温かい。心も同時にふわりと温かくなる。
「シリウス」
「ん?」
甘えるように、おずおずと身をすり寄せてみた。遠慮などする必要はないと思うけれど……甘えるのはやっぱり苦手だった。どうしても遠慮が入ってしまう。
「あなたのために真っ白いウェディングドレスを身につけたいわ」
「ああ、私も待ち遠しい」
首筋にちゅっと口づけられてどきどきする。
「式の日取りは……」
卒業後だとは聞いているけれど、詳しいことはまだ何も……
「君の十八才の誕生日に、今一度、私と結婚したいかどうかを聞く。その時に……」
決めよう、そう言われたけれど、セレスティナは眉をひそめてしまう。何故そんな事をするのか分からない。結婚の意思ならずっと前から固まっている。
私はシリウスと結婚したい。気持ちは変わらないわ。いいえ、恋しく思う気持ちは、以前よりもずっと強くなっている。あなたなしの毎日なんて考えられないくらいよ。あなたの声、あなたの眼差し、一つ一つが愛しくてたまらない。
「愛しているわ、シリウス。私はあなたと結婚したい。今では駄目なの?」
「君が大人になってから……」
「私はもう、あと四ヶ月で成人よ?」
必死だった。振り返って彼の服を掴む。
「ね、シリウス、ちゃんと私を見て? あなたはいつだって既成の概念に囚われないじゃない。あなたの目から見て、どう? 私はまだ子供に見えるの? もう、自分が生きる道くらい、自分で決められるわ?」
シリウスの青い瞳をひたと見つめた。
「我が儘を言ってごめんなさい。まだまだ未熟だと自分でも分かっている。けれど、子供じゃないわ? 私は自分の意志であなたを選び取ったの。お願い、信じてちょうだい」
シリウスの髪を撫でる手は優しくて、口づけは甘く切ない……
ティナ、ティナ、私のティナ……
囁く声が包み込むよう。君の十八才の誕生日に結婚しよう、彼は最後にそう言ってくれた。
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