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狐というものは、えてして怠け者である。
人の世に紛れて生きる我ら妖しの身でも、殊更に勤勉さなどというものは似合わぬと、私はそう思っている。
私の名は直哉(なおや)。母は人間に化けて小さな居酒屋を営み、私はその店で皿を運んだり、酒を注いだりして日銭を稼いでいる。
人間の暮らしに溶け込むのは面倒だが、悪いことばかりでもない。何より、彼らの作る飯というやつは実に旨い。
塩と胡椒と香ばしいタレの焦げる匂い。それが鼻先をくすぐるだけで、野山で狩る兎や鼠とはまた別種の楽しみを覚える。
我が家には姉と弟がいる。姉の名は千歳(ちとせ)、弟は涼太(りょうた)。
姉はといえば、いつも適当で気まま。店では愛想を振りまきながら、客の顔と好物だけはきっちり覚えている。
弟は臆病で、人前に出ると耳が動きそうで焦るのか、厨房の奥に逃げ込んで皿を洗うのが常である。
父はもういない。猟師に撃たれて死んだと聞かされている。
狐というものは古来より狩られるものだが、父も例外ではなかったらしい。
母はその話をする時だけは、決まって言葉少なになる。
さて、店の話に戻ろう。
店の名は「灯(あかり)」という。ひらがなでも漢字でも、看板の文字は小さく灯のように揺れている。
暖簾をくぐれば、焼き鳥の煙と客の笑い声が迎えてくれる。常連客の中には、我々が狐だと知っている者も少なくない。
知っていても言わぬのが人情というものか、あるいは人間というのは、見たいものしか見ないものか。
私の日々は、大体こんな具合に過ぎていく。
日が傾けば店に顔を出し、夜が更ければ裏山に出向いて兎を追う。
人の世と獣の世を行き来しながら、どちらにも深く根を張らずに生きるのが、私の処世術だ。
だがある夜、そんな私の日常に少しばかりの綻びが生まれた。
それは一人の若い客が現れたことから始まった――
彼は常連というには若く、そしていささか暗い影をまとっていた。
名を尋ねると「光太」と名乗った。
小さな声で、視線は俯きがち。杯を手にしながらも酒を味わう様子はない。
「お兄さん、今日はどうしたんです?」
私はあくまで店員として、軽い調子で声をかけた。
「……金が、必要でさ」
呟くように吐き出した言葉は、酒の匂いよりも苦かった。
客の話を聞くのは私の趣味ではない。面倒事はできる限り避けて生きてきた。
だが、この夜の私はほんの少し、退屈を持て余していたのだ。
「何に使うんです?」
「妹が、入院してて……」
言いかけて、光太は口を噤んだ。
嘘かもしれない。本当かもしれない。
それを見極める目は持っているつもりだが、どうでもいいことには使わないのが私の主義である。
「悪いけど、俺も余裕はないんですよ」
そう言って私は軽く笑ってみせた。
光太は俯いたまま、何も言わずに席を立った。
その背中を見送った時、姉の千歳が横から言った。
「直哉も、人が悪いね」
「狐なんだから、これでいいんだよ」
「でもあんた、顔が少し曇ってたよ」
言い返せなかった。
狐というのは怠け者で、狡猾で、人間の不幸には関わらぬもの。
人の世に紛れて生きる我ら妖しの身でも、殊更に勤勉さなどというものは似合わぬと、私はそう思っている。
私の名は直哉(なおや)。母は人間に化けて小さな居酒屋を営み、私はその店で皿を運んだり、酒を注いだりして日銭を稼いでいる。
人間の暮らしに溶け込むのは面倒だが、悪いことばかりでもない。何より、彼らの作る飯というやつは実に旨い。
塩と胡椒と香ばしいタレの焦げる匂い。それが鼻先をくすぐるだけで、野山で狩る兎や鼠とはまた別種の楽しみを覚える。
我が家には姉と弟がいる。姉の名は千歳(ちとせ)、弟は涼太(りょうた)。
姉はといえば、いつも適当で気まま。店では愛想を振りまきながら、客の顔と好物だけはきっちり覚えている。
弟は臆病で、人前に出ると耳が動きそうで焦るのか、厨房の奥に逃げ込んで皿を洗うのが常である。
父はもういない。猟師に撃たれて死んだと聞かされている。
狐というものは古来より狩られるものだが、父も例外ではなかったらしい。
母はその話をする時だけは、決まって言葉少なになる。
さて、店の話に戻ろう。
店の名は「灯(あかり)」という。ひらがなでも漢字でも、看板の文字は小さく灯のように揺れている。
暖簾をくぐれば、焼き鳥の煙と客の笑い声が迎えてくれる。常連客の中には、我々が狐だと知っている者も少なくない。
知っていても言わぬのが人情というものか、あるいは人間というのは、見たいものしか見ないものか。
私の日々は、大体こんな具合に過ぎていく。
日が傾けば店に顔を出し、夜が更ければ裏山に出向いて兎を追う。
人の世と獣の世を行き来しながら、どちらにも深く根を張らずに生きるのが、私の処世術だ。
だがある夜、そんな私の日常に少しばかりの綻びが生まれた。
それは一人の若い客が現れたことから始まった――
彼は常連というには若く、そしていささか暗い影をまとっていた。
名を尋ねると「光太」と名乗った。
小さな声で、視線は俯きがち。杯を手にしながらも酒を味わう様子はない。
「お兄さん、今日はどうしたんです?」
私はあくまで店員として、軽い調子で声をかけた。
「……金が、必要でさ」
呟くように吐き出した言葉は、酒の匂いよりも苦かった。
客の話を聞くのは私の趣味ではない。面倒事はできる限り避けて生きてきた。
だが、この夜の私はほんの少し、退屈を持て余していたのだ。
「何に使うんです?」
「妹が、入院してて……」
言いかけて、光太は口を噤んだ。
嘘かもしれない。本当かもしれない。
それを見極める目は持っているつもりだが、どうでもいいことには使わないのが私の主義である。
「悪いけど、俺も余裕はないんですよ」
そう言って私は軽く笑ってみせた。
光太は俯いたまま、何も言わずに席を立った。
その背中を見送った時、姉の千歳が横から言った。
「直哉も、人が悪いね」
「狐なんだから、これでいいんだよ」
「でもあんた、顔が少し曇ってたよ」
言い返せなかった。
狐というのは怠け者で、狡猾で、人間の不幸には関わらぬもの。
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