狐というものは実に怠け者である

彦彦炎

文字の大きさ
1 / 5

1話

しおりを挟む
 狐というものは、えてして怠け者である。
 人の世に紛れて生きる我ら妖しの身でも、殊更に勤勉さなどというものは似合わぬと、私はそう思っている。

 私の名は直哉(なおや)。母は人間に化けて小さな居酒屋を営み、私はその店で皿を運んだり、酒を注いだりして日銭を稼いでいる。
 人間の暮らしに溶け込むのは面倒だが、悪いことばかりでもない。何より、彼らの作る飯というやつは実に旨い。
 塩と胡椒と香ばしいタレの焦げる匂い。それが鼻先をくすぐるだけで、野山で狩る兎や鼠とはまた別種の楽しみを覚える。

 我が家には姉と弟がいる。姉の名は千歳(ちとせ)、弟は涼太(りょうた)。
 姉はといえば、いつも適当で気まま。店では愛想を振りまきながら、客の顔と好物だけはきっちり覚えている。
 弟は臆病で、人前に出ると耳が動きそうで焦るのか、厨房の奥に逃げ込んで皿を洗うのが常である。

 父はもういない。猟師に撃たれて死んだと聞かされている。
 狐というものは古来より狩られるものだが、父も例外ではなかったらしい。
 母はその話をする時だけは、決まって言葉少なになる。

 さて、店の話に戻ろう。
 店の名は「灯(あかり)」という。ひらがなでも漢字でも、看板の文字は小さく灯のように揺れている。
 暖簾をくぐれば、焼き鳥の煙と客の笑い声が迎えてくれる。常連客の中には、我々が狐だと知っている者も少なくない。
 知っていても言わぬのが人情というものか、あるいは人間というのは、見たいものしか見ないものか。

 私の日々は、大体こんな具合に過ぎていく。
 日が傾けば店に顔を出し、夜が更ければ裏山に出向いて兎を追う。
 人の世と獣の世を行き来しながら、どちらにも深く根を張らずに生きるのが、私の処世術だ。

 だがある夜、そんな私の日常に少しばかりの綻びが生まれた。
 それは一人の若い客が現れたことから始まった――

 彼は常連というには若く、そしていささか暗い影をまとっていた。
 名を尋ねると「光太」と名乗った。
 小さな声で、視線は俯きがち。杯を手にしながらも酒を味わう様子はない。

「お兄さん、今日はどうしたんです?」
 私はあくまで店員として、軽い調子で声をかけた。

「……金が、必要でさ」
 呟くように吐き出した言葉は、酒の匂いよりも苦かった。

 客の話を聞くのは私の趣味ではない。面倒事はできる限り避けて生きてきた。
 だが、この夜の私はほんの少し、退屈を持て余していたのだ。

「何に使うんです?」
「妹が、入院してて……」
 言いかけて、光太は口を噤んだ。

 嘘かもしれない。本当かもしれない。
 それを見極める目は持っているつもりだが、どうでもいいことには使わないのが私の主義である。

「悪いけど、俺も余裕はないんですよ」
 そう言って私は軽く笑ってみせた。

 光太は俯いたまま、何も言わずに席を立った。
 その背中を見送った時、姉の千歳が横から言った。
「直哉も、人が悪いね」
「狐なんだから、これでいいんだよ」
「でもあんた、顔が少し曇ってたよ」

 言い返せなかった。
 狐というのは怠け者で、狡猾で、人間の不幸には関わらぬもの。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています

藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。 結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。 聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。 侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。 ※全11話 2万字程度の話です。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

処理中です...