氷の男精は優しい灯りを夢見る

真木

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8 小さな歩み

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 翌朝、保養所の庭には夜露を含んだ草木の匂いが漂っていた。
 イリヤは窓辺に座り、慎重に膝を伸ばしては縮める運動を繰り返していた。杖を使えば歩くことはできる。昨日は恐怖に取り乱したが、それでも確かに、体は少しずつ前へ進もうとしている。
 シノンはそんなイリヤの隣に腰を下ろし、手を差し伸べるように問いかけた。
「痛みはどうですか」
「……鈍く重たいけど、昨日よりは楽です」
 イリヤは答えながらも、胸の奥に淡い光のようなものを感じていた。
 それは、失われていたものがほんのわずかに戻ってきたような感覚だった。
 庭では、無性たちが小さな籠を運んでいた。朝露に濡れた花を集め、ぽとりぽとりと籠に落としている。
 イリヤはその様子に目を留め、ふとつぶやいた。
「僕も……少しは役に立ちたいな」
 シノンは首を傾げて、その言葉を繰り返す。
「役に立つ?」
「ええ。ずっと寝ているばかりじゃ、皆に迷惑をかけてしまう。……せめて、この指でも使えたら」
 イリヤは無性たちが摘んできてくれた籠の花を手に取り、そっと茎を折って編みはじめた。幼い頃、兄と野に出かけたときの記憶を辿りながら、指先で花を束ねていく。
 ぎこちない手つきながらも、花弁を重ね、茎を絡ませていく。震えていた指が、次第にしっかりと花をつなげていくのをシノンはみつめていた。
 時間はかかったが、イリヤはどうにか一人で小さなリースを仕上げた。それを見て、シノンは表情を変える。
「上手にできていますよ」
 シノンは柔らかな表情を浮かべたが、どこか哀しそうだった。
(幼いイリヤは、何度も私に花冠を編んでくれた。白いシロツメクサに、黄金のポピーの花、四つ葉のクローバーをみつけては差し込んで。……二度と還らない、遠い思い出)
 イリヤはその陰には気づかなかったのか、素直にうれしそうに受け止めた。
「そう、かな」
 イリヤは照れくさそうに笑った。花輪は小さく歪んでいたが、その不完全さがむしろ彼の回復の途上を物語っていた。
「先生、どうぞ」
「……え?」
 ふいにリースを差し出されて、シノンは言葉に詰まる。
 イリヤは恥ずかしそうに目を伏せながら、そっと提案を口にする。
「こんな不格好なリース、花冠には向かないでしょうけど……お仕事場にでも置いてもらえたら」
 シノンは思いがけず手に渡ったリースをまじまじとみつめる。
 それは、幼い日にイリヤが作ってくれたものとは違う。今はまだ春が遠く、満開の春に彼が作ってくれたようなものは出来ない。
 でも淡い紫の小花と優しいレモンバームの香りが、繊細なイリヤの心根を映しているようだった。
(……イリヤがこれを、私に)
 まるで幸せが戻ってきたような……大げさかもしれないが、シノンは胸がじわりと熱くなるのを感じた。
「ありがとう。……いい香りですね」
 シノンは思わず頬をほころばせてうなずいた。イリヤも目を上げて、ほっとしたようにうなずきかえした。
 イリヤはシノンがふいに見せた優しい微笑みに、懐かしいような思いを抱いた。ついじっとみつめてしまっても、シノンは目を逸らさなかった。
 シノンの銀色の瞳、イリヤの琥珀色の瞳に、お互いの姿が映っていた。
 ……お世話になっている人をまじまじと見て、失礼だっただろうか。我に返って、イリヤはぱっと目を逸らした。
「僕も、少し花を摘んできてもいいですか?」
「構いませんが……無理はしないように。少しずつ」
 イリヤは慌てた自分を恥じるように、一呼吸置いて杖に手をかける。
「……ギルさん」
 イリヤは扉の外で控えているギルに、控えめに声をかけた。
「よければ、一緒に花を摘むのを手伝ってくださいませんか」
 ギルは扉の向こうで驚き、そっと室内に入って来る。
「イリヤ様……私のことがわかるのですか?」
 イリヤはためらいがちに首を横に振って、迷いながら言葉を口にする。
「よく思い出せない……。でも、ずっと側にいてくれた人だった気がするのです。ここに来てからも、少し離れたところから見守ってくださった」
「私はイリヤ様の従者です。お仕えするのは、当然のことです」
 ギルは頭を垂れるように静かに答えたが、イリヤは言葉を続けた。
「ギルさんにも、花を編んで贈りたい。……迷惑でないでしょうか?」
 イリヤの声はまだ細かったが、ギルには確かな意思を感じた。
 ずっと病床に臥せっていて、明日にも消え失せてしまうかもしれないと思っていた御方が、こうして自分のことも気にかけてくれる。
「はい。……はい、ぜひ。お供させていただきます」
 ギルはその喜びを胸に、腰を折って一礼した。
 イリヤはギルに支えてもらいながら、杖を手に庭へ出た。
 昨日とは違って、その日イリヤは恐怖に立ち止まることはなかった。
 ギルが用意した籠の中にそっとイリヤが花を入れる。朝の光が花弁に透け、淡い光を放った。
 シノンはその姿を窓辺で見守り、声をかけることなく静かにうなずいた。
 ギルもまたイリヤの側で、その小さな手仕事が示す強さを見ていた。
――小さな歩みだ。それでも確かに、イリヤ様は前へ進んでいる。
 精霊界から湖を辿って吹く風は、ふわりと庭木を揺らしてイリヤの髪を撫でる。
 その中で、イリヤの笑みがふとこぼれた。
 昨日までの涙とは違う、確かに未来へ向かう兆しの笑みだった。
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