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21 境界から
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シノンはイリヤの瞳に映る自分が、まるで悪の化身のようだと嗤った。
実際その通りなのだろう。有翼人種の王に祝福された子を宿し、王子に伴侶として選ばれたイリヤの前には、幸福の道が続いているように見える。それを阻もうとするシノンが悪でなくて何だというのか。
けれどシノンには精霊としての誇りがあった。兄としての慈愛があった。恋人に対するような情念も嫉妬もあったが……それに勝る、イリヤの幸せを純粋に願う気持ちがあると信じている。
「イリヤ。人の倫理を精霊が守る必要はないんだ。おまえは自分を踏みにじった相手を許さなくていい。おまえが悪になる勇気がないというなら、私がすべてを引き受けるから。……私にゆだねてみないか」
「兄さん……」
「傷ついただろう。今も怖いのだろう。そんな相手を伴侶に選ばなくていい。おまえは精霊だ。私の、弟だ」
シノンは一歩前に踏み出して、イリヤに手を差し伸べる。
「子がおまえを縛る鎖になっているなら、私が精霊界に連れて行く。おまえも一緒だ。また精霊界に戻って……すべてが淡く、優しい命の芽吹きに包まって過ごさないか」
イリヤは胸に迫って来る感情の大きさに、息を詰まらせた。
幼い日に離れた精霊界のことは、ほとんど覚えていない。けれど体の芯に刻まれているように、その色彩と匂いだけは思い出せる。
……そこは決して傷つくことも泣くこともない、慈愛の漂う世界だった。
イリヤは泣きたいような思いで、そっと問いかける。
「兄さん。……境界にいるんだね」
目の前のその姿は確かに兄のものだった。けれど、彼の立つ場所だけがわずかに歪んで見えた。
夜の空気が波打つように揺れ、足元の影が血のように濃く滲んでいる。
シノンは微笑んだが、その笑みには温度がなかった。
王宮の灯はひとつ、またひとつと消え、暗闇が音もなく広がっていく。
残された光がふたりを浮かび上がらせて、まるで夢の底にいるようだった。
「ああ。呪いを放ったときから、私の存在も揺らぎ始めた。今は精霊界とこちらのどちらに属しているか、はっきりとはわからない。ただ」
シノンは黒い瞳に決意を宿して言う。
「私の心は精霊界の氷のように、今もある。私はおまえの迷いに、寄り添う」
イリヤは思わず胸に手を当てた。その痛みは、彼の奥にも確かに響いていた。
懐かしさと罪悪感、どちらが本物なのか、判別がつかなかった。
「兄さん、僕は……」
イリヤの声が震えた。
「この子を守ろうと決めたんだ。精霊界には、行けない」
シノンの瞳がかすかに揺れた。
その色の奥で、かつてイリヤが知っていた温かな銀の光が一瞬だけ戻る。
けれどシノンは慈愛の檻のような声音で言う。
「おまえが人間界で過ごして長い。人の倫理に染まるのも無理からぬこと。……けれどその子が真に望むのは、おまえが幸せに生きることだよ」
シノンはそう言って、イリヤの前から踵を返す。
「境界で待っている。……誰よりもおまえを想っているよ、イリヤ」
風が止んで、静寂が訪れた。
シノンの姿はもうどこにもなく、ただ辺りに漂う暗闇は濃いままだった。
イリヤは床に膝をついたまま、震える指で胸を押さえた。
そこにまだ、兄の残した冷たい気配が宿っている。
「僕の……幸せ」
小さくつぶやくと、腹の奥から微かな脈動が返った。まるで子がイリヤの言葉を聞いているようだった。
夜が明けるまで、イリヤはその場を動けなかった。
王都の空には、黒い裂け目がひと筋、夜明けの光を裂くように残っていた。
実際その通りなのだろう。有翼人種の王に祝福された子を宿し、王子に伴侶として選ばれたイリヤの前には、幸福の道が続いているように見える。それを阻もうとするシノンが悪でなくて何だというのか。
けれどシノンには精霊としての誇りがあった。兄としての慈愛があった。恋人に対するような情念も嫉妬もあったが……それに勝る、イリヤの幸せを純粋に願う気持ちがあると信じている。
「イリヤ。人の倫理を精霊が守る必要はないんだ。おまえは自分を踏みにじった相手を許さなくていい。おまえが悪になる勇気がないというなら、私がすべてを引き受けるから。……私にゆだねてみないか」
「兄さん……」
「傷ついただろう。今も怖いのだろう。そんな相手を伴侶に選ばなくていい。おまえは精霊だ。私の、弟だ」
シノンは一歩前に踏み出して、イリヤに手を差し伸べる。
「子がおまえを縛る鎖になっているなら、私が精霊界に連れて行く。おまえも一緒だ。また精霊界に戻って……すべてが淡く、優しい命の芽吹きに包まって過ごさないか」
イリヤは胸に迫って来る感情の大きさに、息を詰まらせた。
幼い日に離れた精霊界のことは、ほとんど覚えていない。けれど体の芯に刻まれているように、その色彩と匂いだけは思い出せる。
……そこは決して傷つくことも泣くこともない、慈愛の漂う世界だった。
イリヤは泣きたいような思いで、そっと問いかける。
「兄さん。……境界にいるんだね」
目の前のその姿は確かに兄のものだった。けれど、彼の立つ場所だけがわずかに歪んで見えた。
夜の空気が波打つように揺れ、足元の影が血のように濃く滲んでいる。
シノンは微笑んだが、その笑みには温度がなかった。
王宮の灯はひとつ、またひとつと消え、暗闇が音もなく広がっていく。
残された光がふたりを浮かび上がらせて、まるで夢の底にいるようだった。
「ああ。呪いを放ったときから、私の存在も揺らぎ始めた。今は精霊界とこちらのどちらに属しているか、はっきりとはわからない。ただ」
シノンは黒い瞳に決意を宿して言う。
「私の心は精霊界の氷のように、今もある。私はおまえの迷いに、寄り添う」
イリヤは思わず胸に手を当てた。その痛みは、彼の奥にも確かに響いていた。
懐かしさと罪悪感、どちらが本物なのか、判別がつかなかった。
「兄さん、僕は……」
イリヤの声が震えた。
「この子を守ろうと決めたんだ。精霊界には、行けない」
シノンの瞳がかすかに揺れた。
その色の奥で、かつてイリヤが知っていた温かな銀の光が一瞬だけ戻る。
けれどシノンは慈愛の檻のような声音で言う。
「おまえが人間界で過ごして長い。人の倫理に染まるのも無理からぬこと。……けれどその子が真に望むのは、おまえが幸せに生きることだよ」
シノンはそう言って、イリヤの前から踵を返す。
「境界で待っている。……誰よりもおまえを想っているよ、イリヤ」
風が止んで、静寂が訪れた。
シノンの姿はもうどこにもなく、ただ辺りに漂う暗闇は濃いままだった。
イリヤは床に膝をついたまま、震える指で胸を押さえた。
そこにまだ、兄の残した冷たい気配が宿っている。
「僕の……幸せ」
小さくつぶやくと、腹の奥から微かな脈動が返った。まるで子がイリヤの言葉を聞いているようだった。
夜が明けるまで、イリヤはその場を動けなかった。
王都の空には、黒い裂け目がひと筋、夜明けの光を裂くように残っていた。
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