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復讐編
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第九章:塗り替えられる存在価値
ディディアラは、もはや「ララフィーナ」として生きることに、一片の迷いもなかった。
それは復讐であると同時に、自分が本来あるべきだった場所を取り戻すための闘争だった。
朝食の席。叔父である公爵が、領地での干ばつの問題を嘆いた時だった。
「今年は税収も期待できんな…」
それに対し、ディディアラ(ララフィーナの姿)は、優雅にパンをちぎりながら、静かに口を開いた。
「でしたらお父様、北の森にある地下水脈を利用してはいかがでしょう。
古文書によれば、あの水脈は領内最大の水源に繋がっていると記されておりましたわ。大規模な灌漑工事にはなりますが、長期的に見れば領地は潤い、民の生活も安定するはずです」
食堂は静まり返った。叔父は目を丸くして、自分の娘を見つめている。今まで装飾品や夜会の話しかしてこなかった娘が、まるで熟練の政治家のように領地の未来を語っている。
「ラ、ララフィーナ…お前、いつの間にそのようなことを…」
「屋敷にある書物を読んでいただけですわ。愛する領地のことですもの」
ディディアラが完璧な笑顔で応えると、叔父は驚きから、やがて満足げな表情へと変わった。「さすがは我が娘だ!」と。
その変化は学園でも顕著だった。
難解なことで知られる魔法史の授業で、教授が古代ルーン文字の解読に行き詰まった際、ディディアラはすっと立ち上がり、淀みなくその意味と歴史的背景を解説してみせた。
教室は賞賛とどよめきに包まれる。彼女はもはや、ただ愛らしいだけの令嬢ではなかった。
誰もがその知性に敬意を払い、「アークライトの至宝」という噂は、「アークライトの賢女」へと変わりつつあった。
放課後には、かつてララフィーナが見向きもしなかった市街の孤児院を訪れた。パンや高価な菓子を配るだけではない。
ディディアラは一人ひとりの子供の前に膝をつき、目を見て話を聞き、汚れた頬をハンカチで拭ってやった。彼女が帰る頃には、子供たちは「聖女様!」と呼び、その馬車を涙ながらに見送った。
ディディアラが本来持っていた知性、優しさ、そして気高さ。
そのすべてが、「ララフィーナ」という器に注ぎ込まれ、彼女の功績として世に知られていく。人々はララフィーナを今まで以上に崇め、称賛した。
ディディアラの存在は、ララフィーナの輝かしい経歴によって、完璧に上書きされていった。
第十章:屋根裏の絶叫
その頃、本物のララフィーナは、自分が作り上げた地獄の底にいた。
屋根裏部屋の、石がむき出しの冷たい床。窓から差し込むのは、弱々しい月明かりだけ。夕食として運ばれてきたのは、硬く黒ずんだパンと、具のない冷めたスープ。
「こんなもの、家畜のエサよ!」
ララフィーナは皿を払いのけた。ガチャン、と虚しい音が響く。
ドアの外にいた侍女は、ため息まじりに吐き捨てた。
「ディディアラ様の我儘も、いい加減にしていただきたいものですわ。ララフィーナ様が心を痛めていらっしゃいます」
その声に、ララフィーナは発狂しそうになった。
違う、違う、違う!わたくしがララフィーナよ!
ララフィーナは震える手で、ドレスの裏地に縫い付けて隠し持っていた小さな手鏡を取り出した。この狂った世界で、唯一真実を映してくれる宝物だ。
そっと覗き込むと、そこに映っていたのは、痩せこけて窶れてはいるが、紛れもなくいつもの自分の顔だった。
手入れがされていなくてゴワゴワとはしているが、美しい金色の髪、空色の瞳、薔薇色の唇。完璧で美しいはずの、ララフィーナ・アークライトの顔がそこにあった。
「そうよ…わたくしは、わたくしのままじゃない…!」
鏡の中の自分に、ララフィーナは安堵の涙を浮かべる。
「狂っているのは、みんなの方なのよ!お父様も、アレクシス様も、使用人たちも、全員狂ってしまったんだわ!」
その時、音を立ててドアが開き、先ほどの侍女が入ってきた。
「あらあら、ディディアラ様。そんな埃っぽい鏡を覗き込んで、その汚れたお顔がさらに汚れてしまいますわよ」
カチン、とララフィーナの中で何かが切れた。
「あなた、目が見えないの!?よく見なさい!この顔を!」
ララフィーナは侍女に駆け寄り、鏡をその顔に突きつけた。
「この顔が誰の顔か、よく見て答えなさい!」
侍女は怪訝な顔で、ララフィーナと鏡を交互に見比べ、心底不思議そうに首を傾げた。
「何を仰っているのですか?鏡に映っているのも、ここにいらっしゃるのも、ディディアラ様ご本人ではありませんか」
――世界が、ぐにゃりと歪んだ。
なぜ?どうして?この鏡には、確かに美しいわたくしが映っている。なのに、なぜ他の人間には、あの忌々しいディディアラに見えるの?
鏡の中の「真実の自分」。
世界が認識している「偽りの自分」。
その致命的な断絶を前に、ララフィーナはもはや叫ぶことさえできなかった。どちらが本当の世界なのか?自分だけが、この世ならざる幻を見ているというのか?
「あ…あは…あはははは…」
乾いた笑いが、喉から漏れ出た。
ララフィーナは、その手鏡を狂おしいほど強く胸に抱きしめた。これが、自分と世界のズレを証明する唯一の証拠。
「そうよ…みんな狂ってる…みんな狂ってるんだわ…わたくしだけが、正気なのよ…」
彼女の美しい顔は、鏡の中にしか存在しない。その事実が、ララフィーナの精神を、より深く、静かな狂気の淵へと突き落としていった。
第十一章:芽生えた違和感
アレクシス王子は、最近の婚約者の変化に、喜びと共に奇妙な違和感を覚えていた。
その日、彼はディディアラ(ララフィーナの姿)と王宮の庭園を散策していた。
「先の干ばつの件、君の提言は見事だったと父上も感心されていたよ」
「恐れ入ります」
「いや、本当に驚いた。正直、君がそこまで領地のことを考えているとは思わなかった」
ディディアラは足を止め、庭園の先に広がる王都を見つめた。
「どんなに着飾っても、民が飢えていては国の品位は保てません。真の宝石とは、民の笑顔のことですわ」
その言葉に、アレクシスはハッとした。あまりに達観した、王族のような言葉。そして、その遠くを見つめる怜悧な横顔が、なぜか、かつて自分が断罪したディディアラの姿と一瞬重なって見えた。
(…いや、気のせいだ)
王子は頭を振る。
「ララフィーナ、君は…いつからそんなに変わったんだ?以前は、もっと…そう、夜会のドレスや宝石の話を好んでいただろう?」
探るような視線。ディディアラはゆっくりと王子に向き直り、完璧な淑女の笑みを浮かべた。
「人は変わるものですわ、アレクシス様。特に、大切なものを失うかもしれないという恐怖を味わえば…なおさらに」
それは、階段から突き落とされたという、ララフィーナの嘘を指していた。
しかし、ディディアラの瞳の奥には、別の意味が込められている。
その完璧な答えに、アレクシスは頷くしかなかった。だが、胸の中に生まれた小さな棘のような違和感は、消えることはなかった。
第十二章:血の約束を知る者
その夜、ディディアラは人目を避け、公爵家の別棟の奥にある乳母の部屋を訪れた。
扉を開けると、そこにいた乳母は、ディディアラ(ララフィーナの姿)を見るなり、その場に崩れるようにひざまずいた。
「…ディディアラ様。ディディアラ様ですよね…?」
その声は震えていた。
「私だと、分かるの?」
「お姿は変わられても、その瞳の奥に宿る強い光は…ああ、アリアンナお嬢様だけでなく…あなた様の御父君にそっくりでございます」
「父…?」
ディディアラは息をのんだ。母は父について、ほとんど語らなかった。ただ、とても優しく、星のように綺麗な人だった、とだけ。
乳母は涙を拭い、顔を上げた。その瞳には、長年秘めてきた秘密を打ち明ける覚悟が宿っていた。
「ディディアラ様が公爵家にお戻りになってから、ずっと申し上げるべきか悩んでおりました。アリアンナお嬢様がこの家を出られた、本当の理由を…」
乳母の言葉に、ディディアラの背筋が伸びた。
「世間では、お嬢様が恋に狂い家を捨てたとされておりますが、それは現公爵…あなた様の叔父上が流した、真っ赤な嘘でございます。
真実は、その逆。お嬢様は、そのあまりに優れた才能ゆえに、兄である公爵から追い出されたのです」
衝撃の事実に、ディディアラは言葉を失った。
「先代様は、聡明で人望の厚いアリアンナお嬢様にこそ、家を継がせたかった。しかし、跡継ぎは男であるべきという古い考えと、何より妹への嫉妬に狂った今の公爵が、それを許さなかったのです。
公爵は、お嬢様が愛した御父君の存在を突き止め、それを『家の恥』として糾弾し、お嬢様から継承権を奪い、事実上の追放処分としたのです」
乳母は悔しそうに唇を噛みしめた。
「そして、その御父君もまた、ただの人間ではございません。彼は、この国とは異なる理で存在する、霧深き森の奥の国『月影の谷』の王子でした。
彼の一族は『月の血族』と呼ばれ、古の精霊の血を引くと言われています。そして、その王家の者だけが、血を分けた者の姿を借り受けるという奇跡――『月影の術』を操ることができると」
ディディアラの心臓が、大きく鼓動した。自分のこの力が、忌まわしいアークライト家のものではなく、そんな遥か遠い、美しい響きを持つ場所から来ていたとは。
「お二人は、身分を越えて深く愛し合われました。公爵の陰謀がなければ、二つの偉大な血筋が結ばれ、アークライト家は更なる栄華を極めていたでしょう。それを、己の嫉妬心のためにすべてを台無しにしたのが、今の公爵なのです」
乳母はディディアラの手を、両手でそっと包み込んだ。
「ディディアラ様。あなた様がお持ちのその力は、遥か古の、精霊の血を引く高貴なる王族の力。そして、あなた様のその魂には、この公爵家を誰よりも正しく導くことができた、聡明なる母君様の血が流れております。この家は、本来あなた様が継ぐべきものなのです」
その言葉は、ディディアラの魂を根底から揺さぶった。
自分の存在は、間違いではなかった。家名を汚した罪の子などではない。
自分は、引き裂かれた両親の愛と、不当に奪われた母の権利、そして気高い父の血を受け継いだ、唯一無二の存在なのだ。
ディディアラは溢れる涙を拭うと、決意に満ちた瞳で頷いた。
「お願い、力を貸して。私は、母と父から受け継いだすべてを、取り戻したいの」
乳母は力強く頷いた。
「もちろんでございます。公爵が隠し持っている、不正な取引を記録した裏帳簿の在り処も存じております。さあ、ディディアラ様」
乳母は立ち上がり、忠誠を誓う騎士のように深く頭を下げた。
「これからが、本当の戦いでございます。不当に奪われたもの全てを、あるべき場所に戻すための」
ディディアラの復讐は、今や個人的な怨恨を超えた。それは、引き裂かれた両親の愛を証明し、母が築くはずだった未来を取り戻し、高貴なる血族の誇りを懸けた、聖なる戦いへと昇華されたのだった。
ディディアラは、もはや「ララフィーナ」として生きることに、一片の迷いもなかった。
それは復讐であると同時に、自分が本来あるべきだった場所を取り戻すための闘争だった。
朝食の席。叔父である公爵が、領地での干ばつの問題を嘆いた時だった。
「今年は税収も期待できんな…」
それに対し、ディディアラ(ララフィーナの姿)は、優雅にパンをちぎりながら、静かに口を開いた。
「でしたらお父様、北の森にある地下水脈を利用してはいかがでしょう。
古文書によれば、あの水脈は領内最大の水源に繋がっていると記されておりましたわ。大規模な灌漑工事にはなりますが、長期的に見れば領地は潤い、民の生活も安定するはずです」
食堂は静まり返った。叔父は目を丸くして、自分の娘を見つめている。今まで装飾品や夜会の話しかしてこなかった娘が、まるで熟練の政治家のように領地の未来を語っている。
「ラ、ララフィーナ…お前、いつの間にそのようなことを…」
「屋敷にある書物を読んでいただけですわ。愛する領地のことですもの」
ディディアラが完璧な笑顔で応えると、叔父は驚きから、やがて満足げな表情へと変わった。「さすがは我が娘だ!」と。
その変化は学園でも顕著だった。
難解なことで知られる魔法史の授業で、教授が古代ルーン文字の解読に行き詰まった際、ディディアラはすっと立ち上がり、淀みなくその意味と歴史的背景を解説してみせた。
教室は賞賛とどよめきに包まれる。彼女はもはや、ただ愛らしいだけの令嬢ではなかった。
誰もがその知性に敬意を払い、「アークライトの至宝」という噂は、「アークライトの賢女」へと変わりつつあった。
放課後には、かつてララフィーナが見向きもしなかった市街の孤児院を訪れた。パンや高価な菓子を配るだけではない。
ディディアラは一人ひとりの子供の前に膝をつき、目を見て話を聞き、汚れた頬をハンカチで拭ってやった。彼女が帰る頃には、子供たちは「聖女様!」と呼び、その馬車を涙ながらに見送った。
ディディアラが本来持っていた知性、優しさ、そして気高さ。
そのすべてが、「ララフィーナ」という器に注ぎ込まれ、彼女の功績として世に知られていく。人々はララフィーナを今まで以上に崇め、称賛した。
ディディアラの存在は、ララフィーナの輝かしい経歴によって、完璧に上書きされていった。
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その頃、本物のララフィーナは、自分が作り上げた地獄の底にいた。
屋根裏部屋の、石がむき出しの冷たい床。窓から差し込むのは、弱々しい月明かりだけ。夕食として運ばれてきたのは、硬く黒ずんだパンと、具のない冷めたスープ。
「こんなもの、家畜のエサよ!」
ララフィーナは皿を払いのけた。ガチャン、と虚しい音が響く。
ドアの外にいた侍女は、ため息まじりに吐き捨てた。
「ディディアラ様の我儘も、いい加減にしていただきたいものですわ。ララフィーナ様が心を痛めていらっしゃいます」
その声に、ララフィーナは発狂しそうになった。
違う、違う、違う!わたくしがララフィーナよ!
ララフィーナは震える手で、ドレスの裏地に縫い付けて隠し持っていた小さな手鏡を取り出した。この狂った世界で、唯一真実を映してくれる宝物だ。
そっと覗き込むと、そこに映っていたのは、痩せこけて窶れてはいるが、紛れもなくいつもの自分の顔だった。
手入れがされていなくてゴワゴワとはしているが、美しい金色の髪、空色の瞳、薔薇色の唇。完璧で美しいはずの、ララフィーナ・アークライトの顔がそこにあった。
「そうよ…わたくしは、わたくしのままじゃない…!」
鏡の中の自分に、ララフィーナは安堵の涙を浮かべる。
「狂っているのは、みんなの方なのよ!お父様も、アレクシス様も、使用人たちも、全員狂ってしまったんだわ!」
その時、音を立ててドアが開き、先ほどの侍女が入ってきた。
「あらあら、ディディアラ様。そんな埃っぽい鏡を覗き込んで、その汚れたお顔がさらに汚れてしまいますわよ」
カチン、とララフィーナの中で何かが切れた。
「あなた、目が見えないの!?よく見なさい!この顔を!」
ララフィーナは侍女に駆け寄り、鏡をその顔に突きつけた。
「この顔が誰の顔か、よく見て答えなさい!」
侍女は怪訝な顔で、ララフィーナと鏡を交互に見比べ、心底不思議そうに首を傾げた。
「何を仰っているのですか?鏡に映っているのも、ここにいらっしゃるのも、ディディアラ様ご本人ではありませんか」
――世界が、ぐにゃりと歪んだ。
なぜ?どうして?この鏡には、確かに美しいわたくしが映っている。なのに、なぜ他の人間には、あの忌々しいディディアラに見えるの?
鏡の中の「真実の自分」。
世界が認識している「偽りの自分」。
その致命的な断絶を前に、ララフィーナはもはや叫ぶことさえできなかった。どちらが本当の世界なのか?自分だけが、この世ならざる幻を見ているというのか?
「あ…あは…あはははは…」
乾いた笑いが、喉から漏れ出た。
ララフィーナは、その手鏡を狂おしいほど強く胸に抱きしめた。これが、自分と世界のズレを証明する唯一の証拠。
「そうよ…みんな狂ってる…みんな狂ってるんだわ…わたくしだけが、正気なのよ…」
彼女の美しい顔は、鏡の中にしか存在しない。その事実が、ララフィーナの精神を、より深く、静かな狂気の淵へと突き落としていった。
第十一章:芽生えた違和感
アレクシス王子は、最近の婚約者の変化に、喜びと共に奇妙な違和感を覚えていた。
その日、彼はディディアラ(ララフィーナの姿)と王宮の庭園を散策していた。
「先の干ばつの件、君の提言は見事だったと父上も感心されていたよ」
「恐れ入ります」
「いや、本当に驚いた。正直、君がそこまで領地のことを考えているとは思わなかった」
ディディアラは足を止め、庭園の先に広がる王都を見つめた。
「どんなに着飾っても、民が飢えていては国の品位は保てません。真の宝石とは、民の笑顔のことですわ」
その言葉に、アレクシスはハッとした。あまりに達観した、王族のような言葉。そして、その遠くを見つめる怜悧な横顔が、なぜか、かつて自分が断罪したディディアラの姿と一瞬重なって見えた。
(…いや、気のせいだ)
王子は頭を振る。
「ララフィーナ、君は…いつからそんなに変わったんだ?以前は、もっと…そう、夜会のドレスや宝石の話を好んでいただろう?」
探るような視線。ディディアラはゆっくりと王子に向き直り、完璧な淑女の笑みを浮かべた。
「人は変わるものですわ、アレクシス様。特に、大切なものを失うかもしれないという恐怖を味わえば…なおさらに」
それは、階段から突き落とされたという、ララフィーナの嘘を指していた。
しかし、ディディアラの瞳の奥には、別の意味が込められている。
その完璧な答えに、アレクシスは頷くしかなかった。だが、胸の中に生まれた小さな棘のような違和感は、消えることはなかった。
第十二章:血の約束を知る者
その夜、ディディアラは人目を避け、公爵家の別棟の奥にある乳母の部屋を訪れた。
扉を開けると、そこにいた乳母は、ディディアラ(ララフィーナの姿)を見るなり、その場に崩れるようにひざまずいた。
「…ディディアラ様。ディディアラ様ですよね…?」
その声は震えていた。
「私だと、分かるの?」
「お姿は変わられても、その瞳の奥に宿る強い光は…ああ、アリアンナお嬢様だけでなく…あなた様の御父君にそっくりでございます」
「父…?」
ディディアラは息をのんだ。母は父について、ほとんど語らなかった。ただ、とても優しく、星のように綺麗な人だった、とだけ。
乳母は涙を拭い、顔を上げた。その瞳には、長年秘めてきた秘密を打ち明ける覚悟が宿っていた。
「ディディアラ様が公爵家にお戻りになってから、ずっと申し上げるべきか悩んでおりました。アリアンナお嬢様がこの家を出られた、本当の理由を…」
乳母の言葉に、ディディアラの背筋が伸びた。
「世間では、お嬢様が恋に狂い家を捨てたとされておりますが、それは現公爵…あなた様の叔父上が流した、真っ赤な嘘でございます。
真実は、その逆。お嬢様は、そのあまりに優れた才能ゆえに、兄である公爵から追い出されたのです」
衝撃の事実に、ディディアラは言葉を失った。
「先代様は、聡明で人望の厚いアリアンナお嬢様にこそ、家を継がせたかった。しかし、跡継ぎは男であるべきという古い考えと、何より妹への嫉妬に狂った今の公爵が、それを許さなかったのです。
公爵は、お嬢様が愛した御父君の存在を突き止め、それを『家の恥』として糾弾し、お嬢様から継承権を奪い、事実上の追放処分としたのです」
乳母は悔しそうに唇を噛みしめた。
「そして、その御父君もまた、ただの人間ではございません。彼は、この国とは異なる理で存在する、霧深き森の奥の国『月影の谷』の王子でした。
彼の一族は『月の血族』と呼ばれ、古の精霊の血を引くと言われています。そして、その王家の者だけが、血を分けた者の姿を借り受けるという奇跡――『月影の術』を操ることができると」
ディディアラの心臓が、大きく鼓動した。自分のこの力が、忌まわしいアークライト家のものではなく、そんな遥か遠い、美しい響きを持つ場所から来ていたとは。
「お二人は、身分を越えて深く愛し合われました。公爵の陰謀がなければ、二つの偉大な血筋が結ばれ、アークライト家は更なる栄華を極めていたでしょう。それを、己の嫉妬心のためにすべてを台無しにしたのが、今の公爵なのです」
乳母はディディアラの手を、両手でそっと包み込んだ。
「ディディアラ様。あなた様がお持ちのその力は、遥か古の、精霊の血を引く高貴なる王族の力。そして、あなた様のその魂には、この公爵家を誰よりも正しく導くことができた、聡明なる母君様の血が流れております。この家は、本来あなた様が継ぐべきものなのです」
その言葉は、ディディアラの魂を根底から揺さぶった。
自分の存在は、間違いではなかった。家名を汚した罪の子などではない。
自分は、引き裂かれた両親の愛と、不当に奪われた母の権利、そして気高い父の血を受け継いだ、唯一無二の存在なのだ。
ディディアラは溢れる涙を拭うと、決意に満ちた瞳で頷いた。
「お願い、力を貸して。私は、母と父から受け継いだすべてを、取り戻したいの」
乳母は力強く頷いた。
「もちろんでございます。公爵が隠し持っている、不正な取引を記録した裏帳簿の在り処も存じております。さあ、ディディアラ様」
乳母は立ち上がり、忠誠を誓う騎士のように深く頭を下げた。
「これからが、本当の戦いでございます。不当に奪われたもの全てを、あるべき場所に戻すための」
ディディアラの復讐は、今や個人的な怨恨を超えた。それは、引き裂かれた両親の愛を証明し、母が築くはずだった未来を取り戻し、高貴なる血族の誇りを懸けた、聖なる戦いへと昇華されたのだった。
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