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24話
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7
「アオ、客足が途切れたから、いまのうちに休憩にいってこい」
「はい!」
花屋には、多くの種類の花であふれかえっていた。
アオはエプロンを脱ぐと、朝用意してきた昼食を手に取った。店から出ようとしたアオを、「アオ、ちょっと待って」と同僚の青年が呼び止めた。
「なんかきょう少し顔が熱っぽくない? ひょっとしたらそろそろあの時期……?」
心配そうに訊ねる青年に、アオは頭を振った。
「いや、まだ少し先のはずだけど……」
けれど青年の言うように、何となく朝から身体がだるいのは事実だった。風邪かな? と首をかしげるアオに、青年は少しだけほっとした顔をした。
「そっか。でも気をつけて」
「ああ。サンキュ」
いってらっしゃい、と控えめな微笑を浮かべる同僚の青年に軽く手を振って、アオは店を出た。
新しい職場は、カイルの紹介だった。以前のアオだったら、同情なんてとカイルの申し出を断っていたかもしれない。けれど、あの屋敷で数ヶ月だけでもカイルやシオンたちと過ごしたことで、アオの中で何かが変わった。他人の好意を、多少でも素直に受け入れられるようになったのだ。
花屋の前にある公園のベンチに座り、サンドウィッチの包みをほどく。この場所は噴水がよく見えるから、アオのお気に入りだった。目の前の芝生では、小さな子どもを連れた親子がピクニックをしている。
サンドウィッチの具は、薄くスライスしたきゅうりとハムだった。一緒に持ってきたガーデニングの教本を読みながら、アオはサンドウィッチを食べた。いつかはアンリのような仕事がしたいというのが、いまのアオの夢だった。そのために、昼間は花屋で働きながら、ガーデニングの資格を取るため勉強をしている。
いまの職場は、アオにとってとても恵まれた環境にあった。ラング一族と仕事上の関わりがあるこの店は、花屋だけではなくガーデニングやガーデニング用品まで手がける大きな会社だ。もちろんカイルの紹介でという理由もあるが、もともとオーナー夫妻はオメガが迫害されている現代の社会状況に対して同情的で、アオの事情をわかった上で雇ってくれていた。
発情期はやはり苦しかった。抑制剤で抑えるものの、副作用はきつく、その期間は堪えるようにやり過ごすしかない。
ときどき、胸が詰まるような思いで、シオンに会いたくなった。会ってもどうなるものでもないのに、気持ちはそう簡単に割り切れるものではなかった。それでも何とかやり過ごしているうちに、月日は流れ、気がつけばシオンの屋敷を出てから、四ヶ月が過ぎていた。
アオがシオンの屋敷を出ようとしたとき、リコは当然のことのように自分もついてこようとした。しかし、屋敷を出るのがアオひとりであることがわかると、まるでこの世の終わりのようなショックを受けた顔をした。アオは何度もリコと話し合う時間を持った。リコをそのまま屋敷に残すのは、それがリコの将来のためになると思ったこと。決してリコが邪魔になったからではないということをわかってもらわなければならなかった。それでもリコは納得ができないようだったが、最後はカイルの助けもあって、アオの決断を渋々受け入れた。いまではアオの休みにカイルと一緒に会いにきて、ご飯を食べたりする。会話の中でマリアの話が出ることもある。なかなかタイミングが合わなくて、マリアとは電話で話すくらいだが、元気そうだ。
一ヶ月ほど前、オーナー夫妻がパートの人数を増やそうか話をしていたときに、たまたまアオもその場にいた。そのとき、アオの脳裏にひとりの青年の姿が浮かんでいた。それは前の職場にいたオメガの青年だった。オーナー夫妻の了解を得て、アオが青年を訪ねると、彼はひどく驚いた後、うれしそうな笑顔を浮かべた。青年ーーセツは、いまではアオの大事な同僚だ。
アオはぶるりと身震いした。本当に身体が火照るように熱っぽい。ひょっとしたら普段よりも早く発情期がくるのかもしれない。店に戻ったら、念のため早めに休みを申請しておかなければ。
アオは腕時計を見た。そろそろ戻ったほうがいいだろう。サンドウィッチの包みを片づけ、ベンチを立つ。
店に戻ると、アオの姿を見つけたセツが少し慌てたそぶりで駆け寄ってきた。
「アオ! たったいまアオにお客さんがきてたんだ……。アオが休憩にいっているって言ったら、また夕方にでも寄るからって……」
「俺に客? リコとかじゃないんだよな?」
リコなら、一度カイルを交えて一緒にお茶を飲んだことがあったので、はっきりとそう言うはずだった。人見知りなセツは、最初アオ以外の人がいることに緊張していたようだったが。
「違う。何て言うかすごく印象的で、一度見たら忘れられないようなひと……?」
アオは眉を顰めた。思わずじっと見ると、セツは恥ずかしそうに頬を染めうつむいた。
セツの言葉を聞いて、思い当たる人物といったらシオンくらいだった。けれど、アオはすぐにその考えを否定した。シオンが自分になんて会いにくるはずはない。……だとしたら誰だ?
「またくるって言ったんだよな?」
訊ねると、セツはこくりとうなずいた。
だったら考えても仕方ない。
アオは首をかしげた。そうして仕事に追われているうちに、アオはいつの間にか訪ねてきた客のことも、自分の体調が万全でないことも忘れていた。
いまのこの時期、夕方といってもまだ外は明るい。
アオは、ミニブーケを作っていた。少し古くなった花は、そのままでは売り物にはならない。この店ではそれらを小さなブーケにして安く販売していた。そうすると、案外気軽に買っていってもらえるのだ。アオはまだ大きな花は扱えない。花屋の仕事は見た目以上に重労働で、覚えなきゃいけないことはそれこそ山のようにあった。けれど、アオはそれが楽しかった。努力をすればするだけ、技術が身につく。できることが少しずつでも増えていく。
「アオ……っ。あの、きょうはこのあと何か予定が……」
セツとは年齢も近く、オメガ同士、しかも互いにひとり暮らしということもあって、何度か仕事上がりに一緒にご飯を食べにいったことがあった。だから、恥ずかしそうにセツが切り出したとき、アオはいつもの誘いだと思い、気軽に応じようとした。そのときだった。
空気の流れが変わるように、花の匂いがした。もちろん花屋だから花の匂いがして当然だ。けれどこの匂いは違う。これは……。
「あ、アオ! あのひと……!」
セツが店の入り口を見て、目を丸くする。
どきん、どきんと心臓が騒いでいた。期待と不安で。振り向く前から、アオはその存在を感じ取っていた。胸がぎゅっと苦しくなる。きつく目を閉じて、そっと呼吸を吐き出し、再び瞼を開いて振り返る。
目の前に、数ヶ月前と変わらぬ姿でシオンが立っていた。
「シオン……」
名前を呼んだとき、胸が震えた。
「何しにきたんだよ」
ああ、シオンだ。本物のシオンだ。変わらない……。ずっと、会いたかった。もう会えないと思っていた。
喜びで胸が張り裂けそうなのに、口から出てくるのはそんな言葉で、アオは内心で舌打ちしそうになった。
「カイルに聞いた。お前がここで働いているって。ときどき、リコも含めて会ってるんだって?」
「だったらなんか悪いのかよ」
違う! そうじゃない! もっと他に言い方があるだろう?
「……アオ?」
アオの態度は、とても客に対するものとは思えなかった。心配そうなセツのようすに、アオは今度こそ本気で舌打ちした。
「……悪いけど、いま仕事中なんだ。冷やかしなら帰ってくんないか?」
自分の口から飛び出る憎まれ口に、アオは泣きたくなった。そのとき、シオンがぽつりと呟いた。
「……花を」
「え?」
「ブーケを作ってくれないか?」
……はあ?
シオンの言葉に、アオはあんぐりと口を開いた。シオンが本気で言っているとは思えなかった。だって花なんてシオンが望めばいくらだって手に入るだろう。それこそ山のように。わざわざ店に買いにくる必要はない。アオは、シオンにからかわれているとしか思えなかった。
「……冗談言ってんのかよ」
アオは顔をしかめた。
「ここは花屋なのだろう?」
「そりゃあそうだけど……」
揚げ足を取られた格好になって、アオは微かに頬を染めた。
「待ってろ。作れるスタッフを呼んでくる」
アオはくるりと踵を返し、店の奥へ向かおうとした。その腕を後ろに引っ張られる。
「お前は作れないのか」
「お、俺はまだそこまではできないよ」
「でも、さっきブーケらしきものを作っていたじゃないか」
「あれは、売れ残りっつーか、古くなった花をミニブーケにして安く売ってんだよ。俺はまだ本物のブーケは作れない」
「だったらそれでいい」
「え……っ!?」
「何だ、まだ何か問題があるのか?」
「あ、あんたが本当にそれでいいなら……」
アオは今度こそ当惑していた。アオが作れるミニブーケは、言葉は悪いが売れ残りの花だ。長くても数日しか持たない。
いったい、シオンはどうしちまったんだ?
「……何か希望は?」
「別にない」
アオは少しだけ考えると、シオンの瞳の色に合わせて、青と白系の花でブーケを作ることにした。メインの花を中心に、ボリュームを出す花とグリーンで手早くまとめていく。大切なのはスピードだ。花はナマモノなので、傷みやすい。とくにいまの時期は気温も高いので、保水も重要なポイントだった。気がつけばシオンにじっと見られている居心地の悪さも忘れて、アオは夢中で作業していた。
「……焼けるな」
ぼそっとシオンが何かを呟いた気もしたが、集中していたアオの耳からは素通りしていた。
「できた!」
声を上げて、アオはハッとなった。いつの間にかシオンの存在をすっかり忘れていたことに気がつく。
自分ではうまくできたほうだと思うが、それでも売れ残りの花であることには違いなかった。普段一流のものにしか触れていないシオンの目に、果たして自分の作ったブーケがどんなふうに映るのか、アオはにわかに不安になった。
「ど、どうかな……?」
シオンがアオの作った花束をじっと見る。アオはどきどきした。
「……ああ」
シオンがふわりと笑う。
「きれいだ」
瞬間、泣きたくなるような衝撃が、アオの身体を貫いた。アオはうつむいた。
シオン……! シオン……! シオン……!
忘れられるわけなんてなかった。こんなにも容易く、シオンはアオのすべてをさらってしまう。一瞬で。
途方に暮れた思いでアオが顔を上げると、同じく何か言いたいことをためらうような顔をしたシオンが、困惑げにアオを見つめていた。
ふたりの間を、濃密な花の匂いが満ちる。
「……仕事は何時までだ」
掠れたような声で訊ねるシオンの瞳は欲情に濡れていた。
「あと、少しだけど……」
きっと自分も同じような顔をしているのだろう。
だったら外で待っていると告げたシオンに、アオはうなずいた。
「あ、アオ……っ!」
そのとき、切羽詰まったような声で、セツがアオの名前を呼んだ。
「きょ、きょうは僕と……!」
セツの言葉に、シオンは不快そうに眉を顰めた。それを見て、セツがびくっとする。それでも、セツは引かなかった。ぶるぶると震えながら、その視線はまっすぐにシオンを見ている。
「セツ……?」
アオは意外に思った。普段は人見知りでほとんど自己主張をしないセツが、誰かに向かって強い態度を取るなんて珍しかった。というか、アオは初めて見た。しかも、相手はアルファであるシオンだ。
セツの顔色は、いまや貧血でも起こしそうなほど真っ白だった。
「あ、アオ、僕は……僕は……っ」
「セツ、どうした?」
アオがセツの身体に触れると、縋るような眼差しで見つめ返してきた。
「アオ……お願い、あのひとといかないで……」
「セツ?」
アオは困惑した。いったいセツに何があったのだろう?
アオ、とシオンに名前を呼ばれた。
アオはひゅっと息を呑んだ。セツのことは心配だった。でもいまは、シオンのそばにいたい。
アオはセツの顔をじっとのぞき込んだ。
「ごめんセツ。話なら、あしたちゃんと聞くから。それじゃあ遅いか……?」
セツの瞳が大きく見開かれる。その瞳の奥に一瞬傷ついたような光が浮かんで、消えた。
「ううん。大丈夫」
アオの中にためらいが生まれる。それを見透かしたように、セツがほほ笑んだ。
「本当に大丈夫だから。気にしないで」
「……あ、ああ。だったら、何かあったらすぐに連絡してくるんだぞ?」
アオの言葉に、セツがうなずく。
寂しそうなセツの姿に後ろ髪が引かれつつも、アオの中はシオンとのことでいっぱいで、いつの間にか頭から消えてしまった。
「アオ、客足が途切れたから、いまのうちに休憩にいってこい」
「はい!」
花屋には、多くの種類の花であふれかえっていた。
アオはエプロンを脱ぐと、朝用意してきた昼食を手に取った。店から出ようとしたアオを、「アオ、ちょっと待って」と同僚の青年が呼び止めた。
「なんかきょう少し顔が熱っぽくない? ひょっとしたらそろそろあの時期……?」
心配そうに訊ねる青年に、アオは頭を振った。
「いや、まだ少し先のはずだけど……」
けれど青年の言うように、何となく朝から身体がだるいのは事実だった。風邪かな? と首をかしげるアオに、青年は少しだけほっとした顔をした。
「そっか。でも気をつけて」
「ああ。サンキュ」
いってらっしゃい、と控えめな微笑を浮かべる同僚の青年に軽く手を振って、アオは店を出た。
新しい職場は、カイルの紹介だった。以前のアオだったら、同情なんてとカイルの申し出を断っていたかもしれない。けれど、あの屋敷で数ヶ月だけでもカイルやシオンたちと過ごしたことで、アオの中で何かが変わった。他人の好意を、多少でも素直に受け入れられるようになったのだ。
花屋の前にある公園のベンチに座り、サンドウィッチの包みをほどく。この場所は噴水がよく見えるから、アオのお気に入りだった。目の前の芝生では、小さな子どもを連れた親子がピクニックをしている。
サンドウィッチの具は、薄くスライスしたきゅうりとハムだった。一緒に持ってきたガーデニングの教本を読みながら、アオはサンドウィッチを食べた。いつかはアンリのような仕事がしたいというのが、いまのアオの夢だった。そのために、昼間は花屋で働きながら、ガーデニングの資格を取るため勉強をしている。
いまの職場は、アオにとってとても恵まれた環境にあった。ラング一族と仕事上の関わりがあるこの店は、花屋だけではなくガーデニングやガーデニング用品まで手がける大きな会社だ。もちろんカイルの紹介でという理由もあるが、もともとオーナー夫妻はオメガが迫害されている現代の社会状況に対して同情的で、アオの事情をわかった上で雇ってくれていた。
発情期はやはり苦しかった。抑制剤で抑えるものの、副作用はきつく、その期間は堪えるようにやり過ごすしかない。
ときどき、胸が詰まるような思いで、シオンに会いたくなった。会ってもどうなるものでもないのに、気持ちはそう簡単に割り切れるものではなかった。それでも何とかやり過ごしているうちに、月日は流れ、気がつけばシオンの屋敷を出てから、四ヶ月が過ぎていた。
アオがシオンの屋敷を出ようとしたとき、リコは当然のことのように自分もついてこようとした。しかし、屋敷を出るのがアオひとりであることがわかると、まるでこの世の終わりのようなショックを受けた顔をした。アオは何度もリコと話し合う時間を持った。リコをそのまま屋敷に残すのは、それがリコの将来のためになると思ったこと。決してリコが邪魔になったからではないということをわかってもらわなければならなかった。それでもリコは納得ができないようだったが、最後はカイルの助けもあって、アオの決断を渋々受け入れた。いまではアオの休みにカイルと一緒に会いにきて、ご飯を食べたりする。会話の中でマリアの話が出ることもある。なかなかタイミングが合わなくて、マリアとは電話で話すくらいだが、元気そうだ。
一ヶ月ほど前、オーナー夫妻がパートの人数を増やそうか話をしていたときに、たまたまアオもその場にいた。そのとき、アオの脳裏にひとりの青年の姿が浮かんでいた。それは前の職場にいたオメガの青年だった。オーナー夫妻の了解を得て、アオが青年を訪ねると、彼はひどく驚いた後、うれしそうな笑顔を浮かべた。青年ーーセツは、いまではアオの大事な同僚だ。
アオはぶるりと身震いした。本当に身体が火照るように熱っぽい。ひょっとしたら普段よりも早く発情期がくるのかもしれない。店に戻ったら、念のため早めに休みを申請しておかなければ。
アオは腕時計を見た。そろそろ戻ったほうがいいだろう。サンドウィッチの包みを片づけ、ベンチを立つ。
店に戻ると、アオの姿を見つけたセツが少し慌てたそぶりで駆け寄ってきた。
「アオ! たったいまアオにお客さんがきてたんだ……。アオが休憩にいっているって言ったら、また夕方にでも寄るからって……」
「俺に客? リコとかじゃないんだよな?」
リコなら、一度カイルを交えて一緒にお茶を飲んだことがあったので、はっきりとそう言うはずだった。人見知りなセツは、最初アオ以外の人がいることに緊張していたようだったが。
「違う。何て言うかすごく印象的で、一度見たら忘れられないようなひと……?」
アオは眉を顰めた。思わずじっと見ると、セツは恥ずかしそうに頬を染めうつむいた。
セツの言葉を聞いて、思い当たる人物といったらシオンくらいだった。けれど、アオはすぐにその考えを否定した。シオンが自分になんて会いにくるはずはない。……だとしたら誰だ?
「またくるって言ったんだよな?」
訊ねると、セツはこくりとうなずいた。
だったら考えても仕方ない。
アオは首をかしげた。そうして仕事に追われているうちに、アオはいつの間にか訪ねてきた客のことも、自分の体調が万全でないことも忘れていた。
いまのこの時期、夕方といってもまだ外は明るい。
アオは、ミニブーケを作っていた。少し古くなった花は、そのままでは売り物にはならない。この店ではそれらを小さなブーケにして安く販売していた。そうすると、案外気軽に買っていってもらえるのだ。アオはまだ大きな花は扱えない。花屋の仕事は見た目以上に重労働で、覚えなきゃいけないことはそれこそ山のようにあった。けれど、アオはそれが楽しかった。努力をすればするだけ、技術が身につく。できることが少しずつでも増えていく。
「アオ……っ。あの、きょうはこのあと何か予定が……」
セツとは年齢も近く、オメガ同士、しかも互いにひとり暮らしということもあって、何度か仕事上がりに一緒にご飯を食べにいったことがあった。だから、恥ずかしそうにセツが切り出したとき、アオはいつもの誘いだと思い、気軽に応じようとした。そのときだった。
空気の流れが変わるように、花の匂いがした。もちろん花屋だから花の匂いがして当然だ。けれどこの匂いは違う。これは……。
「あ、アオ! あのひと……!」
セツが店の入り口を見て、目を丸くする。
どきん、どきんと心臓が騒いでいた。期待と不安で。振り向く前から、アオはその存在を感じ取っていた。胸がぎゅっと苦しくなる。きつく目を閉じて、そっと呼吸を吐き出し、再び瞼を開いて振り返る。
目の前に、数ヶ月前と変わらぬ姿でシオンが立っていた。
「シオン……」
名前を呼んだとき、胸が震えた。
「何しにきたんだよ」
ああ、シオンだ。本物のシオンだ。変わらない……。ずっと、会いたかった。もう会えないと思っていた。
喜びで胸が張り裂けそうなのに、口から出てくるのはそんな言葉で、アオは内心で舌打ちしそうになった。
「カイルに聞いた。お前がここで働いているって。ときどき、リコも含めて会ってるんだって?」
「だったらなんか悪いのかよ」
違う! そうじゃない! もっと他に言い方があるだろう?
「……アオ?」
アオの態度は、とても客に対するものとは思えなかった。心配そうなセツのようすに、アオは今度こそ本気で舌打ちした。
「……悪いけど、いま仕事中なんだ。冷やかしなら帰ってくんないか?」
自分の口から飛び出る憎まれ口に、アオは泣きたくなった。そのとき、シオンがぽつりと呟いた。
「……花を」
「え?」
「ブーケを作ってくれないか?」
……はあ?
シオンの言葉に、アオはあんぐりと口を開いた。シオンが本気で言っているとは思えなかった。だって花なんてシオンが望めばいくらだって手に入るだろう。それこそ山のように。わざわざ店に買いにくる必要はない。アオは、シオンにからかわれているとしか思えなかった。
「……冗談言ってんのかよ」
アオは顔をしかめた。
「ここは花屋なのだろう?」
「そりゃあそうだけど……」
揚げ足を取られた格好になって、アオは微かに頬を染めた。
「待ってろ。作れるスタッフを呼んでくる」
アオはくるりと踵を返し、店の奥へ向かおうとした。その腕を後ろに引っ張られる。
「お前は作れないのか」
「お、俺はまだそこまではできないよ」
「でも、さっきブーケらしきものを作っていたじゃないか」
「あれは、売れ残りっつーか、古くなった花をミニブーケにして安く売ってんだよ。俺はまだ本物のブーケは作れない」
「だったらそれでいい」
「え……っ!?」
「何だ、まだ何か問題があるのか?」
「あ、あんたが本当にそれでいいなら……」
アオは今度こそ当惑していた。アオが作れるミニブーケは、言葉は悪いが売れ残りの花だ。長くても数日しか持たない。
いったい、シオンはどうしちまったんだ?
「……何か希望は?」
「別にない」
アオは少しだけ考えると、シオンの瞳の色に合わせて、青と白系の花でブーケを作ることにした。メインの花を中心に、ボリュームを出す花とグリーンで手早くまとめていく。大切なのはスピードだ。花はナマモノなので、傷みやすい。とくにいまの時期は気温も高いので、保水も重要なポイントだった。気がつけばシオンにじっと見られている居心地の悪さも忘れて、アオは夢中で作業していた。
「……焼けるな」
ぼそっとシオンが何かを呟いた気もしたが、集中していたアオの耳からは素通りしていた。
「できた!」
声を上げて、アオはハッとなった。いつの間にかシオンの存在をすっかり忘れていたことに気がつく。
自分ではうまくできたほうだと思うが、それでも売れ残りの花であることには違いなかった。普段一流のものにしか触れていないシオンの目に、果たして自分の作ったブーケがどんなふうに映るのか、アオはにわかに不安になった。
「ど、どうかな……?」
シオンがアオの作った花束をじっと見る。アオはどきどきした。
「……ああ」
シオンがふわりと笑う。
「きれいだ」
瞬間、泣きたくなるような衝撃が、アオの身体を貫いた。アオはうつむいた。
シオン……! シオン……! シオン……!
忘れられるわけなんてなかった。こんなにも容易く、シオンはアオのすべてをさらってしまう。一瞬で。
途方に暮れた思いでアオが顔を上げると、同じく何か言いたいことをためらうような顔をしたシオンが、困惑げにアオを見つめていた。
ふたりの間を、濃密な花の匂いが満ちる。
「……仕事は何時までだ」
掠れたような声で訊ねるシオンの瞳は欲情に濡れていた。
「あと、少しだけど……」
きっと自分も同じような顔をしているのだろう。
だったら外で待っていると告げたシオンに、アオはうなずいた。
「あ、アオ……っ!」
そのとき、切羽詰まったような声で、セツがアオの名前を呼んだ。
「きょ、きょうは僕と……!」
セツの言葉に、シオンは不快そうに眉を顰めた。それを見て、セツがびくっとする。それでも、セツは引かなかった。ぶるぶると震えながら、その視線はまっすぐにシオンを見ている。
「セツ……?」
アオは意外に思った。普段は人見知りでほとんど自己主張をしないセツが、誰かに向かって強い態度を取るなんて珍しかった。というか、アオは初めて見た。しかも、相手はアルファであるシオンだ。
セツの顔色は、いまや貧血でも起こしそうなほど真っ白だった。
「あ、アオ、僕は……僕は……っ」
「セツ、どうした?」
アオがセツの身体に触れると、縋るような眼差しで見つめ返してきた。
「アオ……お願い、あのひとといかないで……」
「セツ?」
アオは困惑した。いったいセツに何があったのだろう?
アオ、とシオンに名前を呼ばれた。
アオはひゅっと息を呑んだ。セツのことは心配だった。でもいまは、シオンのそばにいたい。
アオはセツの顔をじっとのぞき込んだ。
「ごめんセツ。話なら、あしたちゃんと聞くから。それじゃあ遅いか……?」
セツの瞳が大きく見開かれる。その瞳の奥に一瞬傷ついたような光が浮かんで、消えた。
「ううん。大丈夫」
アオの中にためらいが生まれる。それを見透かしたように、セツがほほ笑んだ。
「本当に大丈夫だから。気にしないで」
「……あ、ああ。だったら、何かあったらすぐに連絡してくるんだぞ?」
アオの言葉に、セツがうなずく。
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