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番外編
【翔視点】橘立花という編集者・2
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名刺に書かれている立花の携帯電話の番号。
それは名刺の裏側に、彼女の綺麗な手書き文字で綴られている――なんて色っぽいことではもちろんなく。
名前の右下に活字で入れられた、彼女に与えられた社用の個人端末の番号。
それでもまぁ、上等だろう。
これで彼女をいつでも呼び出せるようになった訳だから。
「初めてね、担当につかせてもらったの」
その日の立花は上機嫌だった。
待ち合わせた場所は、彼女の出版社から少し離れた場所にある某コーヒーショップ。
俺たちが落ち合う場所は決まってここになっていた。
季節は巡り、今は梅雨。
連日ジトッとした嫌な暑さとうっとうしい雨が続いていたが、知らず知らずのうちに鼻歌なんて歌っている立花にはまったく関係のないことのようで。
お気に入りだと言うオレンジと青のドット柄の傘と同系色のストール。
カチッとした服装は変わらないが、アクセントにポイントで明るい色を加えて、彼女は少しずつ個性を出そうとしていた。
「へぇ、俺より先にどこぞかの漫画家の担当になんの」
順番で言ったら至極当たり前のことだけど、その報告はやはり面白くはなくて、知らず知らずのうちにブスッとした顔になっていた。
「俺より先に……て。桐生はデビューしてないし、漫画家じゃないじゃない」
ざっくり斬りつけてくれるけど、俺には俺の目論見があってデビューしていない訳で。
「おまえが編集者として力をつけるの待ってるんだよ。俺様デビューしたらすぐに売れ始めるぜ? 手に負えなくなって新人よりベテラン担当に任せようとかなっても困るじゃねーか」
至極真面目に言ったが、立花はケラケラと笑い飛ばしてくれた。
「相変わらず、すっごい自信家だよねー、桐生は。おもしろー」
おもしろー……て、こんにゃろう。
ジト目で睨むと、そんな俺が面白いのかまた声を上げて笑いだす。
しかし、スタートラインにも立っていないのは事実であり、ここで何を言い返しても俺の方が部が悪い。
気持ちを切り替えて、立花の話を聞くことにする。
「誰の担当やんの?」
「ん、前の担当さんからそのまま引き継ぎするだけなんだけどね……佐久間夕さんて方……桐生は知ってる?」
「あー……知ってる」
すんごい昔に……俺がガキん時に、一度ヒットしたよね、その人。
もう年も50後半くらいじゃねーか? ……そろそろ少年誌ではきっついんじゃないか?
体力的にも絵柄的にも精神年齢的にも。
「しかも……まぁ……」
ここ数年、鳴かず飛ばずな漫画家だ。
全盛期にはこの人の恩恵も大分受けただろうから邪険にもしづらかったんだろうけど。
厄介払いを立花にまわしたとしか思えない。
俺が口ごもっているのを意にも介さず、立花はニコニコと話を続ける。
「描きたい熱意がね、すごぉーく伝わる人なの。面白いお話、まだまだたくさんストックしてるしね。私は経験が浅いけど、一生懸命話を聞いてくれるから嬉しいって佐久間先生は言ってくれて……一緒に頑張りたいって言ってくれたの」
立花がそいつの話を喜々として語るので、若干妬けた。
「ふーん。随分な熱のいれ込みようじゃん」
確かに俺は、ニコニコしてた方が得だって言ったぜ?
でも実際にそれを他の男にやられると、それはそれで癪だな、面白くない。
「何、桐生、不機嫌?」
「べっつに」
「桐生も早くデビューすればいいのに。投稿とかしてみなよ」
さっきの俺の話は聞かなかったことにされたらしい。
言ってくれる。
投稿して、まんまと俺がデビューして担当が別についたら、俺たちの関係はそこで終わるのに。
初仕事に意気揚々としている彼女にとって、そんなことは考えにも至らないのか。
それとも俺が立花にとってはそんくらいの存在なのか。
くそ、後者だったらいつか絶対泣かせてやる。
「次の会議でね。佐久間先生の作品が絶対通るようにね。私なりにまとめてみたの!」
そう言うと、立花はノートくらいの厚みのあるプリント用紙をバサリとテーブルに置く。
びっしりと細かく打ち込まれた文字の量に、思わず目が点になった。
「あぁ、違うわよ? まさかこれ全部は出さないわよ。ここから本当に会議でアピールして欲しい点を更に抜粋するつもり」
立花の書いたレポートに目を通す。
そこには、佐久間の新作のあらすじと、各場面ごとの見どころ、メッセージ性などが綴られていた。
「佐久間の新作の主人公は、両親の都合で転校を繰り返している男の子……『コタロウ』」
コタロウは別れの寂しさや築いたものが一瞬で無くなる虚しさから、クラスの誰とも打ち解けようとしない。
そんな彼の元に未確認生命体――いや、多分デフォルメされたそれなりに愛される風貌のキャラクターなんだと思うけど――が現れる。
未確認生命体の名前は『カヌイ』――九尾のキツネとまるく太った猫を足して割ったような容姿……だそうだ。
カヌイは一緒に『思念体』の声を聞いてほしいとコタロウに懇願する。
思念体は人の強い思いが具象化したもの。
フツーに人の姿をしているかもしれないし、負の感情が強いと化け物みたいな姿になっているかもしれない。
幽霊とは違うから坊さんに除霊してもらう訳にもいかないし、思念体の持ち主は、生きているケースと死んでいるケース両方存在する。
漫画家のキャラデザセンスが問われるけど……思念体の視覚的楽しさも出せるだろうな、と思う。
『彼らの話を聞くこと』『望んでいる事を叶えてやること』それらの手段で、その留まっている場所から思念体を解放してやって欲しいとカヌイはコタロウに頼む。
今回は読切なので、学園内で完結する話になっているが、この手の話ならばいくらでも世界を広げられそうだし、恋愛もの、感動もの、バトルもの……あらゆる方向にシフトできそうだ。
「カヌイの正体は、病弱で友達を作ることも学校に行くこともままならないまま死んじゃった男の子の思念体で……生きているのに半ば諦めているような――誰の世界とも交らないコタロウを歯がゆく思い、声が届けられるようになった、か。ふーん」
色んな人の思いに耳を傾けることで、自分の在り方を見つめなおすコタロウというのがこの話の主軸らしい。
「ドタバタを巻き起こしながら事件を解決しつつ、でも裏ではそれを通じてコタロウをクラスに馴染ませようと画策してたカヌイの健気さが可愛いのよねー」
まぁ、ベタなのかもしれねーけど。
悪くないんじゃないかというのが率直な俺の感想だった。
「佐久間先生の描いた漫画、昔の作品から全部読んだんだけど。この人はずっと、人と人の心の繋がりを伝えたいんだってわかったの」
良く見れば、立花の目の下にはクマがある。
寝ずに佐久間の作品を読みふけり、これを書いていたのだろうか。
「絶対面白いもんっ。これで返り咲き間違いなしね!」
そう言ってVサインを俺に向けて、キラキラ笑う可愛い立花。
好きなんだろうな、この仕事が。
好きなんだろうな、その漫画家と、漫画が。
俺は、は、と肩で息をつく。
あぁ、いいよ。
まぁ、いいよ。
もう少し、付き合ってやる。
俺は立花の書いたレポートに目を通して、押しが弱いところや、余計な部分を指摘してやる。
立花は大急ぎで俺に言われたことを赤字で補足し始めた。
すぐ間近で見る立花の顔は真剣で、メモ取りに夢中になっているため、俺が見ていることに気がつかない。
伏せたまつ毛は長く、くるんと上へ向かってカーブしている。
柔らかそうな薄桃色の唇を少しだけ開けて、ブツブツひとり言を呟きながら考えをまとめている。
暫く彼女を見ているうちに段々とちょっかいが出したくなってきて。
頬の横でちょろちょろと揺れている髪を指先で捕まえようとすれば、ちょうど立花が満面の笑みで顔を上げた。
「ありがとね、桐生」
「…………」
ボランティアでこんなことやっている訳ないけど、下心なんて微塵も考えに至らない立花は、無防備なくらいの極上の笑顔を俺に向けて。
「ふっふっふー♪ じゃぁ今度は、今日の桐生くんの作品を見せてもらっちゃおーかなっ」
はいはい、出して出して~と幼稚園の先生のようにふざけて両手を差し出してくる。
俺は少しだけ複雑な表情をして、空をさまよっていた右手で持ってきた原稿を渡した。
俺たちは、編集者と持ち込みの漫画家志望者という関係でも、会えばいつもこんな感じだった。
彼女がまだこの世界に足を踏み入れて間もないこと、俺たちの年が近く、二人ともまだ幼かったこともあるんだろうけど。
こんな風に、まるで友人のように、互いの立場も気にせず近況を話し合っていた。
俺の渡した封筒から原稿を抜くと、いつものごとくざっくりと読み進め始めた。
柔らかい画風と、高校生の男女のやりとりでピンときたらしい。
「お、何なーにぃ? ラブストーリーなんてのも描けるんだね、桐生くん!」
冷やかす立花に、俺は何も言わずに笑みを返した。
そう。
でもこいつはきっと読んでもピンとはこねーんだろうな。
鈍感だから。
次に連絡がついた時は、俺からでなはくて、彼女からだった。
覇気のない声で『桐生?』と呟く。
「どした?」
明らかに電話口の立花は様子がおかしかった。
尋ねても、彼女はなぜこの番号にかけたのかもわかっていないようだ。
『ごめん……』と呟き、電話を切ろうとした彼女の居場所を強引に聞き出す。
なんとなく直感的に、今立花を放っておいたらヤバイと思った。
訳もわからずに、立花の元まで駆けた。
梅雨明けはまだまだ遠い。
雨脚は強く、コンクリートの大地は水を吸うこともなく、水を路端に押し流す。
蹴り上げた水しぶきはズボンの裾に染みを作り、靴の底に潜り込んで、踏みしめる度にグチャグチャと嫌な音を立てた。
あぁ、くそ。めんどくせぇ。
途中、走るのに邪魔で、傘を差すのをやめた。
立花は、ぼーっとしながらコーヒーショップの前に佇んでいた。
傘は差しているのだが、体半分は傘にあたっておらずびしょ濡れで、あまり意味を成していない。
次から次へと彼女の肩に降り注ぐ雨に、追いつかないけれどハンカチを当てる。
肩に触れられて初めて俺の存在に気がついたらしい。
立花が小さく「駄目だった……」と口を開いた。
彼女の瞳は、俺の姿を捕えるとやっと生気が戻り――それと同時に――溢れた涙の海に沈んだ。
「きりゅ……」
立花が泣いた。
「悔……しい。悔しい。佐久間先生と似た漫画を描こうとしている作家がいるっていう理由で……被るからって……佐久間先生が外された。私が担当していなかったら、もっとベテランの担当が当たっていたら、あの作品は陽の目を見れたかもしれないのに……。佐久間先生……もっと、ずっと描きたいって………私に言ってくれていたのに……」
上司に怒鳴り飛ばされても背筋を伸ばして立っていた立花が。
ふざけた態度の俺に、射る様な視線で説教してくれた立花が。
強くて明るい彼女が。
背中を丸め小さくなって、震えながら泣いていた。
「もう佐久間先生は、そろそろうちでは終わりだよなーって言われたの。終わりって何? すごく怖かった。私はそんなことあの人に言えない。でも次に進めるようにちゃんと伝えなきゃいけない。だけど……私は……、あの作品を読者に届けたかった。佐久間先生にもっとずっと描いて欲しかった。私にもっと……あの作品の面白さを伝える力が……力があれば良かった……のに……」
ごめん、こんなの漫画家を目指しているあなたに話すようなことじゃなかった……。
誰に言える話でもなかった……し。
でも、気付いたら電話してた……ごめん……。
弱ってる私をしっかりしろって罵倒して欲しかった。
ごめん……こんなことでめそめそしたくないのに……。
消えそうな声で、「ごめんなさい……」と何度も謝る立花。
立花にとって俺の存在って一体何なんだ? なんて思うことはしょっちゅうだったけれど。
「いいよ」
一番弱ってるときに連絡をくれた。
それで、充分だよ。
「なんだ。佐久間って、くそ幸せな漫画家じゃねーか。最後に当たったのが最高の担当で? こんな、レポート何枚にも渡って、心に響く場所をまとめてくれて。大好きです、絶対いけます、何度もそう太鼓判を押して大事に原稿を持って行ってくれた。駄目だったらこんなに胸を痛めて泣いてくれてる。俺だったら負けないね。ここでもうひと花咲かさなきゃ、男じゃねーだろ。出版社なんか、ここだけじゃねー。漫画が好きならどこでも描いていける。くよくよすんな。つーか、おまえ泣いても仕方ねーじゃねーか」
「う……ふ……ぅ……うぅ~~……」
努めて明るく言ってやるが、立花の涙が止まる気配はなくて、泣かせてやりたいとは思ったけど、俺以外の誰かに泣かされている、こんな形は不本意だった。
目に見えるものが全ての世界。
口には出さないけれど、そんなの俺も立花もわかってる。
「じゃぁ、俺と頂点を目指そう、立花」
それは名刺の裏側に、彼女の綺麗な手書き文字で綴られている――なんて色っぽいことではもちろんなく。
名前の右下に活字で入れられた、彼女に与えられた社用の個人端末の番号。
それでもまぁ、上等だろう。
これで彼女をいつでも呼び出せるようになった訳だから。
「初めてね、担当につかせてもらったの」
その日の立花は上機嫌だった。
待ち合わせた場所は、彼女の出版社から少し離れた場所にある某コーヒーショップ。
俺たちが落ち合う場所は決まってここになっていた。
季節は巡り、今は梅雨。
連日ジトッとした嫌な暑さとうっとうしい雨が続いていたが、知らず知らずのうちに鼻歌なんて歌っている立花にはまったく関係のないことのようで。
お気に入りだと言うオレンジと青のドット柄の傘と同系色のストール。
カチッとした服装は変わらないが、アクセントにポイントで明るい色を加えて、彼女は少しずつ個性を出そうとしていた。
「へぇ、俺より先にどこぞかの漫画家の担当になんの」
順番で言ったら至極当たり前のことだけど、その報告はやはり面白くはなくて、知らず知らずのうちにブスッとした顔になっていた。
「俺より先に……て。桐生はデビューしてないし、漫画家じゃないじゃない」
ざっくり斬りつけてくれるけど、俺には俺の目論見があってデビューしていない訳で。
「おまえが編集者として力をつけるの待ってるんだよ。俺様デビューしたらすぐに売れ始めるぜ? 手に負えなくなって新人よりベテラン担当に任せようとかなっても困るじゃねーか」
至極真面目に言ったが、立花はケラケラと笑い飛ばしてくれた。
「相変わらず、すっごい自信家だよねー、桐生は。おもしろー」
おもしろー……て、こんにゃろう。
ジト目で睨むと、そんな俺が面白いのかまた声を上げて笑いだす。
しかし、スタートラインにも立っていないのは事実であり、ここで何を言い返しても俺の方が部が悪い。
気持ちを切り替えて、立花の話を聞くことにする。
「誰の担当やんの?」
「ん、前の担当さんからそのまま引き継ぎするだけなんだけどね……佐久間夕さんて方……桐生は知ってる?」
「あー……知ってる」
すんごい昔に……俺がガキん時に、一度ヒットしたよね、その人。
もう年も50後半くらいじゃねーか? ……そろそろ少年誌ではきっついんじゃないか?
体力的にも絵柄的にも精神年齢的にも。
「しかも……まぁ……」
ここ数年、鳴かず飛ばずな漫画家だ。
全盛期にはこの人の恩恵も大分受けただろうから邪険にもしづらかったんだろうけど。
厄介払いを立花にまわしたとしか思えない。
俺が口ごもっているのを意にも介さず、立花はニコニコと話を続ける。
「描きたい熱意がね、すごぉーく伝わる人なの。面白いお話、まだまだたくさんストックしてるしね。私は経験が浅いけど、一生懸命話を聞いてくれるから嬉しいって佐久間先生は言ってくれて……一緒に頑張りたいって言ってくれたの」
立花がそいつの話を喜々として語るので、若干妬けた。
「ふーん。随分な熱のいれ込みようじゃん」
確かに俺は、ニコニコしてた方が得だって言ったぜ?
でも実際にそれを他の男にやられると、それはそれで癪だな、面白くない。
「何、桐生、不機嫌?」
「べっつに」
「桐生も早くデビューすればいいのに。投稿とかしてみなよ」
さっきの俺の話は聞かなかったことにされたらしい。
言ってくれる。
投稿して、まんまと俺がデビューして担当が別についたら、俺たちの関係はそこで終わるのに。
初仕事に意気揚々としている彼女にとって、そんなことは考えにも至らないのか。
それとも俺が立花にとってはそんくらいの存在なのか。
くそ、後者だったらいつか絶対泣かせてやる。
「次の会議でね。佐久間先生の作品が絶対通るようにね。私なりにまとめてみたの!」
そう言うと、立花はノートくらいの厚みのあるプリント用紙をバサリとテーブルに置く。
びっしりと細かく打ち込まれた文字の量に、思わず目が点になった。
「あぁ、違うわよ? まさかこれ全部は出さないわよ。ここから本当に会議でアピールして欲しい点を更に抜粋するつもり」
立花の書いたレポートに目を通す。
そこには、佐久間の新作のあらすじと、各場面ごとの見どころ、メッセージ性などが綴られていた。
「佐久間の新作の主人公は、両親の都合で転校を繰り返している男の子……『コタロウ』」
コタロウは別れの寂しさや築いたものが一瞬で無くなる虚しさから、クラスの誰とも打ち解けようとしない。
そんな彼の元に未確認生命体――いや、多分デフォルメされたそれなりに愛される風貌のキャラクターなんだと思うけど――が現れる。
未確認生命体の名前は『カヌイ』――九尾のキツネとまるく太った猫を足して割ったような容姿……だそうだ。
カヌイは一緒に『思念体』の声を聞いてほしいとコタロウに懇願する。
思念体は人の強い思いが具象化したもの。
フツーに人の姿をしているかもしれないし、負の感情が強いと化け物みたいな姿になっているかもしれない。
幽霊とは違うから坊さんに除霊してもらう訳にもいかないし、思念体の持ち主は、生きているケースと死んでいるケース両方存在する。
漫画家のキャラデザセンスが問われるけど……思念体の視覚的楽しさも出せるだろうな、と思う。
『彼らの話を聞くこと』『望んでいる事を叶えてやること』それらの手段で、その留まっている場所から思念体を解放してやって欲しいとカヌイはコタロウに頼む。
今回は読切なので、学園内で完結する話になっているが、この手の話ならばいくらでも世界を広げられそうだし、恋愛もの、感動もの、バトルもの……あらゆる方向にシフトできそうだ。
「カヌイの正体は、病弱で友達を作ることも学校に行くこともままならないまま死んじゃった男の子の思念体で……生きているのに半ば諦めているような――誰の世界とも交らないコタロウを歯がゆく思い、声が届けられるようになった、か。ふーん」
色んな人の思いに耳を傾けることで、自分の在り方を見つめなおすコタロウというのがこの話の主軸らしい。
「ドタバタを巻き起こしながら事件を解決しつつ、でも裏ではそれを通じてコタロウをクラスに馴染ませようと画策してたカヌイの健気さが可愛いのよねー」
まぁ、ベタなのかもしれねーけど。
悪くないんじゃないかというのが率直な俺の感想だった。
「佐久間先生の描いた漫画、昔の作品から全部読んだんだけど。この人はずっと、人と人の心の繋がりを伝えたいんだってわかったの」
良く見れば、立花の目の下にはクマがある。
寝ずに佐久間の作品を読みふけり、これを書いていたのだろうか。
「絶対面白いもんっ。これで返り咲き間違いなしね!」
そう言ってVサインを俺に向けて、キラキラ笑う可愛い立花。
好きなんだろうな、この仕事が。
好きなんだろうな、その漫画家と、漫画が。
俺は、は、と肩で息をつく。
あぁ、いいよ。
まぁ、いいよ。
もう少し、付き合ってやる。
俺は立花の書いたレポートに目を通して、押しが弱いところや、余計な部分を指摘してやる。
立花は大急ぎで俺に言われたことを赤字で補足し始めた。
すぐ間近で見る立花の顔は真剣で、メモ取りに夢中になっているため、俺が見ていることに気がつかない。
伏せたまつ毛は長く、くるんと上へ向かってカーブしている。
柔らかそうな薄桃色の唇を少しだけ開けて、ブツブツひとり言を呟きながら考えをまとめている。
暫く彼女を見ているうちに段々とちょっかいが出したくなってきて。
頬の横でちょろちょろと揺れている髪を指先で捕まえようとすれば、ちょうど立花が満面の笑みで顔を上げた。
「ありがとね、桐生」
「…………」
ボランティアでこんなことやっている訳ないけど、下心なんて微塵も考えに至らない立花は、無防備なくらいの極上の笑顔を俺に向けて。
「ふっふっふー♪ じゃぁ今度は、今日の桐生くんの作品を見せてもらっちゃおーかなっ」
はいはい、出して出して~と幼稚園の先生のようにふざけて両手を差し出してくる。
俺は少しだけ複雑な表情をして、空をさまよっていた右手で持ってきた原稿を渡した。
俺たちは、編集者と持ち込みの漫画家志望者という関係でも、会えばいつもこんな感じだった。
彼女がまだこの世界に足を踏み入れて間もないこと、俺たちの年が近く、二人ともまだ幼かったこともあるんだろうけど。
こんな風に、まるで友人のように、互いの立場も気にせず近況を話し合っていた。
俺の渡した封筒から原稿を抜くと、いつものごとくざっくりと読み進め始めた。
柔らかい画風と、高校生の男女のやりとりでピンときたらしい。
「お、何なーにぃ? ラブストーリーなんてのも描けるんだね、桐生くん!」
冷やかす立花に、俺は何も言わずに笑みを返した。
そう。
でもこいつはきっと読んでもピンとはこねーんだろうな。
鈍感だから。
次に連絡がついた時は、俺からでなはくて、彼女からだった。
覇気のない声で『桐生?』と呟く。
「どした?」
明らかに電話口の立花は様子がおかしかった。
尋ねても、彼女はなぜこの番号にかけたのかもわかっていないようだ。
『ごめん……』と呟き、電話を切ろうとした彼女の居場所を強引に聞き出す。
なんとなく直感的に、今立花を放っておいたらヤバイと思った。
訳もわからずに、立花の元まで駆けた。
梅雨明けはまだまだ遠い。
雨脚は強く、コンクリートの大地は水を吸うこともなく、水を路端に押し流す。
蹴り上げた水しぶきはズボンの裾に染みを作り、靴の底に潜り込んで、踏みしめる度にグチャグチャと嫌な音を立てた。
あぁ、くそ。めんどくせぇ。
途中、走るのに邪魔で、傘を差すのをやめた。
立花は、ぼーっとしながらコーヒーショップの前に佇んでいた。
傘は差しているのだが、体半分は傘にあたっておらずびしょ濡れで、あまり意味を成していない。
次から次へと彼女の肩に降り注ぐ雨に、追いつかないけれどハンカチを当てる。
肩に触れられて初めて俺の存在に気がついたらしい。
立花が小さく「駄目だった……」と口を開いた。
彼女の瞳は、俺の姿を捕えるとやっと生気が戻り――それと同時に――溢れた涙の海に沈んだ。
「きりゅ……」
立花が泣いた。
「悔……しい。悔しい。佐久間先生と似た漫画を描こうとしている作家がいるっていう理由で……被るからって……佐久間先生が外された。私が担当していなかったら、もっとベテランの担当が当たっていたら、あの作品は陽の目を見れたかもしれないのに……。佐久間先生……もっと、ずっと描きたいって………私に言ってくれていたのに……」
上司に怒鳴り飛ばされても背筋を伸ばして立っていた立花が。
ふざけた態度の俺に、射る様な視線で説教してくれた立花が。
強くて明るい彼女が。
背中を丸め小さくなって、震えながら泣いていた。
「もう佐久間先生は、そろそろうちでは終わりだよなーって言われたの。終わりって何? すごく怖かった。私はそんなことあの人に言えない。でも次に進めるようにちゃんと伝えなきゃいけない。だけど……私は……、あの作品を読者に届けたかった。佐久間先生にもっとずっと描いて欲しかった。私にもっと……あの作品の面白さを伝える力が……力があれば良かった……のに……」
ごめん、こんなの漫画家を目指しているあなたに話すようなことじゃなかった……。
誰に言える話でもなかった……し。
でも、気付いたら電話してた……ごめん……。
弱ってる私をしっかりしろって罵倒して欲しかった。
ごめん……こんなことでめそめそしたくないのに……。
消えそうな声で、「ごめんなさい……」と何度も謝る立花。
立花にとって俺の存在って一体何なんだ? なんて思うことはしょっちゅうだったけれど。
「いいよ」
一番弱ってるときに連絡をくれた。
それで、充分だよ。
「なんだ。佐久間って、くそ幸せな漫画家じゃねーか。最後に当たったのが最高の担当で? こんな、レポート何枚にも渡って、心に響く場所をまとめてくれて。大好きです、絶対いけます、何度もそう太鼓判を押して大事に原稿を持って行ってくれた。駄目だったらこんなに胸を痛めて泣いてくれてる。俺だったら負けないね。ここでもうひと花咲かさなきゃ、男じゃねーだろ。出版社なんか、ここだけじゃねー。漫画が好きならどこでも描いていける。くよくよすんな。つーか、おまえ泣いても仕方ねーじゃねーか」
「う……ふ……ぅ……うぅ~~……」
努めて明るく言ってやるが、立花の涙が止まる気配はなくて、泣かせてやりたいとは思ったけど、俺以外の誰かに泣かされている、こんな形は不本意だった。
目に見えるものが全ての世界。
口には出さないけれど、そんなの俺も立花もわかってる。
「じゃぁ、俺と頂点を目指そう、立花」
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〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
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今日も《夫》は帰らない。
《夫》には僕以外の『番』がいる。
ねぇ、どうしてなの?
一目惚れだって言ったじゃない。
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ねぇ、僕はもう要らないの…?
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