泡沫には消えないもの。永遠には残らないもの。

唯純 楽

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出会い 4

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 ディオンと初めてチェスをした日から、マクシムと共に三日ごとに宮殿を訪れるのが、メルリーナの仕事となった。

 宮殿へ行き、ディオンと好きなだけチェスをすることを楽しみにしていれば、ソランジュやオルガに何を言われても我慢出来た。

 ディオンとチェスの対戦をすることも楽しかったけれど、チェスの合間にしてくれる、カーディナルの話を聞くのも同じくらい楽しくて、メルリーナはすぐにディオンが大好きになった。

 ディオンは、父のアランが正式にリヴィエール公爵となったひと月前まで、ほとんど帰らぬ夫を小さな田舎街で、ひとり待ち続ける生活に耐えられなかった母グレースと共に、首都のラティフィアで暮らしていたらしい。
 しかも滞在していたのは、皇帝の住まう大きな宮殿。グレースはカーディナル皇帝の十番目の娘で、ディオンの名づけ親はカーディナル皇帝だった。

 メルリーナに負けるたび、悔しがって芝生の上を転げまわるディオンは、中身はともかくとして、その血筋は本物の王子様だった。

 ディオンは、とにかく負けず嫌いで、何度でも懲りずにメルリーナに勝負を挑んだが、ディオンとチェスをし始めて三回目にして、メルリーナはあることに気が付いた。

 元々、ディオンは、チェスが好きでも得意でもないらしい。

 ディオンは、メルリーナにしてみればチェスを覚えたての人のような、とんでもなく迂闊な手を次々と指すのだ。

 どう考えても、チェスをいつもしているとは思えなかった。

 対戦の後、邸に戻る馬車の中で思い切ってマクシムに確かめれば、苦笑いしながらメルリーナを引っ張り出した本当の理由を説明してくれた。

「ディオン様は、とにかく落ち着きがなく、じっくり考えるのが苦手だ。馬に乗って走り回ったり、剣を振り回したりする方が好きで、未来のリヴィエール公爵として立つには、戦略や戦術を学ぶ必要があるのに、船長とのチェスの時間をあの手この手ですっぽかそうとする。元々、ディオン様はとても負けず嫌いで努力家だから、自分より小さな同い年の女の子にコテンパンにされたら、きっと悔しがって頑張るだろうという船長の策略だったんだ」

 マクシムの言う通り、確かにディオンはじっとしているのが苦手だった。

 会えば、毎回のように赤い髪や服のどこかに葉っぱがくっ付いていたし、綺麗な衣装はすぐに脱いで放り出すし、言葉遣いはとっても乱暴だった。

 いつものメルリーナなら、何か言われるたびに、頭が真っ白になって泣き出していただろうけれど、不思議とディオンが大声を出しても、怒った顔をしても、平気だった。

 乱暴な言葉を口にしても、ディオンの空色の瞳にはメルリーナを凍り付かせるような冷たい光が宿ることはなかったからかもしれない。

 ぐいぐいと力強くメルリーナを引っ張ってくれる手も、いつも温かかった。

 ディオンが負けず嫌いで努力家だというのも、嘘ではなかった。

 ラザールの思惑通り、ディオンは一生懸命練習したのだろう。
 メルリーナが手加減しないと全く勝てなかったものが、一年が過ぎる頃には手加減なしでも十回に一回くらいは勝てるようになった。

 そうなってくると、帰りがけにディオンがメルリーナにお菓子をくれるように、ディオンが勝ったときには何かあげたいと思うようになった。
 
 ディオンは、メルリーナが「何か欲しいものはないのか」と尋ねるたびに「ない」と言うけれど、せめて誕生日くらいは何かあげたかった。

 メルリーナは、いつものようにチェスをする約束のために宮殿へと向かう馬車の中で、何かいい案はないかと考えながら窓の外をぼんやりと眺めていた。

 昨日は、ディオンの十一歳の誕生日だった。

 宮殿から流れる優雅な音楽は街にいても聞こえ、夜には港で花火も打ち上げられて、リヴィエール中の人たちが、未来の公爵様の誕生日を祝い、楽しんだ。

 宮殿で開かれた祝宴には、たくさんのお金持ちの商人やカーディナルから来た貴族たちが招かれたらしく、父と継母、異母妹たちも出席していたようだ。

 気取った人たちと一緒だと息が詰まるというマクシムと、最初から招待されなかったメルリーナは、一緒に港まで出かけ、マクシムが時々訪れているという酒場で、初めてチェス賭博を見物した。

 メルリーナも一局だけ、知らない大人を相手に対戦したけれど、何とか引き分けにするのが精いっぱいで、悔しい思いをした。

 ほろ酔い加減のマクシムと酒場を出た後は、道端で売られている揚げたての魚のフライや甘い果汁を味わい、港で海の上に上がる花火を大勢の人たちと一緒に見物した。

 とても楽しい一日だったけれど、ディオンの誕生日にお祝いを言えなかったのは少し残念だった。

 今日は、一日遅れではあるけれど、ちゃんとお祝いの言葉を言って、ディオンが喜ぶようなものをあげたかった。

 ディオンは、昨日たくさん素晴らしいものを貰ったに違いないし、メルリーナのあげるものなんて欲しくないかもしれないけれど、もしも、ちょっとくらい頑張ればあげられるものだったら、マクシムに相談してみようと決めたところで、馬車が宮殿に到着した。

「ようこそお越しくださいました」

 いつものように宮殿の入り口でセヴランに出迎えられたメルリーナとマクシムは、いつものように図書室へ向かったのだが、そこには不貞腐れた表情を隠そうともしないディオンが待ち構えていた。

「よく来てくれたな! メルリーナ」

 ディオンとは対照的に、ラザールは微笑みながら、いつものようによく響く声でメルリーナを歓迎すると、顔を覗き込んでくる。

「こ、こんにちは?……船長」

 何か顔に付いているのかと不安になったメルリーナだったが、ラザールはほっとしたように笑って、メルリーナの頭をそっと撫でた。

「うん、元気そうでよかった。昨日は、急な腹痛で来られなくなったと聞いて、心配したぞ。顔色もいいようだし、良くなったんだな?」

 ラザールの言葉が理解出来ずに、メルリーナは思わずマクシムを見上げてしまった。

 するとマクシムは、苦虫を嚙み潰したような表情で、苛立たし気に溜息を吐いた。

「腹痛なんて嘘っぱちですよ。メルリーナにも自分にも招待状は届いていません。てっきり、船長が気を遣ってわざと送らなかったのかと思っていましたが……大方、あの女狐が小細工して、間抜けなギュスターヴにありもしない嘘を耳打ちしたんでしょう」

「正式な招待状だぞっ!?」

 怒りを露わにしたラザールは、周囲の空気がビリビリするほど声を張り上げたが、メルリーナがビクリと飛び上がったのを見て、慌てて吊り上げた目尻を押し下げた。

「いや、急に大きな声を出して悪かった。メルリーナに怒ったわけではないからな」

「どっちにしろ、あれらと一緒に来るのは気が進まなかった。一日遅れでも、お祝いは言えますからな」

「それはそうだが……」

 今度はラザールが苦虫を嚙み潰したような表情になって黙り込む。

 すると、むすっとした顔をしたままのディオンが、メルリーナの手を掴んだ。

「もうメルを連れて行ってもいい?」

「あ、ああ」

「行こう、メル」

 ディオンは、いつものようにぐいぐいとメルリーナを引っ張って歩き出したが、いつになく静かだった。

 温室の隠れ家に辿り着くと、いつものようにチェス盤を引っ張り出し、黙々と一局対戦し、いつものようにメルリーナにコテンパンにやられて負けた後、ようやく口を開いた。

「昨日は、カーディナルから招いた旅芸人たちが歌や踊りを披露したんだ。料理も、カーディナルや海の向こうのウィスバーデン王国、リーフラント王国の美味しいものがいっぱいあった。剣とかナイフとか、乗馬用の帽子と手袋とか、面白い本とか、たくさん贈り物も貰って、皇帝陛下からもお祝いの手紙と一緒に望遠鏡を貰った。前の年よりもずっとたくさんお祝いを貰ったんだ」

 そんなに色々貰ったのなら、自分の贈り物などいらないかもしれない。
 メルリーナが、黙って諦めの微笑みを浮かべて頷きかけたとき、ディオンがぽつりと呟いた。

「でも、メルがいなかったから、つまらなかった」
 
 メルリーナは、なんだか胸の奥がむずむずする感じを覚えて、きゅっと胸元を握りしめた。

 ディオンは、もう一度駒を並べ直すと空色の瞳でメルリーナを真っすぐ見つめ、宣戦布告した。

「次は勝つ。勝ったら、メルは俺が欲しいものをくれるよな?」

 確認するというよりも命令になるところが、ディオンらしかった。

「う、うん……で、でも、立派な贈り物はあげられないと思うけど、けどっ、わ、私にあげられるものなら……」

「大丈夫。メルじゃないとあげられないものだから」

「う、うん?」

 一体何なのだろうと疑問に思うメルリーナがドキドキしていたせいか、次の対戦はあっさりとディオンが勝利した。

 勝ったディオンは、唐突に「今日はこれでおしまいだ」と言って、駒のなくなったチェス盤越しにぐいっと身を乗り出した。

「メル。目を瞑って」

「うん?」

 言われるままに目を瞑ったメルリーナは、少し間を置いて、ぴたりと唇に何かを重ねられたことに驚いて目を開けた。

 すぐそこに、空色の瞳が見えた。

「閉じろって言ったのにっ!」

 バッと身体を離したディオンの顔は、赤い髪と同じくらい真っ赤になっていた。

 キスされたのだとようやく理解した途端、メルリーナも顔が熱くなるのを感じたものの、失敗したら欲しいものをあげたことにはならないだろうと思った。

「ご、ごめんなさい。も、もう一回……」

 両手で顔を覆い、俯いているディオンに対し、次はちゃんと目を閉じたままでいると約束すれば、「もういいよ」という呟きが聞こえた。

「目を開けててもいい……」

 ディオンの瞳が、もう一回勝負したいと、強請るときと同じように輝く。

 メルリーナは、鼻先が触れ合い、ディオンの唇が重なるまで、じっと見つめていたけれど、柔らかくて、温かくて、優しいものに触れられる心地よさに、自然と目を伏せた。

 ディオンが欲しいものをあげているというより、自分が欲しいものを貰っているような気分になった。

 くっ付いては離れ、離れてはくっ付くのを三回ほど繰り返した後、ディオンは怒ったように告げた。

「これから、メルに勝ったらこれを貰うことにするからな!」



 年齢を重ね、心も体も成長するにつれ、十回に一回が五回に一回へ。四回に一回へ。そして三回に一回へと、ディオンがメルリーナに勝つ回数は少しずつ増えていった。
 
 もちろん、メルリーナは多分に手加減していた。

 ディオンは、宣言した通りに、メルリーナに勝つたびキスをした。

 初めはただ触れ合うだけだったキスは、より長く、より深く、より甘くなっていった。

 二人が出会ってから六年が過ぎる頃には、チェスをしているよりも抱き合って転がり、キスをしている時間の方が長くなっていた。
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