泡沫には消えないもの。永遠には残らないもの。

唯純 楽

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出会い 5

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 メルリーナは、家族とも呼べぬただの同居人であることを噛み締めるだけの朝食の席を耐えた後、自室へ戻ると宮殿へ出かけるための身支度に取り掛かった。

 いつもなら、一刻も早く出掛けたくて気持ちが急いて、髪も化粧も適当でいいと言うところだが、今日は、出来る限り引き延ばしたい。

 宮殿に通い続けた六年間で、初めて行きたくないと思った。
 
 髪を結ってくれる侍女の様子を鏡越しに見つめながら、必要ないと、何度も喉まで出かかったけれど、馬車は迎えに来るだろうし、マクシムも待っている。

 行きたくなくても、やっぱり止めることは出来ない。

 いっそのこと、仮病でも使おうかと思ったが、前に風邪を引いて熱を出してしまい、約束の日に訪れなかった時、ディオンとラザールが直々に見舞いに来たことを思い出し、すぐにその考えを却下する。

「寂しくなりますね」

 ふと耳に落ちた穏やかで、優しい声音に、メルリーナは目を瞬いた。

 メルリーナの身支度は、六年前からずっと、同じ侍女が務めてくれていた。

 エマという名であることは知っているし、いつも綺麗に整えてくれることを感謝していたけれど、直接言葉を交わしたことはなかった。

 メルリーナにとって、この邸では、マクシム以外に心を開いて接することが出来る相手はいなかったのだ。

 エマは、メルリーナが沈黙を返しても気にせず、先を続けた。

「ディオン様がもうすぐカーディナルへ旅立つとお聞きしました。きっと、メルリーナ様と同じように、ディオン様も寂しいとお感じになっているでしょうね」

 行きたくない理由を言い当てられて、メルリーナはきゅっと唇を噛んだ。

 十六歳になったディオンが、明日、カーディナル帝国海軍で様々な経験を積むために帝国の首都ラティフィアへ旅立つことは、リヴィエール中の人間が知っている。

 ディオンは、父や祖父、曽祖父のように立派で強い船長になるのが夢で、これまでも度々、海賊の討伐や近海を航行する商船などに乗り込んでは、船を動かすのに必要な知識を貪欲に学んでいた。

 カーディナル帝国海軍で学ぶことは、ディオンがリヴィエール公爵家に生まれたときから決まっていたことで、本人もとても楽しみにしていた。
 ラティフィアは、十歳になるまでそこで育ったディオンにとっては、異国というよりも故郷のようなものだし、未だ親交のある幼馴染などもいるらしい。

 だから、自分と違って寂しいなんて感じているはずがないのに、とメルリーナは首を傾げた。
 
「そう……かしら?」

「三日ごとに六年もの間、お顔を合わせていたんです。急に会えなくなったら、寂しいと感じるのが当然でしょう。それが、愛しい相手ともなれば、尚更です」

 含みのある眼差しを鏡越しに向けられたメルリーナは、燃えるように熱くなった頬を手で押さえた。

「ディーとは、そ、そんなことは……」

「隠しても無駄ですよ。先日、港をお二人で散策していた時の様子が、実に仲睦まじくて微笑ましかったと噂になっていますから」

「せ、せん……みなと?」

 確かに、前回の勝負はディオンの無理矢理なやり方で混乱し、メルリーナが負けた。

 ディオンは、勝ったら貰えるものを変更して、メルリーナを港へ連れ出した。

 ディオンと二人で出かけるのは初めてのことではなく、これまでも港には度々足を運んでいた。
 多くの人に目撃されていることはわかっていたけれど、未来の公爵であるディオンのことは知っていても、引き籠り勝ちのメルリーナのことを知っている人は多くない。

 それに、ディオンがメルリーナを連れ出すのは、大抵魅力的な船が停泊しているからで、世の中の恋人同士のようにお互いを見つめ合ってうっとりなんかしない。
 カーディナル皇帝に貰ったと言う望遠鏡を手に、沖合にいる船を覗くのに夢中なのだ。

 船を眺めるディオンの口癖は、メルリーナが男だったら、祖父たちのように二人で大海原を旅して歩くのに、という何とも色気のないものだった。

「限られた時間しか会えないのなら、より一層、美しく装って、ディオン様の目を釘付けにしてしまわないと」

 ゆったりと微笑む侍女に、メルリーナは恥ずかしくなって俯いた。

「で、でも、私はその……オルガみたいに綺麗ではないし……」

「メルリーナ様。恋をしている女性は、美しいものです。それに、恋をしている相手には、世界中で一番美しい女性に見えるものです」

「そ、そうなの?」

「美しいということに、決まりごとなどないのです。何を美しいと思うかは、自由です。素直にディオン様の言葉を受け取れば、その分、メルリーナ様は美しくなれるんですよ」

 美しくなっているという実感はないけれど、ディオンの言葉はいつもメルリーナに喜びを齎してくれる。
 ディオンの目に映る自分が、少しでも綺麗だったら嬉しいと思う。
 
「……ありがとう、エマ」

 おずおずとその名を口にすれば、逆に礼を言われた。

「こちらこそ、ありがとうございます。どんどん綺麗になっていくメルリーナ様のお支度をお手伝いするのは、本当に楽しくて」

 アッシュブロンドを左右少しずつ編み込んで、顔周りをすっきりさせた髪型は、少女の域を出つつあるメルリーナの大人びた頬骨の高い骨格を美しくみせてくれる。
 
 ディオンの瞳と同じ空色のドレスとおそろいのリボンを付ければ出来上がりだ。

 パーティーに出るためのような豪奢なドレスではないけれど、すっきりとした意匠ながらも襟元や細身の袖と口ににあしらわれた繊細なレースや小さな真珠の釦が可愛らしく、ちょっとした外出には十分な装いだ。

 今流行の大きく膨らんだスカートや袖、リボンやレースを重ねた装飾の多いドレスは、抱き心地が悪いとディオンが不機嫌になるので、物足りないくらいでちょうどいい。
 
 エマは、世界一の美女になったと笑ってメルリーナを送り出してくれた。

 沈んでいた気持ちも少しだけ上向いたメルリーナは、いつものように、マクシムを迎えに離れへ向かったが、そこにマクシムと向かい合ってチェスをしているディオンを見つけて驚いた。

「ディー?」

「メルっ! 宮殿はちょっと忙しないから、こっちに来たんだ」

 立ち上がってメルリーナを迎えて頬に口づけたディオンは、深紅のコートに豪華な刺繍の施されたベスト、黒いトラウザーズとブーツを履いて、髪もきっちり整えており、まるで初めて出会った時のようないかにも王子様といった格好をしていた。

 メルリーナと会うときは、砕けた格好が多いディオンにしては珍しい。

「これは、今夜、出立祝いのパーティーがあるからだ。先に支度しておけば、始まるぎりぎりまで出ていられるから……」

 準備で忙しいはずなのに、どうやらこっそり抜け出して来たらしい。
 その上、夜までは帰らなくてもいいと勝手に決めたのだろう。

 後で、公爵夫妻に叱られるのではないかと思いながらも、少しでも長く一緒にいたいと同じように思ってくれていることが嬉しくて、メルリーナはつい微笑んだ。

「メル。もう少しで終わるから、お茶を淹れてくれんか」

「はい、おじい様」

 マクシムの要望にメルリーナが頷くと、ディオン不服を唱えた。

「航海長。もう少しで終わるって、どういうことだよ? まだ始めたばかりだろ」

 マクシムは、片方の眉を引き上げるとひょいとクイーンを動かした。

「ほれ、チェック」

「……」

 愕然としたディオンは慌てて駆け戻り、チェス盤を見下ろして己の負けをはっきり悟ったらしく、がっくりと項垂れた。

「まだまだ、ヒヨッコには負けません」

「……次は、メルとやる」

「どっちとやっても変わらないでしょうに」

「そんなことはないっ! メルには三回に一回くらいは勝てるっ!」

「それは、メルリーナが手加減してるからでしょう」

「えっ」

 勢いよく振り返ったディオンと目を合わせないように、メルリーナは視線を逸らした。

「二人とも、少し、休憩したら?」

 部屋の中央に寄せたソファーに囲まれた小さなテーブルに南方から運ばれてくる薫り高いお茶を用意する。

 マクシムと一緒に、ディオンも大人しくお茶を飲んだものの、しかめ面だ。
 しかも、呑み終わるなり、有無を言わさずメルリーナをマクシムが座っていた場所へ座らせる。

「メル。手加減なしだぞ!」

「……」

 マクシムが苦笑するのを横目に見ながら、メルリーナはディオンの要望通りに、手加減せずに相手をした。

 その結果、やっぱりディオンは悉く、こっぴどく負けた。

 諦めたディオンは、悔しそうな顔のまま「一応、持って来た」とメルリーナの好物であるフルーツケーキを差し出した。

「もうすぐ、メルに全戦全勝出来るくらい強くなるからな」
 
 メルリーナは、もう六年も前から聞いている宣言につい笑ってしまった。

「帰って来たら、必ず勝って……欲しいものを貰う」

 ディオンは呟くように告げると、メルリーナの唇を掠めるキスを落とした。

「……調子に乗るんじゃないぞ、小僧」

 マクシムの唸るような声がして、ディオンはパッと身を離すとメルリーナの手を取った。

「航海長! メルを借りて行く」

 メルリーナが抱えていたフルーツケーキの籠をマクシムに押し付けると、ディオンはそのまま戸口へ向かった。

「え、ディ、ディー?」

 どこへ行くのだと慌てるメルリーナに、「港」と短く答える。

「お、おじ、おじい様……」

 助けを求めてマクシムを振り返れば、マクシムは苦い表情でディオンを睨んでいた。

「日暮れまでには帰してもらえますかな?」

「もちろんだ」

 当たり前だと胸を張るディオンに、マクシムは声を一段低めて付け足した。

「無傷で」

 途端にディオンは視線を彷徨わせ、自信なさげな声で応じる。

「……わ、わかった」

「ディオン様?」

「わかってるっ!」

 珍しく動揺している様子のディオンに、本当に大丈夫なのだろうかと不安になったメルリーナを見て、マクシムは優しい笑みと共に頷いてみせた。

「メルリーナ。たくさん、楽しんでおいで」
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