泡沫には消えないもの。永遠には残らないもの。

唯純 楽

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細波 4

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「フランツィスカ王女。どちらが欲しいのだ?」

 言い淀んだディオンの代わりに、アランが尋ねた。

「どちら……とは、どういう意味でしょうか?」

 問い返すフランツィスカに、アランはディオンを顎で示す。

「ディオンか、それともリヴィエールの援助か。どちらが欲しいのだ? 必ずしもその二つを結びつける必要はないのではないか? 例えば……今ここで、私が無条件にリーフラントを助けると言えば、そこで話は終わる。ディオンと婚約する必要はない」

「それは……」

 フランツィスカは、即答出来ずに言い淀んだ。
 
「まるで、自国の危機を理由にして、フランツィスカ王女への友情から手を差し伸べたいと思っているディオンの気持ちを利用するつもりであるように聞こえたが?」

「そんなつもりはっ……」

「フランツィスカ王女。これは単なるお節介な忠告と思ってくれていいが……一度自分の気持ちを誤魔化すことを覚えると、自分の心を信じられなくなる上に、素直に気持ちを伝えられなくなるものだ。人は常に条件や見返りを期待して行動するわけではない。為政者ともなれば、気ままに振舞うことはもちろん許されないが、心のない政では誰も幸せにはならないのではないかと思う」

 顔色を変えたフランツィスカに、アランはそんなに大げさなことではないと苦笑した。

「少なくとも、リヴィエールの男は駆け引きを好まない。欲しいものがあるのなら、真っすぐに目指す。あれこれと理由を付けるのは後からでいいんだ」

 一度は青ざめたフランツィスカの頬が赤く染まり、取り繕うことも出来ずに恥じ入ったように俯く。
 その様子に、グレースは柔らかな声音で救いの手を差し伸べた。

「あなたが焦る気持ちもわかります。ですが、互いに納得していなければ、どんな関係にせよ、いずれ破綻するものです。改めて、話し合う場を設けた方がよいと思います」

 フランツィスカは、暫くの間沈黙していたが、やがて力なく頷いた。

「はい……ありがとうございます」

 アランもグレースに同意し「明日、改めて話を」と切り上げた後、「ついでだがと」付け加えた。

「カーディナル皇帝には、リーフラントに助力する準備を進めている旨、ディオンが知らせた。エナレス内部、皇帝近くで本格的な反乱の兆しがあるという情報をここ最近複数の伝手から掴んでいるから、カーディナルも時期を見て積極的に動く心づもりはあるはずだ」

 既に手は打っていると言うアランの言葉に、フランツィスカは弾かれたように顔を上げた。

「もちろん、リヴィエール公国としての判断ではあるが、敢えてディオンから皇帝に知らせる形を取った。カーディナル皇帝はディオンを気に入っているし、表立って動くことはなくとも、何らかの援助を先取りすることは期待出来る。むしろ、エナレスに修復不可能な亀裂を生じさせる絶好の機会と考え、即座に攻め入ると言い出すかもしれない。まぁ、どう仕掛けるかは状況によるが、こちらとしても火の粉が降りかかるまで黙って待つつもりはない」
 
 息を詰めるようにしてアランとフランツィスカの遣り取りを聞いていたディオンは、ようやく息を吐き、フランツィスカに笑みを向けた。

「ファニー。婚約の話は別として、俺に出来ることがあるなら力になりたいと思っている」

 フランツィスカはほんの少し顔を歪めて見開いた瞳に涙を浮かべたが、素早く白く細い指先で拭うと美しい微笑みを返した。

「……ありがとう」

 メルリーナは、抑えきれない羨ましさが顔に出てしまいそうで、俯いて残っていた果実の欠片を口にしようと摘まんだものの、喉に大きな塊がつかえているように苦しくて、とても飲み込めないと思った。

 視線を交わすフランツィスカとディオンに、恋人同士のような熱は感じられなかったものの、そこには互いを思い遣る気持ちが溢れていた。

 自分とディオンが度々すれ違い、なかなかきちんとわかり合えずにいるのとは違って、フランツィスカとディオンは、視線ひとつ、言葉ひとつで互いの考えていることが容易くわかるほど、親密だと見せつけられた気がした。
 
 ディオンがフランツィスカを選ぶべき理由は幾つも挙げられるけれど、メルリーナを選ぶべき理由は相変わらず見当たらない。
 広い世界に出て、成長したとしても、フランツィスカと同じ条件を満たすことは出来ない。
 ディオンと勝負してメルリーナが勝ったところで、フランツィスカのように、ディオンの婚約者になりたいなんて、言えるはずもない。

 リヴィエールには、ディオンの傍以外にメルリーナの居場所はない。
 ディオンがメルリーナをいらないと言えば、リヴィエールにはいられない。
 それは、一年前と少しも変わっていない。

 明日にでも現実になるかもしれない未来を思うと、震え出してしまいそうに怖かった。
 怖くて怖くて、逃げ出したくなってしまう弱い自分が、嫌いだった。
 泣きたくないのに、弱い自分が悔しくて涙が滲む。
 
「メル。食べさせてあげようか?」

 不意にゲイリーの声がして、指先で今にも潰れてしまいそうになっていた実を取り上げられた。

「それとも……もう、食べたくない?」

 そんなことはないと、メルリーナは首を横に振った。
 メルリーナの好物でもある柑橘系の果物は、リヴィエールでは宮殿の温室でしか採れないもので、昔はディオンが木に登ってもぎ取ったものを、こっそり二人で食べたりしていた。

 懐かしい思い出は、余計に涙腺を刺激する。
 必死になって目を見開くメルリーナの唇に、ゲイリーが果実をそっと押し当てた。

「食べたいなら、我慢しなくていいんだよ。欲しいなら、欲しいと言わないとね」

 我慢はしていないけれど、このまま食べるのはどうかと思う、と理性が働きかけたところで、にやりと笑ったゲイリーが囁いた。
 
「口移しに食べさせてあげようか?」

「……っ!」

 そんなことをされるくらいならと、勢いよく噛みついたメルリーナに、ゲイリーは大げさな身振りで指を確かめてくすくす笑う。

「指まで齧られるかと思った!」

「おい。おまえら、人前でイチャついてんじゃねぇぞ」

 ブラッドフォードの呆れた声に、ゲイリーはにっこり微笑んだ。

「これは、失礼。メルと早く二人きりになりたくて、つい……。リヴィエール公爵。今夜は、お招きいただきありがとうございました。この先の婚約云々のお話は、我々がいては邪魔になるだけでしょう。こちらとしては、早急に我が国王陛下へ報告し、今後の対応を検討します。リヴィエールとカーディナルが動くようならば、ウィスバーデンとしても準備を進める必要がありますし、リーフラント王国とはこれまでも友好的な関係を維持していましたから、その窮状に素知らぬフリを通して今後関係が悪化するのも望ましくない。何より、エナレスが崩壊するようならば、こちらにもそれ相応の好機があるでしょうし」

「おまえの場合、叩きのめせる相手が増えれば嬉しいというだけのことだろうが……」

 首を振って立ち上がりながら、ぼそっと呟いたブラッドフォードに、ゲイリーは「黙れ」と目で語り、流れるような動作でメルリーナの腕を取り、引き寄せるようにして席を立つ。

「ただし、メルの用が済むまでは、寄港させていただきたいのです。長居は致しませんのでご心配なく」

「おい、待てよっ……メルを連れて行く気かっ!?」

 ディオンが大きな声を上げて問い質すと、ゲイリーは冷ややかな眼差しを向ける。

「まさか、ここに置き去りにするとでも? 冗談じゃない。狼の巣穴に子羊を置いて行くようなものなのに。第一、顔を見せるだけでいいと言っただろう?」

「おまえが連れて行くのだって同じことだろうがっ! メル!」

「ディオン。無理強いするな」

 アランのひと言で、再びセヴランがディオンの肩を掴んで椅子へ押し込めるようにして力づくで座らせた。

 暴れ出しそうなディオンをひと睨みした後、アランはブラッドフォードに微笑みかけた。 

「今夜は、実に楽しいひと時だった。また機会があれば、ぜひとも酒でも飲みながら話したいものだ」

「こちらこそ、貴重な時間をありがとうございました」

「馬車は用意させています。行き先も心得ていますので」

 すかさず続けられたセヴランの言葉に、ブラッドフォードは全部把握されているのかとうんざりした顔をした。

「では、失礼いたします」

 ゲイリーは有無を言わせぬ笑みを浮かべたまま、半ばメルリーナを抱えるようにして食堂の扉を出て、大股に歩いて行く。
 振り返った先の食堂では、ディオンがセヴランに掴みかかっている。
 フランツィスカがちらりとこちらを見たような気がしたが、すぐに目を逸らされた。
 騒がしさを覆い隠すように扉が閉ざされ、やや遅れて後から付いて来ていたブラッドフォードは、メルリーナと目が合うなり「諦めろ」という顔をした。

「ゲイリーは、罠にかかった獲物を逃すほどお人好しじゃないからな」

「罠なんか仕掛けていないよ? メル」

 優し気なゲイリーの笑みが怖いと思ったが、本格的に小脇に抱えられ、足が浮いているメルリーナに逃げ道はない。

「こっちにとっては好機だけれど、メルを傷つけるような真似は許せない。あのクソガキは、口で言ってもわからないだろうから、思い知らせてやるんだよ」

 ゲイリーは、怒っているとブラッドフォードを上回る口の悪さになる。
 どうやら、ディオンが無謀にもそのきっかけを作ってしまったらしいが、思い知らせる対象がディオンではなく自分のような気がしてならない。

「あ、あの、ゲイリーさん……」
  
「ゲイリー」

 さんを付けたら返事をしないと目で言われ、メルリーナは恥ずかしさをおして何とか呼び捨てた。

「ゲイリー……」
 
「うん、何だい? メル」

 予想外に蕩けそうな笑みで返事をされ、言葉に詰まる。

「何でも言ってごらん」

「あ、あの……わ、私、き、今日の夜は……どこに泊まるんでしょうか?」

「僕の部屋」

 あまりにもきっぱりと即答され、メルリーナは空耳かと思った。

「もちろん、一緒に寝るんだよ」

「おいっ!」

「うるさいよ、ブラッド。さすがにちゃんと用意はしていてくれたみたいだね。さ、一刻も早く帰ろう」

 宮殿を出た先では、乗って来たものと同じ馬車が扉を開けて待っていた。
 ブラッドフォードに先を譲り、ゲイリーがメルリーナを馬車に押し込めようとしたとき、ディオンの声がした。

「メルっ!」

「ちっ!」

 そのまま強引に押し込められそうになったが、ブラッドフォードに押し返された。

「ゲイリー。メルの意思を無視するやり方は、クソガキと変わらねぇだろうが」

「大人ぶって、横からオイシイところを持って行かれることほど、腹立たしいものはない」

「大人ぶってねぇで、いい加減本物の大人になれよ」

「アナに振り回されているブラッドに言われたくないね」

「それとこれとは話が別だろうがっ!」

 言い合う二人の隙間から顔を覗かせたメルリーナは、走って来たディオンが階段を飛び降りるのを見た。

「メルっ! ちょっと……待、てっ……」

 ディオンは、手に見覚えのある籠を抱えていて、息を切らしながらメルリーナに差し出した。

「こ、れ……メルが、好きなヤツ」

 差し出された籠からは、いい匂いがした。
 
「いつも……美味しそうに食べていただろ?」

 籠の中、布で包まれたものを開くと、懐かしいフルーツケーキが現れた。
 木の実や干した果物がたくさん入ったケーキは、母ジゼルがよく作ってくれたもので、幼い頃勝負に負けたディオンがいつも帰りがけにくれたものだ。

「セヴランは、贈り物をするなら、花とか……装飾品とかがいいって言うけど、どうせなら好きなものの方がいいかと思って……」

 改まった贈り物なんて出来ないとほんのり頬を赤くしているディオンに、メルリーナは笑うべきか泣くべきかわからなかった。

 こうして用意してくれていたことが、忘れずに覚えていてくれたことが、とても嬉しかった。
 嬉しくて、勘違いしそうになってしまう。

 籠を抱えて俯き、押し黙るメルリーナにディオンは不安そうに尋ねる。
 
「メル……まさかもう、嫌いになった……?」

「ううん…………好き」

 小さな呟きも、ディオンはちゃんと拾ったようだ。
 ほっとしたように破顔して、尋ねる。

「明日も、お祖父様に会いに来るよな?」

 もちろんだと、メルリーナは頷いた。
 リヴィエールにいる間は毎日見舞いに来ようと思っていたし、明日、父ギュスターヴと話した報告をしようと思っていた。

「……うん、来る」

 メルリーナが答えた途端、横にいたゲイリーが付け加えた。

「もちろんひとりでは、ないけどね?」

「……」
 
 睨み合う二人に、ブラッドフォードが痺れを切らして馬車の中から怒鳴った。

「ゲイリー、メル! いい加減、乗れ! ヒヨッコは、大人しく明日を待て」
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