そして、彼女は微笑んだ。

豆狸

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第一話 そして、私は微笑みました。

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 ──状況がわかりません。

「侯爵令嬢エウドクシア! 私は君との婚約を破棄する!」

 ここは……学園の卒業パーティ会場でしょうか?
 私の前に立つ太陽のような金髪と昼空を思わせる青い瞳を持つ青年は、アントニュー王国の王太子パナヨティス殿下です。
 幼い六歳の日から婚約破棄されるまでの十二年間、私の婚約者だった方でした。

 パナヨティス殿下の隣に立つのは同じく金の髪を持つ美しい少女。
 男爵令嬢のクレマラ様です。
 年の離れたお姉様が国王陛下の愛妾で、その関係で殿下とも親しくなったと聞いています。

 学園の三年間、私が何度注意をしても彼女は婚約者のいる男性に擦り寄ることをおやめになりませんでした。
 その結果が今のパナヨティス殿下のお言葉になったのでしょう。
 ふたりの周囲に立つ殿下の側近の方々もクレマラ様と仲良くしていたため、それぞれの婚約者との関係が破綻したというお話です。クレマラ様のお顔に罪悪感は欠片もなく、むしろ他人の幸せを壊してやったという歪んだ悦びに満ちた笑みを浮かべています。

「理由はわかるだろう、エウドクシア。君には、私の寵愛を得たクレマラに嫉妬して、彼女を虐めたという罪がある! 罪人に未来の王妃の座は与えられない」

 ご自身よりも息子である王太子とのほうが年齢の近いクレマラ様のお姉様を愛妾にした国王陛下に、パナヨティス殿下が苦言を呈されていたこともあったのですけれど、今の殿下はもうそんなことは忘れていらっしゃるのでしょうね。
 最近の国王陛下は、愛妾様と距離を置かれているという噂なのですが。
 私はパナヨティス殿下を見つめました。殿下の青い瞳に映っているのは、黒い髪に青い瞳の少女です。

「かしこまりました。パナヨティス殿下からの婚約破棄はお受けいたしましょう」

 ドレスをつまんでお辞儀をして、私は言葉を続けました。

「ですが、クレマラ様を虐めたという罪については認める気はございません。決まった相手のいる人間に擦り寄るものに注意することが罪ならば、パナヨティス殿下ご自身も罪人ではいらっしゃいませんか?」

 パナヨティス殿下と弟王子殿下をお産みになられた王妃様はご存命です。
 蜜月の始まり、国王陛下が愛妾様に溺れて寝室から出ても来なかったころは、王妃様とパナヨティス殿下が公務を回していらっしゃいました。
 父である国王陛下と傍若無人な愛妾様を窘めていらしたころを思い出したのでしょう。殿下の眉間に皺が寄りました。

「私の今後の進退については、領地へ戻り侯爵と話し合うことにいたします。卒業パーティは始まったところでございますが、婚約を破棄された傷物令嬢は退出させていただいてもよろしいでしょうか」
「あ、ああ……」
「……パナヨティス! こんな女捕まえて地下牢に放り込んじゃいなさいよ!」

 私が婚約破棄を拒んで食い下がらなかったことに戸惑う殿下に、クレマラ様が法も定例も無視した発言をなさいます。
 クレマラ様の虜になった殿下の側近の方々が動き出す前に、私はドレスの裾を翻して走り出しました。
 少し離れたところに控えていた侍女と護衛が駆け寄って来ます。このまま会場の外へ出て馬車に飛び乗りましょう。あの方々に道理は通用しなさそうですものね。

「ま、待て、エウドクシア!」

 慌てて叫ぶパナヨティス殿下の瞳に最後に映ったのは、私の笑顔だったかもしれません。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 パナヨティス殿下のことを嫌いだったわけではありません。

 好きでした、大好きでした。六歳で婚約をしてから学園の卒業パーティで婚約を破棄されるまでの十二年間、ずっと殿下を慕っていました。学園でクレマラ様にお会いになるまでは、文武両道に秀でた優しくて思いやり深い方だったのです。
 婚約を破棄されても諦めきれず、縋りつき続けました。
 父が新しい縁談を持ち込んで来ても耳に入れず泣き暮らしていました。

 でも、『今』の私は違います。
 本当の恋を知ったからです。パナヨティス殿下への想いは情でした。
 婚約が続いて婚姻の日を迎え夫婦となることがあったなら、いつかは愛し愛される関係になれたのかもしれません。けれど、その日は来ませんでした。私の殿下への気持ちは、幼なじみへの情と婚約者への好意の段階で終わってしまったのです。

 今の私は本当の恋を知っています。
 身を焦がす愛を知っています。
 縁談を拒んで泣き暮らす日々が無ければ、前よりも早く彼に会えるでしょう。

 恋を知っていると言いながら、本当のところ私には自信がありません。
 学園へ入学してクレマラ様と会うまで、パナヨティス殿下は私を大切にしてくださっていました。死の直前に彼と出会うまで、私は殿下を愛していると信じていました。
 他人の心も自分の心も信用がおけません。私の今の心は真実なのでしょうか。この恋は死への恐怖から逃げるための思い込みだったのに過ぎないのではないでしょうか。

 だけど、ええ、だけど!
 もう一度彼に会えると思うだけで、私の唇は緩むのです。
 心臓が早鐘を打つのです。この身を駆け巡る血潮が燃え上がるのです。

 今度も彼と出会った瞬間、あの銀色の瞳に私が映った一瞬で命が消えるとしても、今度はもう過去へ戻ってやり直せないとしても、私は彼と会いたいのです。
 戻った過去の始まりが婚約破棄の瞬間だったことを私は運命に感謝しました。
 今の私は自由です。なんの罪悪感を覚えることもなく、彼のことを想うことが出来るのです。

 馬車の窓から、夜空に輝く月が見えました。
 隣国デュカキス王国の民である獣人は、月の女神様を崇めていると聞きます。
 月の女神様が司るのは満月の生命、新月の死、その満ち欠けから生まれる時間──今の私の状況は、月の女神様のお力によるものなのでしょうか? だれかの瞳を思い出す銀の月を見つめながら、私はだれにともなく心の中で問いかけたのでした。
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