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私の婚約者と幼馴染
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婚約者の背中はいつも遠い。シャンデリアの光が降り注ぐ王宮の広間は、着飾った貴族たちの賑わいと、軽やかなワルツの音色で満たされていた。グラディウス子爵家の長女である私、セフィーナ・グラディウスは、壁際に置かれたシルクのソファに腰掛け、その光景をぼんやりと眺めていた。正確には、人々の輪の中心で、ひときわ目を引く一組の男女の背中を見ていた。
私の婚約者、アルディン・オルステリア伯爵令息。そして、彼の隣でしおらしく微笑む彼の幼馴染リーシャ・ランスロット男爵令嬢。今日もアルディンは、当然のようにリーシャをエスコートしている。十年という長い婚約期間で、とうに見慣れてしまった光景だった。
「リーシャ、少し顔色が悪いんじゃないか? 無理はするなよ」
アルディンが心配そうな声で、リーシャの肩にかかったショールを優しくかけ直す。その親密な仕草に、周囲の貴族たちが同情的と、あざけるような視線を私に向けるのを感じる。もう、ずっと前から、そんな無遠慮な視線は慣れている。私は澄ました顔でグラスに口をつけて喉の渇きを潤した。
アルディンは優しい。誰にでもではない。特に、病弱なリーシャには格別に。その優しさが、私にとっては鋭いガラスの破片となって、心を少しずつ削っていく。
ふと、遠い日の記憶が蘇る。まだ幼かった頃、庭園で転んで膝を擦りむいた私に、泥だらけの手を差し伸べてくれたのはアルディンだった。
『大丈夫か、セフィーナ。痛いだろう』
そう言って、ハンカチを取り出して私の涙を少し乱暴に拭ってくれた。あの頃、彼の隣は間違いなく私のものだったはずなのに。いつからだろう。彼の視線が、私を通り越してリーシャに向けられるようになった。
グラスの中で揺れる琥珀色の液体に、諦めきった自分の顔が映る。胸の奥で、小さな痛みが疼く。それはもう、慢性的な痛みになっていて、日常生活の一部に溶け込んでしまっていた。私はただ、その痛みに気づかないふりをして、今日も彼のために、理想的な婚約者を演じ続ける。
「彼にとって都合の良い女」
「利用されてる可哀想な人」
「いくら政略結婚だとしても、ねえ?」
「ここまで我慢しろと言われるのは私には無理ですわ」
「限界というものがありますわよね」
アルディンの背中を見つめる私を見て、周りは便利な存在と冷笑しているわけだ。
夜会からの帰り道。二人きりの馬車の中は息が詰まるような沈黙に満ちていた。規則正しく響く蹄の音だけが、気まずい空気をかき混ぜている。先に沈黙を破ったのは、やはりアルディンだった。
「リーシャの咳が酷くて心配だ。季節の変わり目はいつも体調を崩す」
彼の声には、隠しきれない憂いが滲んでいた。私のことなど、どうでもいいかのようだ。彼の世界は、いつだってリーシャを中心に回っている。
「……そう、ですわね」
私は喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。『私のことは、心配してくださいましたか?』なんて、愚かな問いを口にしなくて良かったと心底思う。彼の答えは分かりきっているのだから。
私の婚約者、アルディン・オルステリア伯爵令息。そして、彼の隣でしおらしく微笑む彼の幼馴染リーシャ・ランスロット男爵令嬢。今日もアルディンは、当然のようにリーシャをエスコートしている。十年という長い婚約期間で、とうに見慣れてしまった光景だった。
「リーシャ、少し顔色が悪いんじゃないか? 無理はするなよ」
アルディンが心配そうな声で、リーシャの肩にかかったショールを優しくかけ直す。その親密な仕草に、周囲の貴族たちが同情的と、あざけるような視線を私に向けるのを感じる。もう、ずっと前から、そんな無遠慮な視線は慣れている。私は澄ました顔でグラスに口をつけて喉の渇きを潤した。
アルディンは優しい。誰にでもではない。特に、病弱なリーシャには格別に。その優しさが、私にとっては鋭いガラスの破片となって、心を少しずつ削っていく。
ふと、遠い日の記憶が蘇る。まだ幼かった頃、庭園で転んで膝を擦りむいた私に、泥だらけの手を差し伸べてくれたのはアルディンだった。
『大丈夫か、セフィーナ。痛いだろう』
そう言って、ハンカチを取り出して私の涙を少し乱暴に拭ってくれた。あの頃、彼の隣は間違いなく私のものだったはずなのに。いつからだろう。彼の視線が、私を通り越してリーシャに向けられるようになった。
グラスの中で揺れる琥珀色の液体に、諦めきった自分の顔が映る。胸の奥で、小さな痛みが疼く。それはもう、慢性的な痛みになっていて、日常生活の一部に溶け込んでしまっていた。私はただ、その痛みに気づかないふりをして、今日も彼のために、理想的な婚約者を演じ続ける。
「彼にとって都合の良い女」
「利用されてる可哀想な人」
「いくら政略結婚だとしても、ねえ?」
「ここまで我慢しろと言われるのは私には無理ですわ」
「限界というものがありますわよね」
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夜会からの帰り道。二人きりの馬車の中は息が詰まるような沈黙に満ちていた。規則正しく響く蹄の音だけが、気まずい空気をかき混ぜている。先に沈黙を破ったのは、やはりアルディンだった。
「リーシャの咳が酷くて心配だ。季節の変わり目はいつも体調を崩す」
彼の声には、隠しきれない憂いが滲んでいた。私のことなど、どうでもいいかのようだ。彼の世界は、いつだってリーシャを中心に回っている。
「……そう、ですわね」
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