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そう云って篠山は寝室を出ていった。春臣はそんな彼を見送りにでることはしないで、布団に包まった自分の傍らで、「匡彦さん、いってらっしゃぁい」と手を振るだけで――。そして日中本当にずっと自分につきっきりでいた彼は、夕方になって帰宅した篠山を、これまた布団に包まったままの自分の隣で、「おかえりなさーい」と迎えたのだった。
*
春臣はこの近所にある大学の経済学部に通う三年生で、学校のすぐ近くのアパートでひとり暮らしをしているそうだ。歳の離れた篠山とは身内でも同窓でもなく、行きつけの店で知りあった仲だという。
神野は静岡から就職のために東京にでてきて五年になるが、まだ友だちもできていないし職場のひとともプライベートを共にしたことがない。そんな自分には店で出会ったくらいで、誰かと交友関係を築くことなんて絶対にできないだろう。
人間関係が希薄なことについて、神野はそれを性格の問題ではなく、時間と気持ちの余裕のなさのせいにしているが、実のところはわからない。
聞けば春臣とは年齢がおなじだった。学年でいうと自分のほうが一学年上になるが、おなじ流行を生きてきたせいもあって話題があい、親しみを感じることができた。それ以上に彼の朗らかさと邪気のなさに、安心して隣にいられたのだ。
春臣は篠山に頼まれて空いた時間のほとんどを、自分とともに過ごしてくれていた。自分がまたなにかしでかすかもしれないと篠山は危惧しているが、神野自身それを否定することができないでいる。
いまはただ篠山に云われたとおり目のまえのことだけを見て、感じて。――身内とお金の一切のことを考えないようにしていた。
ふとそれらのことを考えてしまったときに発作的に自分がなにかをしでかして、ここにいるひとたちに迷惑をかけてしまわないかと不安だった。それに自分だってもう、あの絶望的な苦しみを思い返したくはない。
仮病と連休のあと、長い休暇を終えた神野は職場に復帰した。嘘のインフルエンザの期間は有給扱いにされていて、なにごともなかったかのように職場に戻れた日、神野は安堵のあまり作業しながら思わず涙ぐんでしまった。
毎日篠山のマンションから拝島駅近くの工場までを、春臣がバイクで送迎してくれている。職場に自分がストーカー被害にあっているんだとまことしやかに説明した春臣は、工場の敷地で日中の大半を過ごしながら自分の仕事が終わるのを待ってくれていた。彼が大学をサボっているのは明らかだったが、それもはじめのうちに篠山や春臣に気にするなと云い含められている。
篠山はひとり暮らしにしては広いマンションの一部を、彼の経営する税理士事務所として使っていた。彼以外に遼太郎と末広という女性が従業員として通ってきていたが、篠山と末広は客先に出向いてばかりで、比較的マンションにいる時間が長いのは遼太郎だった。
神野をマンションに送り届け、篠山か遼太郎のどちらかが神野を見られる状態なら、春臣はアパートへ帰っていく。数日まえまでは彼はこのあと拝島に戻って、神野のかわりに飲食店で四時間ほど働いてくれていたのだ。しかしそのバイトはもう辞めた。
いつまでも自分のかわりに彼にバイトに行かせつづけるわけにいかない。なんども自分で働くと云ってみたのだが、春臣が「絶対に祐樹にはいかせない」と云って譲らなかったのだ。だったらいっそのことバイトを辞めたほうがいいと判断した。新しいバイトはまた折をみて探せばいい。
辞めることを選べたのは、住んでいたアパートを引き払ったぶんだけ金銭に余裕ができたからだった。
アパートを引き払うには一月まえに解約届をださなければならない。したがって九月半ばに届けをだした神野は、十月半ばまでの家賃をすでに払っている。住んでもいないアパートの家賃を払うのは気分のいいものではなかったが、それでも九月末にあった家賃の引き落としは、ちゃんと日割り計算されていて、いつもの半額ですんでいた。記帳したばかりの通帳で実際にその金額を見たとき、神野はひとつ肩の荷が下りた気がしたのだ。きっとこれでよかったんだと思った。
出金が減ったことを確認できたこの夜も、ベッドの中で篠山の胸に背を預けたまま少し泣いてしまった。
その翌日に、平日の夜にはいっていた飲食店に、バイトを辞めることを伝えたのだ。
これも迅速に動いてくれた遼太郎のお陰だそうだ。もし解約するのに連休を跨いでしまっていたら処理がスムーズに捗らなかったかもしれないと、篠山が云っていた。
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春臣はこの近所にある大学の経済学部に通う三年生で、学校のすぐ近くのアパートでひとり暮らしをしているそうだ。歳の離れた篠山とは身内でも同窓でもなく、行きつけの店で知りあった仲だという。
神野は静岡から就職のために東京にでてきて五年になるが、まだ友だちもできていないし職場のひとともプライベートを共にしたことがない。そんな自分には店で出会ったくらいで、誰かと交友関係を築くことなんて絶対にできないだろう。
人間関係が希薄なことについて、神野はそれを性格の問題ではなく、時間と気持ちの余裕のなさのせいにしているが、実のところはわからない。
聞けば春臣とは年齢がおなじだった。学年でいうと自分のほうが一学年上になるが、おなじ流行を生きてきたせいもあって話題があい、親しみを感じることができた。それ以上に彼の朗らかさと邪気のなさに、安心して隣にいられたのだ。
春臣は篠山に頼まれて空いた時間のほとんどを、自分とともに過ごしてくれていた。自分がまたなにかしでかすかもしれないと篠山は危惧しているが、神野自身それを否定することができないでいる。
いまはただ篠山に云われたとおり目のまえのことだけを見て、感じて。――身内とお金の一切のことを考えないようにしていた。
ふとそれらのことを考えてしまったときに発作的に自分がなにかをしでかして、ここにいるひとたちに迷惑をかけてしまわないかと不安だった。それに自分だってもう、あの絶望的な苦しみを思い返したくはない。
仮病と連休のあと、長い休暇を終えた神野は職場に復帰した。嘘のインフルエンザの期間は有給扱いにされていて、なにごともなかったかのように職場に戻れた日、神野は安堵のあまり作業しながら思わず涙ぐんでしまった。
毎日篠山のマンションから拝島駅近くの工場までを、春臣がバイクで送迎してくれている。職場に自分がストーカー被害にあっているんだとまことしやかに説明した春臣は、工場の敷地で日中の大半を過ごしながら自分の仕事が終わるのを待ってくれていた。彼が大学をサボっているのは明らかだったが、それもはじめのうちに篠山や春臣に気にするなと云い含められている。
篠山はひとり暮らしにしては広いマンションの一部を、彼の経営する税理士事務所として使っていた。彼以外に遼太郎と末広という女性が従業員として通ってきていたが、篠山と末広は客先に出向いてばかりで、比較的マンションにいる時間が長いのは遼太郎だった。
神野をマンションに送り届け、篠山か遼太郎のどちらかが神野を見られる状態なら、春臣はアパートへ帰っていく。数日まえまでは彼はこのあと拝島に戻って、神野のかわりに飲食店で四時間ほど働いてくれていたのだ。しかしそのバイトはもう辞めた。
いつまでも自分のかわりに彼にバイトに行かせつづけるわけにいかない。なんども自分で働くと云ってみたのだが、春臣が「絶対に祐樹にはいかせない」と云って譲らなかったのだ。だったらいっそのことバイトを辞めたほうがいいと判断した。新しいバイトはまた折をみて探せばいい。
辞めることを選べたのは、住んでいたアパートを引き払ったぶんだけ金銭に余裕ができたからだった。
アパートを引き払うには一月まえに解約届をださなければならない。したがって九月半ばに届けをだした神野は、十月半ばまでの家賃をすでに払っている。住んでもいないアパートの家賃を払うのは気分のいいものではなかったが、それでも九月末にあった家賃の引き落としは、ちゃんと日割り計算されていて、いつもの半額ですんでいた。記帳したばかりの通帳で実際にその金額を見たとき、神野はひとつ肩の荷が下りた気がしたのだ。きっとこれでよかったんだと思った。
出金が減ったことを確認できたこの夜も、ベッドの中で篠山の胸に背を預けたまま少し泣いてしまった。
その翌日に、平日の夜にはいっていた飲食店に、バイトを辞めることを伝えたのだ。
これも迅速に動いてくれた遼太郎のお陰だそうだ。もし解約するのに連休を跨いでしまっていたら処理がスムーズに捗らなかったかもしれないと、篠山が云っていた。
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