1 / 55
1章 再生の時
第1話 絶望の日々
しおりを挟む
季節は春。ふっくらと暖かくなり、桜や鮮やかな花々が彩っている。本来なら心踊るのであろうが。
両親を喪った傷なんて、そう簡単に癒えるものでは無い。
春日守梨は、厨房の壁にあるスイッチを何個か押す。すると辺りに光が灯った。
汚れの無いステンレス製の厨房、作業台にはものひとつ出ていない。包丁もまな板もボウルもシリコンヘラも、全て戸棚や引き出しにきちんと仕舞われている。
カウンタ越しに繋がるフロアには、4人掛けの木製のテーブルが4卓。以前はベージュのテーブルクロスが掛けられていたが、今は取り払われていて、柔らかな木目が見えていた。
置かれている椅子はテーブルと同じ素材でできている。背もたれが高くて、腰を降ろす部分にはブラウンのクッションが付いていた。
テーブル席のみのお店である。煮込みを中心に、フランスの家庭料理を提供していた。お店の名前はterrier。フランス語で巣穴の意味である。
フレンチレストランの様な格式高いものでは無く、大衆食堂を指すビストロと言えるだろう。気楽にフランス料理を楽しんでいただけるお店だった。
そう、「していた」なのだ。今は休業中である。
……いや、きっともう、閉業するしか無いのだろう。テリアの主人夫妻は喪われてしまったのだから。
それでも守梨は店内の掃除をすべく、湿らせたダスターを手に、まずは厨房の壁際に置かれている冷蔵庫のドアを拭き始める。銀色に光る大きな業務用だ。電源は落とされていて、駆動音など一切しない。
かつてはごごごっと震える様な小さな音を立てていた。この厨房が「生きて」いた証である。
この厨房は、今や「死んで」しまっている。守梨の両親とともに。
冷蔵庫の表面を拭き終え、横に続く食料保管棚に取り掛かる。するとその時、厨房のインターフォンが鳴る。のぞき穴から見ると、立っていたのは知っている青年だったので、守梨はドアを開けた。
「守梨、やっぱこっちやったか」
そう気安く声を掛けるのは、守梨の幼馴染みの原口祐樹である。祐ちゃんは以前、守梨たち一家が暮らしていたマンションのお隣さんだった。
守梨の両親が「テリア」を始めるために引越しをしたので、今やお隣さんでは無くなっている。だが腐れ縁と言うのだろうか、高校大学と違う学校に進んだにも関わらず、こうして交流は続いていた。
「祐ちゃん」
祐ちゃんは守梨の顔を見て、安心させるかの様に穏やかに微笑んだ。
今の守梨は酷い顔をしているだろう。両親があの世に旅立って、またたったの1週間だ。ひとりっ子で慰め合える身内もいない。父方の祖父母も母方の祖父母もすでに逝去していて、いとこなどもいない。正真正銘、守梨は天涯孤独になってしまったのだ。
絶望するなと言う方が無理である。就職して仕事はしているから、食うには困らない。だが守梨には圧倒的にぬくもりが欠けていた。
祐ちゃんの他にもお友だちはいる。両親のお通夜、お葬式の日にも駆け付けてくれた。それでも皆にはそれぞれの生活がある。いつまでも守梨に寄り添ってくれるわけでは無い。それを期待するのも筋違いだ。
だが、祐ちゃんはこうして毎日、守梨の様子を見に来てくれていた。
そう大きな家では無いが、ひとりになれば広く感じる。電気を点けていても仄暗く感じる。気分はますます落ち込んでしまう。
それでもこうして厨房を、そしてフロアを磨くのは、こうして綺麗に保っていると、両親が見てくれている様な気がするからだ。
さすがに帰って来てくれると言う妄想は無い。それだけ現実を受け入れることができているということなのだろう。
だがまだこのお店を手放す勇気は出ない。両親との思い出まで無くなってしまう気がするからだ。守梨はこのお店で生き生きとお仕事をする両親が誇りだった。
この土地は父方の祖父母から譲り受けたもので、テリアを始めるに当たって立て替えた上物のローンも終わっている。幸い家賃などのお金は掛からなかった。固定資産税はどうにかなる。
「俺も手伝うわ」
祐ちゃんは言うと、勝手知ったると言う様に作業台の引き出しを開け、洗ってしまってあったダスターを出す。いくつかあるうちの蛇口のひとつから水を出し、濡らして固く絞った。
「……毎日、来てくれて嬉しいけど、掃除まではええんやで」
守梨の声は覇気が無いと思う。力が入っていない自覚があるのだ。
「ええねん。どこまでやった? 作業台は?」
「これから……」
「ほな、俺が磨くわ」
祐ちゃんは言って、軽やかに大きな作業台を丁寧に拭き始めた。そこでは以前、野菜などを切る包丁の音が響いていた。もちろん今は影も無い。
守梨は食料庫磨きの続きを始める。ふたりで黙々と厨房を磨き上げ、終われば、次はフロアだとふたり連なって、厨房とフロアを繋ぐフレームだけのドアをくぐる。すると祐ちゃんが「あ」と声を上げて立ち止まった。守梨は祐ちゃんの細い背中にぶつかる寸前で足を止めた。
「おやっさんとお袋さんや」
祐ちゃんがおやっさんお袋さんと呼ぶのは、守梨の両親のことである。守梨はとっさに祐ちゃんの横を掻き分けて、フロアに飛び込む様にして出た。
「お父さん? お母さん!?」
久しぶりに出した大声。守梨はフロアを隈なく見渡すが、両親の姿は無い。と言うことは。
「……おやっさんとお袋さん、成仏してへんねんな」
後からゆっくりと出て来た祐ちゃんはそう言って、少し弱った様に頭を掻いた。
祐ちゃんは、幽霊が見えるのである。
両親を喪った傷なんて、そう簡単に癒えるものでは無い。
春日守梨は、厨房の壁にあるスイッチを何個か押す。すると辺りに光が灯った。
汚れの無いステンレス製の厨房、作業台にはものひとつ出ていない。包丁もまな板もボウルもシリコンヘラも、全て戸棚や引き出しにきちんと仕舞われている。
カウンタ越しに繋がるフロアには、4人掛けの木製のテーブルが4卓。以前はベージュのテーブルクロスが掛けられていたが、今は取り払われていて、柔らかな木目が見えていた。
置かれている椅子はテーブルと同じ素材でできている。背もたれが高くて、腰を降ろす部分にはブラウンのクッションが付いていた。
テーブル席のみのお店である。煮込みを中心に、フランスの家庭料理を提供していた。お店の名前はterrier。フランス語で巣穴の意味である。
フレンチレストランの様な格式高いものでは無く、大衆食堂を指すビストロと言えるだろう。気楽にフランス料理を楽しんでいただけるお店だった。
そう、「していた」なのだ。今は休業中である。
……いや、きっともう、閉業するしか無いのだろう。テリアの主人夫妻は喪われてしまったのだから。
それでも守梨は店内の掃除をすべく、湿らせたダスターを手に、まずは厨房の壁際に置かれている冷蔵庫のドアを拭き始める。銀色に光る大きな業務用だ。電源は落とされていて、駆動音など一切しない。
かつてはごごごっと震える様な小さな音を立てていた。この厨房が「生きて」いた証である。
この厨房は、今や「死んで」しまっている。守梨の両親とともに。
冷蔵庫の表面を拭き終え、横に続く食料保管棚に取り掛かる。するとその時、厨房のインターフォンが鳴る。のぞき穴から見ると、立っていたのは知っている青年だったので、守梨はドアを開けた。
「守梨、やっぱこっちやったか」
そう気安く声を掛けるのは、守梨の幼馴染みの原口祐樹である。祐ちゃんは以前、守梨たち一家が暮らしていたマンションのお隣さんだった。
守梨の両親が「テリア」を始めるために引越しをしたので、今やお隣さんでは無くなっている。だが腐れ縁と言うのだろうか、高校大学と違う学校に進んだにも関わらず、こうして交流は続いていた。
「祐ちゃん」
祐ちゃんは守梨の顔を見て、安心させるかの様に穏やかに微笑んだ。
今の守梨は酷い顔をしているだろう。両親があの世に旅立って、またたったの1週間だ。ひとりっ子で慰め合える身内もいない。父方の祖父母も母方の祖父母もすでに逝去していて、いとこなどもいない。正真正銘、守梨は天涯孤独になってしまったのだ。
絶望するなと言う方が無理である。就職して仕事はしているから、食うには困らない。だが守梨には圧倒的にぬくもりが欠けていた。
祐ちゃんの他にもお友だちはいる。両親のお通夜、お葬式の日にも駆け付けてくれた。それでも皆にはそれぞれの生活がある。いつまでも守梨に寄り添ってくれるわけでは無い。それを期待するのも筋違いだ。
だが、祐ちゃんはこうして毎日、守梨の様子を見に来てくれていた。
そう大きな家では無いが、ひとりになれば広く感じる。電気を点けていても仄暗く感じる。気分はますます落ち込んでしまう。
それでもこうして厨房を、そしてフロアを磨くのは、こうして綺麗に保っていると、両親が見てくれている様な気がするからだ。
さすがに帰って来てくれると言う妄想は無い。それだけ現実を受け入れることができているということなのだろう。
だがまだこのお店を手放す勇気は出ない。両親との思い出まで無くなってしまう気がするからだ。守梨はこのお店で生き生きとお仕事をする両親が誇りだった。
この土地は父方の祖父母から譲り受けたもので、テリアを始めるに当たって立て替えた上物のローンも終わっている。幸い家賃などのお金は掛からなかった。固定資産税はどうにかなる。
「俺も手伝うわ」
祐ちゃんは言うと、勝手知ったると言う様に作業台の引き出しを開け、洗ってしまってあったダスターを出す。いくつかあるうちの蛇口のひとつから水を出し、濡らして固く絞った。
「……毎日、来てくれて嬉しいけど、掃除まではええんやで」
守梨の声は覇気が無いと思う。力が入っていない自覚があるのだ。
「ええねん。どこまでやった? 作業台は?」
「これから……」
「ほな、俺が磨くわ」
祐ちゃんは言って、軽やかに大きな作業台を丁寧に拭き始めた。そこでは以前、野菜などを切る包丁の音が響いていた。もちろん今は影も無い。
守梨は食料庫磨きの続きを始める。ふたりで黙々と厨房を磨き上げ、終われば、次はフロアだとふたり連なって、厨房とフロアを繋ぐフレームだけのドアをくぐる。すると祐ちゃんが「あ」と声を上げて立ち止まった。守梨は祐ちゃんの細い背中にぶつかる寸前で足を止めた。
「おやっさんとお袋さんや」
祐ちゃんがおやっさんお袋さんと呼ぶのは、守梨の両親のことである。守梨はとっさに祐ちゃんの横を掻き分けて、フロアに飛び込む様にして出た。
「お父さん? お母さん!?」
久しぶりに出した大声。守梨はフロアを隈なく見渡すが、両親の姿は無い。と言うことは。
「……おやっさんとお袋さん、成仏してへんねんな」
後からゆっくりと出て来た祐ちゃんはそう言って、少し弱った様に頭を掻いた。
祐ちゃんは、幽霊が見えるのである。
1
あなたにおすすめの小説
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
【完結】愛されたかった僕の人生
Kanade
BL
✯オメガバース
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。
今日も《夫》は帰らない。
《夫》には僕以外の『番』がいる。
ねぇ、どうしてなの?
一目惚れだって言ったじゃない。
愛してるって言ってくれたじゃないか。
ねぇ、僕はもう要らないの…?
独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。
Emerald
藍沢咲良
恋愛
教師という仕事に嫌気が差した結城美咲(ゆうき みさき)は、叔母の住む自然豊かな郊外で時々アルバイトをして生活していた。
叔母の勧めで再び教員業に戻ってみようと人材バンクに登録すると、すぐに話が来る。
自分にとっては完全に新しい場所。
しかし仕事は一度投げ出した教員業。嫌だと言っても他に出来る仕事は無い。
仕方無しに仕事復帰をする美咲。仕事帰りにカフェに寄るとそこには…。
〜main cast〜
結城美咲(Yuki Misaki)
黒瀬 悠(Kurose Haruka)
※作中の地名、団体名は架空のものです。
※この作品はエブリスタ、小説家になろうでも連載されています。
※素敵な表紙をポリン先生に描いて頂きました。
ポリン先生の作品はこちら↓
https://manga.line.me/indies/product/detail?id=8911
https://www.comico.jp/challenge/comic/33031
男装官吏と花散る後宮〜禹国謎解き物語〜
春日あざみ
キャラ文芸
<第8回キャラ文芸大賞にて奨励賞をいただきました。応援ありがとうございました!>
宮廷で史書編纂事業が立ち上がると聞き、居ても立ってもいられなくなった歴史オタクの柳羅刹(りゅうらせつ)。男と偽り官吏登用試験、科挙を受験し、見事第一等の成績で官吏となった彼女だったが。珍妙な仮面の貴人、雲嵐に女であることがバレてしまう。皇帝の食客であるという彼は、羅刹の秘密を守る代わり、後宮の悪霊によるとされる妃嬪の連続不審死事件の調査を命じる。
しかたなく羅刹は、悪霊について調べ始めるが——?
「歴女×仮面の貴人(奇人?)」が紡ぐ、中華風世界を舞台にしたミステリ開幕!
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる