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1章 再生の時
第8話 懐かしい、慈しみの味
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松村さんがお父さんに弟子入り志願をした時、従業員などの募集はしていなかった。「テリア」はこぢんまりとしていて、両親だけで回せるお店だ。週末に守梨がホールのお手伝いをすることもあったが、人手は充分に足りていた。
松村さんはフレンチの修行をしたいと、その先を探すために、自宅から通える範囲で、様々なビストロやレストランを食べ歩いたそうだ。
そして「テリア」の、お父さんの味とドミグラスソースに惚れ込んだのだ。
お給料は充分で無くて良い、目的は修行なのだからと、松村さんは渋るお父さんに食い下がった。結果お父さんが根負けしたのである。
松村さんは明るくてはきはきした人だから、お父さんもお母さんも、一緒に働いていて気持ちが良かった様だ。週末にはお店の賄いが、守梨のお昼ごはんと晩ごはんにもなったので、その時には守梨も一緒になって話をした。楽しかった思い出が多い。愚痴などをあまり零さない人なのだ。
そんな松村さんが「テリア」を退職し、とうとう自分のお店を持つということになった時、「テリア」のドミグラスソースが分けられることになったのだ。
フレンチや洋食屋でのドミグラスソースは、そのお店の生命、宝とも言える。なので本来なら松村さんも、自分のお店でいちからソースを育てるところである。だが味が馴染んでまろやかになるには、一朝一夕では行かないとお父さんから聞いていた。
それに加え、何より松村さんにとってはお父さんのドミグラスソースが至上のものなのだ。なので味を狂わせないことを条件に、分け与えることにしたのだった。
それはお父さんの柔軟さもあったのだろう。頑固な人なら、自分の分身とも言えるソースを渡したりしないだろうから。
もちろんお父さんだって、簡単に渡すことにしたわけでは無いだろう。それだけお父さんが松村さんを信用していたのだ。
だからこのビーフシチューは、きっと守梨の知る「お父さんの味」のはずだった。松村さんも味を変えていない自信があるからこそ、こうして守梨に出してくれたのだ。
ビーフシチュー用に深さのある取り皿を出してくれたので、スプーンを使って取り分ける。そして濃厚な香りを放つそのソースを、そっと口に運んだ。
……いろいろな記憶が蘇る様だった。このドミグラスソースは「テリア」のためのものだったが、お父さんがこれを使って、誕生日には煮込みハンバーグを作ってくれた。
きのことグリンピースも一緒に煮込んで、盛り付けてからチーズを載せる。余熱でとろりと溶けて輝いていた。それは守梨にとって年に1度のご馳走だったのだ。
「テリア」はランチとディナー両方で営業していたから、両親は常に忙しかった。だから誕生日が営業日なら、定休日の火曜日にお祝いをしてくれた。
お父さんが作ってくれたハンバーグは肉汁がたっぷりで、ふわふわしっとりで、とても美味しかった。玉ねぎを飴色に炒めてくれていたので、甘みとお肉の旨味がぎっしりと詰まっていた。
ドミグラスソースの味は同じでも、お料理が違えば使っている食材は変わってくる。それでもこのビーフシチューはお父さんが作り出したものをしっかりと受け継いていた。
じわりと心が暖かくなる。目の端に涙が滲む。お父さんの宝物がここにあったのだ。松村さんが大事に守ってくれていたのだ。
「守梨ちゃん、どうや? 春日さんの味、私、ちゃんと継げてるやろうか」
松村さんの優しい問い掛けに、守梨は「はい」と何度も頷いた。
「お父さんの味です……。うちにあったんは、私が駄目にしてしもうたから……」
冷蔵庫で保存していたとは言え、数日手入れしていなければ悪くなる。厨房に残された食材をより分けている時、腐敗し始めていたドミグラスソースを見付けて、守梨は大いにショックを受けた。
両親が「テリア」を始めてから、大事に大事に継ぎ足して来たドミグラスソース。フレンチや洋食の生命。お父さんが精魂込めた逸品。
確かに素人でお料理の才能が無い守梨が引き継ぐことはできなかったかも知れない。それでも松村さんに預けることだってできたはずだ。それすらも叶わなかった。
それどころでは無かったのではあるが、そんなものは言い訳だ。あのドミグラスソースはお父さんの形見でもあったのだ。
思い出すだけで悔し涙が溢れて来る。守梨は唇を噛み締めながらドミグラスソースを処分するしか無かった。
「守梨ちゃん」
松村さんの手が伸びて来て、守梨の頭に優しく触れた。
「あんなことがあって、ソースのこと思い出せなんて無理な話や。守梨ちゃんが悪いわけやあらへん。そんなん春日さんも代利子さんも解ってはるよ」
「でも……」
「ほんまやで。それを悔やんどったら、その方がおふたりとも心配しはるわ。それに守梨ちゃん、春日さんのソースはうちにある。せやから守梨ちゃんが望むんやったら、いつでも返すことができるんやから」
「え……」
守梨は弾かれた様に顔を上げる。ドミグラスソースが戻って来る? しかし……。
「あかん、私やったらまた駄目にしてまう。継ぎ足しも多分巧くできひんやろし」
守梨はまた消沈してしまう。多分教えてもらっても、お料理下手な守梨には難しいだろう。またドミグラスソースを失ってしまったら、守梨はもう立ち直れない気がする。すると。
「俺がやります」
祐ちゃんの言葉が、守梨の耳に響いた。見ると、祐ちゃんはまっすぐに松村さんを見つめ、その表情は真剣味を帯びていた。
「祐ちゃん……?」
守梨は呆気にとられる。祐ちゃんのことだから冗談などでは無いだろう。だからこそ驚くしか無かった。
松村さんはフレンチの修行をしたいと、その先を探すために、自宅から通える範囲で、様々なビストロやレストランを食べ歩いたそうだ。
そして「テリア」の、お父さんの味とドミグラスソースに惚れ込んだのだ。
お給料は充分で無くて良い、目的は修行なのだからと、松村さんは渋るお父さんに食い下がった。結果お父さんが根負けしたのである。
松村さんは明るくてはきはきした人だから、お父さんもお母さんも、一緒に働いていて気持ちが良かった様だ。週末にはお店の賄いが、守梨のお昼ごはんと晩ごはんにもなったので、その時には守梨も一緒になって話をした。楽しかった思い出が多い。愚痴などをあまり零さない人なのだ。
そんな松村さんが「テリア」を退職し、とうとう自分のお店を持つということになった時、「テリア」のドミグラスソースが分けられることになったのだ。
フレンチや洋食屋でのドミグラスソースは、そのお店の生命、宝とも言える。なので本来なら松村さんも、自分のお店でいちからソースを育てるところである。だが味が馴染んでまろやかになるには、一朝一夕では行かないとお父さんから聞いていた。
それに加え、何より松村さんにとってはお父さんのドミグラスソースが至上のものなのだ。なので味を狂わせないことを条件に、分け与えることにしたのだった。
それはお父さんの柔軟さもあったのだろう。頑固な人なら、自分の分身とも言えるソースを渡したりしないだろうから。
もちろんお父さんだって、簡単に渡すことにしたわけでは無いだろう。それだけお父さんが松村さんを信用していたのだ。
だからこのビーフシチューは、きっと守梨の知る「お父さんの味」のはずだった。松村さんも味を変えていない自信があるからこそ、こうして守梨に出してくれたのだ。
ビーフシチュー用に深さのある取り皿を出してくれたので、スプーンを使って取り分ける。そして濃厚な香りを放つそのソースを、そっと口に運んだ。
……いろいろな記憶が蘇る様だった。このドミグラスソースは「テリア」のためのものだったが、お父さんがこれを使って、誕生日には煮込みハンバーグを作ってくれた。
きのことグリンピースも一緒に煮込んで、盛り付けてからチーズを載せる。余熱でとろりと溶けて輝いていた。それは守梨にとって年に1度のご馳走だったのだ。
「テリア」はランチとディナー両方で営業していたから、両親は常に忙しかった。だから誕生日が営業日なら、定休日の火曜日にお祝いをしてくれた。
お父さんが作ってくれたハンバーグは肉汁がたっぷりで、ふわふわしっとりで、とても美味しかった。玉ねぎを飴色に炒めてくれていたので、甘みとお肉の旨味がぎっしりと詰まっていた。
ドミグラスソースの味は同じでも、お料理が違えば使っている食材は変わってくる。それでもこのビーフシチューはお父さんが作り出したものをしっかりと受け継いていた。
じわりと心が暖かくなる。目の端に涙が滲む。お父さんの宝物がここにあったのだ。松村さんが大事に守ってくれていたのだ。
「守梨ちゃん、どうや? 春日さんの味、私、ちゃんと継げてるやろうか」
松村さんの優しい問い掛けに、守梨は「はい」と何度も頷いた。
「お父さんの味です……。うちにあったんは、私が駄目にしてしもうたから……」
冷蔵庫で保存していたとは言え、数日手入れしていなければ悪くなる。厨房に残された食材をより分けている時、腐敗し始めていたドミグラスソースを見付けて、守梨は大いにショックを受けた。
両親が「テリア」を始めてから、大事に大事に継ぎ足して来たドミグラスソース。フレンチや洋食の生命。お父さんが精魂込めた逸品。
確かに素人でお料理の才能が無い守梨が引き継ぐことはできなかったかも知れない。それでも松村さんに預けることだってできたはずだ。それすらも叶わなかった。
それどころでは無かったのではあるが、そんなものは言い訳だ。あのドミグラスソースはお父さんの形見でもあったのだ。
思い出すだけで悔し涙が溢れて来る。守梨は唇を噛み締めながらドミグラスソースを処分するしか無かった。
「守梨ちゃん」
松村さんの手が伸びて来て、守梨の頭に優しく触れた。
「あんなことがあって、ソースのこと思い出せなんて無理な話や。守梨ちゃんが悪いわけやあらへん。そんなん春日さんも代利子さんも解ってはるよ」
「でも……」
「ほんまやで。それを悔やんどったら、その方がおふたりとも心配しはるわ。それに守梨ちゃん、春日さんのソースはうちにある。せやから守梨ちゃんが望むんやったら、いつでも返すことができるんやから」
「え……」
守梨は弾かれた様に顔を上げる。ドミグラスソースが戻って来る? しかし……。
「あかん、私やったらまた駄目にしてまう。継ぎ足しも多分巧くできひんやろし」
守梨はまた消沈してしまう。多分教えてもらっても、お料理下手な守梨には難しいだろう。またドミグラスソースを失ってしまったら、守梨はもう立ち直れない気がする。すると。
「俺がやります」
祐ちゃんの言葉が、守梨の耳に響いた。見ると、祐ちゃんはまっすぐに松村さんを見つめ、その表情は真剣味を帯びていた。
「祐ちゃん……?」
守梨は呆気にとられる。祐ちゃんのことだから冗談などでは無いだろう。だからこそ驚くしか無かった。
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