21 / 55
2章 なりたいものになるために
第8話 諦めなければ
しおりを挟む
「テリア」再開のためにワインエキスパートの資格を目指そうとしていたのに、ワインそのものが飲めない体質かも知れない、そんな疑惑が沸き上がり、守梨は落胆するしか無かった。
今あるのは嘔気だけだ。それならテイスティング試験の時だけ無理をすれば、やり過ごせる可能性だってある。
だがそんな状態で、果たしてまともに味覚は働くのだろうか。守梨には自信が無い。
それにもし醜態を晒す様な羽目になってしまったら、試験以前の問題だ。守梨がしんどい思いをするだけならともかく、会場や試験官に迷惑は掛けられない。
まさかこんなところで躓くなんて。守梨は暗澹たる気持ちになる。目頭がつんと痛くなり、守梨は両手で顔を覆った。
もちろん好みだってあるのだから、ワインは飲まなければならないものでは無い。ビールだけで楽しむお客さまだっているだろう。
だがフレンチとワインはやはり切っても切れないものなのだ。お客さまが銘柄を指定するなら問題は無いが、注文したお料理に合うワインを聞かれたら? ワインを飲むことすらできない守梨はどうおすすめしたら良い?
すると祐ちゃんが「ちょっと待っとって」と立ち上がり、厨房へと向かう。戻って来た時には手にノートが数冊あった。お父さんがレシピを書いたのと同じ種類で色違いの大学ノートである。レシピはライムカラーだったが、こちらはベージュだった。
祐ちゃんはそれを守梨に差し出す。顔を上げた守梨が見たのは、労わる様に優しい顔をした祐ちゃんだった。守梨はそれをおずおずと受け取る。
「これは……?」
「おやっさんのレシピと一緒に入ってた。お袋さんが作った、フランスワインのノートや」
そのノートは元の厚さよりかなり膨らんでいる。守梨がそっと開くと、左側にワインのエチケットが貼られ、右側にワインの情報が書かれていた。細かな味わいや合うお料理などが記されている。
「凄い……」
感嘆の言葉がするりと漏れ出た。ワインの知識が乏しくてもその風味が想像できる様に、詳細に書かれている。
例えば1ページ目にあったドメーヌ・デ・マロニエール。生産地はブルゴーニュのシャブリ地方、ぶどうの品種はシャルドネ。生産者の名前がそのままワインの銘柄になっている。
ライムやグレープフルーツなどの柑橘類やフレッシュハーブを思わせる爽やかさと酸味、ミネラルを感じさせる味わい。きりっとした辛口のシャブリらしさ。癖が少なく素直な飲み口。日本料理や和食と特に合う。
まだ微かに嘔気は残っているが、その爽快な味が口の中に広がる様な気がした。合うお料理からも、日本人の好みなのだろうということが伺える。
他のページも同じ構成で綴られている。ノートは赤ワイン、白ワイン、ロゼワインと貴腐ワインにスパークリングワインで別れていて、全部で3冊あった。
おそらくだが「テリア」で扱っているワインは網羅し、他の銘柄もたくさん載せられているのだろう。
「多分ソムリエ試験に向けてやろうけど、他の産地のワインのノートもあったわ。けど「テリア」で扱ってるワインはフランス産だけやから、これで勉強できるんちゃうか」
「勉強、できる……?」
ワインが飲めない。だから何もできないと思ってしまいそうになっていた。だが。
「ワインが飲めんでも、知識があったらええんちゃうやろか。どんな味、どんな料理に合うか、それが分かってればおすすめできるやろ?」
「そうやで、守梨ちゃん」
祐ちゃんの言葉を繋ぐ様に、松村さんが明るく口を開く。
「確かにソムリエとかエキスパートの資格があった方が、信用はあるかも知れん。でもな、ここは大阪やで。ワイン飲まれへんのがネタになるやん。この料理にはこれがおすすめですよ。でも私はワイン飲めない体質なんです、えへ。なんてな」
ワインが飲めなくても、ビストロで給仕ができるのか。その希望が出始めて、守梨は顔を上げる。
「……そっか、飲めへんでも、知識は入れられますもんね」
「そうそう。幸いここはビストロや。居酒屋とかバーみたいにお客さんから1杯どうぞ、なんてすすめられることもそうあらへん。もしあって、飲まれへん言うても、大概のお客さんは「なんやそれ」言うて笑ってくれはるわ。せやから安心しぃ。大丈夫や、代利子さん、こんなええノート遺してくれてはるんやから」
「そうやで、守梨。大阪人はそんな細かいこと気にせぇへんて」
祐ちゃんにも言われ、守梨はようやく「うん」と頷いた。
「松村さん、祐ちゃん、ありがとうございます。お母さんのワインノートを教科書にして、勉強します」
「うん。守梨ちゃん、明るい顔になったな」
松村さんに言われ、守梨は恥ずかしくなる。
「とんだ姿を見せてしもて」
「ううん、まだ春日さんと代利子さんが亡くなって、そう経ってへんやん。まだまだ落ち込んでたりしてて当たり前なんよ。それやのに守梨ちゃんは気丈に振る舞って。偉いと思うわ。「テリア」を再開させる夢、めっちゃ素敵やん。応援するから、いつでも頼ってな。店があるからこうやって来られへん時もあるけど、日曜日は時間あるし」
「ありがとうございます」
そっと労ってくれる松村さんがありがたく、守梨はじわりと心が暖かくなる。祐ちゃんも優しい眼差しでいてくれた。大丈夫、まだまだ進める。諦めない。守梨は決意を新たにした。
今あるのは嘔気だけだ。それならテイスティング試験の時だけ無理をすれば、やり過ごせる可能性だってある。
だがそんな状態で、果たしてまともに味覚は働くのだろうか。守梨には自信が無い。
それにもし醜態を晒す様な羽目になってしまったら、試験以前の問題だ。守梨がしんどい思いをするだけならともかく、会場や試験官に迷惑は掛けられない。
まさかこんなところで躓くなんて。守梨は暗澹たる気持ちになる。目頭がつんと痛くなり、守梨は両手で顔を覆った。
もちろん好みだってあるのだから、ワインは飲まなければならないものでは無い。ビールだけで楽しむお客さまだっているだろう。
だがフレンチとワインはやはり切っても切れないものなのだ。お客さまが銘柄を指定するなら問題は無いが、注文したお料理に合うワインを聞かれたら? ワインを飲むことすらできない守梨はどうおすすめしたら良い?
すると祐ちゃんが「ちょっと待っとって」と立ち上がり、厨房へと向かう。戻って来た時には手にノートが数冊あった。お父さんがレシピを書いたのと同じ種類で色違いの大学ノートである。レシピはライムカラーだったが、こちらはベージュだった。
祐ちゃんはそれを守梨に差し出す。顔を上げた守梨が見たのは、労わる様に優しい顔をした祐ちゃんだった。守梨はそれをおずおずと受け取る。
「これは……?」
「おやっさんのレシピと一緒に入ってた。お袋さんが作った、フランスワインのノートや」
そのノートは元の厚さよりかなり膨らんでいる。守梨がそっと開くと、左側にワインのエチケットが貼られ、右側にワインの情報が書かれていた。細かな味わいや合うお料理などが記されている。
「凄い……」
感嘆の言葉がするりと漏れ出た。ワインの知識が乏しくてもその風味が想像できる様に、詳細に書かれている。
例えば1ページ目にあったドメーヌ・デ・マロニエール。生産地はブルゴーニュのシャブリ地方、ぶどうの品種はシャルドネ。生産者の名前がそのままワインの銘柄になっている。
ライムやグレープフルーツなどの柑橘類やフレッシュハーブを思わせる爽やかさと酸味、ミネラルを感じさせる味わい。きりっとした辛口のシャブリらしさ。癖が少なく素直な飲み口。日本料理や和食と特に合う。
まだ微かに嘔気は残っているが、その爽快な味が口の中に広がる様な気がした。合うお料理からも、日本人の好みなのだろうということが伺える。
他のページも同じ構成で綴られている。ノートは赤ワイン、白ワイン、ロゼワインと貴腐ワインにスパークリングワインで別れていて、全部で3冊あった。
おそらくだが「テリア」で扱っているワインは網羅し、他の銘柄もたくさん載せられているのだろう。
「多分ソムリエ試験に向けてやろうけど、他の産地のワインのノートもあったわ。けど「テリア」で扱ってるワインはフランス産だけやから、これで勉強できるんちゃうか」
「勉強、できる……?」
ワインが飲めない。だから何もできないと思ってしまいそうになっていた。だが。
「ワインが飲めんでも、知識があったらええんちゃうやろか。どんな味、どんな料理に合うか、それが分かってればおすすめできるやろ?」
「そうやで、守梨ちゃん」
祐ちゃんの言葉を繋ぐ様に、松村さんが明るく口を開く。
「確かにソムリエとかエキスパートの資格があった方が、信用はあるかも知れん。でもな、ここは大阪やで。ワイン飲まれへんのがネタになるやん。この料理にはこれがおすすめですよ。でも私はワイン飲めない体質なんです、えへ。なんてな」
ワインが飲めなくても、ビストロで給仕ができるのか。その希望が出始めて、守梨は顔を上げる。
「……そっか、飲めへんでも、知識は入れられますもんね」
「そうそう。幸いここはビストロや。居酒屋とかバーみたいにお客さんから1杯どうぞ、なんてすすめられることもそうあらへん。もしあって、飲まれへん言うても、大概のお客さんは「なんやそれ」言うて笑ってくれはるわ。せやから安心しぃ。大丈夫や、代利子さん、こんなええノート遺してくれてはるんやから」
「そうやで、守梨。大阪人はそんな細かいこと気にせぇへんて」
祐ちゃんにも言われ、守梨はようやく「うん」と頷いた。
「松村さん、祐ちゃん、ありがとうございます。お母さんのワインノートを教科書にして、勉強します」
「うん。守梨ちゃん、明るい顔になったな」
松村さんに言われ、守梨は恥ずかしくなる。
「とんだ姿を見せてしもて」
「ううん、まだ春日さんと代利子さんが亡くなって、そう経ってへんやん。まだまだ落ち込んでたりしてて当たり前なんよ。それやのに守梨ちゃんは気丈に振る舞って。偉いと思うわ。「テリア」を再開させる夢、めっちゃ素敵やん。応援するから、いつでも頼ってな。店があるからこうやって来られへん時もあるけど、日曜日は時間あるし」
「ありがとうございます」
そっと労ってくれる松村さんがありがたく、守梨はじわりと心が暖かくなる。祐ちゃんも優しい眼差しでいてくれた。大丈夫、まだまだ進める。諦めない。守梨は決意を新たにした。
0
あなたにおすすめの小説
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
Emerald
藍沢咲良
恋愛
教師という仕事に嫌気が差した結城美咲(ゆうき みさき)は、叔母の住む自然豊かな郊外で時々アルバイトをして生活していた。
叔母の勧めで再び教員業に戻ってみようと人材バンクに登録すると、すぐに話が来る。
自分にとっては完全に新しい場所。
しかし仕事は一度投げ出した教員業。嫌だと言っても他に出来る仕事は無い。
仕方無しに仕事復帰をする美咲。仕事帰りにカフェに寄るとそこには…。
〜main cast〜
結城美咲(Yuki Misaki)
黒瀬 悠(Kurose Haruka)
※作中の地名、団体名は架空のものです。
※この作品はエブリスタ、小説家になろうでも連載されています。
※素敵な表紙をポリン先生に描いて頂きました。
ポリン先生の作品はこちら↓
https://manga.line.me/indies/product/detail?id=8911
https://www.comico.jp/challenge/comic/33031
【完結】愛されたかった僕の人生
Kanade
BL
✯オメガバース
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。
今日も《夫》は帰らない。
《夫》には僕以外の『番』がいる。
ねぇ、どうしてなの?
一目惚れだって言ったじゃない。
愛してるって言ってくれたじゃないか。
ねぇ、僕はもう要らないの…?
独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。
アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
苦手な冷徹専務が義兄になったかと思ったら極あま顔で迫ってくるんですが、なんででしょう?~偽家族恋愛~
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
「こちら、再婚相手の息子の仁さん」
母に紹介され、なにかの間違いだと思った。
だってそこにいたのは、私が敵視している専務だったから。
それだけでもかなりな不安案件なのに。
私の住んでいるマンションに下着泥が出た話題から、さらに。
「そうだ、仁のマンションに引っ越せばいい」
なーんて義父になる人が言い出して。
結局、反対できないまま専務と同居する羽目に。
前途多難な同居生活。
相変わらず専務はなに考えているかわからない。
……かと思えば。
「兄妹ならするだろ、これくらい」
当たり前のように落とされる、額へのキス。
いったい、どうなってんのー!?
三ツ森涼夏
24歳
大手菓子メーカー『おろち製菓』営業戦略部勤務
背が低く、振り返ったら忘れられるくらい、特徴のない顔がコンプレックス。
小1の時に両親が離婚して以来、母親を支えてきた頑張り屋さん。
たまにその頑張りが空回りすることも?
恋愛、苦手というより、嫌い。
淋しい、をちゃんと言えずにきた人。
×
八雲仁
30歳
大手菓子メーカー『おろち製菓』専務
背が高く、眼鏡のイケメン。
ただし、いつも無表情。
集中すると周りが見えなくなる。
そのことで周囲には誤解を与えがちだが、弁明する気はない。
小さい頃に母親が他界し、それ以来、ひとりで淋しさを抱えてきた人。
ふたりはちゃんと義兄妹になれるのか、それとも……!?
*****
千里専務のその後→『絶対零度の、ハーフ御曹司の愛ブルーの瞳をゲーヲタの私に溶かせとか言っています?……』
*****
表紙画像 湯弐様 pixiv ID3989101
芙蓉は後宮で花開く
速見 沙弥
キャラ文芸
下級貴族の親をもつ5人姉弟の長女 蓮花《リェンファ》。
借金返済で苦しむ家計を助けるために後宮へと働きに出る。忙しくも穏やかな暮らしの中、出会ったのは翡翠の色の目をした青年。さらに思いもよらぬ思惑に巻き込まれてゆくーーー
カクヨムでも連載しております。
烏の王と宵の花嫁
水川サキ
キャラ文芸
吸血鬼の末裔として生まれた華族の娘、月夜は家族から虐げられ孤独に生きていた。
唯一の慰めは、年に一度届く〈からす〉からの手紙。
その送り主は太陽の化身と称される上級華族、縁樹だった。
ある日、姉の縁談相手を誤って傷つけた月夜は、父に遊郭へ売られそうになり屋敷を脱出するが、陽の下で倒れてしまう。
死を覚悟した瞬間〈からす〉の正体である縁樹が現れ、互いの思惑から契約結婚を結ぶことになる。
※初出2024年7月
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる