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3章 意図せぬ負の遺産
第3話 心配を掛けてしまうから
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その日は、昼からどうにか出勤することができた。
両親を喪ってから、まだたったの3ヶ月ほど。まだ完全に立ち直っていないところに、両親の大事な「テリア」に悪意を向けられた、傷を付けられたことはダメージが大きい。
そのせいか仕事のパフォーマンスも落ちてしまい、午前中お休みをもらった分もあって、少し退勤が押してしまった。
17時定時のところが18時になってしまい、家に帰り着いたら、すでに祐ちゃんが来てお料理を始めていた。きっと横にはお父さんがいるのだろう。
「あ、守梨、お帰り。邪魔してる」
「うん、ただいま。遅ぅなってごめん」
「いや、お疲れさん」
守梨はまたお料理現場を見ようと、厨房片隅の丸椅子に腰を下ろす。この丸椅子は両親が生きていたころ、ふたりが休憩のために使用していたものだ。主に使っていたのはお父さんだろうか。注文が入らなかったりする隙間時間もあるわけで、そういう時に身体を休めていたのだ。
お母さんは基本フロアにいて、お客さまの要望などに応えるのが仕事である。なので多分、あまり使う機会は無かったのかも知れない。
そう思うと不公平感が出てしまう気もするのだが、お母さんはお母さんできっとちゃっかり休憩を取っていたのだと思う。少なくとも守梨が手伝いをしている時、守梨に任せてもらえる時には休んでいた。
祐ちゃんは時折頷きながら包丁を握り、フライパンを振るう。両親が生きていたら、見られなかった光景だ。高校生になるまではこうしてお父さんとここでお料理をしていたみたいだが、それを守梨は見ていなかった。興味が無かったからだ。それよりも自分の遊びなどに夢中だった。
今は違う。今もお料理は下手だし、かろうじて簡単なものができる程度。向上できる気もしない。だが「テリア」を再開させたいのであれば、こうして料理するところを見ることも大事なのだと思う。
お父さんが遺してくれたレシピで勉強もしている。どういう食材が使われているのか、どんな調理方法なのか。お客さまの前に表立つ予定なのは守梨なのである。聞かれてから厨房に駆け込んで確かめるなんて、できるわけが無い。
実は今もお料理そのものに関心があるわけでは無い。美味しいものを食べるのは大好きだが、それと作ることは別問題である。だがそんなことを言っていられないことぐらいは分かっている。
こうしていることも、今の守梨にとっては勉強のひとつなのである。それに最近、見ているのが楽しくなって来ている。守梨は祐ちゃんの手元、作業台の上をじっと見つめた。
今日祐ちゃんが作ってくれたのは、きゅうりのサラダと、鶏レバの赤ワイン煮である。
サラダのドレッシングにはヨーグルトとレモン汁、オリーブオイルが使われていて、きりっとした酸味とまろやかさが融合している。すり下ろしたにんにくも使われていて、それがほのかなパンチになっているのだ。
瑞々しさと青い香りのあるきゅうりに、このドレッシングと、ディルなどのフレッシュハーブが絡んでいる。ハーブの力もあって、爽やかな味わいの一品に仕上がっていた。
鶏レバはワインで煮込んでいるからか、臭みは綺麗に取り除かれている。もちろん血合いを抜くなどの下処理も大事である。
バターのコクとはちみつの柔らかな甘さ、バルサミコ酢の酸味が深い旨味を生み出している。
一緒に煮込むのは季節の野菜。今は夏なのでヤングコーンである。ヤングコーンはそのしゃきっとした食感を楽しむものでもあるので、焼き付けた後、仕上がりの3分ほど前にお鍋に戻された。
鶏レバのこのねっとりとした食感は、守梨は好きなのだが、好みが分かれるところだろう。守梨の周りにも生レバは好きだが、火を通したレバはぱさぱさして好きでは無いと言う人がいる。
守梨は「テリア」開店時からお父さんのレバ料理を食べて来たので、その頃から当たり前の様に美味しく食べていた。お母さん自身が火を通したレバが好きでは無く、それまでは食卓に上がることがほとんど無かった。そんなお母さんも、お父さんのお料理で克服したのだが。
そして祐ちゃんが作ったこの鶏レバ煮込みも、とても美味しかった。ついつい頬が緩んでしまう。
「ところで守梨」
「ん?」
正面で食べていた祐ちゃんに声を掛けられ、守梨は顔を上げる。そこにあったのは、深刻そうな祐ちゃんの顔だった。
「店のガラス、割られたんやて?」
率直に言われ、守梨はひゅっと息を飲んだ。
祐ちゃんにこれ以上の負担を掛けたく無いと、守梨は祐ちゃんに今朝のことを言うつもりは無かったのだ。
だが表から見れば、割れていることは一目瞭然である。そして両親だって知っているのだから、お母さんから聞いたのかも知れない。
お父さんは必要なこと以外はあまり口にしないが、お母さんはきっと守梨を心配して祐ちゃんに言ったのだろう。守梨は口止めしなかったことを悔いた。
「わ、分からんけど、割れてしもうて」
しどろもどろになって言うと、祐ちゃんはまるで睨む様に守梨を見る。守梨はいたたまれなくなって、つい目を逸らしてしまった。
「守梨、もしかして黙ってようと思ったんか? 俺に心配掛けるとか、そんなことを思ったんか?」
「……うん」
その通りだったので、守梨は目を伏せたまま小さく頷く。そう、言えば祐ちゃんはきっと気に掛ける。今でこそ守梨のために骨を折ってくれているのに、これ以上憂いなどを感じて欲しく無かったのだ。
「それこそいらん心配や。こういう時こそちゃんと言ってくれな。後で知った方が心配やわ」
「うん、ごめん」
守梨が謝って頭を下げると、祐ちゃんは「うん」と声色を和らげた。
「で、お袋さんが言うには、警察もあんま当てにならんそうなんやて?」
「うん。誰がやったかとか、調べるん難しいかもって。何も盗られてへんし、誰も怪我してへんから、しゃあないんかなぁ」
「そっか。ほな、今夜からフロアに泊まり込んで、犯人突き止めようか?」
「あかんあかんあかん、そんなんあかん、危ない」
守梨は慌てて首を振る。祐ちゃんならそんなことも言い出しそうだと思って、それも言おうとしなかった原因でもあるのだ。普段冷静な祐ちゃんなのに、時折驚くことを言い出すのである。
「けどなぁ」
祐ちゃんは納得いっていない様だが、万が一があっては危険だ。それに徹夜でもしようものなら、仕事などにも影響が出る。
「ほんまに大丈夫やから。戸締りしっかりするし、あの窓も早い目に直しに来てもらうから」
「守梨がそう言うなら。でも気を付けるんやで」
「うん」
守梨は頷いて、少し冷め掛けてしまっている鶏レバを口に運んだ。
「うん、祐ちゃん、今日もやっぱり美味しい」
守梨が笑顔で言うと、祐ちゃんは「そうか」と表情を緩ませた。
両親を喪ってから、まだたったの3ヶ月ほど。まだ完全に立ち直っていないところに、両親の大事な「テリア」に悪意を向けられた、傷を付けられたことはダメージが大きい。
そのせいか仕事のパフォーマンスも落ちてしまい、午前中お休みをもらった分もあって、少し退勤が押してしまった。
17時定時のところが18時になってしまい、家に帰り着いたら、すでに祐ちゃんが来てお料理を始めていた。きっと横にはお父さんがいるのだろう。
「あ、守梨、お帰り。邪魔してる」
「うん、ただいま。遅ぅなってごめん」
「いや、お疲れさん」
守梨はまたお料理現場を見ようと、厨房片隅の丸椅子に腰を下ろす。この丸椅子は両親が生きていたころ、ふたりが休憩のために使用していたものだ。主に使っていたのはお父さんだろうか。注文が入らなかったりする隙間時間もあるわけで、そういう時に身体を休めていたのだ。
お母さんは基本フロアにいて、お客さまの要望などに応えるのが仕事である。なので多分、あまり使う機会は無かったのかも知れない。
そう思うと不公平感が出てしまう気もするのだが、お母さんはお母さんできっとちゃっかり休憩を取っていたのだと思う。少なくとも守梨が手伝いをしている時、守梨に任せてもらえる時には休んでいた。
祐ちゃんは時折頷きながら包丁を握り、フライパンを振るう。両親が生きていたら、見られなかった光景だ。高校生になるまではこうしてお父さんとここでお料理をしていたみたいだが、それを守梨は見ていなかった。興味が無かったからだ。それよりも自分の遊びなどに夢中だった。
今は違う。今もお料理は下手だし、かろうじて簡単なものができる程度。向上できる気もしない。だが「テリア」を再開させたいのであれば、こうして料理するところを見ることも大事なのだと思う。
お父さんが遺してくれたレシピで勉強もしている。どういう食材が使われているのか、どんな調理方法なのか。お客さまの前に表立つ予定なのは守梨なのである。聞かれてから厨房に駆け込んで確かめるなんて、できるわけが無い。
実は今もお料理そのものに関心があるわけでは無い。美味しいものを食べるのは大好きだが、それと作ることは別問題である。だがそんなことを言っていられないことぐらいは分かっている。
こうしていることも、今の守梨にとっては勉強のひとつなのである。それに最近、見ているのが楽しくなって来ている。守梨は祐ちゃんの手元、作業台の上をじっと見つめた。
今日祐ちゃんが作ってくれたのは、きゅうりのサラダと、鶏レバの赤ワイン煮である。
サラダのドレッシングにはヨーグルトとレモン汁、オリーブオイルが使われていて、きりっとした酸味とまろやかさが融合している。すり下ろしたにんにくも使われていて、それがほのかなパンチになっているのだ。
瑞々しさと青い香りのあるきゅうりに、このドレッシングと、ディルなどのフレッシュハーブが絡んでいる。ハーブの力もあって、爽やかな味わいの一品に仕上がっていた。
鶏レバはワインで煮込んでいるからか、臭みは綺麗に取り除かれている。もちろん血合いを抜くなどの下処理も大事である。
バターのコクとはちみつの柔らかな甘さ、バルサミコ酢の酸味が深い旨味を生み出している。
一緒に煮込むのは季節の野菜。今は夏なのでヤングコーンである。ヤングコーンはそのしゃきっとした食感を楽しむものでもあるので、焼き付けた後、仕上がりの3分ほど前にお鍋に戻された。
鶏レバのこのねっとりとした食感は、守梨は好きなのだが、好みが分かれるところだろう。守梨の周りにも生レバは好きだが、火を通したレバはぱさぱさして好きでは無いと言う人がいる。
守梨は「テリア」開店時からお父さんのレバ料理を食べて来たので、その頃から当たり前の様に美味しく食べていた。お母さん自身が火を通したレバが好きでは無く、それまでは食卓に上がることがほとんど無かった。そんなお母さんも、お父さんのお料理で克服したのだが。
そして祐ちゃんが作ったこの鶏レバ煮込みも、とても美味しかった。ついつい頬が緩んでしまう。
「ところで守梨」
「ん?」
正面で食べていた祐ちゃんに声を掛けられ、守梨は顔を上げる。そこにあったのは、深刻そうな祐ちゃんの顔だった。
「店のガラス、割られたんやて?」
率直に言われ、守梨はひゅっと息を飲んだ。
祐ちゃんにこれ以上の負担を掛けたく無いと、守梨は祐ちゃんに今朝のことを言うつもりは無かったのだ。
だが表から見れば、割れていることは一目瞭然である。そして両親だって知っているのだから、お母さんから聞いたのかも知れない。
お父さんは必要なこと以外はあまり口にしないが、お母さんはきっと守梨を心配して祐ちゃんに言ったのだろう。守梨は口止めしなかったことを悔いた。
「わ、分からんけど、割れてしもうて」
しどろもどろになって言うと、祐ちゃんはまるで睨む様に守梨を見る。守梨はいたたまれなくなって、つい目を逸らしてしまった。
「守梨、もしかして黙ってようと思ったんか? 俺に心配掛けるとか、そんなことを思ったんか?」
「……うん」
その通りだったので、守梨は目を伏せたまま小さく頷く。そう、言えば祐ちゃんはきっと気に掛ける。今でこそ守梨のために骨を折ってくれているのに、これ以上憂いなどを感じて欲しく無かったのだ。
「それこそいらん心配や。こういう時こそちゃんと言ってくれな。後で知った方が心配やわ」
「うん、ごめん」
守梨が謝って頭を下げると、祐ちゃんは「うん」と声色を和らげた。
「で、お袋さんが言うには、警察もあんま当てにならんそうなんやて?」
「うん。誰がやったかとか、調べるん難しいかもって。何も盗られてへんし、誰も怪我してへんから、しゃあないんかなぁ」
「そっか。ほな、今夜からフロアに泊まり込んで、犯人突き止めようか?」
「あかんあかんあかん、そんなんあかん、危ない」
守梨は慌てて首を振る。祐ちゃんならそんなことも言い出しそうだと思って、それも言おうとしなかった原因でもあるのだ。普段冷静な祐ちゃんなのに、時折驚くことを言い出すのである。
「けどなぁ」
祐ちゃんは納得いっていない様だが、万が一があっては危険だ。それに徹夜でもしようものなら、仕事などにも影響が出る。
「ほんまに大丈夫やから。戸締りしっかりするし、あの窓も早い目に直しに来てもらうから」
「守梨がそう言うなら。でも気を付けるんやで」
「うん」
守梨は頷いて、少し冷め掛けてしまっている鶏レバを口に運んだ。
「うん、祐ちゃん、今日もやっぱり美味しい」
守梨が笑顔で言うと、祐ちゃんは「そうか」と表情を緩ませた。
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