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しおりを挟む「父さん、これくらいでいい?」
黒糖と水を煮立て、ゆっくりと木べらでなべ底を掻き回す。ひと回しごとにふんわりと甘い黒糖の濃厚な香りを肺いっぱいに吸い込んで、俺は隣で干し芋を刻んでいる、父さんを見上げた。
父さんは、くつくつと小さな気泡を上げている薄茶色の鍋を見つめてから、よしよしと頷いて、
「火から上げて、机に持って行ってくれるか?」
と俺の頭を撫でる。
「はーい」
何枚も巻いた布地の取っ手を両手で持ちながら、火の元からそれを持ち上げると、俺は机の上にそっと丁寧に鍋を置いた。とっぷりと滑らかな水面が揺れて、また甘い香が立ち昇る。
「はぁ~、いい匂い」
「今日は黒糖が手に入ったからな。特別だ」
そう言いながら、父さんはもち米粉を入れてしっかりと混ぜ合わせ、それから小指の第一関節くらいに刻んだ干し芋を、鍋の中へとぽとぽと入れていく。かき混ぜると、白い湯気が龍のように立ち昇り、ゆっくりと天井に消えていった。
「黒糖と水を合わせて、煮立てたあと、もち米粉を合わせ混ぜて、それから今日は特別に干し芋を入れる」
父さんは少し得意気に言いながら、型に薄紙を敷いた、四角いその中にとろっとした液体を流し込むと、今度はそれに鍋を重ね合わせた、背の高い蒸し器へと入れる。俺はそれを眺めながら、前に一度だけ食べた事のあるニェンガオの味を舌の付け根で思い出していた。
その時は正月ということもあり、特別に干しナツメと金柑が入っていた。甘く爽やかな柑橘の香りと濃い黒糖の甘味に、むにむにとした食感。
あれはとてもおいしかった。
沢山はなかったから、祝い事で人と分け合えば、結局一人一切れしか食べられなかったけれど、あれを口の中に入れた時の感動は今も忘れられない。
「これを蒸したら出来上がり。覚えられたか?」
「この位簡単だよ、もう覚えた!」
調理工程を頭の中に入れて、そう宣言すると、父は大きな皮膚の厚い手で、乱すように俺の頭を少し乱暴に撫でる。ぐりぐりと強い力で頭を揺すり、視界が振れた。
「店の準備をしてくるから、火を見ていてくれるか?」
「うん、わかった!」
俺はそう頷いて、竈から離れる父さんを見送った。隣接する料理屋へ、父さんが去って行くのを見届けてから、俺は竈の中で赤々と燃えている火に視線の高さを合わせて、じっと見つめる。
眼球がじんわりと熱を持ち、ぱちぱちと瞬きをすると、
「そんなに近づくんじゃねえよ」
火の奥から声がした。耳を澄ましながらじっとその声と火の方へ、全ての神経を集中させている。
「こらガキ、聞いてんのか」
燃え盛る火の中で二つの目が、瞼を開いてこちらを見つめてきた。瞳孔は赤と橙を混ぜたように鮮やかに、はっきりと俺を捉えてみつめていた。俺は土間の土をじゃり、と言わせながら、身体をその火から少し離した。目が熱い。
「父さん、行っちゃった」
「知ってる。俺が見てるから、お前は遊んで来て良いぞ」
脳内に語り掛けてくるみたいに、声が頭の中に柔らかく、まあるく声が反響する。
「だめだよ、お前は悪戯好きだから、見張ってなきゃ」
そう言うと、火の双眸が不愉快そうに歪んだ。
「言いがかりだぜ、俺が何したって言うんだ」
「先日ボヤがあった。お前、俺が見てるから寝ていいぞって、宗のおっちゃんをそそのかしたんだろ」
「それこそ言いがかりだ。俺は何もしてない。風のせいだろ」
ふん、と息巻いて火が蒸し器の下で小さくうねる。俺は膝を抱えながら、それでもだめだ、と首を横に振った。
「俺は父さんとの約束を守る」
「頑固なガキだな」
「それに、俺はザオフォといるの好きだよ」
「……頑固で面倒だ」
火が微かに困ったように揺れている。見た目が強気な割に、照れ屋さんなのが火の精霊だと教えてくれたのは父さんだった。
特に竈の火の精霊は悪戯好きで、調理中のものを焦がしたり、沸騰させたりする事も多い。しかしその反面、仲良くなると、色々な料理について助言をくれるという頼もしい相棒だ、とも言っていた。
「今日は黒糖が手に入ったんだ」
「白砂糖じゃねえのか」
「そんなもの、この庶民街に流れてくるわけないだろ」
ザオフォは「ふぅん」と視線を斜め上にして、さ迷わせると「蜂蜜は?」と更に質問を重ねてくる。
「蜂蜜はあるけど……」
「今度は黒糖と蜂蜜を合わせて使ってみるといい」
「それもいいね。父さんに言ってみる!」
ザオフォは頷くように縦に揺れた。すると、不意に竈のそばにある八角形の窓からふわりと風が入り込んでくる。
「風も悪戯好きだよね」
「季節柄、そういう気分なんじゃねえか?」
春を過ぎた夏の手前。風が不意に訪れて、遊ぶように若葉を弄び、こうして家の中にまで入ってくると、火をも弄ぶことは珍しくない。しかし、彼等は気紛れなため、火の精霊とは違い、殆ど意思の疎通というものができない。彼等の声を聞くことは滅多にないし、しかも一か所に留まり続ける事もない。
「風って、……すごく不思議な存在」
「俺もわかんねーわ、あいつらのこと。鬱陶しいってことだけは分かるけど」
うんざり気味にザオフォが呟くと、彼の柔らかな火を揶揄うように、風が柔らかく火の元で回るように吹いている。
「やめろやめろ! 鬱陶しい!」
ザオフォが声を荒げると、ふふふと小さな笑い声が何処からともなく聞こえてくる。きょろりと辺りを目配りさせるが、その声の主はどこにもいない。――これが風の精霊の声なのかな、高くてかわいい声だ。
ぼんやりとその小さな笑い声に聞き惚れていると、不意に俺の背中を何かが押す。驚いて振り返ると、もちろん背後にはテーブルと椅子があるだけで、誰もいない。首を傾げながら辺りを見渡す。すると今度は、頭の天辺あたりの髪の毛を引かれた。
「え、なに?」
驚いて辺りを見渡す。
そして更に、最初よりも強い力で背中を押された。勝手に手が持ち上がり、胸の高さまで上がった手首を見れば、ひゅうひゅうと手首の辺りを風が渦巻いていた。
「呼んでるみたい、だな」
ザオフォがどこか驚いたように、息を吐いた。
「ええ、……今はだめだよ」
くいくいと外へと向かう扉に引かれるとけれど、火の番をしてないといけない。振り切ろうと手首を振ってみるが、風の腕輪みたいな渦巻は取れなくて。
「俺が見てる。行ってこい」
見かねたように、ため息交じりにザオフォが揺らめく事無く目で俺を追いやる。
「……本当?」
「信用しろって。お前のことは裏切らない」
「……風も悪戯するなよ?」
俺はそう見えない人影に向かうように、部屋の四方八方へと忠告を投げかける。天井の隅、机の下、窓枠の鉄窓花の隙間。
沈黙を了解、と受け取り、俺は外に通じるドアを押し開いた。
細い裏路地は建物の間らしく、ぐっと明度が下がり、空を見上げれば、青い空の手前に洗濯物や赤提灯がぶら下がっている。左右を見れば、朝の塵山に野良猫が群がっていた。
「こらー! 飯あげてるんだから荒らすな!」
声を上げると、群がっていた三匹は脱兎のごとく裏路地を飛び出していき、隠れていた鴉が両翼を広げて飛び立つ。俺は腰に手を当てて、あとで掃除だな、とうんざりしながらら、風の精霊に取られた右手の力に従い、歩き出す。
「なあ、何処に行くんだ? あんまり遠くには行きたくないんだけど……」
貿易街でもあるこの近辺は、日中とは言え、路地裏は子どもが一人で歩いて良い場所ではないと、父さんからきつく言われている。それに、火の元だって、父さんから見ていなさいと、言われているのだ。――いくらザオフォが見ているとは言え、長くは留守にしたくない。
嫌嫌な気持ちで、文句を訴えながらのろのろと風の赴くままに歩みを進めていると、更に路地裏奥へと引っ張られる。
暫く大人しく歩みを進めてみるが、一向に彼らが何をしたいのか、そういうのが見えてこない。
その不透明さに、不安はゆっくりと積もってく。
――本当に付いてって良かったのかな。
そんな不安が胸を掠め、透明の水に墨を落としたような濁りが、心を穢す。
不安が胸を刺すと同時に、ツン、と生ごみの臭いがきつく鼻腔の奥にまで入り込んできた。俺は眉を寄せて、軽く息を止めて、辺りを何度も見渡す。
この街は大きな囲いの中で、二つの商人街が存在し、それは東西に分断されている。
俺達庶民が立ち入ることを禁じられている、上流階級の人達のいる東街。そして庶民から物乞いまでが混在する西街。その西街の中でも、子どもが立ち入ってはいけない結構場所がある。それが、物乞いや外国人が不法滞在する地区だ。
恐らく、俺はその地区の中に足を踏み入れてしまったのかもしれない。もしくは、その近くまで来てしまっているのか。匂いからして異質だ。
「なあ、放して、帰りたい!」
足を止めて引かれる手首を振るうけれど、風の輪は取れない。
不安が一歩ごとに、肥大していく。
高い塀の並ぶ、入り組んだ路地のせいか、時折太陽が隠れて、辺りが夜のように、闇を濃くさせる。心臓が怯えるように、ばくばくと走り始めていた。
すると、不意に手の拘束が溶けて、俺はゆっくりと足を止めた。突然一人放り出されたような心許なさに、風の精霊の気配を探すけれど、無責任な程、辺りはしんと静寂に満ちていた。
どうやら大通りからも離れてしまった場所らしい。
どうしよう。
辺りを見渡し、来た道を振り返る。真っ直ぐ歩いたり、右へ曲がったり左へ引っ張られたりしたせいで、道順も殆ど分からない。
「どうしよう……」
不安がぽろりと言葉に出ると、胸の内がすうっと冷えていく。身体中が恐怖に包まれたような、眩暈が起きる。
「誰かいるの?」
前触れもなく声が聞こえて、どん詰まりの左右に別れた先へ振り返る。陽の光が落ちるその場所に、小さな人影がぬっと伸びて、俺は思わず後退った。――誰かいる。
胸を抑えながら、息を殺していると、そのひょろりとした人影が暗がりの路地裏のこちらへと、顔を覗かせた。
顔を見せた少年を見て、俺は一気に身体から力が抜けていくのを感じる。
しかし彼はただの少年ではなかった。
艶やかな長い黒髪に、白い陶器のような肌を持ち、不安気に震えている瞳は、孔雀の青い羽を、水で薄く溶いたような、美しい色をしていたのだ。身なりも自分のような平服ではなく、深い藍色の上等物だとすぐに分かるような布地の衣に、黒い帯。
明らかに身分の高い、美しい子どもだった。
「あの、君は……」
問われて、はっと我に返り、俺は何度か今は現実なのかと瞬きをする。
「えっと……風の精霊に連れて来られて……」
そう自分で言葉にしながら――もしかして。彼を助けろと言う事だったのだろうか――そんな思いが頭を過る。
「とりあえず、ここは子どもだけじゃ良くない場所だと思うんだ。一緒に逃げよう」
そう手を差し出すと、彼は本当に俺を信用すべきなのかというような眼差しを向けてくる。
――彼がこちらを怪しむのも、無理はない。きっとここは間違いなく物乞い街で、俺みたいな子どもでも、当たり前のように人を騙すやつはたくさんいるはずだ。
「……悪い奴じゃないっていう証拠、あれば見せてあげたいけど、俺は今何もないんだ」
何せ、半ば無理矢理に風の精霊に引っ張られてきて、そして何も告げられないまま放り出されたのだから。
「ていうか、俺も迷子だし……早く帰りたいんだ」
そう呟くと、心細さがまた浮上してくる。
「父さんにニェンガオの見張り頼まれてたのに……」
約束を破ってしまったという罪悪感が胸を巣食う。父さんみたいな料理人になりたいから、父さんの言う事は必ず守りたい。なのに、今はその約束をすっぽかしている自分がいる。――そう思うと、なんだか勝手に出て来て勝手に迷子になっている自分が情けなくて仕方なくなってくる。
ちゃんと帰れるかな、そんな不安がちくりと胸を刺して、目の奥がじんわりと熱くなる――すると、塀の影に半身を隠していた少年が飛び出してきた。彼は俺の手をぎゅっと握り、
「俺も帰りたいけど、道が分からないんだ。一緒に探そう」
隣に来た彼は、驚く程甘く良い香がした。
今までに嗅いだことのないような、花のような、砂糖菓子のような――自分の知る限りのものの中では言い表す事の出来ない、濃厚な甘さ。
驚いて目を瞬かせると、一瞬浮かび上がった涙がすぐに乾く。
「だから、そんな顔しないでくれ」
真摯な顔で告げられ、
「え、あ……うん!」
俺は先ほどの緊張とは、また別の意味で高鳴り始めた鼓動を感じながら、何とか頷く。
俺達はしっかりと手を握り合うと、恐らくこっちだと踵を返して来た道を戻る。
「君、名前はなんていうの?」
隣に並んで歩く小さな手の彼が、俺を覗き込む。さらりと揺れる黒い絹のような髪が、彼の肩から流れた。
「俺は林天宇。君は?」
「趙偉龍」
「うぇいろん……」
口の中に馴染むように、その言葉をゆっくりと舌で象ってみる。その名前は彼から放たれていた甘い香と同じように、しんみりと舌の上から身体の中へと滲みこんできた。
「天宇か……ここら辺に住んでるのか?」
「いや、もっと向こう。商人街のそばだよ。父さんが料理屋をやってるんだ」
自慢の父さんの話をしたところで、俺は「火!」と、再び約束を思い出した。
竈火がいくら面倒を見てくれているとは言え、やはり長い間放置するのは危険だ。俺は少し速足になりながら、ぐいぐいと偉龍の細い手を引っ張る。
「もう少し、ゆっくり歩いてくれないか?」
「ごめん、竈の火をザオフォが見てくれてるんだ」
「ザオフォ?」
「知らない? 竈の火の精霊だよ」
早歩きになり、それが小走りになって、入り組んだ道を進んでいく。
どうせなら帰り道も、案内してくれればいいのに! なんて思いながら、何とか街の賑やかなざわめきが戻ってくると、俺は歩調を緩めた。
心なしか、頭上から降ってくる太陽の陽の光も温かく感じられる。俺は知った道になると、また急ぎ足で自宅へと急いで向かった。
「遅くなってごめん!」
扉を開いて家に入ると、小さなつむじ風が足元でくるくると新緑の葉を巻き込みながら、渦を作っていた。
「ニェンガオは?」
「ちゃんと見てるって言っただろう」
ザオフォの声が聞こえて来て、ほっと胸を撫で下ろすと、俺は繋いでいた手をゆっくりと解いた。振り返ると、偉龍は不思議そうに部屋の中をきょろきょろと見ている。
庶民の家など見る機会ものないのだろう。もしかしたら、それが随分と物珍しく、偉龍の目に映っているのかもしれない。俺だって上流階級の家なんて見た事ない。きっと目の前にしたら、俺も同じようにきょろきょろしてしまうに違いない。
「天宇の家か?」
「うん、ここは母屋。向こうの扉は店に続いてる」
偉龍は蒸し器のそばに寄ると、そっと身を屈めて竈火を覗き込んだ。素っ気ない眼差しで偉龍を見止めると、ザオフォは興味なさそうにすいっと視線を逸らして、その火を揺らめかせて熱を偉龍へ送った。
「あつ……っ」
「大丈夫? ごめんね、少し悪戯好きなんだ」
「いや、大丈夫。竈火の精霊は初めて見たよ……」
「料理の一つもできなさそうな、乳くせえガキだな!」
嫌味を放り投げて、ザオフォは火の舌で蒸し器のなべ底を舐める。
「おい、言葉ってもんが……!」
「いや、彼の言う通りだ。俺は何一つ……」
そう言いながらぎゅっと偉龍が衣を握る。その皺の寄った衣と幼い握りこぶしを見つめていると、何故か同じように、胸を締め付けられるのを感じた。――なんだろう、これは。
親しい間柄に感じる共感ならまだわかるのだが、偉龍とはまださっき出会ったばかりだというのに……。
彼が何か俺には計り知れない苦しい鉛を抱えている気がして――そして、その鉛が、同じように俺の胸の中にもある気がしてきて、俺まで苦しい。
まるで、彼の気持ちが共鳴しちるみたいだ。
「……あのさ、もし良かったら、ニェンガオ食べる?」
俺は偉龍を苦しめる何かを振り払いたくて、そう声を掛けると、俯きかけた彼の顔がゆっくりと持ち上がる。
「きっともうすぐ蒸し上がるからさ」
上流階級の商人街で売られているような、豪華なものじゃないけれど、父さんの作るニェンガオは世界でい一番、愛が籠ってて美味しい。
美味しいものを食べたら、大抵今日の嫌な事はどうでも良くなるという、大人達の教えを思い出して、俺は「そうしよう」と、偉龍を覗き込む。
「今日は俺も手伝ったから、味見してよ」
「……いいのか?」
顔を上げたその瞳は、少し光を取り戻したみたいに、明るくその湖面を輝かせていた。朝陽を受け入れたばかりの水のように。
俺はそれにほっとしながら、もちろんと頷いた。彼も同じように大きく頷いてくれる。
「ところで、なんであんなところにいたの? 偉龍をは東街の人だろう?」
俺は机のそばにある椅子を竈のそばに移動させると、その上に乗って、蒸し器の中を覗き込んだ。真っ白で清潔な布が蒸し籠の蓋に被せられて、湯気がもうもうと上がっている。
俺は偉龍を見下ろすと、彼はまた衣の裾をぎゅっと握り締めていた。なにか、事情があるのだろうか。悪い奴から追われているとか、上流階級の生活様式は把握していないけれど、大人たちは皆彼等のことを「何事にも面倒くさくて厭味ったらしい」と、酒を飲みながら愚痴をこぼしているのを聞いたことがある。
もしかしたら、嫌な目に遭ったのかもしれない。
「……言いたくない事?」
言葉を繋げてみると、偉龍は一度だけ首を横に振って顔を上げた。
「俺、全然家の中で出来損ないで……、何しても下手でだめだめで……」
彼の小さな頭の中で、悔しい思いや苦しい思いが、ぐるぐると駆け巡っているのが分かる。歪んでいく美しい形の双眸や唇が、それらを物語っている。――また胸が痛い。
「俺の父様は領者で文官をしていて偉いんだ。兄上達も領者で、その才能を開花させているのに、俺だけ……っ」
――領者。
数回聞いた事ある単語を、頭の中でくるくると回す。私塾で聞いたことがある単語だった。
――この世界には男女の性別の外に、領者と慕者、それから大半を占める平者という、男女以外の第二性がある。
第二次成長期前後でその性は頭角を現し始め、平者は特異とする事がないのに対して、領者は文武に秀ており、多彩な才能を発揮する。一方慕者は第一次性を関係なく、領者の子を孕む事ができる。
――なんだか、俺には縁遠い話だな、なんて思いながら、午後の眠気に耐えながら聞いていたのを覚えている。
どうせ、俺は平者だろうから。
「偉龍はもう領者なのか?」
「いや、それすらも全然……でも、兄上達はもう俺の年頃には出ていたというのに、お前は遅いって……」
そう言って表情を曇らせる偉龍に、俺は上流者は大変だな、と少しだけ他人事のように思ってしまう。確かに領者となれば、この商人街から抜け出し、宮廷につかえる役人への道は十分にあると、私塾で教わった。――でも、だからなんだ? というのが、俺の気持ちだ。役人の道だけが正しいわけじゃないし、領者だけが正しいわけでもない。
俺は椅子から降りると、偉龍の衣を掴む手を握った。
俺には分からない辛さの中で生きているだろう偉龍が、一人ぼっちのように見えて、それは違うと伝えたかった。
「みんないっせーの、で変わるわけじゃないんだろう? それに、領者だけが正しいわけじゃない。そんなの義務じゃないよ」
俺がそう言い切ると、偉龍は驚いたように目を丸くした。萎んでいた光が瞳の縁からじわじわと蘇ってくるのが、何となく分かる。
「偉龍が責められる事なんて、何もないじゃないか、今糞しろって言われて、できるもんじゃないだろ?」
……変な例えだったかな?
俺が首を傾げると、背後で竈火のザオフォが火を揺らして大笑いをする。
「糞! その例えしかなかったのかよ、天宇!」
「うるさいなあ!」
笑われた事が何となく恥ずかしくて、振り返ると、また背後から小さく控え目な笑みが、音を立てる。振り返ると、偉龍が細めた目尻の涙を拭いながら笑っていた。
「糞か! はは! そうだ、言われればそうだ!」
少しほっとしてから、
「もう糞って言うなよ!」
と偉龍の肩を小突く。彼はそれでも腹を抱えて笑っていた。
「おい、ニェンガオそろそろいいぞ」
ザオフォの声に振り返ると、彼は「じゃあな」とその火の影をゆらりと静かに揺らし、自ら消失した。ぐつぐつと沸騰していた湯が静まっていくのが分かる。俺は竈の前で感謝の祈りを唱えながら手を合わせた。
「……火が自ら消えること、あるのか?」
「うん、俺はザオフォの事しか分からないけど、不要ってなれば、自ら消える事もあるし、俺たちが消すこともある」
俺は椅子から降りると、父さんのいる店に続くドアノブに手を掛けた。
「父さん、蒸し終わったよ」
ドアから顔を覗かせると、昼時に合わせての仕込みをしている父さんが、手拭いで両手を拭いていた。
「そうかそうか、あいつは自分から消えたか?」
「うん、またねって」
父さんは嬉しそうに頷きながら、部屋に戻ってくる――それと殆ど同時だろう、父さんはぎょっと目を見開き、偉龍を見つめた。固まる父さんに、
「趙偉龍だよ」
と短く紹介するけれど、返答はない。
「道に迷っちゃったみたいで、帰り道が分からないんだって」
更にそう続けると、父さんはバタンと扉を乱暴に閉めた。そして、俺の両腕を掴んだ。あまりの勢いに驚いて父さんを見つめる。
「どうやってここに……っ、待て待て。ちょっと父さんに時間をくれ」
そう言いながら、焦る父さんを前に、何か悪いことをしてしまったのだろうかと、理由のない汗がじんわりと出てくる。
振り返って偉龍を見ると、彼もまた何かをやらかしてしまった調本人であるかのように、表情を暗くしていた。
「父さん、俺達何もしてないよ?」
「分かっている。でもなあ、なんでこんなところに東街の子どもが……」
それは俺も思っている。
でも、それでも偉龍だって好きに迷い込んだわけじゃないかもしれない。自暴自棄になって、ただただ道を見失ってどこからか、走って逃げてきただけかもしれないのだ。
「俺、街まで送ってあげたくて……」
「それはだめだ!」
ひと際大きな声で遮られ、思わず身体が震えると、父さんがバツが悪そうに視線を逸らす。
一瞬の沈黙が降りてくると、空気が泥水を含んだみたいに重くなった。――その中、不意にどすん、と地面を揺るがすような足音が、裏扉の方から聞こえてくる。三人でそちらの方へと注目すれば、
「天宇」
と偉龍が俺を呼ぶ。
「お迎え来てくれたみたいだ……」
「え、何でわかるの?」
俺が父さんの両腕を振り払って偉龍のもとに掛けると、突然扉が勢いよく開け放たれた。それと同時に突風が部屋の中を荒らす。台所の鍋や食器が揺れて、がらんがらんと激しい音を立てた。思わず両腕で顔を守り、過ぎ去った風を確認してから顔を上げ――俺は目を疑う。
扉の向こう側から、長い首を傾げるようにしてこちらを覗き込む、大きな鳥の姿があった。艶やかな深紅の羽毛に包まれた大きな体躯と、金色の無機質な眼差しがぎょろりと動く。
肌がひりつくような緊張が走った。
聖獣――朱雀だ。
精霊なら姿を見る事はあっても、聖獣は滅多に人の前に姿を現さないと言われていて、俺はその姿を目視するのは初めてだった。
初めてでも分かる煌びやかで大きな体躯。絵でしか見た事ないが、間違いない。
「なんで……」
声が震えた。思わず偉龍の手を握り後退ると、
「大丈夫だよ、父さんの式神だから」
そう手を握り返された。
「え、式神って……」
「天宇、ありがとう。助けてくれて、ニェンガオは食べられなかったけど、君に出会えたことは奇跡だ」
偉龍を見ると、先程までの陰鬱とした眼差しは見る影もなく、穏やかな笑みが美しくその表情を象っていた。でも、俺にはその笑顔が本物なのか、分からない。まだ出会って、彼の心をきちんと図れるくらいの言葉を交わしてないから。
「またいつか」
そっと力の抜けた手が、俺の手の平の中からすり抜けていく。
「偉龍!」
呼ぶと彼は一度だけ振り返り、手を振ってくれた。ゆっくりと背を向けて出ていく小さな背中を、俺は扉が閉まるまで、その場から動けず、ただただ見つめている事しかできなかった。
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