青々たる衿にしたたる恋心

中原涼

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 店が終わるのは、いつも客任せだった。
 酔っ払いが多く留まる日は、多少延長する事もあるが、その逆もまた然りというところか。俺は乾かした食器を棚に仕舞いながら、既に人の捌けてしまった、静かな店内をぐるりと見渡す。
 父さんは常連の家で一杯やりにいくと、早々に店を後にしてしまったので、今日はいつもの閉店時間よりも早い店じまいの為、時間が余っている。
 一度風呂にでも入るかな、と思ったけれど、昨日の今日で、何となくそれは気まずい気がしたので、いつも通りを意識して、服装もあえてそのままにして、彼を待つ事にした。
 やる事もなくなって、店内の椅子に腰を掛けると、疲労が唇から、ため息となって零れ落ちる。
 なんだかここ数日、忙しかったような気がする。――というか、色々なことが起き過ぎたというべきだろう。
 偉龍との再会から、自分の身には一生無縁であろうと思う事が、連続で起きている気がする。第二性だって、今まで意識しなかった。
 むしろ、自分は発情期がない分、他の人よりは楽に生きられているのではないかと思う面すらあった。
 しかし、その性を開花させてしまった今――もう昔のようには戻れない。
 発情期というのは、三月の周期で訪れるという噂だが、俺もそういう周期でこれからそれが訪れるようになるのだろうか。
 そうなった時、いつも偉龍が相手をしてくれるのだろうか。抑制剤というものがあるらしいが、決して安価ではないと聞いている。普通は三日三晩閉じこもり、欲をやり過ごすのがここら辺の慕者のやり方らしいけれど……。
 考えれば考えるほどに、悩みと不安が深まっていく。
 改めて意識すると、慕者という性はずいぶんと厄介なものかもしれない。
 そんな事を考えていると、不意に扉を外側から控え目に叩く音がした。――偉龍だ。
 俺は椅子から立ち上がると、戸に駆け寄り躊躇いなくそれを開いた。
「いらっしゃい……」
 しかしそこに偉龍はいなかった。その代わりに、自分の背丈ほどの人ではないものが大きく目の前に立ちはだかっている。
 俺は数歩後退ると、全貌が明るみになったその巨体に愕然とする。白銀の美しい毛並みは月光を受けて良く煌めき、真っ直ぐな丸い双眸は、氷のような澄み渡る青を映している。
「え、虎……」
 四つ足の巨体が一歩踏み出す。
 明らかな強者を前に、足が竦んで動かない。戸を閉めなきゃと思うのに、身体が一切動くことを拒否しているかのように、固まってしまっている――どうしよう。
「天宇、迎えに来たよ」
 知った声がしてその声を探すと、彼は虎の背後から顔を覗かせた。
「おい、怯えちまってるぞ」
 頭の中で声が反響する。偉龍の声でも俺の知っている声でもない、特殊な響き方をする声に、俺は目の前の虎を見つめた。
「ああ、ごめん。驚かせちゃったか。これは俺の式神だよ」
 そう言いながら偉龍は、白銀の毛並みを優しく撫でる。
「び、びっくりした……」
 思わずその場にへたり込むと、慌てたように偉龍が駆け寄ってきた。
「すまない、そんなに驚いたか?」
「だから、やめとけと言ったんだ。一般人に俺の姿は刺激が強過ぎる」
 呆れたように、彼の式神である――おそらく聖獣の白虎――がそう呟いた。
「だって一度は紹介した方が良いかなって」
 拗ねた子どものような口調でそう言いながら、偉龍が俺の背中を優しく摩ってくれる。俺は改めて目の前にいる白虎の姿を見上げた。
 聖獣であり、精霊とはまた違うはっきりとした質量で実体化しているその姿は、威厳というのか――人を圧倒する雰囲気があり、思わず手を合わせそうになってしまう、荘厳さがある。
「すごくいい子だから、大丈夫」
「おい、子ども扱いするなと言ってるだろう」
 不満気に言葉が飛んでくると、偉龍は子供が拗ねたように眉を潜めて「一々言葉を気にし過ぎだよ」と白虎を睨みつけた。
「親しみがある方がいいじゃないか」
「お前には威厳がなさ過ぎる」
「そんなものいらないね。俺は威張り散らすんは苦手だし、できれば静かにひっそりと生きていきたいんだ……!」
 武官とは思えない彼の主張に、白虎の大きなため息が聞こえてくる。自分がなぜ彼に召喚されたのかと苦悩するような表情に、俺は少し笑ってしまった。
「偉龍って、本当に優しい人だね」
「優しいだけじゃ食われる世界なんだぞ! 俺がどれだけコイツの面倒をみているか!」
 どうやら式神であり、そしてまたお目付け役というところなのだろうか。冗談じゃないと反論してくる白虎に、なかなかいい組み合わせなんじゃないかとすら思ってしまう。
「……そろそろいいか? こいつに挨拶をするだけだろう?」
 呆れながら白虎が告げる。俺は慌てて立ち上がると、その大きな体躯の前に駆け寄った。
「林天宇です」
「知っている……お前、偉龍の気を喰らったのなら、もう少しコイツの尻を叩いてくれ」
 気を喰らう? 彼の言い方に首を傾げてしばらく考えていると、すぐに心当たりに辿り着く。昨夜の出来事が一気に脳裏に思い出され、顔がみるみる熱くなった。
「付いて来てくれて、ありがとう」
 そう言うと、偉龍は俺の背後で聞き取れないほどの小さな声で何か呪文を唱えた。すると、白虎の巨体の周りに風と霧が小さな竜巻を起こし、それに包まれてしまうと、すぐにそれは消滅してしまった。
 白虎は跡形もなく消え去り、道には風が巻いた渦の形が微かに残る程度だった。
「彼は……」
「ああ、あるべき場所へと還したよ」
 あるべき場所……。
 確かに、彼等は人の世に置いては、その存在は否とされる部類になるのだろう。という事は、どこか別に彼等が在るべき場所があるという事のなのだろうか。
「ザオフォも在るべき場所があるの?」
「精霊の類は人と共存する部類だから、聖獣とはまた少し違うかもしれないね」
「そうなんだ、意外としらなかったかも」
 そう言えば簡単に呼び出し、簡単に去り、また当たり前のように再会する、この繰り返しを当然のように享受していた――そのせいもあってか、なかなか彼らのことを考える事などなかった気がする。
 今度ザオフォに聞いたら、何か答えてくれるのだろうか。
「さ、今日は俺の部屋においでよ」
 嬉しそうに手を引かれて、俺は「え?」と驚いて顔を上げた。
「いや、でも……俺なんかが偉龍の居住地区に入れるの?」
 上流階級は庶民街への出入りに制限はないが――まあ、来る用事もないから殆ど見たことはないけれど――俺達のような一般庶民は、彼等の居住区や商人街への立ち入りは、一切禁止されてる。
 もし入ることがあっても、それは何日も前に事前申請と厳しい基準を乗り越えない事には、通行証は発行してもらえない。
「大丈夫。俺は子どもの頃、あの堀を一人で抜け出した天才なんだから」
 褒められた事ではないけれど、特気に胸を張るので、俺はそのあっけらかんとした偉龍の調子に笑ってしまった。それと一緒に一抹の不安さえ、さらりとその姿を消してしまうから不思議だ。
 そう言えば、あんな子供がどうやって一人で高く囲われた塀から抜け出したのか、気になる所だ。
「じゃあ種明かしをしてもらおうかな」
「いいよ! じゃあ行こうか」
 そう言いながら手を引かれて、俺達は店を後にした。

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