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真っ白な世界にぼんやりと人影が見える。
『なぜ・・・・・・ない』
『・・・・・・らず』
『・・・なら、・・・用はない』
『そんな、俺、もっとがんばりますから、どうか・・・』
『早急に城を出ろ』
夢を見た気がする。はっきりとは覚えていないが悲しい夢だったんだろう。胸が張り裂けそうに痛い。
濡れた目元を手の甲で拭い、ぼんやりと天井を見つめる。頭が重い。どうせ休みだ、無理をして起きる必要はないと、そのまま二度寝するべく寝返りを打った時、部屋の扉をノックする音が聞こえた。病み上がりに誰がくることがあるだろうかと思いながら、エイリは気だるい体を起こしながら返事を返す。
「はーい・・・え?」
扉を開けた先には、会いたくて、会いたくなくて、たまらない人がいた。
「起こしてしまったか、すまない。体調はどうだ」
「あ、え、と、ちょっとだるいくらいで、す」
「そうか。無理せず横になりなさい」
「え、と。ヴァルゼウス様?」
あれよあれよという間に先ほどまで横になっていたベッドまで追いやられ、諦めて横になり布団を被る。いたたまれなくて目を閉じたエイリの額に、少し冷たいヴァルゼウスの手が触れた。
「早く治せ」
落ち着いた声が静かに落ちてくる。まるで早く一緒に仕事をしたいみたいだと都合よく受け取りそうになって、エイリの鼓動が早まった。さっきまで見ていた悪夢のことなどすっかり頭から抜け落ちてしまう。
「そんな風に言ってもらえるなんて。俺、ちょっとでもヴァルゼウス様の役に立ててますか?」
「当然だ」
「・・・」
喜んだのも束の間、あれ?とエイリは首を傾げた。何かがおかしい。
「エイリ?」
「あ、いや。なんでもないです。まだ寝起きで少しぼーっとしてるのかも」
エイリの頭をヴァルゼウスがゆっくりと撫でる。寝かしつけられている幼子のようでなんだか恥ずかしい。静かに流れる時間に、エイリの口から自然と言葉がこぼれ落ちた。
「・・・この前は変なこと言ってすみませんでした」
「変な気を回さなくていい。サキュバスまで手配するなど、不要だ」
言われた言葉にずきんと胸が痛んで、目を閉じる。
「すぐ帰るよう命じたら、不能だとまで言われたぞ。全く、余計なことを」
「あ・・・彼女らに、何も、しなかった、んですか」
「当たり前だ。私は・・・いや、なんでもない」
サキュバス達を抱かなかったという言葉にエイリの頬はだらしなく緩んでしまい、なんとか見られないよう布団で口元を隠した。途中で口をつぐんでしまった彼の方を見つめ、心の声が聞こえてくるのを待つ。
が、何も聞こえてこない。こういう時はいつもすぐに頭に響いてくるのだ、彼の飲み込んだ言葉の先が。
「・・・え?」
「エイリ、どうした。顔色が」
「う、あ、なんで」
「しっかりしろ!クソ、医者を呼んでくる」
「あ・・・あ・・・」
どれだけ耳をすませても、ヴァルゼウスに意識を集中しても、何も、何も、聞こえない。エイリは瞬間、凍りついたようにその場に立ち尽くした。
(なんで?なんで、聞こえない?)
心臓が一気に跳ね上がり、耳鳴りがするほど動悸が激しくなる。今まで常にそこにあったものが、突然消えてしまった感覚。いや、そんなはずはない。何かの間違いだ。そう思い込もうとするが、必死に耳を澄ませても、静寂だけが押し寄せてくる。
(まさか・・・。)
恐怖が喉を塞ぎ、全身が冷たくなる。このままでは、自分の存在価値がなくなる、ヴァルゼウスのそばにいられなくなる――そんな絶望感が、エイリの胸を締め付けた。
その時、急にとある光景がフラッシュバックした。
『なぜこれまでのように仕事ができない』
『指示をくだされば、必ず』
『いちいち指示などしていられるか。できないなら、もうお前に用はない』
『そんな、俺、もっとがんばりますから、どうか、ヴァルゼウス様・・・!』
『早急に城を出ろ』
はっきりとヴァルゼウスに拒否される光景が頭に浮かぶ。寒くないのに体は勝手に震えて、歯がガチガチと鳴った。
ヴァルゼウスに呼ばれたフィンデルは、真っ青な顔で意識朦朧と震え続けるエイリを見て冷や汗をかいた。明らかに昨日より悪化している。
「一体何があったんです」
「わからない。話していたら突然震え始めた」
ヴァルゼウスの言葉を聞きながら診察を進めるが、微熱があるくらいで異常の所見は見られない。急かすような王の視線に焦りながらも、首を横に振った。
「特に異常は見られません」
「なんだと?!異常がないわけがないだろう!こんなに震えているのに!」
「そ、そう言われましても・・・」
「っ、すまない」
ヴァルゼウスの態度に怯えた医師に、頭を下げて非礼を詫びる。額に浮かぶ汗を拭ってやりながら、ヴァルゼウスは震え続けるエイリを見遣った。
「体には異常がないんです。不調なのは、もしかしたら心の方かもしれません」
フィンデルの言葉に遠い目をして少し肩を落としたヴァルゼウスは、静かに立ち上がった。
(また私は苦しめることしかできないのか。)
「仕事に戻る。エイリをみていてやってくれ」
「・・・わかりました」
言い残し、ヴァルゼウスは部屋を出る。彼の頭の中には、自分がエイリに吐きかけた言葉と、かつて経験した苦々しい記憶が蘇っていた。
悪魔は大抵秩序を嫌い、快楽を好む。そのせいで魔界は常に戦乱の世だった。ヴァルゼウスは数千年前、そんな時代を終わらせ、圧倒的な強さで一時の平和を実現した。
いくら秩序を嫌っても、喜んで自身の身を危険に晒す者は少ない。争いを楽しめるのは、自分の安全が確保されている者だけだ。しかし、幼少期のヴァルゼウスの周りには、そんな者たちはいなかった。
魔界にもカーストがある。魔族としての能力差が大きい分、人間界以上に実力や血統によって差別や支配が生じやすい。
ヴァルゼウスは生まれてすぐに親に捨てられたが、運良く優しい悪魔に拾われた。その集落では領主の権力が強く、育ての親たちは搾取され、領主の気まぐれで虐げられていた。その不条理を見て育ったヴァルゼウスは、秩序のもとでこそ自由を謳歌できる世界を作りたいと願うようになった。
生まれ持った膨大な魔力と圧倒的な身体能力を駆使し、ヴァルゼウスは魔界を統一することができた。魔王などという椅子には興味がなかったが、少しでも平和を長く保つために王座に就き、権力と武力で秩序を維持し続けている。
それでも火種は絶えずくすぶっていた。成り上がり者のヴァルゼウスを快く思わない者達、戦乱の時代に甘い汁を吸っていた悪魔たちは、権力を奪還しようと画策していたのだ。魔界統一から数百年後、危惧していたとおり、ついに内乱が勃発する。
その頃、ヴァルゼウスには信頼する友人がいた。ソロンという優しい男で、魔界統一後の混乱を鎮めるため、ヴァルゼウスと共に尽力していた。
内乱が起きたのはソロンの故郷で、主犯は純血派組織の一員である彼の親戚だった。これを知ったヴァルゼウスは、鎮圧後にソロンに事情を聞いた。だが、彼の態度は酷く曖昧で、彼自身も内乱に関与しているのではないかと思えるほどだった。
共に魔界を平和なものにしようと誓った親友の裏切りを疑ったヴァルゼウスは激昂した。
「魔界を秩序あるものにしようと誓っただろう! それができるのは私だけだと、お前も言ったではないか!」
「結局は血統が大事か。裏切り者め!」
ヴァルゼウスは怒りに任せて罵詈雑言を浴びせ続けた。それはまるで癇癪を起こした子どものように、止まることができなかった。ソロンはそんなヴァルゼウスに何も反論しなかった。
翌日、ソロンは自害した。遺された遺書にはただ一言「ヴァルゼウス、君なら秩序を作り上げられる。」と書かれていた。
後日、内乱の主犯だった男は、ソロンに協力を依頼したが、馬鹿な真似はやめろと諭されただけで終わったと自白した。
悔やんでももう遅かった。ソロンはもういない。一時の激情に飲まれ、取り返しのつかないことをしてしまった。もっとソロンの話を聞くべきだった。彼の親戚が主犯で、事前に協力を求められていたことは知らなかったとはいえ、彼がそれに乗るはずもなかったのだ。そして内乱が起きたことで、あの優しい男は自らを責めたに違いない。それを話も聞かず、罵倒し、傷つけた。信頼を裏切ったのはソロンではなく、ヴァルゼウスの方だったのだ。
だが、口にした言葉はもう戻らない。最悪の結果は、永遠に覆らない。
それ以来、ヴァルゼウスは誰も近くに置かなくなった。言葉を発することもできる限り控えた。信用できる者がいないのではない。また大切な誰かを傷つけてしまうことが、恐ろしくてならないのだ。あの時、まるで何かに取り憑かれたかのように、相手を傷つける言葉を吐き続けた自分が、再び現れるのではないか――その思いが、彼を苛み続けている。
エイリが目を覚ますと、ぼやけた視界の中にフィンデルが見えた。
「俺、また、倒れたんすね」
「そうだよ」
「まーた、迷惑かけちゃったなあ」
ため息を吐き、天井を見上げる。
「俺、こんなバタバタ倒れるような、ひ弱な悪魔じゃなかったんですけどね」
「・・・何か辛いことでもあった?今エイリくんを苦しめているのは、体の病気ではなくて、きっと心の問題だよ」
心の問題。辛いことなんて決まっている。ヴァルゼウスの心の声が聞こえなくなってしまったかもしれないこと。そして、そのせいで自分がロクに役に立たなくなってしまうだろうことだ。
エイリはふっと息を吐くと、つらつらと言葉をこぼし始めた。
「俺、ヴァルゼウス様の役に立ちたいんです。でも、もう多分無理」
「なぜ?君は働き者で、誰から見ても魔王様の役に立ってるじゃないか」
「それは・・・たまたまで。元々はそんな能力ないから。こんなことになる前に、失敗して失望させちゃったし」
フィンデルが背中を優しく撫でてくれる。その手があまりに優しくて、思わず涙が滲んできた。随分と涙もろくなってしまったもんだと心の中で自嘲する。
「誰にでも失敗はあるよ。それに、許してなかったらあんなに毎日見舞いに来たりしないでしょ。今日だってわざわざエイリくんの部屋にまで来て。そんなの聞いたことないよ」
「そうかな」
「そうだよ」
優しい声が傷ついた心に染み渡る。まるで雪が溶けるようにエイリの中に積もった不安が解けていく。
「俺、ヴァルゼウス様の特別になりたいっぽくて」
「十分特別扱いされてると思うけど」
「もっと特別なやつ」
「・・・これ、僕が先に聞いちゃってよかったのかなあ」
フィンデルはエイリの言葉を否定しない。ただただ寄り添ってくれる。冷えた心が少しずつ暖かくなっていく。
「今まではヴァルゼウス様の心の中が聞こえてたから、それなりに役に立ててたと思う。でも、もう聞こえなくなったかもしんない。だとしたら、もうこれまでみたいに気持ちを汲んで仕事できない分、あんまり役に立てないと思う」
「エイリくん・・・」
「フィンデル先生、ありがと。もう大丈夫。仕事はまたがんばってみるけど、しんどくなったら話聞いてもらいにくるかも」
「いつでもおいで。ただ、しばらくはちゃんと休むこと」
「うん、わかってる」
フィンデルは自分を精神疾患だと思っているだろうか。でも、詳しいことは何も聞かず、ただ聞いてくれたことが嬉しかった。保身のために今までずっと誰にも言えなかったことを口にして、少しだけ胸が軽くなる。
食べられるものを持って来させると言ってフィンデルが部屋を出て行った。今が何時なのかもわからない。さっきまで何も感じていなかったのに、静まり返った部屋にエイリの腹から食事を求める音が鳴った。
間抜けな音を鳴らし続ける腹を撫でながら、こんな時でも腹が減る自分がなんだかとても可笑しかった。悲しくて、辛くて、自分が情けないけれど、それでも自分はいろんな人に支えられて生きている。仕事を教えてくれたザルヴァン、妄言と言われても仕方のない話を聞いても馬鹿にせず看病してくれたフィンデル、数多くの同僚や先輩、孤児院のマザーや子ども達、そして全ての原動力であるヴァルゼウス。恩に報いたい。大好きな人を一番近くで支えたい。だから、このまま腑抜けてはいられない。
「心の声が聞こえなくても、ヴァルゼウス様のために働く。元からそうだったんだから」
この城に来た当時の気持ちを思い出しながら、エイリは一口一口、食事を味わい、そう誓った。
『なぜ・・・・・・ない』
『・・・・・・らず』
『・・・なら、・・・用はない』
『そんな、俺、もっとがんばりますから、どうか・・・』
『早急に城を出ろ』
夢を見た気がする。はっきりとは覚えていないが悲しい夢だったんだろう。胸が張り裂けそうに痛い。
濡れた目元を手の甲で拭い、ぼんやりと天井を見つめる。頭が重い。どうせ休みだ、無理をして起きる必要はないと、そのまま二度寝するべく寝返りを打った時、部屋の扉をノックする音が聞こえた。病み上がりに誰がくることがあるだろうかと思いながら、エイリは気だるい体を起こしながら返事を返す。
「はーい・・・え?」
扉を開けた先には、会いたくて、会いたくなくて、たまらない人がいた。
「起こしてしまったか、すまない。体調はどうだ」
「あ、え、と、ちょっとだるいくらいで、す」
「そうか。無理せず横になりなさい」
「え、と。ヴァルゼウス様?」
あれよあれよという間に先ほどまで横になっていたベッドまで追いやられ、諦めて横になり布団を被る。いたたまれなくて目を閉じたエイリの額に、少し冷たいヴァルゼウスの手が触れた。
「早く治せ」
落ち着いた声が静かに落ちてくる。まるで早く一緒に仕事をしたいみたいだと都合よく受け取りそうになって、エイリの鼓動が早まった。さっきまで見ていた悪夢のことなどすっかり頭から抜け落ちてしまう。
「そんな風に言ってもらえるなんて。俺、ちょっとでもヴァルゼウス様の役に立ててますか?」
「当然だ」
「・・・」
喜んだのも束の間、あれ?とエイリは首を傾げた。何かがおかしい。
「エイリ?」
「あ、いや。なんでもないです。まだ寝起きで少しぼーっとしてるのかも」
エイリの頭をヴァルゼウスがゆっくりと撫でる。寝かしつけられている幼子のようでなんだか恥ずかしい。静かに流れる時間に、エイリの口から自然と言葉がこぼれ落ちた。
「・・・この前は変なこと言ってすみませんでした」
「変な気を回さなくていい。サキュバスまで手配するなど、不要だ」
言われた言葉にずきんと胸が痛んで、目を閉じる。
「すぐ帰るよう命じたら、不能だとまで言われたぞ。全く、余計なことを」
「あ・・・彼女らに、何も、しなかった、んですか」
「当たり前だ。私は・・・いや、なんでもない」
サキュバス達を抱かなかったという言葉にエイリの頬はだらしなく緩んでしまい、なんとか見られないよう布団で口元を隠した。途中で口をつぐんでしまった彼の方を見つめ、心の声が聞こえてくるのを待つ。
が、何も聞こえてこない。こういう時はいつもすぐに頭に響いてくるのだ、彼の飲み込んだ言葉の先が。
「・・・え?」
「エイリ、どうした。顔色が」
「う、あ、なんで」
「しっかりしろ!クソ、医者を呼んでくる」
「あ・・・あ・・・」
どれだけ耳をすませても、ヴァルゼウスに意識を集中しても、何も、何も、聞こえない。エイリは瞬間、凍りついたようにその場に立ち尽くした。
(なんで?なんで、聞こえない?)
心臓が一気に跳ね上がり、耳鳴りがするほど動悸が激しくなる。今まで常にそこにあったものが、突然消えてしまった感覚。いや、そんなはずはない。何かの間違いだ。そう思い込もうとするが、必死に耳を澄ませても、静寂だけが押し寄せてくる。
(まさか・・・。)
恐怖が喉を塞ぎ、全身が冷たくなる。このままでは、自分の存在価値がなくなる、ヴァルゼウスのそばにいられなくなる――そんな絶望感が、エイリの胸を締め付けた。
その時、急にとある光景がフラッシュバックした。
『なぜこれまでのように仕事ができない』
『指示をくだされば、必ず』
『いちいち指示などしていられるか。できないなら、もうお前に用はない』
『そんな、俺、もっとがんばりますから、どうか、ヴァルゼウス様・・・!』
『早急に城を出ろ』
はっきりとヴァルゼウスに拒否される光景が頭に浮かぶ。寒くないのに体は勝手に震えて、歯がガチガチと鳴った。
ヴァルゼウスに呼ばれたフィンデルは、真っ青な顔で意識朦朧と震え続けるエイリを見て冷や汗をかいた。明らかに昨日より悪化している。
「一体何があったんです」
「わからない。話していたら突然震え始めた」
ヴァルゼウスの言葉を聞きながら診察を進めるが、微熱があるくらいで異常の所見は見られない。急かすような王の視線に焦りながらも、首を横に振った。
「特に異常は見られません」
「なんだと?!異常がないわけがないだろう!こんなに震えているのに!」
「そ、そう言われましても・・・」
「っ、すまない」
ヴァルゼウスの態度に怯えた医師に、頭を下げて非礼を詫びる。額に浮かぶ汗を拭ってやりながら、ヴァルゼウスは震え続けるエイリを見遣った。
「体には異常がないんです。不調なのは、もしかしたら心の方かもしれません」
フィンデルの言葉に遠い目をして少し肩を落としたヴァルゼウスは、静かに立ち上がった。
(また私は苦しめることしかできないのか。)
「仕事に戻る。エイリをみていてやってくれ」
「・・・わかりました」
言い残し、ヴァルゼウスは部屋を出る。彼の頭の中には、自分がエイリに吐きかけた言葉と、かつて経験した苦々しい記憶が蘇っていた。
悪魔は大抵秩序を嫌い、快楽を好む。そのせいで魔界は常に戦乱の世だった。ヴァルゼウスは数千年前、そんな時代を終わらせ、圧倒的な強さで一時の平和を実現した。
いくら秩序を嫌っても、喜んで自身の身を危険に晒す者は少ない。争いを楽しめるのは、自分の安全が確保されている者だけだ。しかし、幼少期のヴァルゼウスの周りには、そんな者たちはいなかった。
魔界にもカーストがある。魔族としての能力差が大きい分、人間界以上に実力や血統によって差別や支配が生じやすい。
ヴァルゼウスは生まれてすぐに親に捨てられたが、運良く優しい悪魔に拾われた。その集落では領主の権力が強く、育ての親たちは搾取され、領主の気まぐれで虐げられていた。その不条理を見て育ったヴァルゼウスは、秩序のもとでこそ自由を謳歌できる世界を作りたいと願うようになった。
生まれ持った膨大な魔力と圧倒的な身体能力を駆使し、ヴァルゼウスは魔界を統一することができた。魔王などという椅子には興味がなかったが、少しでも平和を長く保つために王座に就き、権力と武力で秩序を維持し続けている。
それでも火種は絶えずくすぶっていた。成り上がり者のヴァルゼウスを快く思わない者達、戦乱の時代に甘い汁を吸っていた悪魔たちは、権力を奪還しようと画策していたのだ。魔界統一から数百年後、危惧していたとおり、ついに内乱が勃発する。
その頃、ヴァルゼウスには信頼する友人がいた。ソロンという優しい男で、魔界統一後の混乱を鎮めるため、ヴァルゼウスと共に尽力していた。
内乱が起きたのはソロンの故郷で、主犯は純血派組織の一員である彼の親戚だった。これを知ったヴァルゼウスは、鎮圧後にソロンに事情を聞いた。だが、彼の態度は酷く曖昧で、彼自身も内乱に関与しているのではないかと思えるほどだった。
共に魔界を平和なものにしようと誓った親友の裏切りを疑ったヴァルゼウスは激昂した。
「魔界を秩序あるものにしようと誓っただろう! それができるのは私だけだと、お前も言ったではないか!」
「結局は血統が大事か。裏切り者め!」
ヴァルゼウスは怒りに任せて罵詈雑言を浴びせ続けた。それはまるで癇癪を起こした子どものように、止まることができなかった。ソロンはそんなヴァルゼウスに何も反論しなかった。
翌日、ソロンは自害した。遺された遺書にはただ一言「ヴァルゼウス、君なら秩序を作り上げられる。」と書かれていた。
後日、内乱の主犯だった男は、ソロンに協力を依頼したが、馬鹿な真似はやめろと諭されただけで終わったと自白した。
悔やんでももう遅かった。ソロンはもういない。一時の激情に飲まれ、取り返しのつかないことをしてしまった。もっとソロンの話を聞くべきだった。彼の親戚が主犯で、事前に協力を求められていたことは知らなかったとはいえ、彼がそれに乗るはずもなかったのだ。そして内乱が起きたことで、あの優しい男は自らを責めたに違いない。それを話も聞かず、罵倒し、傷つけた。信頼を裏切ったのはソロンではなく、ヴァルゼウスの方だったのだ。
だが、口にした言葉はもう戻らない。最悪の結果は、永遠に覆らない。
それ以来、ヴァルゼウスは誰も近くに置かなくなった。言葉を発することもできる限り控えた。信用できる者がいないのではない。また大切な誰かを傷つけてしまうことが、恐ろしくてならないのだ。あの時、まるで何かに取り憑かれたかのように、相手を傷つける言葉を吐き続けた自分が、再び現れるのではないか――その思いが、彼を苛み続けている。
エイリが目を覚ますと、ぼやけた視界の中にフィンデルが見えた。
「俺、また、倒れたんすね」
「そうだよ」
「まーた、迷惑かけちゃったなあ」
ため息を吐き、天井を見上げる。
「俺、こんなバタバタ倒れるような、ひ弱な悪魔じゃなかったんですけどね」
「・・・何か辛いことでもあった?今エイリくんを苦しめているのは、体の病気ではなくて、きっと心の問題だよ」
心の問題。辛いことなんて決まっている。ヴァルゼウスの心の声が聞こえなくなってしまったかもしれないこと。そして、そのせいで自分がロクに役に立たなくなってしまうだろうことだ。
エイリはふっと息を吐くと、つらつらと言葉をこぼし始めた。
「俺、ヴァルゼウス様の役に立ちたいんです。でも、もう多分無理」
「なぜ?君は働き者で、誰から見ても魔王様の役に立ってるじゃないか」
「それは・・・たまたまで。元々はそんな能力ないから。こんなことになる前に、失敗して失望させちゃったし」
フィンデルが背中を優しく撫でてくれる。その手があまりに優しくて、思わず涙が滲んできた。随分と涙もろくなってしまったもんだと心の中で自嘲する。
「誰にでも失敗はあるよ。それに、許してなかったらあんなに毎日見舞いに来たりしないでしょ。今日だってわざわざエイリくんの部屋にまで来て。そんなの聞いたことないよ」
「そうかな」
「そうだよ」
優しい声が傷ついた心に染み渡る。まるで雪が溶けるようにエイリの中に積もった不安が解けていく。
「俺、ヴァルゼウス様の特別になりたいっぽくて」
「十分特別扱いされてると思うけど」
「もっと特別なやつ」
「・・・これ、僕が先に聞いちゃってよかったのかなあ」
フィンデルはエイリの言葉を否定しない。ただただ寄り添ってくれる。冷えた心が少しずつ暖かくなっていく。
「今まではヴァルゼウス様の心の中が聞こえてたから、それなりに役に立ててたと思う。でも、もう聞こえなくなったかもしんない。だとしたら、もうこれまでみたいに気持ちを汲んで仕事できない分、あんまり役に立てないと思う」
「エイリくん・・・」
「フィンデル先生、ありがと。もう大丈夫。仕事はまたがんばってみるけど、しんどくなったら話聞いてもらいにくるかも」
「いつでもおいで。ただ、しばらくはちゃんと休むこと」
「うん、わかってる」
フィンデルは自分を精神疾患だと思っているだろうか。でも、詳しいことは何も聞かず、ただ聞いてくれたことが嬉しかった。保身のために今までずっと誰にも言えなかったことを口にして、少しだけ胸が軽くなる。
食べられるものを持って来させると言ってフィンデルが部屋を出て行った。今が何時なのかもわからない。さっきまで何も感じていなかったのに、静まり返った部屋にエイリの腹から食事を求める音が鳴った。
間抜けな音を鳴らし続ける腹を撫でながら、こんな時でも腹が減る自分がなんだかとても可笑しかった。悲しくて、辛くて、自分が情けないけれど、それでも自分はいろんな人に支えられて生きている。仕事を教えてくれたザルヴァン、妄言と言われても仕方のない話を聞いても馬鹿にせず看病してくれたフィンデル、数多くの同僚や先輩、孤児院のマザーや子ども達、そして全ての原動力であるヴァルゼウス。恩に報いたい。大好きな人を一番近くで支えたい。だから、このまま腑抜けてはいられない。
「心の声が聞こえなくても、ヴァルゼウス様のために働く。元からそうだったんだから」
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