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初夜騒動2
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本来なら皇族の儀礼に則って、結婚式の晩に、初夜の儀式を済ますはずだった。
大聖堂での誓約と、初夜の儀式。
この二つが完遂して初めて、二人は仮初とはいえ夫婦となる。
だから、王宮で妃殿下と呼ばれているが、厳密には正しくない。
前世では賊が即座に取り押さえられ誰も怪我をしなかったので、その晩に初夜の儀を執り行ったが、今世では結婚式から2週間以上経っていた。
言わずもがな、シュメルヒの治療のためだ。
賊についても報告を受けた。
何でも、30数年前のレイテ領討伐で不祥事を起こした領主の子弟らしい。
領地を没収され、お家はお取り潰し……それを恨んでの独断強行、ということだった。
これも、前世と同じだ。
シュメルヒは一つの仮説を立てていた。
前世と同じ運命を辿っているのに、何故か異なる出来事が勃発する。
これは、シュメルヒ自身が前世と違う行動を取ったことが原因ではないのか。
つらつら考える内に、時間は過ぎ、日は陰り、夜になった。
晩餐会の出席は、シュメルヒの<食事同席問題>が解決しないため、これも目下保留となっている。
自室で食事をとることに慣れているシュメルヒにとっては、正直今の状況の方が有難い。
たくさんの給仕に囲まれて食事しながら社交話に花を咲かすなんて器用なこと、自分にできるか自信がない。
(皇族としては、情けない話だが)
また落ち込みそうになって、いかん、いかんと頭を振る。
「あ、せっかく綺麗に仕上がったのに、ほつれるからやめてください。シュメルヒ様」
「少し女性的すぎませんか?それに仰向けで寝るのに邪魔だと思うのですが」
「せっかくこんなに長くて綺麗なお髪なんですから、魅力をより引き立てないと。昼間なら簪や宝石を飾りたいところですが、夜ですから。せめてこれくらいは……どうです?」
手鏡を渡されて、ハビエルに結ってもらった箇所を見てみる。
耳後ろから後頭部にかけて、ゆるく編み込まれていた。
そこに細い糸に真珠を連ねた髪飾りが一緒に編み込まれて、朝露のようだ。
「お似合いですよ」
「……よく分かりません。それにヨアン様は男が長い髪をしているのは好かないかもしれません。ご自身も短い髪だし、そもそも私を嫌っていたら、飾ってもかえって気分を害されるかも……」
「相変わらず根暗ですねぇ。あんまり暗い顔してると、それこそ殿下を怖がらせちゃいますよ。ほら、笑顔、笑顔です」
言われるまま、少しだけ口角を上げてみる。頬の筋肉がピリピリと引き攣った。
ハビエルが瞬きする。
「ええと、悪くないです。 笑顔の練習は追々しましょうか。殿下も年頃の男の子なんですから、年上の魅力にはイチコロのはず」
無礼な発言ばかりな気がするが、<侍従>というのはこういうものなのか。
他人に世話されるのが初めてなので、比較対象がなかった。
――ヨアンが<イチコロ>になってくれるかは、正直そこまで問題ではない。
極端に嫌われなければ、それで十分だ。
それにもし前世の出来事が繰り返すとしたら、初夜の儀式でヨアンは、シュメルヒの髪型なんて気にしている余裕はなくなるだろう……。
◇
―夜半。
支度を終えて、夜着とは思えない豪奢な刺繍を施された裾の長い服を纏い、その上から毛皮の羽織を重ねる。
落ち着かない気分で待っていると、ついに部屋の扉が叩かれ、ハビエルが応対に出た。
告げられた名前に、少し驚く。
ここでも、前世と違うことが起きたのだ。
「ルオフェ侯爵夫人。わざわざ夫人が来てくださるとは」
「他人行儀は止して頂戴。貴方にはイルミナと呼んで欲しいわ。あたくし、友人にはそう呼ばせているのよ」
悪戯っぽく扇で口許を隠して笑うと、イルミナはそっと身体を脇に避けた。
参りましょう、ということだ。
療養中、イルミナは何度か見舞いのため部屋を訪れてくれていた。
ヨアンの無事はシュメルヒのおかげだと言って礼を述べ、心尽しの贈り物を毎回添えて、シュメルヒが疲れないよう短い時間で帰っていく。
前世でのこともあり、二人はごく自然に親しくなっていった。
イルミナは昼間ほどではないにしろ、夜会用のドレスを纏い、髪も結い上げている。
廊下を歩きながら、イルミナが気さくに話しかけてくれるのが懐かしくも嬉しい。
前世でもこんな風に、彼女はよそ者のシュメルヒに優しかった。
「緊張している?お顔の色が優れないようだけれど」
「……いえ」
「ヨアンのことを心配しているなら、大丈夫よ。あの子はよく癇癪を起こすけど、臆病な性格の裏返しね。今度のことも、貴方は自分の身を顧みずあの子を守ったから起きた事。ヨアンも理解しているはず」
「そうだと、いいのですが」
「さあ、着いたわ。中に入ったら後は作法の通りに。あたくしは部屋の隅に控えているけれど、何か言っておくことはあって?」
「ひとつだけ、イルミナさまにお願いしたいことがあるのですが」
「なにかしら」
便宜上聞いただけだったのだろう。
イルミナが怪訝な顔をした。
「皮袋を用意していただけませんか。無ければ、麻袋と水を」
「……なんですって?」
「お願いします。急に変なことを言い出したと思われるでしょうが、イルミナさまにしか頼めないのです」
少し低い位置にある彼女の黒い目をまっすぐ見つめる。
「私がこの王宮で信頼できるのは貴女だけです」
イルミナは目を見開き、滲むように笑顔になる。
「嬉しいわ。会ったばかりなのに、貴方にそう言ってもらえるなんて」
部屋の中はシュメルヒに与えられた妃の部屋よりさらに豪華だった。
大きな窓から月明かりが差し込み、燭台の明かりが天蓋付きの寝台を照らし出す。
薄暗いが、記憶が正しければ何度か入ったことがある部屋だ。
シュメルヒの部屋は若草色と白を基調にした爽やかな印象だ。
10代前半で嫁いでくるナーシャのために誂えたのだろう。シュメルヒはそこを間借りしているに過ぎない。
ヨアンの部屋は金と赤を基調に、壁と床は木目が美しい板張りで、どっしりとした封建的な雰囲気だった。
調度品はどれも大きく凝った造りで、まるで暗がりから、いかめしい影が迫ってくるように感じる。
広い寝台の端っこに、縮込まるようにして半身を起こしていたヨアンは、シュメルヒと目が合った途端、さっと顔を逸らした。
(ああ……やっぱり、嫌われている)
胸の奥が、ずんと重たくなった。
ヨアン個人に特別な感情はない。大事な妹の、未来の夫。
だからこそ、シュメルヒを通してナーシャにまで悪感情が飛び火してしまうのは避けたかった。
オスロでは側室を3人まで持つことができる。
側室の子であっても継承権は有効だ。
他国から嫁いだ妃にとって跡継ぎを産むことは、その国での立場を盤石にするために欠かせない。
この先の未来で、ナーシャが最も寵愛されるよう尽力する……シュメルヒはそのためにここにいる。
「では、見届け人の皆々さまは、これへ。……シュメルヒ様」
経典を手にした大司教は、大聖堂で会ったのと同じ人物だった。大陸正教会の所属を表す、紫と金の祭服をまとっている。
この場に使用人はいない。
親族の面々と、イルミナ。そしてヨアンの母であるエセル王妃、ラッカス宰相。
彼らは反対側の壁際に並んで立っている。薄暗いのと遠いのとで、それぞれの顔はよく見えない。
部屋は厳粛な静寂に満ちていて、誰も私語を発しない。
待っていると、すっと横に影が動いて、黒いベールをかぶった女性……たしか国王の従妹にあたるテュグレ伯爵夫人が横に付いた。
彼女は恭しくシュメルヒの手を取り、寝台へ――、ヨアンがいるのと反対側、窓に近い方へと促した。
シュメルヒの脱いだ毛皮の羽織を受け取ると、しずしずと部屋の奥に去っていく。
「……」
ヨアンは何も言わない。何か言う場面でもないが。
よほどシュメルヒに近づきたくないのだろう。
そのまま寝台から落ちそうな端っこで固まっているヨアンを刺激しないよう、ゆっくり羽布団をめくり、中に入った。
見守っていた大司教が「これによりふたりは夫婦となられました」と厳かに言うと、居並んでいた人々はその場で深くお辞儀をし、声なき言祝ぎを送った。
「……終わり?」
ぽつりと横から聞こえてきた声に、そっとヨアンを見る。
ヨアンは前を向いたまま、何を考えているか分からない表情を浮かべていた。
「そうですね。床入りが済みましたので、これで終わりです」
小声で返事をする。
同席していた人々は床入りを見届けたので、それぞれ帰る素振りを見せ始めている。
「じゃあ早く出てってよ」
「え?」
目をぱちくりさせると、ヨアンははじめて視線を向けた。
「僕の言うことが聞こえなかったのか? 出て行けって言ったんだ」
その目は恐怖をたたえている。暗くて分からなかったが、よく見れば目の下に薄っすら隈ができていた。
(もしや私との初夜が怖くて、今日まで眠れずに……?)
誰かがヨアンに床入りのことをちゃんと説明しただろうか。
ヨアンよりずっと年上のハビエルでさえ勘違いしていたくらいだ。
初夜の儀式と言っても、なにも本当に夫婦の営みをするわけではない。
ヨアンはまだ14歳だし、ましてシュメルヒは<毒持ち>だ。<番>にならない限り肌を合わせることなど到底できない。
そもそも、仮妃であるシュメルヒは、ヨアンとそのような関係になることは許されない身の上だ。
それに、シュメルヒにはヨアンと番えない根拠がもう一つある。
それは、イレニアでもごく限られた人間しか知らないシュメルヒの秘密だった。
(まさか誰も、これがただの形式的なものだとヨアン様に説明しなかったのか……?)
頭が痛くなってきた。
もしそうなら、目の前の少年はどれほど今日この日が来るのが恐ろしかったろうか……。
大聖堂で見た凄惨な死体を思い出して、そんな相手と同じ床に入る恐怖と戦っていたに違いない。
不眠になって当然だ。
「すみません、ヨアン様。朝を迎えるまでは、同じ寝台で眠らなくてはならない決まりなのです」
ヨアンがぎゅっと唇を結んだ。
横目に大司教を見てから、聞こえないように小声で付け足す。
「ですが、みんなが出て行ったら、私は長椅子で寝ても構いません。なので、どうか少しだけご辛抱を、っ!?」
羽枕が顔面を直撃した。
「誰がお前みたいなのと一晩も一緒にいるか! あっち行けよ!」
不幸にもヨアンにならってなるべく端っこにいたせいで、シュメルヒは簡単にバランスを崩して寝台から床に転がり落ちた。
大聖堂での誓約と、初夜の儀式。
この二つが完遂して初めて、二人は仮初とはいえ夫婦となる。
だから、王宮で妃殿下と呼ばれているが、厳密には正しくない。
前世では賊が即座に取り押さえられ誰も怪我をしなかったので、その晩に初夜の儀を執り行ったが、今世では結婚式から2週間以上経っていた。
言わずもがな、シュメルヒの治療のためだ。
賊についても報告を受けた。
何でも、30数年前のレイテ領討伐で不祥事を起こした領主の子弟らしい。
領地を没収され、お家はお取り潰し……それを恨んでの独断強行、ということだった。
これも、前世と同じだ。
シュメルヒは一つの仮説を立てていた。
前世と同じ運命を辿っているのに、何故か異なる出来事が勃発する。
これは、シュメルヒ自身が前世と違う行動を取ったことが原因ではないのか。
つらつら考える内に、時間は過ぎ、日は陰り、夜になった。
晩餐会の出席は、シュメルヒの<食事同席問題>が解決しないため、これも目下保留となっている。
自室で食事をとることに慣れているシュメルヒにとっては、正直今の状況の方が有難い。
たくさんの給仕に囲まれて食事しながら社交話に花を咲かすなんて器用なこと、自分にできるか自信がない。
(皇族としては、情けない話だが)
また落ち込みそうになって、いかん、いかんと頭を振る。
「あ、せっかく綺麗に仕上がったのに、ほつれるからやめてください。シュメルヒ様」
「少し女性的すぎませんか?それに仰向けで寝るのに邪魔だと思うのですが」
「せっかくこんなに長くて綺麗なお髪なんですから、魅力をより引き立てないと。昼間なら簪や宝石を飾りたいところですが、夜ですから。せめてこれくらいは……どうです?」
手鏡を渡されて、ハビエルに結ってもらった箇所を見てみる。
耳後ろから後頭部にかけて、ゆるく編み込まれていた。
そこに細い糸に真珠を連ねた髪飾りが一緒に編み込まれて、朝露のようだ。
「お似合いですよ」
「……よく分かりません。それにヨアン様は男が長い髪をしているのは好かないかもしれません。ご自身も短い髪だし、そもそも私を嫌っていたら、飾ってもかえって気分を害されるかも……」
「相変わらず根暗ですねぇ。あんまり暗い顔してると、それこそ殿下を怖がらせちゃいますよ。ほら、笑顔、笑顔です」
言われるまま、少しだけ口角を上げてみる。頬の筋肉がピリピリと引き攣った。
ハビエルが瞬きする。
「ええと、悪くないです。 笑顔の練習は追々しましょうか。殿下も年頃の男の子なんですから、年上の魅力にはイチコロのはず」
無礼な発言ばかりな気がするが、<侍従>というのはこういうものなのか。
他人に世話されるのが初めてなので、比較対象がなかった。
――ヨアンが<イチコロ>になってくれるかは、正直そこまで問題ではない。
極端に嫌われなければ、それで十分だ。
それにもし前世の出来事が繰り返すとしたら、初夜の儀式でヨアンは、シュメルヒの髪型なんて気にしている余裕はなくなるだろう……。
◇
―夜半。
支度を終えて、夜着とは思えない豪奢な刺繍を施された裾の長い服を纏い、その上から毛皮の羽織を重ねる。
落ち着かない気分で待っていると、ついに部屋の扉が叩かれ、ハビエルが応対に出た。
告げられた名前に、少し驚く。
ここでも、前世と違うことが起きたのだ。
「ルオフェ侯爵夫人。わざわざ夫人が来てくださるとは」
「他人行儀は止して頂戴。貴方にはイルミナと呼んで欲しいわ。あたくし、友人にはそう呼ばせているのよ」
悪戯っぽく扇で口許を隠して笑うと、イルミナはそっと身体を脇に避けた。
参りましょう、ということだ。
療養中、イルミナは何度か見舞いのため部屋を訪れてくれていた。
ヨアンの無事はシュメルヒのおかげだと言って礼を述べ、心尽しの贈り物を毎回添えて、シュメルヒが疲れないよう短い時間で帰っていく。
前世でのこともあり、二人はごく自然に親しくなっていった。
イルミナは昼間ほどではないにしろ、夜会用のドレスを纏い、髪も結い上げている。
廊下を歩きながら、イルミナが気さくに話しかけてくれるのが懐かしくも嬉しい。
前世でもこんな風に、彼女はよそ者のシュメルヒに優しかった。
「緊張している?お顔の色が優れないようだけれど」
「……いえ」
「ヨアンのことを心配しているなら、大丈夫よ。あの子はよく癇癪を起こすけど、臆病な性格の裏返しね。今度のことも、貴方は自分の身を顧みずあの子を守ったから起きた事。ヨアンも理解しているはず」
「そうだと、いいのですが」
「さあ、着いたわ。中に入ったら後は作法の通りに。あたくしは部屋の隅に控えているけれど、何か言っておくことはあって?」
「ひとつだけ、イルミナさまにお願いしたいことがあるのですが」
「なにかしら」
便宜上聞いただけだったのだろう。
イルミナが怪訝な顔をした。
「皮袋を用意していただけませんか。無ければ、麻袋と水を」
「……なんですって?」
「お願いします。急に変なことを言い出したと思われるでしょうが、イルミナさまにしか頼めないのです」
少し低い位置にある彼女の黒い目をまっすぐ見つめる。
「私がこの王宮で信頼できるのは貴女だけです」
イルミナは目を見開き、滲むように笑顔になる。
「嬉しいわ。会ったばかりなのに、貴方にそう言ってもらえるなんて」
部屋の中はシュメルヒに与えられた妃の部屋よりさらに豪華だった。
大きな窓から月明かりが差し込み、燭台の明かりが天蓋付きの寝台を照らし出す。
薄暗いが、記憶が正しければ何度か入ったことがある部屋だ。
シュメルヒの部屋は若草色と白を基調にした爽やかな印象だ。
10代前半で嫁いでくるナーシャのために誂えたのだろう。シュメルヒはそこを間借りしているに過ぎない。
ヨアンの部屋は金と赤を基調に、壁と床は木目が美しい板張りで、どっしりとした封建的な雰囲気だった。
調度品はどれも大きく凝った造りで、まるで暗がりから、いかめしい影が迫ってくるように感じる。
広い寝台の端っこに、縮込まるようにして半身を起こしていたヨアンは、シュメルヒと目が合った途端、さっと顔を逸らした。
(ああ……やっぱり、嫌われている)
胸の奥が、ずんと重たくなった。
ヨアン個人に特別な感情はない。大事な妹の、未来の夫。
だからこそ、シュメルヒを通してナーシャにまで悪感情が飛び火してしまうのは避けたかった。
オスロでは側室を3人まで持つことができる。
側室の子であっても継承権は有効だ。
他国から嫁いだ妃にとって跡継ぎを産むことは、その国での立場を盤石にするために欠かせない。
この先の未来で、ナーシャが最も寵愛されるよう尽力する……シュメルヒはそのためにここにいる。
「では、見届け人の皆々さまは、これへ。……シュメルヒ様」
経典を手にした大司教は、大聖堂で会ったのと同じ人物だった。大陸正教会の所属を表す、紫と金の祭服をまとっている。
この場に使用人はいない。
親族の面々と、イルミナ。そしてヨアンの母であるエセル王妃、ラッカス宰相。
彼らは反対側の壁際に並んで立っている。薄暗いのと遠いのとで、それぞれの顔はよく見えない。
部屋は厳粛な静寂に満ちていて、誰も私語を発しない。
待っていると、すっと横に影が動いて、黒いベールをかぶった女性……たしか国王の従妹にあたるテュグレ伯爵夫人が横に付いた。
彼女は恭しくシュメルヒの手を取り、寝台へ――、ヨアンがいるのと反対側、窓に近い方へと促した。
シュメルヒの脱いだ毛皮の羽織を受け取ると、しずしずと部屋の奥に去っていく。
「……」
ヨアンは何も言わない。何か言う場面でもないが。
よほどシュメルヒに近づきたくないのだろう。
そのまま寝台から落ちそうな端っこで固まっているヨアンを刺激しないよう、ゆっくり羽布団をめくり、中に入った。
見守っていた大司教が「これによりふたりは夫婦となられました」と厳かに言うと、居並んでいた人々はその場で深くお辞儀をし、声なき言祝ぎを送った。
「……終わり?」
ぽつりと横から聞こえてきた声に、そっとヨアンを見る。
ヨアンは前を向いたまま、何を考えているか分からない表情を浮かべていた。
「そうですね。床入りが済みましたので、これで終わりです」
小声で返事をする。
同席していた人々は床入りを見届けたので、それぞれ帰る素振りを見せ始めている。
「じゃあ早く出てってよ」
「え?」
目をぱちくりさせると、ヨアンははじめて視線を向けた。
「僕の言うことが聞こえなかったのか? 出て行けって言ったんだ」
その目は恐怖をたたえている。暗くて分からなかったが、よく見れば目の下に薄っすら隈ができていた。
(もしや私との初夜が怖くて、今日まで眠れずに……?)
誰かがヨアンに床入りのことをちゃんと説明しただろうか。
ヨアンよりずっと年上のハビエルでさえ勘違いしていたくらいだ。
初夜の儀式と言っても、なにも本当に夫婦の営みをするわけではない。
ヨアンはまだ14歳だし、ましてシュメルヒは<毒持ち>だ。<番>にならない限り肌を合わせることなど到底できない。
そもそも、仮妃であるシュメルヒは、ヨアンとそのような関係になることは許されない身の上だ。
それに、シュメルヒにはヨアンと番えない根拠がもう一つある。
それは、イレニアでもごく限られた人間しか知らないシュメルヒの秘密だった。
(まさか誰も、これがただの形式的なものだとヨアン様に説明しなかったのか……?)
頭が痛くなってきた。
もしそうなら、目の前の少年はどれほど今日この日が来るのが恐ろしかったろうか……。
大聖堂で見た凄惨な死体を思い出して、そんな相手と同じ床に入る恐怖と戦っていたに違いない。
不眠になって当然だ。
「すみません、ヨアン様。朝を迎えるまでは、同じ寝台で眠らなくてはならない決まりなのです」
ヨアンがぎゅっと唇を結んだ。
横目に大司教を見てから、聞こえないように小声で付け足す。
「ですが、みんなが出て行ったら、私は長椅子で寝ても構いません。なので、どうか少しだけご辛抱を、っ!?」
羽枕が顔面を直撃した。
「誰がお前みたいなのと一晩も一緒にいるか! あっち行けよ!」
不幸にもヨアンにならってなるべく端っこにいたせいで、シュメルヒは簡単にバランスを崩して寝台から床に転がり落ちた。
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