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第4章:想いが届かない
第19話「柊の決意」【柊サイド】
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文化祭の熱が冷めきる前に、柊は放送室に戻ってきていた。
片付けも一段落して、校舎内にはもう誰もいない。体育館からは、遅くまで残っていた軽音部の演奏の余韻が、時折かすかに聞こえてくる。
部屋の照明もつけず、モニターの光だけで作業を始める。
今の自分には、明々と照らす光は、まぶしすぎる。静かに窓からこぼれる月の光でいい。
録音ソフトを開き、今夜の配信のファイルを確認する。
――最後の配信。
柊はそのつもりで、あれを録った。
だけど、送信ボタンを押した瞬間、心にぽっかりとした空白が生まれたのを、今でもはっきり覚えている。
(終わったんだ)
配信者としての「ひぃ」は、もういない。
名前も、声も、存在すらも――千歳のために消した。
そう思えば、聞こえはいい。なんとなく美談みたいになるのかもしれない。
でも本当はただ、怖かった。
(これ以上、あいつに期待されたら……)
柊は椅子の背もたれに深く沈み込み、頭を抱えた。
(……俺は、“ひぃ”のままでしか、誰かに優しくなれない)
“柊”として千歳と向き合うのは、あまりにも難しすぎる。
無愛想で、不器用で、すぐ黙る自分が、千歳の笑顔を壊してしまう気がするから。
(俺なんかが、あいつに優しくしたって……)
コンプレックスだった。
ずっと、声のことで周囲にからかわれていた。
低くて落ち着いていて、大人っぽいと言われることもあったけれど、それは表面的な褒め言葉で、実際には「何考えてるかわからない」「気味が悪い」と言われてきた。
(だから、誰にも名前も顔も知られないところで……“ひぃ”を始めたんだ)
優しい声を作って、癒しの言葉を届けて、誰かの「好き」を集めるのは、簡単だった。
本当の自分じゃないから。
だけど千歳だけは――“ひぃ”としての自分に、心の奥まで触れてきた。
その眼差しを想像して、声を聴くときの表情を想像して、柊は震えた。
(もう、これ以上、あいつを騙せない)
柊は配信サイトの管理画面を開き、「アカウント削除」のページまで進めた。
マウスのカーソルが、無言で揺れる。
“ひぃ”のフォロワー数は、もうすぐ一万人に届くところだった。
たくさんのコメント、メッセージ、応援が届いていた。
その中に、千歳の言葉も混ざっていた。
《あなたの声に救われました》
《どうしてそんなに優しいの?》
《いつか、会いたいです》
柊は、ディスプレイに目を伏せた。
それらの千歳からもらった言葉は宝物だ。
でも、もらったのは、俺じゃない。ひぃだ。
だけど、千歳の言葉は、どれも、柊への、ラブレターのように錯覚されて……たまらない。
ひぃなんて、やらなきゃよかった。柊が、こんなにつらくなるなら。そんなことすら思ってしまう。
ひぃをやってなきゃ、素のままの千歳の心との接点なんて、なかったのに。
(あいつ、いつも自分を作ってるからな。演技してないときも、ずっと)
千歳からもらったコメントが、本当に、全て千歳からのラブレターだったらいいのに。
でも、違う。これは、架空の、ひぃというキャラクターへ送られた言葉。
柊の、これまでのすべての配信は、千歳へのラブレターだった、と言っても過言ではないのに。
千歳が配信に、気づいてくれたとき、嬉しかった。配信なんて、全世界の誰が聴いてくれるかわからない。大海に投げた小瓶みたいなものなのに。まさか、千歳が、本当に、気づいて、聴いて、熱心なリスナーになってくれるなんて。
そこまでは上々だった。奇跡みたいに。きらきらして、ドキドキした。秘密にわくわくした。運命かも、なんて思ったこともあった。
顔も名前も伏せたまま、ただ声だけで伝えていた。
声だけなのに、それでも、千歳は、その伝えたかったすべてを受け止めてくれた。
(でも……本当の俺は、“ひぃ”みたいに優しくない)
ため息をついて、マウスから手を離す。
削除ボタンは押せなかった。
椅子から立ち上がり、カーテンの隙間から外を見た。
夜の校舎は、静かで、やけに広く感じた。
明かりの消えた廊下、無人の教室、誰もいない中庭。
だけど、自分の胸の中は、騒がしかった。
(千歳……今、泣いてないといいけど)
願うように呟いて、手元のノートをそっと開いた。
そこには、「千歳へ」と書かれた、配信下書きのメモがあった。
削除できなかった理由は、たぶん――それだ。千歳のことが、心配――。
(あいつにだけは、本当の声で、ちゃんと……伝えたい)
声に出すにはまだ勇気がいる。
だけど、その夜、柊はようやく、心の奥底に閉じ込めていた決意に触れた。
(逃げるのは、もう……終わりにしないと)
部室を出るとき、録音機材にカバーをかけ、そっと電源を落とした。
長く続けてきた、夜のもうひとつの顔。
“ひぃ”としての声は、今日を最後に――柊の中だけにしまわれる。
けれどそれは、すべてを終わらせるためじゃなかった。
本当の声で、千歳に届く日を信じるために。
片付けも一段落して、校舎内にはもう誰もいない。体育館からは、遅くまで残っていた軽音部の演奏の余韻が、時折かすかに聞こえてくる。
部屋の照明もつけず、モニターの光だけで作業を始める。
今の自分には、明々と照らす光は、まぶしすぎる。静かに窓からこぼれる月の光でいい。
録音ソフトを開き、今夜の配信のファイルを確認する。
――最後の配信。
柊はそのつもりで、あれを録った。
だけど、送信ボタンを押した瞬間、心にぽっかりとした空白が生まれたのを、今でもはっきり覚えている。
(終わったんだ)
配信者としての「ひぃ」は、もういない。
名前も、声も、存在すらも――千歳のために消した。
そう思えば、聞こえはいい。なんとなく美談みたいになるのかもしれない。
でも本当はただ、怖かった。
(これ以上、あいつに期待されたら……)
柊は椅子の背もたれに深く沈み込み、頭を抱えた。
(……俺は、“ひぃ”のままでしか、誰かに優しくなれない)
“柊”として千歳と向き合うのは、あまりにも難しすぎる。
無愛想で、不器用で、すぐ黙る自分が、千歳の笑顔を壊してしまう気がするから。
(俺なんかが、あいつに優しくしたって……)
コンプレックスだった。
ずっと、声のことで周囲にからかわれていた。
低くて落ち着いていて、大人っぽいと言われることもあったけれど、それは表面的な褒め言葉で、実際には「何考えてるかわからない」「気味が悪い」と言われてきた。
(だから、誰にも名前も顔も知られないところで……“ひぃ”を始めたんだ)
優しい声を作って、癒しの言葉を届けて、誰かの「好き」を集めるのは、簡単だった。
本当の自分じゃないから。
だけど千歳だけは――“ひぃ”としての自分に、心の奥まで触れてきた。
その眼差しを想像して、声を聴くときの表情を想像して、柊は震えた。
(もう、これ以上、あいつを騙せない)
柊は配信サイトの管理画面を開き、「アカウント削除」のページまで進めた。
マウスのカーソルが、無言で揺れる。
“ひぃ”のフォロワー数は、もうすぐ一万人に届くところだった。
たくさんのコメント、メッセージ、応援が届いていた。
その中に、千歳の言葉も混ざっていた。
《あなたの声に救われました》
《どうしてそんなに優しいの?》
《いつか、会いたいです》
柊は、ディスプレイに目を伏せた。
それらの千歳からもらった言葉は宝物だ。
でも、もらったのは、俺じゃない。ひぃだ。
だけど、千歳の言葉は、どれも、柊への、ラブレターのように錯覚されて……たまらない。
ひぃなんて、やらなきゃよかった。柊が、こんなにつらくなるなら。そんなことすら思ってしまう。
ひぃをやってなきゃ、素のままの千歳の心との接点なんて、なかったのに。
(あいつ、いつも自分を作ってるからな。演技してないときも、ずっと)
千歳からもらったコメントが、本当に、全て千歳からのラブレターだったらいいのに。
でも、違う。これは、架空の、ひぃというキャラクターへ送られた言葉。
柊の、これまでのすべての配信は、千歳へのラブレターだった、と言っても過言ではないのに。
千歳が配信に、気づいてくれたとき、嬉しかった。配信なんて、全世界の誰が聴いてくれるかわからない。大海に投げた小瓶みたいなものなのに。まさか、千歳が、本当に、気づいて、聴いて、熱心なリスナーになってくれるなんて。
そこまでは上々だった。奇跡みたいに。きらきらして、ドキドキした。秘密にわくわくした。運命かも、なんて思ったこともあった。
顔も名前も伏せたまま、ただ声だけで伝えていた。
声だけなのに、それでも、千歳は、その伝えたかったすべてを受け止めてくれた。
(でも……本当の俺は、“ひぃ”みたいに優しくない)
ため息をついて、マウスから手を離す。
削除ボタンは押せなかった。
椅子から立ち上がり、カーテンの隙間から外を見た。
夜の校舎は、静かで、やけに広く感じた。
明かりの消えた廊下、無人の教室、誰もいない中庭。
だけど、自分の胸の中は、騒がしかった。
(千歳……今、泣いてないといいけど)
願うように呟いて、手元のノートをそっと開いた。
そこには、「千歳へ」と書かれた、配信下書きのメモがあった。
削除できなかった理由は、たぶん――それだ。千歳のことが、心配――。
(あいつにだけは、本当の声で、ちゃんと……伝えたい)
声に出すにはまだ勇気がいる。
だけど、その夜、柊はようやく、心の奥底に閉じ込めていた決意に触れた。
(逃げるのは、もう……終わりにしないと)
部室を出るとき、録音機材にカバーをかけ、そっと電源を落とした。
長く続けてきた、夜のもうひとつの顔。
“ひぃ”としての声は、今日を最後に――柊の中だけにしまわれる。
けれどそれは、すべてを終わらせるためじゃなかった。
本当の声で、千歳に届く日を信じるために。
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