【完結】護衛騎士の忠誠は皇子への揺るぎない溺愛

卯藤ローレン

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13. おはようからおやすみまで

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 朝食を食べ終えると、意外にも忙しい第四皇子の一日が始まる。

 ドレスシャツの上に金糸のケープガウンを羽織ったシェルエンは、午前中は主に一階の書斎でその大半を過ごす。
 碧い騎士服を纏ったブラッドリーは扉近くで待機だ。
 窓際にあるローズウッドの机の横では、家令のジャックバートが業務の手伝いをしている。

 小ファーセスの管理、つまりは領地管理は細かな仕事の山積みだ。

 領主の最たる責務は街の治安維持である。
 犯罪が起きないように秩序が乱れないように、統制する必要がある。
 揉め事は発生しないのが一番いいのだが、ひとりひとり違う人間が暮らす社会ではそれは儚い望みだ。
 重犯罪に発展する前に、その灯火の元を断ち切る必要がある。

 住民から寄せられた意見書がジャックバートによって読まれていくのを、真剣に聴くシェルエン。
 場合によっては皇都の治安維持を任されている第三騎士団へ相談依頼を投げる必要があるため、直筆で文を認めている。

 さらに、税の徴収やそこから判断できる貧富差の程度を細かく精査し対策を練り、道の整備を行い、流行している病の有無も調査する。
 教会や治療院、街の外れにある孤児院などの公共施設の運営状況も確認し、必要なものがあれば手配も行う。

 それが終わると今度は文書作成だ。
 皇族の主な仕事のひとつに、外交活動や慈善事業、公式行事などへの出席が挙げられる。
 しかし第四皇子が参加する行事は、数えられる程度に限定されている。
 そしてそのどれもが皇城で行われるものだ。

 それは奇病のため、そして足の古傷のため。
 管理が徹底できない場所には出席しない。
 しかし公には事情を明かしていないため、友好国や国内の様々な団体から式典出席の招待状が届いてしまう。
 一切表に出ないミステリアスな皇子ならば忘れ去られるのだろうが、シェルエンは時折その姿を人々の前に現す。

 美貌の皇族が公式の場に出席すれば、話題を掻っ攫うのは論を俟たない。
 間近でその姿が見られる機会があるのは皇城で行われる催しだけなので、『他国からの賓客や高位貴族のみが出会える妖精』と称えられているらしい。
 騎士団員として数年を皇城内の寮で過ごしたにも関わらず、ブラッドリーでさえも第四皇子のことは噂に聞くばかりだった。

「さて、お腹が空きましたね」

 時刻は十二時頃だ。
 邸にある大時計が短針長針ともに天辺を差す前に、シェルエンの腹時計が鳴る。

「ブラッドリー、あなたも一緒に食べてください」
「承知しました、横暴皇子」

 廊下を歩きながら交わされるやり取りの、というよりも、護衛騎士が吐き出した耳を疑う発言に仰天して動きを止めたのはモブ使用人たちだ。
 この十日間で慣れてしまった家令やフットマン、メイドは下を向きながら笑いを堪えている。

「殿下、この後のご予定はどうされますか?」

 ベーコンとチーズだけのシンプルなキッシュを切りながら、ブラッドリーが尋ねる。
 夕方に紅茶と軽食を楽しむ文化のあるファンデミアでは、昼食に重いものは食べない。
 サラダと具沢山のスープで済ませることも多い。

「本を読もうと思います」
「本ですか。哲学書か、それとも歴史書ですか? 古典文学?」

 貴族や皇族が読書に精を出すのは、道徳的観念を身に付けたり知識の深化を達成したりするためである。
 教養として必須であり、社交場では今話題の文学を嗜んでいるかどうかで流行に敏感な人物であるかが判断される。
 流行りに乗れない者は即ち情報弱者という、不名誉な紙札を貼られることとなる。
 それは時に社会的信頼を失う危機にも繋がるため、貴族たちは皆、社交の合間を縫って読書に勤しんでいる。

 シェルエンも公に姿を現さないだけで、そういった流行には鋭くいるのだなと感心したブラッドリー。
 しかしその敬意は、向けられた本人によって見事に打ち砕かれた。

「いいえ、恋愛小説です」
「……なんと仰いましたか?」
「恋愛小説です。今、街中の女性の間で特に人気のようで、ジュディスに買ってきてもらいました」

 皇都の識字率は高い。
 数十年前から皇国全体で、教育機関の充実を図る試みを推し進めた成果だ。
 またそれと共に、活版印刷の技術がここ十年で飛躍的に発展したのも後押しとなり、人口の八割超が文字を読めるようになったという調査報告が出ている。
 そして、特に皇都では男女平等の波が途切れることなく押し寄せ、平民の女性であっても文字の読み書きに困難はない。
 若い世代であればあるほど、教育は行き届いている。

 だからこそ本を読むことは貴賤関係なく、人々の楽しみとなっている。

「殿下が、恋愛小説を読むんですか?」

 読書に貧富の差はないが、読まれる書物は男女間で線引きがある。
 男性は哲学書や歴史書、探検記などを手に取り、女性はレシピ本や恋愛小説を多く手に取る。
 基本的に男性は恋愛小説を読まない。
 陰でこっそりと熟読している者を除いて。

 だからシェルエンのように、人前でこんなにも堂々と宣言する者は珍しい。
 所属が皇族ということも加われば、もはや最上級の超希少生物である。

「ええ、読みます。恋愛の詩集も読みますし、小説にも目を通します。恋愛をしたことがないので、恋人同士の微妙で絶妙なニュアンスについては理解し難いんですが、美しい言葉の羅列が多いので好きなんです」
「内容よりも、言葉の響き重視ですか?」
「それも間違ってはいません。もちろん、内容にも感銘を受ける時はありますよ。読み終わった後で、彼らと意見交換をすることもありますから」

 彼ら、と言われた先にいるのは使用人ズだ。
 その首は、当然だとでも言いたげに上下に振られている。

「皆さんも読んでるんですか?」
「左様にございます」
「え、ジャックバートさんも?」
「妻が好きなので、私も自然と読むようになりました。男性同士の会話では知りえない、女性ならではの心理描写がとても勉強になるのでございます」
「勉強……」
「妻に飽きられて捨てられないように、日々勉強でございます」

 モノクルの奥に鎮座する初老男性の力強い眼差しは、愛妻家の色に染まっていた。




「知っていました。恋を患えば最後、私もこの宇宙の屍になることを。あの星々は数多の想いが輝きを削がれて、天に召された証拠。今日からはそれを同志と名付け、恋に焦がれてこの身を燃やしましょう」

 夜、緑のドレープカーテンの隙間から散らばる星灯りに照らされながら、麗人は本を音読している。
 その僅かに低い声音が吐息を伴った囁きを発すると、耳の奥をくすぐる色気に変わるな、とブラッドリーは呆れながら思った。

 彼がなぜ呆れているのか。

 それは、赤面したくなるような満遍なく甘い言葉のオンパレードを、半刻ほど前から延々とこの部屋の主人が読み上げているからである。

 午後に読書を開始したシェルエンは興が乗ったらしく、アフタヌーンティーと夕食を終えても一冊の本を放さなかった。
 それは半分が詩で作られた恋愛物語だった。
 家がライバル同士の、決して叶わぬ恋の話らしい。
 ここの感情表現が、この描写が、主人公の苦悩が、と力説されたけれど、武人であるブラッドリーにその辺りの機微はない。
 返した反応はいまひとつだった。

 そのことを不服に思った皇子から懇切丁寧な物語のレクチャーが始まり、ありがたい音読会までもが開かれることとなった。
 場所は皇子の寝室。
 参加者は護衛騎士ただひとりである。

 風呂に入ってリボンで髪を緩く結んだシェルエンは、ベッドに寝転がりながら貴重な声を響かせている。
 それを、メダリオン柄のカーペットの上で筋トレをする片手間で聞くブラッドリーだ。

「聞いていますか? ブラッドリー」
「聞こえています」
「それは聞いていると同義ではありません。頭の中に入ってこなければ、ただ聞き流しているだけです」
「殿下、俺に恋だの愛だのは分かりません。武骨な男には詩の繊細さも理解できませんし」
「……私が今日一日かけて説いた恋愛の濃淡の、もしかしてその一端さえ味わっていないと?」
「いません。なのでもう諦めて寝てください」

 夜は更けた。
 明日は日曜日で、朝から教会の礼拝に出向く予定だ。
 それでなくとも寝起きにやや難ありの皇子なので、早く就寝してしまった方がいい。

「もうそんな時間ですか? やはり極上の恋愛小説は時間を忘れさせてくれますね」
「浴室まで本を持って行って、デーヨさんに即没収されていましたもんね」

 使用人に全てを任せる貴族も多いが、シェルエンは自分の身体は自分で洗う派だ。
 聞けば、あの皇帝陛下もそうであると言う。
 風呂から出てもなお文字を追うことをやめない皇子に、フットマンは苦笑いを零していた。

「これは、明日また読みましょう」

 夜を飛び越えて地獄の延長が決まったことに、ブラッドリーは頭を抱えた。
 目を閉じて沈黙していると、シェルエンから声がかかる。

「ブラッドリー、今夜もそこで寝るつもりですか?」
「はい、そのつもりです」
「身体が痛くはなりませんか?」
「まぁ、多少は。密度の高いカーペットなので、そこまで身体への負担はありません」

 ブラッドリーは初日から、シェルエンの寝室の床で寝起きしている。
 野外の硬い地面に比べれば敷物があるだけ段違いで寝やすいので、苦痛は感じていない。

「こっちで一緒に眠りませんか?」
「お断りします」

 この攻防は、実は初日から毎日繰り広げられている。

 護衛のしやすさを優先して主人の寝室に寝泊まりすることを選択したブラッドリーに、シェルエンはベッドを半分明け渡すと提案した。
 それは即却下された。
 皇族と同じベッドに入るなど恐れ多すぎて出来ない、と鉄壁の断りを見せる護衛騎士を、麗しの人は毎晩諦めずに説得している。
 それでは身体を壊すから、ベッドは大きいから大丈夫だ、言うことを聞きなさい、と諭してみても、ブラッドリーは頑として首を縦に振らなかった。

「分かりました。では、ひとつ賭けをしましょう」
「賭け、ですか?」
「ええ。私が勝ったら、これから夜は一緒に眠る。私が負けたら、今夜限りでこの交渉は最後にすると約束しましょう」

 ブラッドリーは束の間考えを巡らせて、肯定の返事をした。
 どこまで行っても平行線な受け答えを終わらせられるのであれば、そちらの方が煩わしくないと判断したからだ。
 シェルエンと実質的な共寝をするつもりはない。
 ここで勝負に勝って、堂々巡りに終止符を打ちたかった。

「こちらへ」

 誘われるままにベッドへと上がる。
 白い寝間着に身を包む皇子と、騎士服の上着を脱いだだけの護衛が相対する。

「どうやって賭けを?」
「そうですね……あぁ、こうしましょう」

 そう言うなりシェルエンは、髪を結んでいた紫のリボンを解いた。
 両腕を背中側へと持って行き、もぞもぞと動かす。
 しばらくして、握り拳を作った両手がブラッドリーの前に差し出された。

「リボンはどちらの手に入っているでしょうか?」

 指のつけ根の関節が白く浮き出た手。
 ぎゅっと握られている。

「触って、間近で観察してもいいですか?」
「ええ、お好きにどうぞ」

 シェルエンの手首をそっと掴んで、あらゆる方向から眺める。
 指の隙間に目を凝らしてみたけれど、リボンは意外にもしっかりと収まっているようで綻びは見えない。
 まじまじと見つめて、長い間、それでも見当はつかなかった。

「答が出ましたか?」

 分からない。
 けれど所詮は二択だ。

「こっちです。右側」

 勘で指差した手の平がゆっくりと開かれていく。
 全容が現れたそこには、紫色は乗っていなかった。

「まさか……」
「外れです。こっちでした」

 開かれた左手、そこにリボンは小さくなって収まっていた。

「あなたの負けですね。さぁ、今夜から一緒に寝ますよ」
「いえ、殿下。やっぱり同じ寝具を使うのは俺の身分不相応で――」
「男に二言はない。そうでしょう、ブラッドリー・ジェスフォード?」
「ぐ……っ」

 美貌に凄まれて、拒否の言葉を飲み込むしかなかった。
 騎士としての己が、後退りする己の肩を強く掴んで逃がさなかったというのもある。
 約束は約束だ。

「承知しました。殿下を潰してしまわないように気をつけます」
「ふふふ、そうしてください。とは言っても、私も意外と背は大きい方なので心配は無用だと思いますが」
「知らないだけです。この筋肉を侮ってはいけません。騎士団仕込みは凶悪です」
「私程度なら抱き潰してしまえます?」

 ブラッドリーは眼を瞠った。
 それはベッドの上で聞くには少々過激だったからだ。

「殿下、もしかしてその言葉の意味を間違えて憶えていらっしゃる気がしますので、今後一切使用禁止です。お調べになるのも推奨しません」
「そうですか? こう、抱き締めたまま潰せるのではと思ったんですが」
「潰せます。潰せますので、その疑問は宇宙の彼方に飛ばしてください。さぁ、もう眠らなくては」

 枕元にある灯りを消す。
 部屋に散らばっている他の灯りは、皇子が寝てから消すことにする。

 白いシーツの上に寝転がる。
 毛織の掛け布団を薄い肩まで引き上げると、銀白の人はブラッドリーと向かい合う体勢で目を閉じた。

 朝と同じだ。
 紫シルバーの髪が一房、その頬に落ちている。
 それを指先で払い、そっと後ろへと流した。
 最高級の絹糸のような手触りが心地よくて、指を動かすのが止められない。

 無意識だった。

 閉じていたシェルエンの瞼がおもむろに開いて、目が合う。
 そこで自分の行動のまずさに気がついた。

「申し訳ありません。マナー違反でした」

 慌てて指を離す。
 それを咎める皇子ではなかった。

「おやすみなさい、ブラッドリー」
「おやすみなさい、殿下。素敵な夢見となりますように」
「ええ、あなたも」

 睫毛を震わせて、その人は眠りの旅に出る。
 一定のリズムを刻むその健やかな様子を、護衛騎士はしばらく見つめていた。

 指先に残る感触に、爪の先を痺れさせながら。




 ベッドの淵に、花が落ちた。
 それは透明なような、角度を変えると乳白色のような、不思議な色合いだった。
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