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一章
05. 敬語と女子学生
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「先生、おはようございます」
「おはようございます」
月落渉が鳴成秋史のTA兼秘書となって早3週間、大学での生活にも慣れてきた10月中旬である。
いつものように研究室のドアを開けると、いつものように窓際のスモークチェアに脚を組んで座る佳人の姿が、月落の目に一目散に飛びこんでくる。
ベージュのグレンチェックに光沢のあるオーロラブルーのネクタイを締めたその人は、朝の陽射し降り注ぐ中でゆったりとハードカバーの本を読んでいた。
中央の六人掛けのテーブルに鞄を置いて月落が近づくと、反対側に置かれているスモークチェアを勧められる。
鳴成が読んでいるのは、ジャック・リーチャーシリーズの最新作のようだ。
「推理小説がお好きですか」
「正直、何でも好きです。私は文芸翻訳家なので、小説に関しては結構雑食だと自覚していまして。ミステリー、ファンタジー、ノンフィクションから図鑑や絵本まで、何でも読みます」
ほら、と鳴成が手の平で指し示す先には部屋の両サイドを占める大きな本棚。
そこにはみっちりと多種多様な言語で色とりどりの背表紙が並んでいる。
「翻訳は主に日本語から英語ですか?」
「そうです。時々、英独も行いますが」
「先生はドイツ語話者でもあるんですね」
「ええ。12歳でインターナショナルに編入したんですが、そこがドイツ語を第二外国語として教えていたので、自然と喋れるようになりました」
「フランス語の本もありますが、フランス語もネイティブですか?」
「フランス語はまあまあ、ですね。大学でフランス出身の友人が多数できたので、日常会話なら問題なく話せる程度です。きみは英語をどうやって習得したんですか?」
「実家が商売をやっている話はしましたよね?事業をするにあたって英語だけは何が何でもネイティブレベルで喋れるようになれ、と幼少期から英才教育を施されました。英語以外使用禁止の日もあって、不自由さに泣きながら憶えました」
肩幅の広い青年がその身を縮こまらせてわんわんと鳴き真似をする様は、見ていて中々に面白い。
「なるほど、それはとても良い学習環境ですね。英語以外に習得している言語はありますか?」
「中国の普通話は日常会話なら。あとは、母が韓流ブームの真っただ中で息継ぎなしの遊泳をしたおかげで家ではずっと韓国ドラマが映っていたので、韓国語は不自由なく会話できると思います」
「息継ぎなしの遊泳?何だか耐久レースみたいですね」
「子供の頃は、リビングでドラマを観ている母が画面の停止ボタンを押してるのを見たことがありませんでした」
「あはは、それも立派な英才教育ですね」
誇張も含まれていると分かるその口調に、笑うヘーゼルの髪がきらきらと光る。
やわらかく、ふわふわで、あたたかそう。
月落がじっと見つめていると、本をテーブルに置いた鳴成は両手を広げてしなやかに伸びをした。
「そろそろ準備しましょうか」
「はい。あ、ところで先生」
「何でしょうか」
「いつになったら僕ともう少し砕けた口調で喋ってくださいますか?全然直す気ないですよね?」
「えーっと、それは、つまりその……」
空中を彷徨う視線の先を捕まえるように目を合わせると、髪色と同じヘーゼルの瞳はなおも揺れた。
可愛い。
10歳年上の同性相手に持つ感想ではないのだろうが、動揺している姿に胸の高鳴りを感じて、今度は月落自身が困る。
一段飛ばしでドツボに嵌りそうな予感がして、困る。
「えーと、ゆっくり緩やかでいい、と確かきみが言ったんだと記憶しているのですが」
「言いましたね。でも、もう3週間経ちましたし、そろそろステップアップしても良い頃合いじゃないかと。基礎αは卒業して、基礎βに移行しませんか?」
「……考えておきます」
「考えておくね」
「ん?」
「考えて、おくね?」
まずは語尾から直せと言っているようだ。
自分より背が高い癖に妙に上目遣いの上手な年下の男に絆されて、鳴成はぱちりとひとつ瞬きをしてから口を開いた。
「考えて……おく、ね?」
ぎこちなさ満載だったが一応満足したらしい月落は、うんうんと頷きながら姿勢を正した。
「行きましょう、先生」
余韻を引きずらずに中央のテーブルへと歩いて行く背中を見送ると、鳴成は自分の頬を照らす太陽を見上げて眩しそうに目を細めた。
―――――――――――――――
金曜1限、鳴成が必修英語を教える教室は広い。
教壇を中心に半円を描く形で生徒の座席が9列連なる中規模教室は、実を言うと語学の授業には適していない。
筆記が中心の受験英語では、教員が一方的に講義し生徒がそれを書き写し暗記するという形式でも成り立つのだろうが、実践的な言語習得にはトライアンドエラーが最も効果的であり正道だ。
そのためには少人数での講義が必須であるのだが、鳴成の意に反して大学側が用意したのは二クラス分は入る大きさの教室だった。
曰く、「ここ数年、鳴成准教授が担当する必修英語を受けた生徒の言語運用能力が著しく向上したため、今年からより多くの生徒にご指導をお願いしたい。無理は承知の上だ。平にお願い申し上げる、この通り」。
学部長に頭を下げられては断りづらかった。
教授昇進を断固として拒否していることもあり、後ろめたさで何となく気が咎めてしまい、更に断りづらかった。
年を重ねたせいか、押しに弱い性格になってきている気がする。
大学側の要求にも。
今は少し離れた位置に立つ、一回り弱年齢の離れた青年の、『馴れ馴れしく話せ』という戯れのような要求にも。
「では、これから私の読む英文章を、先ほど配布したプリントに書き起こしてください。3回読みます。初めはネイティブのスピードで、2回目は少し遅く、最後は更に遅く。今日勉強した内容が盛り込まれてますので、聴き逃さないようにしましょう。Everyone, are you prepared?」
「「「「Yes」」」」
「I had always thought that the past was something that could be put behind me, but……」
読まれているのは、「過去は背後にあるのではなく、影に潜み、常にわが身を引きずりこもうとしている」という幾分ダークな内容の文章だ。
けれどそれも棘のない穏やかな鳴成の声音で語られると、美しい詩のように聴こえるから不思議だと月落は思う。
ネイティブのスピードと鳴成は言っていたがそれは実に本当で、普通の日本の学生にとっては一切容赦ないと感じる速さだろう。
透きとおる声と紙の上を走るペンの音だけが響く教室を静かに歩きながら、月落は学生の答案を眺める。
どの学生もところどころ単語が抜け落ちている箇所はあれど十分な程度聴き取れているようで、個々のレベルの高さを証明している。
長文を聴き続けられる集中力も、聴いた文章をすぐさま文字に変換できる能力も申し分ないが、これは外国語学部所属の学生故かそれとも鳴成の授業を受けている故か。
機会があれば一度、他の教員が行っている授業も見てみたいという好奇心が月落の胸に湧くが、鳴成以外の講義の手伝いをしたいかと言われれば否であるので、そんな日はきっと訪れないだろう。
惜しいスペルミスをしている学生のプリントの上を指し示して合図していると、授業終了のチャイムが鳴った。
そのタイミングで鳴成の音読も終わる。
「今日はここまでです。プリントは採点をして次週お返ししますので、後ろから集めて月落くんに渡してください」
月落は長いリーチを活かして階段を2段飛ばしで駆け下りて、左から順にプリントを受け取っていく。
80名分を回収し、ファイルに保管する。
学生からの質問に答え終わる鳴成を待って、誰もいなくなった空間を後にする。
「お疲れ様でした」
「先生もお疲れ様です、と言いたいところですが、むしろこれからが今日の本番のような気がします」
「そうですね、頑張りましょう」
分厚いプリントの束を片手で持ってゆらゆらと揺らす。
研究室に戻ったあと、鳴成と手分けして赤を付ける作業があるのだ。
月曜1限と金曜1限の必修英語の授業後はいつも行っていることだが、半々で持っても40名分を見るのは骨が折れる。
金曜である今日は4限にもう1コマ授業があるので急ピッチで進めなければならず、昼食を抜いて没頭しようとする鳴成を説得して食事をさせるという職務も月落にはあるため、どうしても気合が入ってしまう。
「お昼抜きは絶対にしませんからね?先生」
「……善処します」
肩を並べて教室を出ようとしたとき、ダークグレーのタートルネックを着ている月落の腰当たりの布が急に後ろに引っ張られた。
振り返るとそこには、黒い前髪をパツンと一直線に切り揃えた背の低い女子学生が立っていた。
両目の下にある泣きぼくろが特徴的なまん丸のつり目の彼女は、さきほど月落がスペルミスを指摘していた学生だ。
「どうしたの?」
「あの、月落さん、あの、もしこの後お時間あれば一緒に……一緒にお昼とかどうですか?アメリカのことで訊きたいこともありまして、あの……」
「あー、簡単に答えられることなら今聞くけど?」
「いえ、あの、じっくりお話させていただきたいなぁと思ってて。お昼に時間なければ外でとか……あの、駅ビルにお店いっぱいあるので、そこでとかどうかなぁって」
服を掴んでいる指先には震えるほどの力が入っていて、言葉はしどろもどろ。
必死に勇気を出した様子が伝わってくる。
これまでの経験値からこれは単純な食事の誘いではなく、その後の関係の発展も見越した誘いだろうと月落は察する。
小動物のようなこの見た目なら男女共にモテて引く手数多だろうと思うのに、自分のようなのがタイプなのだろうか。
何にせよ、月落の好みからは外れているし、学生と個人的に学外で会うのは絶対的に回避すべきだろう。
「申し訳ないんだけど、時間が取れそうにないんだ」
「今日じゃなくてもいいんです。あの、来週のどこかでお時間ある時にとかでも……」
「うーん、ちょっと難しいかな」
「じゃ、じゃあ土日はどうですか?私、フットワーク軽いので、あの、月落さんのお家周辺とかにも全然行きますし」
誘いを断る際に歴史上最も使われてきたであろう常套句を使ったのだが、不発に終わる。
控えめに見えるけれど実は粘り強いこういうタイプは、厄介であることが多い。
どうしようかと考えていると、右側に並んでいた鳴成がいきなり月落の手首を掴んでこう言った。
「月落くん、そろそろ戻らなければ」
鳴成の顔を見ると、陶器のように白い肌に青が入り混じっているのが分かる。
口元を押さえてつらそうにため息を吐いてさえいて、数分前の様子とは一変していた。
「先生、具合悪いですか?」
「いいえ、私は何ともありません」
「何ともないっていう顔色じゃないですね。帰りましょう、歩けますか?抱っこしましょうか?」
「抱っこって……私は子供ではないので結構です」
力なく笑う姿も心配を増幅させて、月落は鳴成の持っていた荷物を有無を言わせず受け取ると、寄り添って歩き始めた。
後ろに佇む女子学生のことはすっかり忘れて。
「え、あ、あの!月落さん!」
そこに残された一人、引き止めるために伸ばした指先は虚しく空を切ったあと、悔し気に強く握りしめられた。
「おはようございます」
月落渉が鳴成秋史のTA兼秘書となって早3週間、大学での生活にも慣れてきた10月中旬である。
いつものように研究室のドアを開けると、いつものように窓際のスモークチェアに脚を組んで座る佳人の姿が、月落の目に一目散に飛びこんでくる。
ベージュのグレンチェックに光沢のあるオーロラブルーのネクタイを締めたその人は、朝の陽射し降り注ぐ中でゆったりとハードカバーの本を読んでいた。
中央の六人掛けのテーブルに鞄を置いて月落が近づくと、反対側に置かれているスモークチェアを勧められる。
鳴成が読んでいるのは、ジャック・リーチャーシリーズの最新作のようだ。
「推理小説がお好きですか」
「正直、何でも好きです。私は文芸翻訳家なので、小説に関しては結構雑食だと自覚していまして。ミステリー、ファンタジー、ノンフィクションから図鑑や絵本まで、何でも読みます」
ほら、と鳴成が手の平で指し示す先には部屋の両サイドを占める大きな本棚。
そこにはみっちりと多種多様な言語で色とりどりの背表紙が並んでいる。
「翻訳は主に日本語から英語ですか?」
「そうです。時々、英独も行いますが」
「先生はドイツ語話者でもあるんですね」
「ええ。12歳でインターナショナルに編入したんですが、そこがドイツ語を第二外国語として教えていたので、自然と喋れるようになりました」
「フランス語の本もありますが、フランス語もネイティブですか?」
「フランス語はまあまあ、ですね。大学でフランス出身の友人が多数できたので、日常会話なら問題なく話せる程度です。きみは英語をどうやって習得したんですか?」
「実家が商売をやっている話はしましたよね?事業をするにあたって英語だけは何が何でもネイティブレベルで喋れるようになれ、と幼少期から英才教育を施されました。英語以外使用禁止の日もあって、不自由さに泣きながら憶えました」
肩幅の広い青年がその身を縮こまらせてわんわんと鳴き真似をする様は、見ていて中々に面白い。
「なるほど、それはとても良い学習環境ですね。英語以外に習得している言語はありますか?」
「中国の普通話は日常会話なら。あとは、母が韓流ブームの真っただ中で息継ぎなしの遊泳をしたおかげで家ではずっと韓国ドラマが映っていたので、韓国語は不自由なく会話できると思います」
「息継ぎなしの遊泳?何だか耐久レースみたいですね」
「子供の頃は、リビングでドラマを観ている母が画面の停止ボタンを押してるのを見たことがありませんでした」
「あはは、それも立派な英才教育ですね」
誇張も含まれていると分かるその口調に、笑うヘーゼルの髪がきらきらと光る。
やわらかく、ふわふわで、あたたかそう。
月落がじっと見つめていると、本をテーブルに置いた鳴成は両手を広げてしなやかに伸びをした。
「そろそろ準備しましょうか」
「はい。あ、ところで先生」
「何でしょうか」
「いつになったら僕ともう少し砕けた口調で喋ってくださいますか?全然直す気ないですよね?」
「えーっと、それは、つまりその……」
空中を彷徨う視線の先を捕まえるように目を合わせると、髪色と同じヘーゼルの瞳はなおも揺れた。
可愛い。
10歳年上の同性相手に持つ感想ではないのだろうが、動揺している姿に胸の高鳴りを感じて、今度は月落自身が困る。
一段飛ばしでドツボに嵌りそうな予感がして、困る。
「えーと、ゆっくり緩やかでいい、と確かきみが言ったんだと記憶しているのですが」
「言いましたね。でも、もう3週間経ちましたし、そろそろステップアップしても良い頃合いじゃないかと。基礎αは卒業して、基礎βに移行しませんか?」
「……考えておきます」
「考えておくね」
「ん?」
「考えて、おくね?」
まずは語尾から直せと言っているようだ。
自分より背が高い癖に妙に上目遣いの上手な年下の男に絆されて、鳴成はぱちりとひとつ瞬きをしてから口を開いた。
「考えて……おく、ね?」
ぎこちなさ満載だったが一応満足したらしい月落は、うんうんと頷きながら姿勢を正した。
「行きましょう、先生」
余韻を引きずらずに中央のテーブルへと歩いて行く背中を見送ると、鳴成は自分の頬を照らす太陽を見上げて眩しそうに目を細めた。
―――――――――――――――
金曜1限、鳴成が必修英語を教える教室は広い。
教壇を中心に半円を描く形で生徒の座席が9列連なる中規模教室は、実を言うと語学の授業には適していない。
筆記が中心の受験英語では、教員が一方的に講義し生徒がそれを書き写し暗記するという形式でも成り立つのだろうが、実践的な言語習得にはトライアンドエラーが最も効果的であり正道だ。
そのためには少人数での講義が必須であるのだが、鳴成の意に反して大学側が用意したのは二クラス分は入る大きさの教室だった。
曰く、「ここ数年、鳴成准教授が担当する必修英語を受けた生徒の言語運用能力が著しく向上したため、今年からより多くの生徒にご指導をお願いしたい。無理は承知の上だ。平にお願い申し上げる、この通り」。
学部長に頭を下げられては断りづらかった。
教授昇進を断固として拒否していることもあり、後ろめたさで何となく気が咎めてしまい、更に断りづらかった。
年を重ねたせいか、押しに弱い性格になってきている気がする。
大学側の要求にも。
今は少し離れた位置に立つ、一回り弱年齢の離れた青年の、『馴れ馴れしく話せ』という戯れのような要求にも。
「では、これから私の読む英文章を、先ほど配布したプリントに書き起こしてください。3回読みます。初めはネイティブのスピードで、2回目は少し遅く、最後は更に遅く。今日勉強した内容が盛り込まれてますので、聴き逃さないようにしましょう。Everyone, are you prepared?」
「「「「Yes」」」」
「I had always thought that the past was something that could be put behind me, but……」
読まれているのは、「過去は背後にあるのではなく、影に潜み、常にわが身を引きずりこもうとしている」という幾分ダークな内容の文章だ。
けれどそれも棘のない穏やかな鳴成の声音で語られると、美しい詩のように聴こえるから不思議だと月落は思う。
ネイティブのスピードと鳴成は言っていたがそれは実に本当で、普通の日本の学生にとっては一切容赦ないと感じる速さだろう。
透きとおる声と紙の上を走るペンの音だけが響く教室を静かに歩きながら、月落は学生の答案を眺める。
どの学生もところどころ単語が抜け落ちている箇所はあれど十分な程度聴き取れているようで、個々のレベルの高さを証明している。
長文を聴き続けられる集中力も、聴いた文章をすぐさま文字に変換できる能力も申し分ないが、これは外国語学部所属の学生故かそれとも鳴成の授業を受けている故か。
機会があれば一度、他の教員が行っている授業も見てみたいという好奇心が月落の胸に湧くが、鳴成以外の講義の手伝いをしたいかと言われれば否であるので、そんな日はきっと訪れないだろう。
惜しいスペルミスをしている学生のプリントの上を指し示して合図していると、授業終了のチャイムが鳴った。
そのタイミングで鳴成の音読も終わる。
「今日はここまでです。プリントは採点をして次週お返ししますので、後ろから集めて月落くんに渡してください」
月落は長いリーチを活かして階段を2段飛ばしで駆け下りて、左から順にプリントを受け取っていく。
80名分を回収し、ファイルに保管する。
学生からの質問に答え終わる鳴成を待って、誰もいなくなった空間を後にする。
「お疲れ様でした」
「先生もお疲れ様です、と言いたいところですが、むしろこれからが今日の本番のような気がします」
「そうですね、頑張りましょう」
分厚いプリントの束を片手で持ってゆらゆらと揺らす。
研究室に戻ったあと、鳴成と手分けして赤を付ける作業があるのだ。
月曜1限と金曜1限の必修英語の授業後はいつも行っていることだが、半々で持っても40名分を見るのは骨が折れる。
金曜である今日は4限にもう1コマ授業があるので急ピッチで進めなければならず、昼食を抜いて没頭しようとする鳴成を説得して食事をさせるという職務も月落にはあるため、どうしても気合が入ってしまう。
「お昼抜きは絶対にしませんからね?先生」
「……善処します」
肩を並べて教室を出ようとしたとき、ダークグレーのタートルネックを着ている月落の腰当たりの布が急に後ろに引っ張られた。
振り返るとそこには、黒い前髪をパツンと一直線に切り揃えた背の低い女子学生が立っていた。
両目の下にある泣きぼくろが特徴的なまん丸のつり目の彼女は、さきほど月落がスペルミスを指摘していた学生だ。
「どうしたの?」
「あの、月落さん、あの、もしこの後お時間あれば一緒に……一緒にお昼とかどうですか?アメリカのことで訊きたいこともありまして、あの……」
「あー、簡単に答えられることなら今聞くけど?」
「いえ、あの、じっくりお話させていただきたいなぁと思ってて。お昼に時間なければ外でとか……あの、駅ビルにお店いっぱいあるので、そこでとかどうかなぁって」
服を掴んでいる指先には震えるほどの力が入っていて、言葉はしどろもどろ。
必死に勇気を出した様子が伝わってくる。
これまでの経験値からこれは単純な食事の誘いではなく、その後の関係の発展も見越した誘いだろうと月落は察する。
小動物のようなこの見た目なら男女共にモテて引く手数多だろうと思うのに、自分のようなのがタイプなのだろうか。
何にせよ、月落の好みからは外れているし、学生と個人的に学外で会うのは絶対的に回避すべきだろう。
「申し訳ないんだけど、時間が取れそうにないんだ」
「今日じゃなくてもいいんです。あの、来週のどこかでお時間ある時にとかでも……」
「うーん、ちょっと難しいかな」
「じゃ、じゃあ土日はどうですか?私、フットワーク軽いので、あの、月落さんのお家周辺とかにも全然行きますし」
誘いを断る際に歴史上最も使われてきたであろう常套句を使ったのだが、不発に終わる。
控えめに見えるけれど実は粘り強いこういうタイプは、厄介であることが多い。
どうしようかと考えていると、右側に並んでいた鳴成がいきなり月落の手首を掴んでこう言った。
「月落くん、そろそろ戻らなければ」
鳴成の顔を見ると、陶器のように白い肌に青が入り混じっているのが分かる。
口元を押さえてつらそうにため息を吐いてさえいて、数分前の様子とは一変していた。
「先生、具合悪いですか?」
「いいえ、私は何ともありません」
「何ともないっていう顔色じゃないですね。帰りましょう、歩けますか?抱っこしましょうか?」
「抱っこって……私は子供ではないので結構です」
力なく笑う姿も心配を増幅させて、月落は鳴成の持っていた荷物を有無を言わせず受け取ると、寄り添って歩き始めた。
後ろに佇む女子学生のことはすっかり忘れて。
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