鳴成准教授は新しいアシスタントを採用しました。実は甘やかし尽くし攻めの御曹司でした。

卯藤ローレン

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一章

06. ミルクチョコとビターチョコ

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 研究棟の3階にある研究室に戻ってきた月落は、鳴成を窓際の椅子に座らせるとその足元にそっとしゃがみこんだ。

「先生、お加減はいかがです?」
「ええ、だいぶ良くなりました」

 その言葉通り、先ほどのような肌の青白さは消えている。
 女子学生と共にいた時が体調不良のピークだったようだ。
 アームレストについた肘に頭を乗せ、目を閉じてゆっくりと呼吸する鳴成。
 そのしどけない様子を凝視しないように気をつけながら、月落はきっちりと結ばれているオーロラブルーのネクタイを少しだけ緩めた。

「吐き気はどうですか?」
「あまり」
「頭痛は?」
「少しだけ」
「寒いですか?」
「いいえ」

 はっきりと受け答えをする鳴成に安堵しつつ本当に大丈夫になったかを見定めるため、月落は立ち上がり身を寄せるように近づいた。
 その気配を感じ取って薄目を開けた鳴成は、次の瞬間、驚きに反射で仰け反った。

 美青年の顔が眼前いっぱいのフルスクリーン。

 近すぎて焦点の合わないぼやけた画像の中でその顔の持ち主と見つめ合うこと数秒、耐えられなくなった鳴成の方から視線を外した。
 それを特に気にすることのない月落は血色の戻った鳴成の顎をそっと掴むと、右に左にと動かしながら最終確認をした。

「うん、大丈夫そうですね。貧血かと思われますが、よくあるんですか?」
「いいえ。子供の頃は時々ありましたが大人になってから、況してやおじさんになってからは一度もないと記憶しています」
「おじさんという代名詞がこんなに似合わない方も珍しいですね」
「40歳はれっきとしたおじさんです」
「不老の薬でも飲んでるのかな?それともイギリスで上級魔法使いに会って、実年齢と外見が比例しない魔法でも掛けられたのか……?」

 聞こえるか聞こえないか微妙な大きさで零れた呟きに返事をせずにいると、青年が少しだけ遠ざかる気配がした。
 フルスクリーンモードは無事に解除された。
 それでも第三者が見れば、まだまだ近いと誰もが主張する距離ではあるけれど。

「先生、何か飲みましょうね。水か、紅茶か……ミルクティーにしますか?」
「……クイーンアンのストレートが良いです」
「承知しました。用意をしてきますので、一旦これを飲んでてください」

 月落は長い脚を活かして部屋を縦断すると、常温の水が集団で置かれている一角から1本を抜き取り、それを鳴成の手に握らせる。
 琥珀の爪に飾られた指先の上に自分の指を重ねた月落は、キャップを回してペットボトルを開けた。

「キッチンに行ってきます。開いてるので気をつけてくださいね」

 鳴成の研究室には、入口脇の本棚の一角に紅茶のパッケージが並べられた特設エリアがある。
 黒や黄色、白、オレンジ、紫、ロゴが大きく主張するものもあれば、細かい絵柄で装飾されているものもある。
 その中から迷うことなくエメラルドグリーンにピンクのラインが入ったボックスを選んだ月落は、水を2本持って部屋を出て行った。

 それを見送った鳴成は、手の中の透明なペットボトルを傾けて一口飲む。

「過保護ですね……」

 男相手にペットボトルの蓋を開ける男がどこにいるのか。
 呟きは誰にも聞かれることなく、宙に溶けて消えた。




―――――――――――――――




 50名ほどの教授や准教授を抱える外国語学部の研究棟は全6階建てであり、1階、3階、5階にはカフェスペースとキッチンが備えつけられている。
 特に3階はセントラルキッチンと呼ばれていて、他の階に比べて冷蔵庫も大きくIHコンロの数も多い。
 調理器具も色々と揃っているため、わざわざ遠くの階からやって来る教員やTAもいるほどだ。

 月落は足早にコンロの前に行くと、持ってきたペットボトル2本をケトルに注ぎ入れた。
 鳴成専用の丸い形のティーポットを棚から取り出し、一緒に波佐見焼のマグカップも準備した。
 ポケットから取り出したスマホで鉄分の多い食べ物を検索しながらお湯が沸くのを待っていると、ふいに後ろから名前を呼ばれた。

「あらま、月落渉さん。お久しぶりと言うには短い時間ぶりですね」

 そこには、艶々の赤リップに豊満ボディが魅力的な許斐ヨリ子が立っていた。

「お疲れ様です、許斐さん」
「お疲れ様でございます」

 TAの採用面接の時と、採用が決まってから後に諸々の書類を提出した時以来の出会いである。
 赤い紐の職員証を首に掛ける彼女は、鳴成に関する事務作業を一切合切担当する職員である。

 タイのアイドルファンだとそれはそれは大きな声で公言していて、鳴成の容貌にくらりとこない数少ない一人。
 頭の回転が速く事務処理のスピードも速いので、5年前に鳴成が逢宮大学の准教授になった際に担当に指名されたという秘話を持つ。

「鳴成准教授のお加減はいかがです?」

 そして、耳が早いのも彼女の特徴である。

「だいぶ復調されてます。貧血だったようですが、顔色もほぼ改善しました」
「それは良かったです。今年から大学側が無理を言って授業数を増やしていただいたので、そのご負担で体調を崩されたのではと心配してたんです」
「風邪を引かれた様子などは見られなかったんですが、季節の変わり目なので、もしかしたら少しお疲れなのかもしれません」

 沸騰直前のケトルからティーポットとマグカップに湯を分け、もう一度コンロへと戻す。

 自分で紅茶など淹れたことがなかった月落だが、ここに来て3週間で得た知識は多い。
 これはTA兼秘書の仕事だから、と鳴成に強要されて習得したことでは決してない。
 自主的に調べて、実践して、身につけた。

 下に弟と妹がいる環境で育ったせいか、それともそういう性分なのか、月落は誰かの世話をすることをあまり苦に感じない性格である。
 つくづく尽くし攻めだと幼稚園からの幼馴染にはからかわれたこと多数。
 自覚はあまりないが傍から見ている人間に言わせると、どうやら好きになった相手は骨の髄まで甘やかすタイプであるらしい。

 鳴成の研究室に置いてある紅茶の銘柄を調べて好みを把握し、美味しい淹れ方を調べて実践し、紅茶に合う茶菓子を調べて買い置きして。
 それらを秘かにあの特設エリアの一端を担う菓子の集団に加わらせている自分の姿を見たら、幼馴染には心底呆れた顔をされそうだ。
 そうやって、じわじわと日々強さを増す好意の波が着実に相手へと向かっていることに薄々気づいてはいるが、月落自身とりあえず一旦は見て見ぬ振りをするつもりである。
 
 それがたとえ、態度の端々に滲み出てしまっていようとも。
 今は、否と言っておきたい。

 ちなみに先日実家に立ち寄った際、たまたま紅茶を飲もうとしていた両親に手ずから用意し提供したら、その美味しさに目を見開いて固まっていた。
 というよりむしろあれは、飲み物は水かコーヒーか酒の3択だった息子が、紅茶という異種目に足を踏み入れたことへの驚きも含まれていただろう。
 『鉄仮面』と兄妹の間であだ名をつけて呼んでいた、家に長年勤める執事長にも訝し気な目で見られたのには、少し傷ついたところではあるけれど。

「紅茶缶持参で今度お見舞いに行くと、鳴成准教授にお伝えくださいませ」
「お待ちしています。そういえば、ウィッタードのアールグレイがもうすぐなくなりそうだと、昨日先生が呟いていたような……」
「あらま、有力情報をありがとうございます。部屋の端にピラミッドが出来るくらい贈らせていただきますね。でも逆に怒られそう……だはっ」

 豪快に笑う姿につられて月落が笑っていると、ケトルからお湯が沸いた合図が上がる。
 ティーポットへとマグカップに淹れておいた湯を捨て、熱湯を再度注ぐ。
 エメラルドグリーンのボックスから取り出したティーバッグ2袋を、ポットに投入する。
 挨拶をしてその場を後にしようとした月落に、許斐は手に持っていた紙袋を渡す。

「忘れるところでした。貧血にはチョコレートを食べるのも効果的ですよ。カカオ成分が多いものを選んだので、チョコレートは甘め派の鳴成准教授には若干ビターかも知れませんが、よろしければお渡しください」
「ありがとうございます。ミルクチョコレートも常備しているので、それと併せてお出ししようと思います」
「それはとてもベストアイディアですね。月落渉さん、それでは」

 低いヒールで床を踏みしめて歩く姿を見送った。
 棚から取り出したトレイに白い小皿とポット、マグカップを乗せる。
 紙袋は腕にぶら下げながら、来た時と同じ速度で月落は鳴成のいる部屋へと戻った。

「先生、お待たせしました」

 10分ほど前までは気力の抜けた姿で座っていたのが幻かのように、鳴成は背筋をすっと伸ばして脚を組みながら、いつものようにスモークチェアにゆったりと腰かけていた。
 天から降る光に包まれて頬杖をついたその首元、先ほど月落が緩めたネクタイもきっちりと締め直されている。

 いつも清廉な人のしどけなく崩れた姿はそれはそれで綺麗だったので、何だか少しだけ惜しいという感想を抱いてしまう。
 絶対に、口が裂けても言えないけれど。

「紅茶、飲めそうですか?」
「ええ、頂きます」

 良い香りですね、と月落が用意した紅茶を少しずつ飲むのを見守りつつ、許斐から預かったチョコレートを乗せた皿を鳴成の前に差し出す。

「許斐さんからのお見舞いパートワンです」
「パートワン?ということは、他にもあるんですか?」
「今度お届けになるそうです」
「楽しみにしておきましょう……んー、これは少しハイカカオですね」
「貧血に良いそうなんですが、先生にはやっぱり苦かったですね」

 微かに眉を顰める年上男性の姿に微笑みながら、月落はいつも鳴成が好んで食べているチョコレートも皿に追加した。

 真っ白な上に転がるミルクブラウンとダークブラウンのコントラスト。

 薄い色の長方形を掴んだ指先が、淡く色づいた唇へとそれを放り込む。
 先ほどとは違い嬉しそうだ。
 咀嚼する度に一定のリズムで膨れる頬を眺めていた月落の指先は、本人の意識を伴わずに不意に持ち上がった。

 人差し指の背に感じる、やわらかい触感。
 ゆっくりと往復させる。
 そして、撫でていた肌の動きが止まった。

 無意識で手を伸ばしてしまったことに月落自身が気づいたのは、その時だった。

 准教授で雇い主で年上で同性で。
 そんな人の頬をいきなり触るのは何をどう考えてもおかしいし、触られた側は誰であっても困惑するだろう。
 しまった、と内心慌てながら指をどかす。

 どう理由を繕おうか。
 下手な言い訳はきっと自身を断崖絶壁に追い込みかねない。
 慎重に言葉を吟味しなくては。

 ぐるぐると短い瞬間に考えを巡らせる。
 そうしながらも、反応が気になりすぎてついつい凝視してしまった鳴成の顔。
 けれどその上には意外にも、予想した嫌悪感の表れはなく、きょとんとした表情が乗っているだけだった。

「もしかしてきみは私のことを幼児だと思っていますか」
「は?幼児……?いいえ全く」
「そうですよね、こんなおじさんをまさかね……あ、もしやペットの犬か猫と同類だと?先日もパスタを食べさせてくれましたし」
「ペットを飼ったことはありませんし、先生を犬だとも猫だとも決して思ってません。さっきまでとても弱っていた先生が美味しそうにチョコを食べてるのを見てこう何ていうか、癒されて思わず触りたくなったというか……」
「癒されて触りたくなるのは、やはりアニマルセラピーと同じ位置づけのような気がするんですが」
「僕にとってはアニマルセラピーより何倍も癒し効果があります」
「え?何ですか?」
「独り言です」

 んんん?首を傾げながら鳴成が飲み干したマグカップに、月落はすぐさまティーポットから新しい紅茶を淹れる。

「ありがとうございます」

 こういうとき、鳴成はさらりと礼を言うだけだ。
 大袈裟な反応をしたり、余計な謙遜をしたりしない。
 与えられることに慣れている、享受することに慣れているその様子に月落はある種のシンパシーを感じていて、それをとても好ましいと思っている。
 そして鳴成は、与えられた以上のことを望むこともない。
 あれもこれもしてほしい、と上乗せで要求することは決してない。

 尽くすことに慣れている自分自身を自覚している月落だ。
 与えるという行為に特大の意気込みを練り込んでいるわけではないが、与えられて当然と端から思われるのは正直心が冷える。
 そういう人間に過去何人も出会ってきたので、共に働き始めた当初、月落はそっと鳴成の様子を窺っていた。
 けれどそれは初めの数日で杞憂に終わった。

 鳴成からはいつもちょうど良い高さの反応の波が返ってきて、それがあまりにもストレスレスなのだ。
 この3週間で、鳴成との相性の良さをひしひしと実感できる瞬間が幾つもあった。
 それらの小さな雫はひらひらと降り積もり、月落の中で朧げに形を成していく。

「先生、ビターの方も食べてください。せっかく下さったのに、許斐さんが悲しみますよ」
「きみにあげます」
「そう言わずに。ミルクと一緒に食べたら苦さも半減しますから、ね?」

 味の異なる2粒を重ねて口元へ差し出すと、鳴成は上目でちらりと見遣ったあとに素直にそれらを口腔へと誘い入れた。

 こういうところが、月落の心の奥深くをくすぐっているとも知らずに。
 そして、くすぐられている月落自身も、じわじわとその甘やかな毒に侵されているとは知らずに。

「先生」
「何でしょうか」
「もう一度ほっぺ触ってもいいですか?」
「おじさんのほっぺですよ?楽しくないでしょう?駄目です」
「先生はおじさんではないですし僕にとってはとても楽しいんですが、それでも駄目ですか?」
「ええ、当然駄目です」


 じゃれあいは、燦燦と注ぐ陽光の元で、束の間続く。
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